第79話 小さな名の山
小さな名が多すぎる時ほど、上にある名は隠れやすい。
石を積み上げれば山に見える。
だが、その山が自然にできたものか、誰かが積ませたものかは、裾を見なければ分からない。
仮帳が那古野へ運ばれた翌朝、清洲門前から新しい声が流れた。
那古野は、清洲門前の小者の不始末を、清洲全体の罪に仕立てようとしている。
半七、弥惣、善八、勘助、岩松。
皆、荷に関わる小者や手代に過ぎぬ。
祭礼の忙しさに紛れて銭を得ようとした者たちの乱れを、若様が大きく見せているだけだ。
清洲は関わっていない。
北蔵も、甚内も、ただ帳を整えただけ。
声は、今までよりも柔らかかった。
怒鳴らない。
責めない。
ただ、もっともらしく言う。
小者の乱れだ、と。
その方が厄介だった。
那古野の庭で報告を聞いた信長は、しばらく黙っていた。
平手、新五、龍之介、又左、藤吉郎がいる。勝三郎は清洲門前の動きを見るため、まだ戻っていない。
藤吉郎は、仮帳の写しを抱えていた。
昨夜はほとんど眠っていないはずなのに、目だけは妙に冴えている。
「小者の乱れ、ですか」
藤吉郎が呟いた。
信長は頷いた。
「そう言うしかないだろうな」
又左が腕を組む。
「若。ここまで来ても、清洲は関わりなしと申すつもりですか」
「清洲そのものが動いた証は、まだない」
「ですが、北蔵、甚内、流れの帳まで出ました」
「出た。だから、ここで腹を立てるな」
信長は、庭に置かれた帳箱を見た。
その中には、本帳と仮帳、荷札控え、銭袋の紙片、祭礼方の写しが収められている。
「小者の乱れと言うなら、こちらは小者ができることと、できぬことを分ける」
平手が、静かに筆を取った。
信長は続ける。
「半七は口を使える。弥惣は仮帳を書ける。善八、勘助、岩松は場を騒がせることができる。源作は荷車を動かせる。安吉や藤次は人波に混じれる」
藤吉郎は、必死に追って書いていく。
信長の声は、そこで少し低くなった。
「だが、小者だけで津島祭礼方へ正式な文は出せぬ。北蔵奥の小部屋へ人を集め続けることもできぬ。仮帳を本帳へ整え、清洲の帳として出すこともできぬ。人の札、荷の札、銭袋、火、馬の道、人波。これだけの手を、皆が勝手に同じ向きへ動かすこともできぬ」
龍之介は、ゆっくり頷いた。
まさにそこだった。
小者は動ける。
だが、小者たちが同じ方向へ何度も動くには、向きを与える者がいる。
それを見つけるために、名前を並べるのではない。
できることを分ける。
信長は藤吉郎へ向いた。
「飯屋で言えばどうだ」
藤吉郎は、いきなり振られて目を丸くしたが、すぐに考えた。
「飯をよそう者は、飯をよそえます。水を運ぶ者は、水を運べます。火を見る者は、火加減を見られます」
「それだけで、五十人分の飯を時間通り出せるか」
「無理です。誰が何升炊くか、どの釜を使うか、先に決める人が要ります」
「そうだ」
信長は頷いた。
「今の清洲門前も同じだ。小者が動いたことは間違いない。だが、小者だけで同じ飯は炊けぬ」
藤吉郎は、その言葉を強く控えた。
小者だけで同じ飯は炊けぬ。
又左が、少しだけ笑った。
「藤吉郎には、それが一番効きそうですな」
藤吉郎は真面目に頷いた。
「分かりやすいです」
信長もわずかに笑ったが、すぐに顔を引き締めた。
「名を急がず、役を積め。誰が何をできたか。何が小者の手を越えているか。そこを父上へ送る」
昼前、勝三郎が戻った。
顔には土埃がついている。
清洲門前を歩き回ってきたのだろう。
「清洲門前では、小者の乱れという声が強くなっております」
「誰が言っている」
「表では荷扱いの者たちです。ただ、声の元は北蔵ではなく、清洲の町役に近い者へ移っています」
信長の目が動いた。
「北蔵から外へ出したか」
「はい。北蔵の名を薄めるためかと」
勝三郎は続ける。
「甚内については、帳を整えただけの古役という声。善八と勘助は、祭礼の忙しさに乗じた手代。岩松たちは銭欲しさ。半七は口利きで銭を得た男。そういう形にされつつあります」
平手が筆を止めずに聞いている。
信長は問うた。
「甚内の家は」
「北蔵の裏手です。今朝から人の出入りが減っています。代わりに、甚内の親類が町役へ頭を下げて回っております」
「助命か」
「おそらく」
又左が鼻を鳴らした。
「自分たちで使っておいて、いざとなれば助命ですか」
龍之介は、又左の言葉に反応した。
使った。
そうだ。
小者の乱れで済ませる者は、その小者を哀れむ顔も作れる。
甚内は古い帳場役。
半七は食うために口を使った男。
善八や勘助は若い手代。
岩松たちは銭に釣られた荷扱い。
そういう形にすれば、清洲の上は関係ない。
むしろ、小者を救おうとする側に立てる。
信長は、勝三郎へ言った。
「町役へ頭を下げている者の名も残せ。誰が誰を助けようとしているかを見る」
「承知しました」
藤吉郎が、小さく問うた。
「助けようとしている人も、見るんですか」
信長は頷く。
「見る。助けること自体は悪くない。だが、誰を助け、誰の名を消そうとしているかを見る」
藤吉郎は、少し考えてから言った。
「飯屋でも、失敗した人を助ける時に、誰の指示だったかを消すことがあります」
「そうだ」
信長は言った。
「助ける手も、名を消す手になる」
藤吉郎は、その言葉をまた書いた。
龍之介は、信長の目線を見ていた。
厳しさだけではない。
小者を斬れば済むという方向にも行かない。
助ける手がどう動いているかまで見る。
これは、戦場の追撃よりよほど面倒だった。
その日の午後、那古野に一人の使いが来た。
清洲の町役、河尻与右衛門の名代だと名乗った男である。
名を孫兵衛という。
身なりは整っていた。
荷扱いの小者ではない。
町役の使いらしく、言葉も丁寧だった。
孫兵衛は庭先で頭を下げた。
「若様。清洲門前にて、此度の祭礼騒ぎに関わった小者どもについて、町役より申し上げたきことがございます」
信長は座敷へ上げず、庭先で聞いた。
相手の格を軽んじるのではない。
だが、まだ正式な使者として迎える場ではないという判断だった。
「言え」
「半七、弥惣、善八、勘助、岩松らは、いずれも清洲門前の小者にございます。祭礼の混み合い、荷の出入り、銭の流れに目がくらみ、勝手に動いたものと存じます。清洲としても、まことに恥ずべきこと。されど、これをもって清洲全体の意図と見なされるは、いささか大事に過ぎるかと」
言葉は滑らかだった。
丁寧で、角がない。
だからこそ、危うい。
信長は問う。
「清洲全体とは、誰を指す」
孫兵衛は少し表情を固くした。
「清洲の町、清洲門前の商い、北蔵に関わる者たちにございます」
「坂井の名は、言っていないな」
孫兵衛の喉が動いた。
「私は、そのような大きな名を申し上げる立場ではございません」
「なら、言うな。こちらもまだ言っていない」
信長の声は静かだった。
孫兵衛は頭を下げる。
「失礼いたしました」
信長は続けた。
「小者の乱れと申すなら、聞く。小者の乱れで、津島祭礼方の正式な文まで動くのか」
「それは、祭礼方の不安が」
「小者が不安を作ったのか」
「結果としては」
「北蔵奥の小部屋は、小者の溜まり場か」
孫兵衛は答えられない。
信長は、畳みかけず、ひとつずつ置いた。
「流れの帳は、小者が勝手につけたものか」
「その帳のことは、私は」
「本帳を今朝整えた甚内は、小者か」
孫兵衛は、唇を結んだ。
信長は言った。
「こちらは、清洲全体の罪とはまだ言っていない。だが、小者の乱れだけとも言えぬ。だから帳を見ている。町役が小者の乱れと言うなら、町役として、小者にできることとできぬことを分けた書付を出せ」
孫兵衛が顔を上げる。
「書付、でございますか」
「そうだ」
信長は言った。
「半七には何ができる。弥惣には何ができる。善八、勘助、岩松には何ができる。甚内には何ができる。町役は何を知り、何を知らぬ。言葉で丸めるな。書け」
孫兵衛は、明らかに困っていた。
口なら流せる。
だが、書けば残る。
清洲が避けたいのは、そこだった。
「持ち帰り、相談いたします」
「よい」
信長は頷いた。
「こちらも、大殿へ同じものを送る。清洲町役の返しも添える」
孫兵衛は深く頭を下げるしかなかった。
使いが去ると、又左が低く笑った。
「若。あれは困っておりましたな」
「困らせるために書かせる」
信長は答えた。
「口で小者と言うのは簡単だ。書けば、どこかで詰まる」
龍之介は頷いた。
この一手で、清洲の逃げ道はさらに狭くなる。
小者の乱れというなら、小者の範囲を書け。
書けば、甚内が入る。
甚内を小者にすれば、北蔵の帳場そのものが軽くなる。
甚内を古役として重く扱えば、小者の乱れでは済まない。
どちらにしても、矛盾が出る。
その夜、大殿へ送る文は長くなった。
平手が何度も筆を持ち替え、墨を足した。
信長は、口述を急がなかった。
「清洲門前より、小者の乱れとの声あり。半七、弥惣、善八、勘助、岩松らを、祭礼の混雑に乗じた者として片づける動きあり」
平手の筆が走る。
「されど、小者ができることとできぬことを分けて見る必要あり。半七は口利き、弥惣は仮帳、善八、勘助、岩松らは場を騒がせることは可能。源作は荷車を動かせる。されど、津島祭礼方の正式な文、北蔵奥の小部屋、流れの帳、本帳への整え、清洲町役への声の移りは、小者の手だけでは説明しがたし」
信長は続けた。
「清洲町役名代孫兵衛来たり、小者の乱れと申す。これに対し、各人に何ができ、何ができぬか、町役として書付を出すよう求める。返答待ち」
平手が顔を上げた。
「坂井の名は」
信長は首を横に振った。
「まだ書かぬ」
又左が、今度は黙っていた。
何度も同じ問いを重ねてきたが、ここまで来ると、信長の我慢の意味が分かってきたのだろう。
新五が言った。
「大殿が、この文を読めば」
「父上は分かる」
信長は静かに答えた。
「だが、分かることと、書くことは違う」
龍之介は、その言葉を重く受け止めた。
分かることと、書くことは違う。
それは、ここまでの全てに通じていた。
噂で分かる。
顔で分かる。
帳の綺麗さで分かる。
だが、書くには筋が要る。
筋を飛ばせば、清洲に隙を与える。
藤吉郎は、端でその言葉を書き写していた。
分かることと、書くことは違う。
飯屋の小僧には少し難しい言葉だったが、それでも残すべきだと感じたのだろう。
清洲では、坂井大膳が町役名代の報告を聞いていた。
小者の乱れという言葉は、信長に受け取られなかった。
いや、受け取られた。
そのうえで、小者にできることとできぬことを書けと返された。
大膳は、しばらく目を閉じていた。
報告を終えた孫兵衛は、畳に額を近づけたまま動かない。
やがて、大膳は言った。
「三郎は、言葉を帳に入れる」
孫兵衛は答えない。
「小者の乱れと言えば、小者の範囲を書けと来たか」
「はい」
「町役として書けば、町役が関わった形になる。書かねば、小者の乱れという声が弱くなる」
大膳は、ゆっくり扇を開いた。
「嫌な返しだ」
孫兵衛の背が小さく震えた。
「申し訳ございませぬ」
「謝るな。お前のせいではない」
大膳は、意外にもそう言った。
「ここまで拾われれば、言葉だけでは流せぬ。なら、次は大殿の場で争うしかない」
控えの男が顔を上げる。
「大殿の場で」
「そうだ」
大膳は言った。
「清洲町役からは、曖昧な書付を出せ。小者の乱れを認め、されど北蔵全体の意図ではないとする。甚内は帳を預かった者。流れの帳は、小者どもが勝手に書いた寄せ書きとする」
「流れの帳を、寄せ書きに」
「そうだ。きれいな言葉を汚せ。寄せ書き、落書き、仮控え。名を落とせば、重さは減る」
孫兵衛は頭を下げた。
「承知しました」
大膳は扇を閉じた。
「三郎は小者ができることを問う。なら、こちらは小者が何でも書き散らしたことにする」
清洲の影は、流れの帳そのものを、ただの落書きへ落とそうとしていた。
夜、那古野の庭に風が吹いていた。
藤吉郎は、今日の控えを読み返している。
小者にできること。
小者にできないこと。
助ける手も、名を消す手になる。
分かることと、書くことは違う。
書かれた言葉は多い。
だが、藤吉郎はその中で一つだけ、何度も見返した。
小者だけで同じ飯は炊けぬ。
龍之介が隣に座る。
「そこが気になるか」
「はい」
藤吉郎は頷いた。
「半七さんも、弥惣さんも、善八さんも、勘助さんも、悪いことをしたと思います。でも、それぞれが勝手に動いただけなら、こんなに同じ向きにはならないんですよね」
「そうだ」
「飯屋でも、皆が勝手に動くと、飯は出ません。むしろ、めちゃくちゃになります」
「その通りだ」
「誰かが、向きを決めた」
藤吉郎は、そこまで言って口を閉じた。
龍之介は、何も足さなかった。
名前を出すには、まだ少し足りない。
だが、藤吉郎の目は、そこへ向かい始めている。
信長は縁側で、大殿への文の写しを読んでいた。
その横顔に、苛立ちはない。
ただ、深い疲れと、細い火のような集中がある。
龍之介は思った。
呂布の武なら、小者の山をまとめて蹴散らすことができる。
郭嘉の知なら、その山の奥にある道を読むことができる。
だが、今必要なのは、山を崩すことではない。
石を一つずつ分け、どの石がどこから運ばれたかを示すことだ。
小さな名を軽く見てはならない。
だが、小さな名の山に大きな名を埋められてもならない。
遠くで、寺の鐘が鳴った。
祭礼は終わり、帳は開き、小者の山が積まれた。
次は、大殿の場で、その山の裾を見ることになる。
龍之介は、夜の空気を吸った。
名を急ぐな。
だが、名から逃げるな。
その二つの間を歩くしかない。




