第83話 二つの門
清洲へ呼ばれたのは、信長と勘十郎の二人だった。
ところが、城から届いた案内には、兄弟を別々の門から入れると書かれていた。
その知らせを最初に聞いたのは、末森城である。
信秀の前には信長と勘十郎が並び、少し下がって龍之介、平手、権六が控えていた。
清洲からの正式な召し状は一通だった。守護代の織田大和守家の名で、兄弟双方に出頭を求めている。
しかし、それとは別に坂井大膳の名で届けられた案内は、妙に細かかった。
三郎信長は清洲城の大手より。
勘十郎は西の門より。
供の者はそれぞれ二人までとし、城内では別の控え所に入ること。
信秀は案内を読み終えると、平手へ渡した。
「爺。どう見る」
「お召しは兄弟揃っておりますのに、入城から分けるのは不自然にございます」
「そうだな」
信秀は勘十郎へ目を向けた。
「お前はどう思う」
勘十郎は、すぐには答えなかった。
膝の上に置いた手を一度握り直し、顔を上げる。
「私を兄上から離して、先に話を聞くつもりなのでしょう」
「何を聞く」
「兄上の家臣が、私の館へ運ぶ米を奪おうとした、という話にございます」
信秀の目が細くなった。
先日、勘十郎の使いを名乗った男たちが、升屋から館へ向かう米四俵を途中で受け取ろうとした。
龍之介がそれを阻み、勘十郎自身が現場へ赴いて偽使者であることを確かめた一件である。
男たちはすでに那古野で預かっている。
米は勘十郎の館へ届き、代金も支払われていた。
だが、見方を変えれば、兄の家臣が弟の使いを打ち倒したという話にもできる。
「お前の名が使われたのだな」
「はい。私の知らぬところで使われました」
勘十郎は、信長へ顔を向けた。
「兄上。私は清洲へ参ります。ただし、兄上の後ろに隠れるためではありません」
信長が口元を緩める。
「分かっておる」
「私の館へ運ぶ米です。私の名で来た使いです。誰が命じたのか、私自身が確かめたい」
「ならば、好きに聞け」
信長はそう答えたが、勘十郎は首を横に振った。
「好きに、では困ります。兄上にも一つお頼みしたい」
「何だ」
「私の代わりに答えないでいただきたい。兄上の家臣が何をしたかは兄上がお答えください。私の館で何が起きたかは、私が申し上げます」
信長は、しばらく弟を見つめていた。
やがて、声を立てて笑った。
「よかろう。お前の言葉まで取るつもりはない」
「ありがとうございます」
「ただし、お前もわしの言葉を勝手に決めるなよ」
「そのような恐ろしいことはいたしませぬ」
勘十郎の返しに、信長はもう一度笑った。
権六は二人のやり取りを見ながら、わずかに肩の力を抜いていた。
龍之介も、その様子を静かに見守った。
少し前なら、兄弟が同じ座に呼ばれるだけで、家中の者たちが身構えただろう。
信長を立てれば勘十郎が不満を抱く。
勘十郎を立てれば信長への当てつけになる。
清洲は、長くその亀裂を利用してきた。
だが、今の勘十郎は、自分の言葉を持ち始めている。
信秀が低く笑った。
「二人とも、ようやく少しは人の話ができるようになったか」
信長が父を見る。
「父上。それは以前のわしらが、よほどひどかったということですか」
「自覚がないなら、なお悪い」
平手が咳払いで笑いを隠した。
信秀は案内の書付を指した。
「さて、問題はこの門だ」
龍之介は頭を下げ、口を開いた。
「大殿。清洲が兄弟を別々に迎えたいなら、理由は二つ考えられます」
「言え」
「一つは、それぞれに違う話を聞かせ、違う返事を引き出すため。もう一つは、勘十郎様だけが先に清洲へ従ったように見せるためです」
勘十郎が眉を寄せた。
「私が清洲へ先に入れば、それだけで清洲に頼ったように見えると」
「門だけで決まるものではございません。しかし、誰がどこから入り、誰に先に会ったかは、後で好きなように語れます」
信秀は頷いた。
「清洲には清洲の作法がある。だが、兄弟を分けることまで大和守殿が命じたかは分からぬ」
「案内の名は坂井大膳でございます」
平手が言った。
「ならば、大膳の差配と、大和守殿のお召しを分けよ」
信秀は二人の息子を見た。
「大和守殿への礼は欠かすな。だが、大膳が付け足した作法まで、何も考えず受け入れる必要はない」
信長は頷いた。
「兄弟揃って大手から入ります」
「そうしろ」
信秀は勘十郎へ向いた。
「お前もよいな」
「はい。私も兄上と同じ門から参ります」
「権六」
「はっ」
「勘十郎の側を離れるな。ただし、三郎の供と争うような真似はするな」
「心得ました」
信秀は最後に龍之介へ目を向けた。
「龍之介。清洲で刀を抜くな」
「承知しました」
「お前が腕を振るえば、騒ぎはその場で収まるだろう。だが、清洲城内で三郎の家臣が人を打ったとなれば、話は別だ」
「はい」
「もっとも、三郎か勘十郎の命が危うければ、遠慮はいらぬ」
その時だけ、信秀の声が少し低くなった。
「息子を二人も呼び出しておいて、無事に帰さぬようなら、わしにも考えがある」
信長と勘十郎は揃って頭を下げた。
龍之介は、父親としての信秀の顔を見た気がした。
◇
清洲へ向かう朝、那古野の空はよく晴れていた。
先日の雨で湿った街道には、荷車の轍が深く残っている。沿道では農夫が田畑の手入れをしており、遠くから牛の鳴き声が聞こえた。
信長の供には龍之介と池田勝三郎。
勘十郎の供には権六と竹若。
平手は末森と那古野を結ぶ役として残り、弥八郎は勘十郎の館で若衆を預かっている。
供を大勢連れれば、清洲へ威圧に向かったと見られかねない。かといって、供を減らしすぎれば相手の差配に頼ることになる。
その加減を決めたのは信長だった。
「龍之介。面白くない顔だな」
馬を並べた信長が言った。
「清洲へ参るのが嫌なのではありません。大膳殿が、これだけで済ませるとは思えませんので」
「わしも同じだ」
信長は前方を見た。
「だが、今回はあちらの城だ。こちらの庭と同じつもりではいられぬ」
「ええ。大和守様も、ただ大膳殿の言葉に従うだけの方とは限りません」
「その通りだ」
信長は、少し意外そうに龍之介を見た。
「お前も、分かってきたな」
「大膳殿を相手に、何度も痛い目を見ましたから」
「わしもだ」
二人は小さく笑った。
後ろから勘十郎の声がした。
「兄上。清洲の門が見えてまいりました」
道の先に城の土塁と櫓が現れていた。
那古野とは違う。
清洲は尾張下四郡の守護代家の本拠である。
古くからこの地の政を扱ってきた者たちが、城下の道を押さえている。
信長の父信秀がどれほど勢力を伸ばしても、家の格式というものは簡単には変わらない。
城の手前では、清洲の迎えと称する一団が待っていた。
武者が六人。
先頭には、身なりの整った中年の男がいる。
男は信長を見ると、丁寧に頭を下げた。
「三郎様。清洲城へようこそお越しくださいました」
「迎えご苦労。名は」
「坂井大膳様の命を受けました、清洲の山内兵庫と申します」
「大和守殿の命ではないのか」
山内は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「城内の案内は、大膳様が差配しておられます」
「そうか」
信長は、それ以上問わなかった。
山内は後方の勘十郎へ向き直った。
「勘十郎様は、こちらへ。西の門にお迎えの者を待たせております」
勘十郎は動かなかった。
「兄上は」
「三郎様は大手よりお入りいただきます」
「私だけ別か」
「清洲の作法にございます」
山内の声に迷いはなかった。
よく言い含められている。
龍之介は周囲を見た。
大手へ続く道には武者が四人。
西へ分かれる道には二人。
だが、西へ向かう方の二人は、勘十郎よりも権六の動きを見ていた。
供の武者を離すつもりかもしれない。
龍之介が口を開くより早く、勘十郎が言った。
「私は兄上と同じ門から入る」
山内は困ったように笑った。
「勘十郎様。せっかく西の門にお迎えを整えておりますので」
「大和守様が、別々の門から入れと仰せになったのか」
「それは……」
「ならば、大和守様のお召しに従う。私と兄上は同じ文で呼ばれた。門を分けるとのお言葉はなかった」
山内は信長へ助けを求めるような視線を向けた。
信長は馬上から見下ろした。
「弟がそう申しておる」
「しかし、大膳様が」
「大膳の名は聞いた。大和守殿は何と申された」
山内は答えられなかった。
龍之介は、勘十郎の横顔を見た。
緊張はしている。
だが、自分の言葉を曲げる気配はない。
山内が再び口を開く。
「では、勘十郎様だけでも供の方を先に西へ回していただければ」
「それも断る」
今度は権六が答えた。
「私は勘十郎様の供として参った。主人と別の門へ入る道理はない」
山内の顔が険しくなる。
その時、西の道に立っていた武者の一人が前へ出た。
「清洲の案内に従えぬと申されるか」
男の手が、腰の太刀へ伸びかける。
龍之介は馬から降りた。
ただ、それだけだった。
男の手が止まる。
龍之介は相手の目を見た。
「大和守様へ拝謁に参った方々です。ここで争えば、主人に何と申し開きなさる」
声を荒らげる必要はなかった。
男は唇を引き結び、手を下ろした。
信長が笑った。
「山内。大膳には伝えておけ。迎えの心遣いはありがたいが、兄弟を別々に連れていく手間はかけさせぬ、と」
山内は、しばらく黙っていた。
やがて深く頭を下げた。
「承知いたしました。大手よりご案内いたします」
兄弟は同じ道へ馬首を向けた。
龍之介は歩きながら、城門の上に立つ武者たちを見た。
何人かが、勘十郎の姿を確かめるように身を乗り出している。
清洲にとっては、思惑と違う入り方になったのだろう。
まだ城の外だというのに、すでに一つの勝負は始まっていた。
◇
清洲城の広間は、末森とは違った空気を持っていた。
柱は太く、畳はよく手入れされている。庭には砂利が敷かれ、端に立つ松の枝が長く伸びていた。
しかし、何より違うのは座にいる者たちの顔だった。
ここでは信長は客であり、勘十郎も客である。
城の主は、尾張下四郡の守護代、織田大和守信友だった。
信友は上座に座り、その脇に坂井大膳が控えている。
ほかにも清洲の重臣たちが並んでいた。
信長たちが入ると、信友は穏やかな表情で迎えた。
「三郎。勘十郎。よく参った」
二人は揃って礼をした。
「お召しにより、参上いたしました」
信長が答える。
勘十郎も頭を下げた。
信友は二人を見比べ、少し笑った。
「兄弟揃って大手から入ったそうだな」
「はい」
信長は隠さなかった。
「大和守様のお召しは、二人宛てと承っております。門を分けるとのお言葉はございませんでしたので」
信友は、大膳へ目を向けた。
「大膳。門を分けるよう命じたのか」
「はい。双方の話を落ち着いて伺うため、控え所を分けるつもりでございました」
「なるほど」
信友は頷いた。
「しかし、当人たちが揃って来たのなら、それでよかろう。わしも二人の顔を見られる」
大膳は深く頭を下げた。
「御意にございます」
龍之介は、このやり取りを注意深く聞いていた。
信友は大膳の差配を責めていない。
だが、従うとも言っていない。
清洲の主として、自分で決めている。
信友は、信長へ向いた。
「三郎。近頃、那古野が清洲の荷に細かく口を出していると聞く」
「そのように見えることもございましょう」
「否定せぬか」
「荷主も受け手も分からぬ荷を、通さなかったことはございます」
信長は落ち着いて答えた。
「ただし、清洲の荷であることを理由に止めたわけではありません」
「ほう」
信友は興味深そうに目を細めた。
「では、清洲の荷が那古野へ移ったという話はどうだ」
龍之介は、心の中でわずかに息を整えた。
来た。
大膳が末森で主張した清洲の損。
その話が、ここでも出た。
信長は迷わなかった。
「事実にございます」
広間が小さくざわめいた。
大膳は、表情を変えずに信長を見ている。
信長は続けた。
「米十二俵が、清洲門前から那古野へ移りました。うち八俵は升屋久兵衛の蔵で確認しております。残る四俵も、受け渡しの控えがございました」
信友の顔が引き締まる。
「清洲の荷が減ったことは認めるのだな」
「はい」
「ならば、清洲が怒るのも道理ではないか」
「道理はございます」
信長はそこで、龍之介へ目を向けた。
龍之介は一歩進み、頭を下げた。
「大和守様。米を運んだ馬借と、荷主本人から話を聞いてまいりました」
「申せ」
「米は当初、清洲北蔵へ入る予定でした。ところが北蔵は祭礼の荷を優先するとして、通常の預かりを見合わせております。荷主は受け取りを断られたため、那古野の升屋へ売り先を求めました」
龍之介は懐から写しを取り出した。
「こちらは、北蔵が荷主へ渡した受け入れ見合わせの書付にございます。原本は荷主が持っております」
信友は近習へ命じ、写しを受け取らせた。
文を読み進めるうち、その眉がわずかに寄る。
「祭礼御用を優先するため、通常の荷を預からぬ……」
信友は大膳を見た。
「大膳。北蔵には、通常の商いを止めよと命じたのか」
「祭礼を滞らせぬよう、急ぎの荷を優先させました」
「通常の荷を断れとは」
「そこまでは申しつけておりませぬ」
信友は文を置いた。
「では、北蔵が判断したのか」
「そのように考えられます」
大膳は答えた。
龍之介は、その言葉を聞きながら考えた。
まだ大膳の意図は証明されていない。
祭礼の荷が増え、本当に蔵が手狭になった可能性はある。
しかし、那古野に奪われたと主張する荷の一部を、清洲自身が受け取らなかったことは確かだった。
信友は、信長へ向き直った。
「三郎。北蔵が断った荷を、那古野で受けたということだな」
「はい。私が売り先を指定したものではありません」
「その点は分かった」
信友は頷いた。
「だが、荷が移れば清洲の商いは細る。北蔵が悪いと決めるにも、まだ早かろう」
「仰せの通りにございます」
信長は頭を下げた。
信友は、少しだけ笑った。
「お前は、思ったより物分かりがよいな」
「父上に、散々叱られましたので」
広間の何人かが笑った。
信友も口元を緩めた。
だが、大膳は笑わなかった。
◇
次に持ち出されたのは、勘十郎の館へ向かう米四俵の一件だった。
清洲の重臣の一人が、書付を読み上げた。
「那古野の山本龍之介なる者、勘十郎様の館へ運ぶ米をめぐり、館より遣わされた者を打ち倒し、武力をもって荷を押さえる」
勘十郎の顔から、表情が消えた。
龍之介は声を出さず、続きを待った。
「これにより、勘十郎様のお館では米の受け取りに支障が生じ、兄三郎様の家臣による横暴ではないかとの訴えあり」
そこで信友が口を開いた。
「勘十郎。お前の館から訴えがあったと聞いている」
勘十郎は顔を上げた。
「私からは、訴えておりませぬ」
広間の空気が変わった。
信友の眉が動く。
「何?」
「館の者にも、清洲へ訴えるよう命じた覚えはございません」
勘十郎は、静かな声で続けた。
「米四俵は、升屋より買い入れたものです。代価も支払っております。館へ運ぶ途中、私の使いを名乗る者が現れ、受け取ろうとしました」
「それを三郎の家臣が止めたのか」
「はい。ただし、止められたのは私の使いではありません」
信友は大膳を見た。
大膳は、やや意外そうな顔をしていた。
「勘十郎様。その者たちは、館の使いを名乗ったと聞いておりますが」
「名乗れば使いになるのですか」
勘十郎の返事は速かった。
大膳の目が細くなる。
「名乗っただけで使いと決めるわけにはまいりませぬな」
「その通りにございます」
勘十郎は頷いた。
「だから私自身が現場へ赴きました。館の若衆である竹若と弥八郎にも確かめましたが、誰も命じておりませぬ。権六も立ち会っております」
信友は権六へ目を向けた。
「権六。相違ないか」
「ございませぬ」
権六は深く頭を下げた。
「勘十郎様の館へ米を運ぶよう頼んだのは、私どもにございます。途中で受け取る使いなど出しておりませぬ」
信友は、しばらく黙った。
勘十郎が続ける。
「私の名を使った者を、龍之介殿が止めてくださいました。米は無事に館へ届いております」
「では、支障はなかったのか」
「荷が止められ、馬借は迷惑を受けました。ですが、私の館が兄上から米を奪われたことはございません」
信友は、読み上げられた書付を受け取った。
「この訴えは、誰から来た」
重臣は、大膳へ目を向けた。
大膳は頭を下げた。
「清洲門前の荷扱いより、勘十郎様のお館の使いが打たれたと申し出がございました」
「館の使いであることは確かめたか」
「本人たちが、そのように名乗ったと聞いております」
「誰に聞いた」
大膳は、わずかに間を置いた。
「荷扱いの者にございます」
信友の声が低くなった。
「大膳。わしは勘十郎の館から訴えがあったと聞かされた」
「申し立ての筋を、そう受け取られたものと」
「わしが受け取ったのではない。お前の出した書付に、館からの訴えとある」
大膳は黙った。
信友は、書付を畳まずに置いた。
龍之介は、その様子を見ていた。
信友は怒りに任せて大膳を責めているのではない。
清洲の主として、自分へ上げられた話が正しいかどうかを問うている。
そこへ勘十郎が、もう一度口を開いた。
「大和守様。お願いがございます」
「何だ」
「私の館に関わることを清洲でお調べになるなら、私にもお尋ねください。兄上の家臣を責めるために、私の名が使われるのは困ります」
信友は、勘十郎を見つめた。
「兄を庇うためではないのか」
「兄上が私の米を奪ったのであれば、私が真っ先に抗議いたします」
勘十郎は、はっきり答えた。
「ですが、しておらぬことをしたと言われて、黙っているつもりもございません」
その返事を聞いた信長は、目を伏せたまま笑みを浮かべた。
龍之介も、胸の奥で頷いた。
勘十郎は信長の側へ立つために答えたのではない。
自分の名を守るために答えたのだ。
だからこそ、言葉が強かった。
信友はしばらく勘十郎を見ていた。
やがて、深く頷いた。
「よい返事だ」
勘十郎は頭を下げた。
「恐れ入ります」
「三郎」
「はい」
「お前の弟は、思ったより骨がある」
信長は笑った。
「昔から、言い出したら聞かぬところがございます」
「兄上ほどではありませぬ」
勘十郎が静かに返す。
広間に、思いがけない笑いが起きた。
信友も笑った。
しかし、大膳の表情は動かなかった。
◇
笑いが収まると、信友は再び書付を見た。
「大膳」
「はっ」
「この訴えを持ち込んだ者は、誰だ」
「清洲門前の荷扱いの者にございます」
「名を聞いておる」
大膳は顔を上げた。
「その者らは、すでに那古野で預かられております」
「ならば、ここへ呼べ」
信友の言葉に、広間が静まった。
「本人がここへ参れば、勘十郎の使いだったかどうか、直接確かめられる。龍之介が打ち倒した理由も聞けよう」
大膳は頭を下げた。
「承知いたしました」
信友は続けた。
「その者らを遣わした者も調べよ。清洲の荷扱いの者が、勝手に勘十郎の使いを名乗ったのなら、清洲の名を汚したことになる」
龍之介は、そこで口を開いた。
「大和守様。お許しいただけますか」
「申せ」
「捕らえた三人は、那古野にて別々に預かっております。御下命なら連れてまいります。ただし、道中で口裏を合わせぬよう、それぞれ別の者に付き添わせていただきたい」
信友は頷いた。
「よかろう」
「それと、三人が名乗った相手についても、できる限り確かめてまいります」
「頼む」
信友は信長と勘十郎を見比べた。
「兄弟を呼べば、互いの不満が聞けると思っておった。ところが、話が少し違うようだ」
信長は頭を下げた。
「私どもにも考えの違いはございます」
「そうだろうな」
「ですが、清洲へ訴えるべきことがあれば、私どもの口から申し上げます」
勘十郎も続けた。
「私の館のことは、私自身がお答えします」
信友は、ゆっくり頷いた。
「それならば、これからもそうせよ。人づての言葉ほど、扱いに困るものはない」
その時、大膳が初めて口を開いた。
「大和守様。兄弟が揃っておられるのは、まことに喜ばしいことにございます。しかし、清洲と那古野の荷筋の問題が消えたわけではございませぬ」
信友は大膳を見た。
「分かっておる」
「北蔵の扱いを改めるなら、清洲の商人にも影響が出ます。そこは慎重に」
「慎重にする」
信友は答えた。
「だからこそ、北蔵が断った荷と、那古野が受けた荷を確かめる。守るべき商いがあるのなら、その商いを見せよ」
大膳は黙った。
信友は、静かに言った。
「清洲の荷が減ったのは事実だ。だが、誰が減らしたのかはまだ分からぬ。北蔵が断った荷まで、三郎に奪われたことにはできまい」
龍之介は、信友の言葉を聞きながら、ゆっくり息を吐いた。
信友は大膳の敵になったわけではない。
信長の味方になったわけでもない。
ただ、清洲の主として、説明のつかぬことをそのままにしなくなった。
大膳にとっては、それだけで十分に厄介な変化だった。
◇
評定が終わった後、信長と勘十郎は清洲の庭へ出た。
城の奥では、昼の支度をする者たちの足音が聞こえている。庭先を吹き抜ける風には、湿った土と松葉の匂いが混じっていた。
権六は勘十郎の少し後ろに控え、勝三郎は廊下の向こうを見張っている。
信長は弟へ言った。
「よく言ったな」
勘十郎は、少しだけ笑った。
「兄上の家臣が私の米を奪ったと言われては、困りますので」
「わしを庇ったのではないのか」
「庇う必要がありません。しておらぬことを、しておらぬと申し上げただけです」
信長は声を立てて笑った。
「まったく、可愛げがなくなったものだ」
「兄上ほどではございませぬ」
勘十郎も笑った。
権六は、その光景を少し離れて見ていた。
龍之介には、権六が何を思っているのか、少しだけ分かる気がした。
この兄弟が本当に争えば、尾張の家中は割れる。
だが、互いに別の立場を持ちながら、同じ事実を前にして話せるなら、争わずに済む道もある。
信長は龍之介へ目を向けた。
「どうだ。清洲の門は二つあったが、中へ入れば同じ座だったな」
「大膳殿の思惑とは違ったでしょう」
「ああ」
信長は笑みを消した。
「だが、まだ終わらぬ」
「はい。北蔵の荷の問題は残っております」
「それに、今日の訴えを誰が持ち込んだかもな」
龍之介は頷いた。
坂井大膳は、まだ大きく崩れていない。
清洲の商いを守るという主張も、捨てていない。
ただ、今日は二つのことを失った。
兄弟を別々に迎える段取り。
そして、勘十郎の館から訴えがあったという話。
いずれも、当人が同じ場所へ現れたことで崩れた。
信長は庭の向こうへ目を向けた。
「父上には、今日のことを伝える」
「はい」
「それから、北蔵の通常の荷を調べ直せ。祭礼御用を優先すると言って断ったものが、ほかにもあるはずだ」
龍之介は頷いた。
「荷主がどこへ移ったか、引き続き確かめます」
「よい」
信長は、少しだけ楽しそうに笑った。
「清洲の商いを守ると言うなら、まず商人に飯を食わせねばならぬ。蔵の門を閉じて、荷主に逃げられていては世話がない」
龍之介も笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
廊下の向こうから、清洲の近習が足早に現れたのである。
男は信長たちの前で膝をついた。
「三郎様、勘十郎様。大和守様が、改めてお呼びにございます」
信長が眉を上げた。
「まだ何かあるのか」
「坂井大膳様が、北蔵の荷について新たな書付を出されました」
龍之介は、目を細めた。
「どのような書付ですか」
男は少し迷い、それから答えた。
「清洲北蔵が通常の荷を断ったのは、祭礼のためだけではない、と」
信長の笑みが消えた。
「ほう」
男は続けた。
「那古野へ荷を通す商人の中に、清洲の御用名を勝手に使っていた者がいる。北蔵はそれを防ぐため、一時受け入れを見合わせたのだと……」
龍之介は、その言葉を聞きながら、久兵衛の蔵で見た控えを思い出した。
十二俵。
そのうち八俵を運んだ久六。
荷主の善兵衛。
北蔵が渡した受け入れ見合わせの書付。
もし善兵衛が清洲の御用名を勝手に使った者とされれば、今度は荷主自身が疑われる。
那古野が奪ったのではない。
清洲が断ったのでもない。
偽りの御用を防ぐため、北蔵が正しく止めたことになる。
大膳は、また一つ言い分を変えた。
しかも今度は、実際に荷を動かした商人を巻き込もうとしている。
信長は、龍之介を見た。
「善兵衛を守る必要がありそうだな」
「はい。あの商人の話が崩されれば、米十二俵の筋も変わってしまいます」
「ならば、先に大膳の書付を聞こう」
信長は勘十郎へ向いた。
「お前はどうする」
「ご一緒します」
勘十郎は迷わず答えた。
「清洲の御用名を勝手に使った者がいるという話なら、私の使いを名乗った者たちとも関わりがあるかもしれません」
信長は頷いた。
二人は並んで廊下を歩き始めた。
龍之介は、その後ろについた。
清洲は一つの城だ。
だが、その中には幾つもの思惑がある。
守護代の権威を守りたい信友。
清洲の商いと権益を守りたい大膳。
那古野の道を守りながら勢力を広げようとする信長。
そして、自分の館と名を守ろうとする勘十郎。
誰もが同じものを見ているわけではない。
それでも、今日だけは一つ確かなことがあった。
兄弟を別々の門へ入れようとした者は、二人を同じ座で相手にしなければならなくなった。
龍之介は腰の刀に触れず、広間の入口へ目を向けた。
次は、清洲が守ると称する商いの中身を問う番だった。




