第82話 弟の名で荷を奪う
清洲から那古野へ、荷は確かに流れていた。
それを知った時、龍之介は少なからず驚いた。
坂井大膳が末森で主張したことは、まるきりの嘘ではなかったのである。
信秀から荷の移り先を調べるよう命じられた翌朝、龍之介は信長の許しを得て、馬借の甚蔵を訪ねていた。
同行したのは新五、彦右衛門、それに藤吉郎である。
渡し場には祭礼の名残があった。使い終わった杭が土場に積まれ、干した縄からは川泥の匂いがする。舟を待つ者の数は減ったが、荷車は普段の賑わいを取り戻しつつあった。
甚蔵は龍之介の問いを聞くと、渋い顔で答えた。
「清洲の荷が那古野へ回ったかと問われれば、回っております。そこは隠せませぬ」
「どれほどだ」
「私どもが扱った分では、米が十二俵。ほかに布の小荷が二つ。ですが、すべての荷が分かるわけではございません」
「その十二俵を見たい」
「米なら、升屋久兵衛殿のところへ入っております」
龍之介は頷いた。
信秀が求めたのは、清洲を責めるための口実ではない。
実際に何が起きたのか、その確認だった。
大膳の主張を否定したいからといって、那古野に都合のよいものだけ拾えば、今度はこちらの言葉が軽くなる。
「久六はいるか」
「おります。十二俵のうち、八俵を運んだのが久六です」
呼ばれた久六は、馬の蹄を確かめているところだった。
先日の足帳騒ぎで不満をぶつけてきた男だが、今朝は落ち着いている。
「清洲から那古野へ運んだ米のことか。覚えておりますよ。あの荷では、ひどく待たされましたからな」
久六は、馬の脚から手を離した。
「本来は清洲北蔵へ入るはずでした。それが、蔵の前で受け取りを断られたんです」
「理由は」
「祭礼御用の荷を先に入れる。ほかの荷は後にせよ、と」
龍之介は眉を寄せた。
「荷主はどうした」
「最初は待ちました。ですが米は俵に入れたまま置けばよいというものでもない。雨の気配もありましたし、馬借の待ち賃も増える。結局、荷主が那古野へ回すと決めたんです」
「清洲の者に、那古野へ回せと言われたわけではないんだな」
「いいえ。ただ、北蔵では受けぬと言われました。荷主が困って升屋へ話を持っていった。それだけです」
久六は一度言葉を切り、苦々しく笑った。
「おかげで私は余計な道を走りました。足帳がなければ、待った分までなかったことにされていたでしょうな」
藤吉郎が、持参した紙へ手早く記していく。
龍之介は久六の顔を見た。
「北蔵に断られた時、書付は受け取ったか」
「荷主が持っているはずです。蔵の番人が口で断った後、受け入れを見合わせると書いて渡しましたから」
「それを確かめよう」
久六は頷いた。
ここで一つ、確かなことが見えた。
清洲の荷は減った。
だが、那古野が奪ったのではない。
北蔵が受け入れを断り、荷主が別の行き先を選んだのである。
それでも、清洲にとって商いが失われたことに変わりはなかった。
問題は、なぜ北蔵が通常の荷を断ったのか。
そこにあった。
◇
升屋久兵衛の蔵で、米十二俵のうち八俵が確認できた。
残る四俵はすでに売り先へ渡されていたが、久兵衛は受け取った時の控えを持っていた。
蔵の奥には、藁と米糠の匂いがこもっていた。梁の近くに朝の光が差し込み、俵を持ち上げる男たちの首筋に汗が光っている。
久兵衛は龍之介たちを迎えると、奥の帳場へ案内した。
「若様のご命令であれば、何でもご覧に入れます。ただし、米を悪者にはせんでください」
「米が悪いとは思っていない」
「それなら結構です」
久兵衛は控えを広げた。
清洲門前から来た米。
荷主の名。
俵数。
運んだ馬借。
那古野での受け取り。
そして、清洲北蔵で受け入れを断られた経緯。
「荷主は最初から那古野へ売りたかったわけではございません。清洲で受けてもらえぬため、こちらへ話が来たのです」
「北蔵が断ったのは祭礼の何日前だ」
久兵衛は日付を示した。
ちょうど、清洲から祭礼支度米や縄、紙を使った揺さぶりが続いていた頃に当たる。
龍之介は黙って日付を追った。
清洲は祭礼御用を名乗る荷を優先し、通常の商いを後回しにした。
その結果、荷主は那古野へ回った。
すると大膳は、那古野が清洲の商いを奪っていると主張できる。
もし、そこまで計算していたのなら。
龍之介は背筋に冷たいものを感じた。
相手は自分の損まで使っている。
郭嘉の知が、ようやく別の形を見せ始めていた。
「久兵衛殿。この荷主に会えるか」
「今朝も蔵へ来るはずです。ちょうど残りの代金を受け取りに」
「それは都合がよい」
龍之介はそう答えたが、胸の内では別のことを考えていた。
大膳が末森で持ち出した清洲の商いの損。
それは実際に起きていた。
しかし、損の原因が那古野の改めにあるとは限らない。
むしろ北蔵自身が、その損を作った可能性がある。
商いを守るために他人の荷を止めたのではない。
荷を止め、商いを失ったという事実を作る。
相手の立場を悪く見せるためなら、自分の商いを一時傷つけることさえ厭わない。
龍之介は小さく息を吐いた。
厄介な相手だ。
大膳は清洲の権益を守ろうとしている。それは間違いない。
だが、そのために使う手は、もはや商いを守る者の手ではなくなりつつあった。
◇
荷主が姿を見せたのは、それから間もなくのことだった。
名を善兵衛という。
清洲門前を拠点に米を扱う商人で、那古野に店を構えているわけではない。
善兵衛は龍之介から事情を聞かれると、最初は警戒した。
「私は清洲の者です。若様方の争いに関わるつもりはございません」
「争いに巻き込むつもりはない。米がどう動いたかを聞きたいだけだ」
「それなら、久兵衛殿がご存じでしょう」
「北蔵で断られた時の話は、当事者でなければ分からない」
善兵衛はしばらく黙っていた。
それから懐を探り、折り畳んだ紙を取り出した。
「これです」
紙には、北蔵の受け取りを見合わせる旨が記されていた。
祭礼支度の荷を優先するため、通常の預かりを控える。
理由はそれだけだった。
「受け取りを断られて、私は困りました」
善兵衛は、紙を握る手に力を込めた。
「米は遊ばせておいても銭になりませぬ。馬借は待たせれば待ち賃が要る。そこで升屋殿へ頼んだのです。那古野から声が掛かったわけではございません」
「清洲へ戻る選択もあったのでは」
「ありました。ですが、戻ればまた荷車を走らせねばならない。私は商人です。清洲への義理はありますが、米を腐らせてまで守る義理はございません」
龍之介は頷いた。
「もっともだ」
善兵衛は、少し驚いた顔をした。
「お咎めは」
「何を咎める。自分の米を売っただけだろう」
善兵衛は、ようやく肩の力を抜いた。
その時だった。
蔵の表から馬の嘶きが聞こえた。
続いて、男の怒鳴り声が響く。
「その荷は勘十郎様の御用だ! 道を空けろ!」
龍之介は顔を上げた。
新五が先に立ち上がる。
「勘十郎様?」
久兵衛の顔色が変わった。
「今朝、勘十郎様のお館へ送る米を四俵、別に用意しておりますが……」
龍之介は、胸騒ぎを覚えた。
清洲から那古野へ荷が移った。
その事実を確かめた直後に、今度は勘十郎の名で荷を動かす者が現れた。
偶然にしては出来すぎている。
「彦右衛門、表へ。新五は蔵の裏を見てくれ」
「承知」
龍之介は腰を上げた。
久兵衛には、ここから動かぬよう告げた。
◇
蔵の外では、三人の男が荷車を囲んでいた。
いずれも腰に刀を差し、一人は長柄の棒を持っている。
荷車には米俵が四つ積まれていた。
御者台の横では、馬借の権次が男たちと言い争っている。
「だから、勘十郎様のお館へ届ける荷だと申しておる!」
「ならばこちらへ渡せ。館の使いとして受け取りに来た」
「館へ届けるよう頼まれた荷を、道端で知らぬ者に渡せるものか!」
棒を持った男が、権次の胸を突いた。
権次がよろめく。
馬が首を振り、車輪が石に当たって鈍い音を立てた。
龍之介は、足を速めた。
「そこまでにしてもらおう」
三人の視線が集まる。
先頭の男は、龍之介を頭から足まで見た。
「何者だ」
「那古野の山本龍之介だ。勘十郎様のお使いなら、名を聞かせてもらいたい」
男の顔に、わずかな変化があった。
龍之介の名を知っている。
それでも引く気配はなかった。
「我らは勘十郎様のお館より参った。館へ入れる米を、途中で受け取るよう申しつかっている」
「誰から」
「館の若衆からだ」
「竹若か。弥八郎か」
男は答えられなかった。
龍之介は、それで十分だと思った。
勘十郎の若衆場へ出入りする者なら、少なくとも誰の命で来たかくらいは答えられる。
「館の者へ確かめる。それまで荷には触れるな」
龍之介が言うと、男の顔が険しくなった。
「我らを疑うのか」
「名を名乗らぬ使いに米を渡せと言われれば、誰でも疑う」
「勘十郎様の御用を妨げるとは、三郎様の家臣らしい振る舞いだな」
その一言で、狙いがはっきりした。
勘十郎の名を使い、信長の家臣と衝突させる。
こちらが武力を使えば、兄の家臣が弟の使いを打ったという形になる。
龍之介は、男たちの立ち位置を見た。
先頭の男は口で押す役。
棒を持つ男は、こちらが近づけば打ちかかる役。
残る一人は荷車の反対側に回り、俵へ手を掛けようとしている。
逃げ道まで見えた。
「その俵から手を離せ」
龍之介が声を掛けると、荷車の陰の男が一瞬硬直した。
それを見て、棒を持つ男が踏み込んだ。
「無礼者!」
振り上げられた棒が、龍之介の肩を狙う。
龍之介は半歩だけ身体をずらした。
棒の先が空を切る。
振り下ろす勢いのまま前へ流れた相手の手首を取り、肘を押さえて方向を変える。
男は声を上げる暇もなく膝をついた。
棒が地面へ落ちる。
その音が響いた時には、龍之介はすでに次の男へ向かっていた。
先頭の男が刀へ手を伸ばす。
抜かせるわけにはいかない。
龍之介は相手の踏み込む足を見て、腰の位置を外した。刀の柄へ伸びた腕を押さえ、肩を入れる。
男の身体が浮いた。
次の瞬間、背中から地面へ転がる。
砂埃が上がり、男の肺から空気が押し出された。
残る一人は逃げようとしたが、蔵の裏から回ってきた新五と彦右衛門に道を塞がれた。
新五は刀を抜いていない。
彦右衛門も同じだった。
「動くな。これ以上、館の名を汚すな」
男は、そこで抵抗をやめた。
龍之介は倒れた男の刀を抜き取り、地面へ置いた。
手首を押さえられた男は、痛みに顔を歪めている。折ってはいない。
殺す必要などなかった。
権次は、呆然とその光景を見ていた。
「龍之介殿……」
「怪我は」
「胸を突かれただけです」
「ならよい。馬を落ち着かせてくれ」
権次は慌てて手綱を握り直した。
龍之介は、新五へ目を向けた。
「館へ知らせを。できれば権六殿にも来てもらいたい」
「すでに使いを出しました」
新五は落ち着いて答えた。
龍之介は小さく笑った。
この男も、先を読むようになった。
◇
勘十郎が到着したのは、それからしばらく後のことだった。
権六と竹若、弥八郎を伴っている。
館からの知らせを聞き、待たずに自ら出てきたという。
龍之介は、その姿に少し驚いた。
勘十郎は馬を降りると、捕らえられた三人を見た。
続いて米俵を確かめる。
「この者らが、私の使いを名乗ったのか」
「はい」
龍之介は経緯を説明した。
勘十郎は最後まで聞き、竹若へ向いた。
「お前が使いを出したか」
「いいえ。米を運ぶ権次殿へは、館まで届けていただくよう伝えております」
「弥八郎」
「私も存じませぬ」
勘十郎は頷いた。
それから、捕らえられた男たちの前へ歩いた。
権六が一歩動きかけたが、勘十郎は手で制した。
「私の使いだと申したそうだな」
先頭の男は俯いている。
「誰に許した」
返事はない。
勘十郎は声を荒らげなかった。
「私の名で米を受け取るなら、私が命じたことになる。お前たちが米を奪えば、私が奪ったことになる。それを承知で名乗ったのか」
男は唇を噛んだ。
勘十郎は、さらに一歩近づいた。
「答えよ」
「……清洲門前で、そうすれば米を受け取れると」
「誰に聞いた」
「知らぬ男でございます」
「名も知らぬ者の言葉で、私の使いを名乗ったのか」
勘十郎の声が、初めて鋭くなった。
男は頭を下げた。
龍之介は、その様子を見ていた。
かつての勘十郎なら、自分の名を使われたことに怒り、相手を罰する方向へ動いたかもしれない。
だが、今は違う。
自分の名で何が行われたかを確かめている。
若衆場で、荷を見て、飯を見て、人の役を分けてきた成果が、ここに現れていた。
「権六」
勘十郎が呼んだ。
「はっ」
「この者らの身柄を、兄上の側へ預けたい。私の使いではないことは、竹若と弥八郎に証言させる」
権六は一瞬だけ目を見開いた。
すぐに頭を下げる。
「承知しました」
勘十郎は龍之介へ向いた。
「龍之介殿。三人が私の使いを名乗ったこと、館では命じていないこと、私からも文にいたします。兄上へ届けていただきたい」
「承知しました」
「それと、米は館へ運んでいただく。約束した代価も、升屋へ支払う」
その言葉を聞いて、権次の顔に安堵が広がった。
ようやく、仕事の終わりが見えたのだ。
勘十郎は米俵を見た。
「こんなことのために、飯を止めるわけにはいかぬ」
龍之介は、少しだけ口元を緩めた。
「まったく、その通りです」
権六が近づいてきた。
「龍之介殿。若衆たちが、だいぶ鍛えられましたな」
「勘十郎様ご自身が、一番変わられたように見えます」
権六は勘十郎の背を見た。
その目には、複雑なものがあった。
かつて守ろうとした若君。
清洲に旗として使われかけた弟君。
今は、兄の下へただ従うのでもなく、兄へ無闇に刃向かうのでもなく、自分の館と若衆を守るために判断している。
「……ありがたいことです」
権六は、それだけ言った。
◇
那古野へ戻ると、信長は龍之介の報告を聞き終えるなり、しばらく黙った。
前半は、清洲から那古野へ移った荷の話。
後半は、勘十郎の使いを名乗った男たちの話である。
信長は、最初に米十二俵の控えを見た。
「清洲の荷は、確かに那古野へ移ったか」
「はい。ただし、荷主自身の判断です。北蔵が祭礼の荷を優先し、通常の預かりを見合わせたため、別の受け手を探したとのことでした」
「その書付は」
「荷主から見せてもらいました。原本は荷主が持ち、写しを取らせてもらっております」
信長は頷いた。
「ならば、父上へ送る」
平手が筆を取る。
信長は続けた。
「清洲の商いに損がなかったとは書くな。荷が移ったことは事実だ。だが、那古野が奪った証はない。それどころか、北蔵の受け入れ見合わせが、荷を動かした理由になっている」
「はい」
龍之介は答えた。
「ただし、北蔵が最初から荷を移すつもりで断ったかどうかは、まだ分かりません」
「そこは決めつけぬ」
信長は、少し苦い顔になった。
「大膳の言う損は本物だったか。厄介だな」
「本物の損だからこそ、言葉に力がございます」
「そうだろう」
信長は控えを置き、今度は勘十郎の文を開いた。
竹若と弥八郎の証言。
館では使いを出していないこと。
米は正式に買い入れたものであること。
捕らえられた三人は館の者ではないこと。
そのすべてが、勘十郎自身の言葉として整えられていた。
信長は、文を読み終えると小さく笑った。
「勘十郎め。よく書いた」
権六の名も証人として添えられている。
信長は、そこを見て少し黙った。
「権六は、弟の側で働いているな」
「はい」
「それでよい」
信長は、文を畳んだ。
「弟を守る者がいなければ、また清洲の旗にされる」
龍之介は頷いた。
勘十郎を信長の駒として囲い込んでも、問題は解決しない。
自分の判断を持ち、自分の名を守る。
その方が、よほど清洲の使いにくい人物になる。
信長は平手へ命じた。
「勘十郎には、よく判断したと返せ。米を守り、使いを名乗る者を自分で確かめたこと、父上へも伝える」
「承知しました」
新五が言った。
「三人は、どういたします」
「別々に聞く。誰が勘十郎の名を使わせたのか、そこは調べる。ただし、勘十郎本人を問いに巻き込むな」
龍之介は頷いた。
「清洲が狙ったのは、そこでしょう」
「ああ」
信長は庭を見た。
「父上が清洲を問えば、こちらの兄弟を割ろうとする。分かりやすい手だが、嫌なところを突いてくる」
言葉とは裏腹に、信長の顔に怯えはなかった。
むしろ、久しぶりに相手の手が読めたことを楽しんでいるようにも見えた。
◇
その日の夕刻、勘十郎の館では権六が若衆たちを集めていた。
竹若と弥八郎は、清洲の使いを名乗る者が現れた時の扱いを改めて確かめている。
勘十郎は縁側から、その様子を見ていた。
「権六」
「はっ」
「私の名は、まだ使われるだろうな」
権六は少し考え、答えた。
「使おうとする者はおりましょう」
「兄上と私を争わせたい者がいる」
「はい」
「私は兄上の下へ頭を下げるだけの者ではない。だが、兄上と争いたいわけでもない」
勘十郎は庭の若衆を見た。
「そこを分かってもらうには、まだ時間が掛かるな」
権六は深く頭を下げた。
「時間は掛かります。されど、今日のように一つずつ示していけば、いずれ周りも理解いたしましょう」
勘十郎は小さく笑った。
「お前も、以前とは言うことが変わった」
「私も、少しは学びましたゆえ」
権六の返事に、勘十郎は珍しく声を立てて笑った。
その笑いを聞き、竹若と弥八郎も顔を上げた。
若衆場には、祭礼の騒ぎが始まる以前とは違う空気があった。
まだ小さな場である。
だが、そこには勘十郎自身の意思が育ち始めていた。
◇
翌朝、末森から那古野へ早馬が来た。
信秀宛ての文が清洲から届き、その内容を信長にも伝えるよう命じられたという。
信長は庭で文を受け取った。
龍之介、平手、新五、勝三郎が控えている。
封を見た瞬間、平手の顔が変わった。
「大和守様の名でございます」
信長は封を切り、文面へ目を落とした。
その顔から、笑みが消える。
文は短かった。
織田大和守家の名において、弾正忠家の三郎信長ならびに勘十郎を清洲へ召す。
近頃の清洲門前と那古野の荷筋をめぐる騒ぎについて、双方の話を聞きたい。
信秀にも、両名を出すよう求める。
信長は、最後まで読むと文を平手へ渡した。
「父上は何と」
「まだ御返答なされておりませぬ。まず三郎様にもお知らせするようにと」
信長は頷いた。
龍之介は、文を受け取った平手の表情を見た。
坂井大膳は、清洲の守護代家を動かした。
しかも、信長だけではない。
勘十郎まで呼んでいる。
昨日、弟の名を使った荷奪いが起きたばかりだった。
偶然にしては、あまりにも都合がよすぎる。
「若様」
龍之介が口を開いた。
信長は、こちらを見ずに答えた。
「分かっている」
そして、ようやく顔を上げた。
「清洲は、わしと勘十郎を同じ座へ引き出すつもりだ」
平手が静かに言った。
「大和守様のお召しとなれば、軽々に断るわけにもまいりませぬ」
「断るつもりはない」
信長は笑った。
だが、いつもの人を食った笑みではなかった。
目の奥に、鋭い光が戻っている。
「勘十郎には、わしから文を出す。清洲へ赴く前に、二人で父上に会う」
「承知しました」
「それから龍之介」
「はい」
「清洲の荷が那古野へ移った理由、昨日の米の件、それを父上へ先に届けろ。大和守様の前でも、清洲の損をなかったことにはせぬ」
龍之介は深く頭を下げた。
「承知しました」
信長は清洲の方角を見た。
「大膳は守りを名乗った。今度は清洲の殿を立ててくる。ならば、わしも逃げぬ」
龍之介は、信長の横顔を見た。
荷と帳をめぐる争いは、ついに清洲の座へ移った。
そこでは商人の控えだけでなく、織田家の家格と兄弟の立場が問われることになる。
下手をすれば、ここまで守ってきた商いの道よりも大きなものが壊れる。
それでも、龍之介は不思議と恐れていなかった。
呂布の武を授かったこの身体は、いつでも戦える。
郭嘉の知は、すでにいくつもの道を見せている。
だが、それ以上に頼もしいものが、今はある。
信長は一人ではない。
勘十郎も、かつてのように人の言葉だけで動く弟ではない。
権六がいる。
平手がいる。
又左、新五、勝三郎、彦右衛門がいる。
藤吉郎も、与八も、久六も、それぞれ自分の役を持ち始めている。
その者たちを、ただの駒として扱うつもりはなかった。
信長が文を畳む。
「龍之介。清洲へ行くぞ」
「はい」
「大膳がどんな顔で迎えるか、楽しみだな」
龍之介は思わず笑った。
「私としては、向こうが笑っていられなくなる方を楽しみにしております」
信長は、今度こそ声を立てて笑った。
その笑い声が、朝の那古野に響いた。
坂井大膳は、清洲の権威を盾にした。
信長は、その権威から逃げずに向き合うことを選んだ。
そして龍之介には、もう一つ確かめたいことがあった。
清洲へ赴けば、坂井大膳の背後にいる者が、ようやく見える。
守護代の座で、大膳はどこまで自分の言葉を通せるのか。
その答えが、次の戦の勝敗を左右する。




