第81話 守りを名乗る者
坂井大膳は、供の者を五人連れて末森へ現れた。
朝から降っていた細い雨は、門をくぐる頃には上がっていた。濡れた土には馬の蹄跡が残り、門番の槍先から雫が落ちている。
大膳は馬を降りると、まず供の者に泥のついた履物を替えさせた。それから懐の文を確かめ、案内に従って歩き始めた。
急ぐ様子はない。
呼び出されたことを恥じる様子もない。
清洲の重臣として、相応の礼をもって末森へ来たという態度だった。
広間では信秀が待っていた。
右手には平手、少し下がって信長と龍之介。清洲から運ばれた本帳と仮帳は、二つの文箱に分けられている。
大膳は敷居の手前で膝をつき、丁寧に頭を下げた。
「坂井大膳、御召しにより参上いたしました」
「大膳。遠いところを呼んだな」
「大殿のお召しとあらば、清洲からでも駆けつけまする」
信秀は薄く笑った。
「駆けつけた割には、落ち着いた足取りだったそうだ」
「急いで転べば、清洲の名を汚しますゆえ」
「なるほど。座れ」
大膳は顔を上げ、定められた場所に腰を下ろした。
龍之介は、その一連の動きを見ていた。
この男は怯えていない。
あるいは、怯えを表へ出す必要がないほど、自分の立場を理解している。
清洲城には守護代の織田大和守家がある。信秀の弾正忠家は実力を伸ばしているとはいえ、清洲の上に立つ家ではない。
そこが厄介だった。
大膳は罪を問われに来た小者ではない。
清洲の権威を背負って座る男なのである。
信秀は、まず何も書かれていない紙を大膳の前へ置かせた。
「此度の騒ぎについて、お前の口から聞こう。清洲は何を守ろうとした」
大膳は、少しも迷わず答えた。
「清洲の商いと、大和守様のお立場にございます」
広間の空気が引き締まる。
大膳は続けた。
「那古野の三郎殿が、荷主の名、受け手の名、通る道を改める。それ自体は結構なことでございます。偽りの荷を見分け、馬借や商人を守る。私も異を唱えませぬ」
信長は黙って聞いていた。
「されど、那古野で始まった改めが清洲門前へ及び、津島筋の荷にまで影響するとなれば、話は違います。荷主が清洲を通すと決めた荷を、那古野が問い直す。清洲の名で動いていた者が、那古野の控えに名を残される。これが続けば、商人は誰の言葉に従えばよいか分からなくなります」
「だから、清洲でも手を打ったか」
信秀が問う。
「清洲の荷筋を守る手は必要と考えておりました」
大膳は、懐から一通の文を取り出した。
「こちらをご覧いただきたい」
平手が受け取り、信秀へ渡す。
それは清洲の守護代家の名で、門前の荷扱いに対して商いの混乱を避けるよう命じた文だった。
偽りの御用を防ぐこと。
荷の滞りを避けること。
清洲門前の古くからの扱いを乱さぬこと。
書かれている内容だけなら、取り立てておかしなところはない。
信秀は文を読み終え、大膳へ返した。
「大和守殿のお考えとして、商いの道を守れということだな」
「御意にございます」
「これを盾にすれば、何をしてもよいのか」
「そのようには申しませぬ」
大膳は即座に答えた。
「半七らが行き過ぎたことは承知しております。火を扱った善八、人波を乱した岩松、銭袋で騒ぎを起こした勘助。いずれも軽く扱うべきではございませぬ。ただ、それら小者の不始末をもって、清洲が初めから祭礼を乱そうとしたとされては困ります」
うまい。
龍之介は、内心でそう評した。
大膳は小者を庇っていない。
悪事を否定してもいない。
認めるところを先に認め、その責任だけを切り離している。
これでは、信長が感情的に責めれば責めるほど、清洲全体へ罪を広げようとしているように見える。
信秀も、そのことを理解しているのだろう。
「三郎。お前にも聞こう」
「はい」
「清洲の荷を、那古野へ従わせるつもりはあったか」
信長は顔を上げた。
「ございませぬ。荷主が清洲を通すなら、その商いを妨げるつもりはありません。ただ、清洲の御用を名乗りながら荷主も受け手も定まらぬ荷がありました。そこを問いました」
「問うたことで、商いは遅れたか」
「幾らかは」
信長は隠さなかった。
「ですが、荷そのものを奪ってはおりませぬ。祭礼の米は本来の扱いを確かめ、縄も紙も使い道を分けました。必要な御幣紙と注連縄については、津島祭礼方が代価を払う商いとして整えております」
大膳が静かに口を挟んだ。
「その手間を嫌う商人もおりましょう」
「いるだろうな」
信長は答えた。
「だから手間の値も残した」
「那古野の帳に、ですな」
「そうだ」
「なるほど。では、清洲の荷が那古野を通るたび、那古野の帳が増える。いずれ商人は、清洲の許しより那古野の控えを重んじるようになるやもしれませぬ」
大膳は信秀へ向き直った。
「大殿。私が案じているのは、そこにございます」
龍之介は、膝の上で指を組み直した。
大膳は嘘だけで戦っていない。
信長の仕組みが広がれば、清洲の古い権益が揺れる。それは事実だった。
新しい秩序を作ろうとする側と、既存の秩序を守ろうとする側。
どちらにも、自分の理屈がある。
だからこそ、理屈の勝負だけでは決着しない。
◇
信秀は、清洲の文と那古野の控えを並べた。
「大膳。清洲の商いを守るという言い分は分かった」
「ありがたく存じます」
「ならば聞く。守るために、祭礼の灯明を傾ける必要があったか」
大膳の表情は動かなかった。
「善八の不始末にございます」
「馬の道へ藁を落とさせたことは」
「岩松らの勝手な振る舞いかと」
「銭袋を置き、那古野の馬借が盗んだように見せたことは」
「勘助の浅知恵でございましょう」
信秀は頷いた。
「では、甚内の帳はどうだ」
平手が仮帳を開いた。
人の札を使ったところには、泣かず。
職人を怒らせようとしたところには、怒らず、組む。
灯明のところには、灯り番を作られる。
そして帰り道の銭袋には、未了の文字があった。
「これも小者の不始末か」
「甚内が小者どもの動きを書き留めたものと聞いております」
「商いの帳ではないな」
「商いに関わる騒ぎの控えでございましょう」
信秀は大膳を見た。
「騒ぎが起きたことを残すだけなら、なぜ人が泣いたかどうかまで書く」
大膳は少し考えて答えた。
「那古野の対応を見たのでございましょう。甚内は古くから荷を扱う者です。人の動きを控えても、不思議ではありませぬ」
龍之介は、そこで口を開いた。
「大殿。お許しいただけますか」
「言え」
龍之介は仮帳を指さず、甚内の記した項目を口にした。
「この帳には、商いがどれだけ失われたかという数字がほとんどありません」
大膳の視線がこちらへ向く。
「どういうことかな、龍之介殿」
「清洲の商いを守るための控えなら、どの荷が遅れ、何人の馬借が仕事を失い、どの店が損をしたかを知りたいはずです。ところが、こちらには人が泣いたか、怒ったか、那古野が追ったか、止めたかという記録ばかり残っております」
龍之介は言葉を切った。
大膳は黙っている。
「損を知るための帳ではなく、相手がどう動いたかを見る帳です。守りの手間を量るためではなく、仕掛けた手が効いたかどうかを見るためのものでしょう」
信秀の指が、帳の端を押さえた。
「大膳。どうだ」
大膳は、しばらく龍之介を見ていた。
やがて、薄く笑った。
「面白い見方をなさる。さすが、三郎殿が側へ置かれた方だ」
褒め言葉の形をしていたが、目は笑っていない。
「ただし、その帳を私が書かせたとする証はありますまい」
「ありません」
龍之介は即答した。
広間の者がわずかに動いた。
大膳は、その答えに少しだけ目を細める。
「ならば、私を責めるには足りませぬな」
「はい。ですから、私も大膳殿が書かせたとは申し上げておりません」
龍之介は続けた。
「ただ、清洲の商いを守る帳という説明では、中身と合わないと申し上げたのです」
大膳の笑みが消えた。
信秀は、そこで初めて少し愉快そうな顔をした。
「大膳。この男は、お前の首を取りに来たわけではないらしい」
「そのようですな」
「なら、帳の説明をしてもらおう」
大膳は仮帳を見た。
いくら言葉を選んでも、そこに書かれた文字は消えない。
「甚内を呼んでいただきたい」
大膳は言った。
「本人がいるなら、本人に問うのが筋でしょう」
信秀は頷いた。
「よかろう」
◇
甚内は、二人の侍に伴われて広間へ入った。
大膳の姿を見た瞬間、歩幅がわずかに乱れた。
信長はそれを見逃さなかった。
龍之介も同じだった。
甚内は信秀の前に膝をつき、深く頭を下げた。
「甚内。大膳がお前に聞きたいそうだ」
信秀が言う。
大膳は甚内を正面から見た。
「久しいな」
「……はい」
「北蔵の帳場は、長年お前が預かってきた。働きに不足はなかったと聞く」
「恐れ入ります」
「だが、この流れの帳というものは何だ。荷の帳でもなければ銭の帳でもない。お前が勝手に作ったのか」
甚内は口を開いた。
しかし、声が出なかった。
大膳は続ける。
「清洲の商いを守るつもりで、余計なことをしたのならそう言え。お前の働きそのものを否定するつもりはない」
柔らかな声だった。
龍之介は、その柔らかさに危ういものを感じた。
責めていない。
許すとも言っていない。
ただ、甚内が自分で罪を引き受ける道を示している。
甚内にとっては、そこへ逃げ込むのが一番容易い。
「甚内」
信秀が呼んだ。
「大膳の顔を見ずに答えよ」
甚内が、はっと顔を上げた。
「わしが聞く。流れの帳は、お前が勝手に作ったものか」
甚内の唇が震えた。
「欄を作ったのは、私ではございませぬ」
「誰だ」
「……帳を使うよう申しつけられました」
「誰に」
甚内は答えなかった。
信秀はしばらく待ち、それから平手へ向いた。
「帳の最初を見せよ」
平手が仮帳の古い部分を開いた。
そこには荷の名と、短い覚えが残っている。
灰小屋。
橘屋。
米。
渡し。
それぞれの横に、後から書き足したらしい小さな文字がある。
信秀は言った。
「甚内。この帳を使い始めた頃、何を命じられた」
甚内は、膝の上で指を強く握った。
「那古野が、どこで止まり、どこで通すかを記せと」
「誰のために」
「北蔵のため、と」
「北蔵のためか」
「そう聞いております」
信秀は大膳へ向いた。
「大膳。北蔵のために那古野の動きを見る。それ自体は、商いの守りにもなるな」
「御意にございます」
「だが、泣かせる、怒らせる、火を置く。そこまで北蔵に要るか」
「そのような指図を私が出した覚えはございませぬ」
信秀は頷いた。
「よい。覚えがないことは、覚えがないとして残そう」
大膳は深く頭を下げる。
だが、信秀はまだ終わらせなかった。
「甚内。お前には、もう一つ聞く」
「はい」
「北蔵の荷を守るための帳なら、なぜ那古野の商人を助けた記録がない」
甚内は、ゆっくり顔を上げた。
「助けた記録、でございますか」
「清洲の荷が通りやすくなった。津島の舟が早く着いた。馬借の待ちが減った。そのような働きもあったはずだ。なぜ記さぬ」
甚内は答えられなかった。
信秀は仮帳を閉じた。
「この帳は守ったものを記しておらぬ。乱した時の相手の動きばかり記している」
信秀の声が、少し低くなった。
「大膳。お前の言う守りと、この帳の守りは、ずいぶん違うようだな」
大膳は、初めてすぐに答えなかった。
広間の外で、雨上がりの雫が軒から落ちた。
◇
昼を過ぎても、評定は終わらなかった。
大膳はなおも退かなかった。
「大殿。私は清洲の重臣として申し上げます」
声に、先ほどまでとは違う硬さがあった。
「清洲門前の荷筋が那古野に奪われることを、黙って見ているわけにはまいりませぬ。清洲の守護代家には守護代家の立場がございます。弾正忠家が力を増したからとて、古くからの扱いをすべて改められては、国の筋が立ちませぬ」
信秀は表情を変えなかった。
「その通りだ」
大膳は、一瞬だけ言葉を止めた。
「清洲には清洲の筋がある。わしにも、それを踏みにじるつもりはない」
信秀は続けた。
「だが、三郎の荷を妨げ、津島の祈りを使い、那古野の者へ罪を着せようとしたことまで、清洲の守りと呼ばれては困る」
「それらは小者の行き過ぎにございます」
「ならば、その小者を誰が使い、誰が止めなかったかを清洲で明らかにせよ」
「清洲の内で調べまする」
「それでは足りぬ」
信秀の返事は速かった。
「清洲だけで調べれば、清洲に都合のよい帳になる。那古野だけで調べれば、那古野に都合のよい帳になる」
信秀は平手を呼んだ。
「本帳と仮帳をここへ」
二つの帳が運ばれた。
「この帳は、しばらく末森に置く。清洲からも那古野からも、勝手に書き直させぬ」
大膳の目が鋭くなる。
「大殿。それでは清洲の帳を取り上げられることになります」
「取り上げはせぬ。お前にも封をさせる」
「封を」
「清洲の名と、わしの名で封じる。清洲からも那古野からも、立会いなしには開かぬ。照らし合わせる時には、清洲の帳場役、那古野の商人、津島の荷扱いを知る者を立ち会わせる」
平手が顔を上げた。
信長も、父の意図を理解したようだった。
どちらかが一方的に奪うのではない。
清洲に返して書き直させるのでもない。
両方の名で封じる。
その形にすれば、清洲の面子を保ちながら、証を守れる。
大膳は、しばらく考えた。
「清洲へ持ち帰り、大和守様へお伺いを立ててからでは」
「構わぬ」
信秀は言った。
「ただし、それまで帳は動かさぬ。清洲の名で封じることを拒むなら、そのまま大和守殿へ申し上げよう。わしが預かる帳へ、清洲から封をすることを拒んだとな」
大膳は、信秀を見た。
信秀も、正面から見返した。
長い沈黙があった。
やがて大膳は、ゆっくり頭を下げた。
「承知いたしました」
龍之介は、膝の上で拳を緩めた。
大膳が屈したわけではない。
信秀も勝ち誇っていない。
だが、帳を消す道は閉じられた。
それは大きかった。
信秀は続けた。
「甚内は引き続き預かる。斬らぬ。逃がさぬ。清洲からも問いに来てよいが、立会いをつける」
「承知しました」
「半七らも同じだ。罪を調べる。清洲の者だからといって軽くせぬが、那古野へ逆らったからという理由でも罰せぬ」
大膳は頷いた。
「筋の通った御沙汰と存じます」
信秀は、そこで初めて信長へ向いた。
「三郎」
「はい」
「清洲の荷を奪うな」
「承知しております」
「勝手に清洲門前の通行を支配するな。商人を守ると言いながら、自分の荷筋を太らせることも許さぬ」
信長は深く頭を下げた。
「心得ました」
大膳は、そのやり取りを静かに見ていた。
信秀は清洲だけを責めていない。
息子にも同じ重さを負わせている。
だからこそ、大膳も異を唱えにくかった。
「ただし」
信秀の声が広間を通った。
「清洲の名を使って那古野の荷を奪うことも許さぬ。祭礼の名で人を脅すことも、商いの守りとは認めぬ」
大膳は頭を下げた。
「御意にございます」
「大膳。三日後までに、大和守殿へ事情を申し上げよ。清洲として、北蔵を誰が預かり、誰が改めを命じる立場にあるか、正式な返しをもらいたい」
「三日後にございますか」
「足りぬか」
「……いいえ」
「ならば、頼む」
信秀は、最後まで声を荒らげなかった。
◇
評定が終わると、大膳は再び深く礼をした。
帰り際、信長の前で足を止める。
「三郎殿」
「何だ、大膳」
「此度は、随分と辛抱なされましたな」
「お前ほどではない」
信長は笑った。
大膳も薄く笑みを返す。
「清洲の商いを守ることも、私の務めにございます」
「ならば、守ってくれ。今度は荷も人も傷つけずにな」
大膳の目が細くなった。
「難しい御注文ですな」
「お前ならできるだろう」
「買い被りにございます」
そう言って、大膳は信秀へ改めて礼をし、広間を出ていった。
龍之介は、その背を見送った。
最後まで崩れなかった。
清洲の権威を盾に使い、守りの理屈を通し、甚内らの行いから自分を切り離した。
ただし、帳を封じられることは避けられなかった。
あの男なら、清洲へ戻ってすぐ次の手を考えるだろう。
しかも今度は、守護代家の正式な立場を持ち込んでくる。
「龍之介」
信長が声をかけた。
「どう見た」
「強い相手です」
「だろうな」
「小者に罪を負わせるだけの男なら、もっと簡単でした。ですが大膳殿は、清洲が何を失いかけているかを理解しています」
信長は頷いた。
「ああ。あいつの言うことにも、理はある」
「ございます」
「だが、理があるから何をしてもよいわけではない」
「はい」
信長は、封じられた帳へ目を向けた。
「父上は、よく見ているな」
龍之介も帳を見た。
「清洲の顔を潰さず、帳を守りました。これで、どちらの都合でも書き直せなくなります」
「わしなら、あそこで帳を返すなと怒鳴っていたかもしれぬ」
信長は苦笑した。
「その時は、お止めしました」
「できたか」
「言葉で止まらなければ、腕を掴んででも」
信長が声を立てて笑った。
「父上の前でか」
「後で叱られるでしょうが、帳を失うよりはましです」
「違いない」
そのやり取りを聞いていた平手が、呆れたように息を吐いた。
「まったく、お二人とも。大殿の御前でなければ、何をなさるつもりだったのやら」
信長は笑みを残したまま、平手を見た。
「爺。父上はまだ何か考えておるな」
平手は答えず、広間の奥へ視線を向けた。
信秀が、まだ席を立っていなかった。
「三郎。龍之介。戻れ」
二人は顔を見合わせ、再び広間へ入った。
信秀は、封じた帳を前に置いていた。
「大膳は、何を言った」
信長は答えた。
「清洲の商いを守った、と」
「何を言わなかった」
今度は、龍之介が答えた。
「その守りによって、清洲が実際に何を得たかでございます」
信秀の目が細くなった。
「そうだ」
信秀は帳の上へ指を置いた。
「大膳は、清洲の荷筋が奪われると申した。だが、実際にどの荷が奪われ、いくら損をしたかは一度も示さなんだ」
信長が顔を上げる。
「守るべき損が、まだ示されておりませぬ」
「うむ。損がないとは言わぬ。だが、これほど人を動かしたなら、相応の理由があったはずだ」
信秀は龍之介を見た。
「お前に一つ仕事を与える」
「何なりと」
「清洲の荷が減ったのか、那古野へ移ったのか、津島へ直接流れたのか。それを調べよ。帳だけでなく、実際に荷を運んだ者から聞け」
龍之介は深く頭を下げた。
「承知しました」
「大膳が守ったというものを確かめるのだ。守ったものが分かれば、誰が得をし、誰が損をしたかも見える」
信秀は、今度は信長へ向いた。
「三郎。龍之介へ人をつけよ。ただし、清洲へ入って騒ぎを起こすな」
「はい」
「それと、勘十郎の館も見ておけ」
信長の顔が変わった。
「勘十郎を、でございますか」
「清洲が荷の筋で押せなくなれば、家中の筋を使うやもしれぬ。お前の弟の名は、昔から使いやすい」
信長はしばらく黙り、それから頭を下げた。
「承知しました」
龍之介は、信秀の目が自分たちよりさらに先を見ていることを知った。
商いの争いは、清洲との政治へ移った。
その政治が行き詰まれば、次は織田家の内側へ手が伸びる。
勘十郎。
権六。
若衆場。
しばらく静かだった火種が、また動きかねない。
◇
末森を出た大膳は、馬へ乗る前に一度だけ振り返った。
供の男が近づく。
「大膳様。帳は、あのままで」
「仕方あるまい」
「甚内も戻りませぬ」
「甚内のことは、もうよい」
大膳は、濡れた手綱を握った。
「帳を封じたのは痛い。だが、信秀はまだわしを罪人にしておらぬ」
「はい」
「三日ある」
供の男は黙っていた。
大膳は、末森の門を見た。
「三郎は商いを守った。信秀は帳を守った。ならば、わしは清洲の立場を守らねばならぬ」
その声には、負け惜しみの響きがなかった。
「大和守様へ参る」
「ただちに、でございますか」
「ああ。今度は清洲の重臣一人の言い分では済まぬ。守護代家として、那古野の動きをどう見るかを決めていただく」
大膳は馬へ足を掛けた。
「信秀は、わしを呼んだ。ならば、清洲の殿にもお出まし願うまでよ」
馬が泥を蹴り、清洲へ向かう道を進み始めた。
末森の門は、その背後で静かに閉じた。
龍之介たちが守ってきた帳は、初めて双方の名で封じられた。
だが、その代償として、争いの相手も一段重くなる。
坂井大膳の背後から、清洲の守護代家そのものが姿を現そうとしていた。




