第80話 大殿の場
小さな名を積めば、山になる。
だが、山になったものを見て、ただ大きいと騒いでも意味はない。
どの石が、誰の手で、どこから運ばれたのか。
そこを見なければ、山の裾は見えない。
末森から呼び出しが来たのは、朝のうちだった。
大殿が、帳を見る。
その一言で、那古野の空気は変わった。
祭礼の騒ぎ、北蔵の帳、半七たちの口、甚内の沈黙、清洲町役の書付。
すべてが、大殿の前へ運ばれる。
信長は、平手、龍之介、勝三郎を連れて末森へ向かった。
藤吉郎も同行した。
家臣としてではない。
この数日、飯屋、寺、渡し場、忘れ物所で控えを書いた者としてである。
又左は那古野に残された。
不満そうではあったが、今回は文句を言わなかった。末森で大殿の場となれば、荒い気を持ち込む役ではないと分かっていたのだろう。
道中、信長はあまり話さなかった。
馬上で、背筋を伸ばし、前だけを見ている。
若い。
だが、その背にこの数日の疲れは確かに乗っていた。
清洲門前の荷から始まり、津島の名、祈り、祭礼、火、人波、銭袋、帳。
目の前の戦ではない。
槍も矢も飛ばない。
それでも、一手を誤れば、那古野は商人にも職人にも馬借にも見放され、津島には祭礼を乱したと言われ、清洲には小者の乱れで済まされる。
龍之介は、馬の揺れに身を任せながら思った。
戦場なら、敵の本陣を見つければよい。
だが、この戦の本陣は帳の奥に隠れている。
しかも、名前を急げば、こちらの手が濁る。
末森の門が見えてきた時、信長がようやく口を開いた。
「龍之介」
「はい」
「父上は、おそらく名を問う」
「はい」
「だが、わしはまだ名を置かぬ」
「その方がよろしいかと」
信長は、少しだけ笑った。
「お前も、ずいぶん待つようになったな」
「待たねば見えぬものが多すぎました」
「そうだな」
信長はまた前を向いた。
「今日は、待った分を見せる」
末森の広間には、信秀が座っていた。
大殿と呼ばれるにふさわしい重さがある。
派手ではない。
だが、そこにいるだけで、場の空気が締まる。
傍らには数人の重臣が控え、少し下がったところに文箱が置かれている。那古野から送った控え、清洲町役からの書付、津島祭礼方の写し、北蔵の本帳と仮帳、それらがすべて揃えられていた。
信長は膝をつく。
「三郎、参りました」
信秀は、すぐには労わりの言葉をかけなかった。
「祭礼は守ったな」
「はい」
「守ったうえで、清洲から帳を引いた」
「はい」
「では、見よう」
それだけだった。
信秀は余計な言葉を嫌った。
まず、清洲町役の書付が読まれた。
内容は、予想通りだった。
半七、弥惣、善八、勘助、岩松らは、祭礼の混雑と荷の出入りに乗じた小者の乱れであること。
北蔵は、乱れた荷の記録を後に本帳へ整えただけであること。
流れの帳と呼ばれる仮控えは、小者たちが互いに聞き書きした寄せ書きにすぎないこと。
清洲門前の商い全体、まして清洲の重き者の意図ではないこと。
そして、最後にこうあった。
坂井方ならびに清洲衆に、此度の騒ぎを企てた覚えなし。
そこを読んだ時、広間の空気がわずかに動いた。
信秀は文を受け取り、目を通し、静かに言った。
「わしは、坂井の名をまだ問うておらぬ」
誰も答えなかった。
信秀は続けた。
「問うておらぬ名を、先に消すか」
その声は荒くない。
だが、広間の端まで冷えた。
信長も黙っている。
龍之介は、背筋の奥が少し冷えるのを感じた。
これは証ではない。
だが、匂いは強い。
聞いていない名を先に消す。
それは、相手がその名を恐れているということでもある。
信秀は文を置いた。
「三郎。小者の乱れという清洲の言い分を、どう見る」
信長は、顔を上げた。
「小者は乱れました。そこは否定いたしませぬ」
広間の者の数人が、わずかに反応した。
信長は続けた。
「半七は口を使い、弥惣は仮帳を書き、源作は荷車を動かし、善八は灯明皿を傾け、勘助は銭袋で声を上げ、岩松は人波を乱そうとしました。それぞれ、できることはございます」
「では、小者の乱れか」
「小者の乱れだけではございませぬ」
信長は、はっきり言った。
「小者だけでは、津島祭礼方へ正式な文を出せませぬ。北蔵奥の小部屋へ何度も人を集められませぬ。仮帳を本帳に整え、清洲の帳として出すこともできませぬ。米、縄、紙、人、職人、半七、火、人波、銭袋。これらが同じ向きに動いたことも、小者が勝手に集まっただけでは説明がつきませぬ」
信秀は頷いた。
「同じ向き、か」
「はい」
信長は言った。
「それぞれの手は小さい。ですが、向きが揃っています」
信秀は、龍之介へ目を向けた。
「龍之介」
「はい」
「お前は、どう見る」
龍之介は、膝をついたまま少し頭を下げた。
「小さな火が、別々の場所で自然に起きたなら、煙の向きはばらばらになります。此度は、煙の向きが同じでした」
信秀の目が細くなる。
「続けろ」
「半七は、那古野が名を問うと知って、大きな名を使いました。津島筋、天王社筋、祭礼支度。これは、相手が何に弱いかを知る者の使い方です。善八は火を大きくせず、小火で人の足を乱そうとしました。岩松は人波の中で馬の道を狙いました。勘助は帰り道の銭袋で馬借の名を汚そうとしました」
龍之介は、一度息を整えた。
「いずれも、場を壊しきらず、那古野が悪く見える程度を狙っております。小者が銭欲しさに勝手に動いたなら、もっと荒くなります。火は大きくなり、銭は消え、馬は傷つきます。ですが、今回はどれも、騒ぎの形が整いすぎております」
信秀は、わずかに口元を動かした。
「綺麗すぎる帳と同じか」
「はい」
龍之介は頭を下げた。
「帳も騒ぎも、整いすぎております」
広間が静まった。
信秀は、今度は藤吉郎を見た。
「お前が、飯屋の藤吉郎か」
藤吉郎は、驚きながらも膝を進めた。
「はい」
「控えを書いたと聞く。小者の乱れという言葉を、お前の目でどう見る」
藤吉郎は、一瞬だけ信長を見た。
信長は何も言わない。
藤吉郎は、手元の小さな控えを握りしめた。
「飯屋で言えば、米を研ぐ者、水を運ぶ者、火を見る者、椀を並べる者が、それぞれ勝手に動いても、五十人分の飯は出ません。むしろ、釜が空かず、水が足りず、飯が焦げます」
藤吉郎は、言葉を選びながら続けた。
「此度は、半七さんたちがそれぞれ勝手に動いたというより、誰かが順番を決めたように見えました。米の次に縄、紙、人、職人、口、文、面子、手間、馬、人波、火、銭袋。飯屋の釜場で言えば、誰かが『次は水を止めろ』『次は火を強めろ』と言っているような……そんな動きです」
広間の一部に、低いざわめきが走った。
飯屋の小僧の言葉にしては、芯を食っていたからだ。
信秀は、藤吉郎をじっと見た。
「小者だけで同じ飯は炊けぬ、か」
藤吉郎は深く頭を下げた。
「はい」
信秀は短く笑った。
「覚えておく」
次に、本帳と仮帳が開かれた。
信秀は、自ら筆を持たず、目だけで見た。
本帳は整っている。
仮帳は汚れている。
その差を、信秀はゆっくり確認した。
半七の名。
弥惣の筆。
善八、勘助、岩松、源作。
人を泣かせるつもりだったこと。
職人を怒らせるつもりだったこと。
灯明を使い、人波を使い、帰り道の銭袋を使ったこと。
そして、流れの帳という言葉。
信秀は、仮帳の一箇所で手を止めた。
泣かず。
その二文字を見て、目がわずかに冷えた。
「これは、おます、おとよ、さきの件か」
平手が答える。
「はい。祭礼支度人として清洲門前改め済の札を持たされ、那古野へ来た三名にございます」
「泣かせるつもりだったのだな」
誰も答えない。
答える必要はなかった。
信秀は次に、怒らず、組む、の文字を見る。
「これは清太ら職人か」
「はい」
「怒らせるつもりだった」
平手が頷く。
信秀は仮帳を閉じず、しばらく手を置いた。
「人を荷より軽く扱う帳だな」
その声は低かった。
信長の顔がわずかに引き締まる。
龍之介も、胸の奥に冷たいものを感じた。
信秀は甚内を呼ばせた。
甚内は、末森まで連れて来られていた。逃がさぬためではなく、大殿の場で帳の意味を問うためである。
甚内は広間の端で膝をついた。
顔色は悪いが、崩れてはいない。
信秀は問う。
「甚内。流れの帳とは、誰の言葉だ」
甚内は、しばらく黙った。
「北蔵奥の小部屋で、そう呼ばれておりました」
「誰が最初に言った」
甚内は答えない。
信秀は怒鳴らなかった。
「答えぬなら、それでもよい。だが、清洲町役は、これは小者の寄せ書きだと言っている」
甚内の目が、わずかに動いた。
「寄せ書きでは、ございませぬ」
広間の空気が変わった。
信秀は、静かに問う。
「なぜだ」
「寄せ書きなら、筆が好き勝手に走ります。これは、書く場所が決められておりました。荷、人、火、銭、声。それぞれ欄がありました。小者が勝手に書き散らしたものではございませぬ」
「誰が欄を決めた」
甚内はまた黙った。
だが、今の言葉だけで十分だった。
寄せ書きではない。
欄があった。
つまり、枠を作った者がいる。
信秀は甚内へ言った。
「今日のところは、そこまででよい」
甚内は、深く頭を下げた。
信秀は平手へ向く。
「残せ。甚内、流れの帳は寄せ書きにあらず、欄ありと申す」
平手は筆を走らせた。
清洲町役の言い分は、この一言で崩れた。
まだ名は出ていない。
だが、小者の乱れという山の裾は、少し削られた。
その後、信秀はしばらく黙った。
広間にいる者たちも、誰も動かない。
やがて信秀は、二通の文を用意させた。
一通は、清洲町役へ。
もう一通は、坂井大膳へ。
その名が出た瞬間、信長の目が動いた。
龍之介も息を止めた。
信秀は、まず清洲町役への文を口述した。
「清洲町役へ。小者の乱れとの書付、受け取った。ならば、小者にできることとできぬことを、町役の名で改めて書き分けよ。半七、弥惣、善八、勘助、岩松、源作、安吉、藤次、伊三郎、善八の兄弟筋、勘助の筋、甚内、それぞれの役と、北蔵との関わりを明らかにせよ」
筆役が走る。
信秀は続けた。
「流れの帳を寄せ書きとするなら、欄を作った者の名を示せ。寄せ書きでないなら、誰の指図で欄を設けたかを示せ。仮帳、本帳、荷札控え、受け渡し控えの差を、町役として説明せよ」
清洲町役へは、逃げ道の少ない問いだった。
そして、信秀は二通目を口述した。
「坂井大膳へ。清洲門前北蔵ならびに祭礼支度に関わる荷、人、火、銭の乱れにつき、清洲の重き者として末森へ出頭せよ。罪を問うにあらず。まず、清洲の筋を聞くためである」
罪を問うにあらず。
まず、清洲の筋を聞くためである。
この一文が重かった。
信秀は、まだ坂井大膳を罪人として呼んでいない。
だが、清洲の重き者として場へ呼んだ。
名前を置いたのだ。
断罪ではない。
逃げられない座への呼び出しである。
信長は、静かに頭を下げた。
「父上」
「三郎」
「ありがとうございます」
信秀は、少しだけ目を細めた。
「礼を言うな。まだ始まったばかりだ」
「はい」
「お前はよく待った。だが、ここから先は、待つだけでは済まぬ」
信長は顔を上げた。
信秀は続けた。
「大膳が来れば、清洲の名を背負って座る。小者の山を押しつけて逃げるか、清洲の筋を通すか。どちらにせよ、言葉は重くなる」
「承知しております」
「龍之介」
「はい」
信秀の目がこちらへ向く。
「三郎の横で見ろ。大膳が何を言い、何を言わぬか。武を出す場ではない」
「心得ました」
「だが、逃がす場でもない」
「はい」
龍之介は深く頭を下げた。
呂布の武は、ここでは使わない。
だが、逃がさないための圧は要る。
郭嘉の知は、言葉の隙を見るために要る。
次の場は、戦場ではない。
それでも、ここまでで一番危うい場になる。
その日の夕刻、清洲に文が届いた。
坂井大膳は、自邸の奥でそれを読んだ。
文面は丁寧だった。
罪を問うにあらず。
清洲の筋を聞くため。
だが、丁寧であるほど、逃げ道は狭い。
大膳は、しばらく文を膝の上に置いたまま動かなかった。
控えの男が、恐る恐る問う。
「いかがなさいますか」
大膳は、扇を開いた。
いつもの仕草だった。
だが、扇の開き方が少し遅い。
「行く」
控えの男が頭を下げる。
「よろしいので」
「行かねば、清洲の筋がないことになる」
大膳は淡々と言った。
「行けば、三郎と大殿の場だ。厄介だな」
それでも、声に怯えはない。
むしろ、どこか楽しんでいるようにも聞こえた。
「甚内は、流れの帳を寄せ書きではないと言ったそうです」
「だろうな。あれを寄せ書きと言うには、少し整えすぎた」
「では」
「甚内に被せるには、限りがある。弥惣、善八、勘助らで小者の山にする手も、少し弱くなった」
大膳は文を畳んだ。
「なら、別の言い方をする」
「別の」
「清洲の筋だ」
大膳は、静かに笑った。
「祭礼を乱そうとしたのではない。那古野が清洲門前の荷筋を奪おうとしているのを、清洲として牽制した。小者どもが行き過ぎた。そう言えば、話は変わる」
控えの男は息を呑んだ。
「牽制、でございますか」
「そうだ。攻めではない。守りだ」
大膳は扇を閉じた。
「三郎は守った。こちらも守ったと言う。どちらの守りが筋を通すか、大殿の前で見ることになる」
清洲の影は、逃げるのをやめた。
今度は、自らの動きを守りと呼ぶつもりだった。
夜、那古野へ戻った信長は、しばらく庭に立っていた。
末森の場で、坂井大膳の名が初めて正式に置かれた。
だが、勝ったわけではない。
ようやく、相手が座に出てくるだけだ。
藤吉郎は、今日の控えを抱えたまま、庭の端で座っていた。
疲れているのに、眠る気配がない。
龍之介が近づくと、藤吉郎は小さく言った。
「大殿は、怖いですね」
「怖いな」
「怒鳴らないのに、場が動きました」
「それが大殿だ」
藤吉郎は、自分の控えを見た。
「坂井大膳様が来るんですね」
「ああ」
「それでも、罪を問うのではないんですね」
「まず、筋を聞く」
「筋」
藤吉郎は、その言葉を何度も噛むように繰り返した。
龍之介は庭の暗がりを見た。
ここまで、信長は名を急がなかった。
その我慢が、大殿の文でようやく形になった。
坂井大膳は、罪人としてではなく、清洲の重き者として呼ばれる。
だからこそ、逃げられない。
小者のせいにするだけでは済まない。
清洲の筋を語らねばならない。
信長は縁側から、龍之介を見た。
「龍之介」
「はい」
「大膳は、守りと言うだろう」
龍之介は、少しだけ目を細めた。
「清洲門前の荷筋を、那古野に奪われぬための守り、と」
「お前もそう見るか」
「はい。あれだけの手を、ただの嫌がらせとは言わないでしょう。清洲の商いを守ったと言うはずです」
信長は笑った。
「なら、次は守り同士の戦だな」
「はい」
那古野は、荷と人と祭礼を守った。
清洲は、清洲門前の荷筋を守ったと言う。
どちらの守りが、人を泣かせ、怒らせ、火を使い、銭袋を置いたのか。
そこを問う場になる。
龍之介は拳を開いた。
呂布の武なら、大膳をその場で伏せることはできるかもしれない。
だが、それでは清洲の筋は見えない。
郭嘉の知なら、大膳の言葉の穴を読むことはできるかもしれない。
だが、大殿の前で穴を突くには、信長の言葉と、帳の筋と、ここまで残した小さな名が要る。
遠くで、寺の鐘が鳴った。
小者の山は、ようやく裾を見せた。
次は、その山の向こうに座る者が、姿を見せる。




