第78話 綺麗すぎる帳
汚れた帳は、嘘を隠す。
だが、綺麗すぎる帳もまた、嘘を隠す。
祭礼が終わった翌朝、末森から大殿の返書が届いた。
持ってきたのは、池田勝三郎だった。
馬の汗が乾ききらぬうちに那古野の庭へ入り、信長の前で膝をつく。顔には疲れがあったが、目は冴えている。
「大殿より」
信長は文を受け取った。
庭には、平手、新五、龍之介、又左、藤吉郎がいた。祭礼の騒ぎが終わったばかりで、皆どこかに疲労を残している。だが、勝三郎が持ってきた文の気配で、その疲れは一度奥へ引っ込んだ。
信長は封を切り、目を通す。
短い文だった。
清洲北蔵の本帳、仮帳、荷札控え、祭礼支度に関わる受け渡し控えを、末森の名にて一度見せよ。
那古野で預かる半七、弥惣、源作、善八、勘助らの口を、勝手に斬るな。
祭礼は終わった。
次は帳を見る。
最後に一文だけ、父の言葉があった。
名を急ぐな。帳は、急がせた者の手を嫌う。
信長は、そこをもう一度読んだ。
それから、文を平手へ渡す。
「父上は、帳を見よと」
平手が深く頷く。
「大殿の名であれば、清洲も拒みにくいでしょう」
又左は腕を組んだ。
「いよいよ北蔵ですな」
「踏み込むのではない」
信長は言った。
「見せさせる。そこを間違えるな」
龍之介は、文の最後の一文を胸に置いた。
帳は、急がせた者の手を嫌う。
戦場なら、敵に準備の暇を与えず突く。
だが、帳は違う。
急いで奪えば、相手は焼く。
急いで責めれば、相手は閉じる。
見せさせ、出させ、並べさせる。
そこで初めて、崩れ目が見える。
信長は勝三郎へ向いた。
「清洲はどう動いている」
「北蔵の甚内が、帳を整えているとのこと。弥惣の仮帳ではなく、本帳を見せるつもりのようです」
「綺麗な帳か」
「おそらく」
信長は口元だけで笑った。
「なら、綺麗なまま持って来させろ」
藤吉郎は、思わず顔を上げた。
「綺麗なままでよいのですか」
信長は藤吉郎を見る。
「汚してから持ってこられるよりよい。綺麗なら、綺麗な理由を見る」
藤吉郎は、まだ分からない顔をしていた。
龍之介は小さく言った。
「使っていた帳は、普通、どこかが汚れる」
藤吉郎の目が少し動いた。
「飯屋の帳も、手垢や米粒の跡がつきます」
「そうだ」
信長が頷いた。
「本当に使われた帳は、汚れ方にも道がある。綺麗すぎる帳は、作った者の都合が出る」
藤吉郎は、深く頷いた。
昼過ぎ、清洲から帳が来た。
持ってきたのは、北蔵の古い帳場役、甚内である。
年は五十半ば。
痩せているが、背筋は伸びている。目は細く、口は硬い。長く帳場に座ってきた者特有の、筆先のような冷たさがあった。
甚内の後ろには、二人の小者が帳箱を持っている。
箱は二つ。
一つには本帳。
もう一つには荷札控えと受け渡し控え。
仮帳はなかった。
信長は、座敷ではなく、橘屋の奥座敷を使った。
那古野の館ではない。
商人の目を入れるためである。
橘屋宗右衛門、升屋久兵衛、縄屋仁助、紙師文次、馬借の甚蔵、寺の慶順も呼ばれていた。
津島からは、与十郎の帳面の写しだけが来ている。与十郎本人は祭礼後の片付けで津島に残ったが、九郎左衛門の名で写しを送ってきた。
甚内は座ると、深く頭を下げた。
「大殿の仰せにより、清洲北蔵の本帳を持参いたしました」
信長は問う。
「仮帳は」
甚内は、顔色を変えずに答えた。
「仮帳は、日々の控えにございます。乱れ多く、正式な帳ではございませぬ。本帳に写し済みにございます」
「燃えたのか」
「いいえ」
「では、あるな」
甚内のまぶたがわずかに動いた。
「ございます」
「なぜ持って来なかった」
「本帳が正でございますゆえ」
信長は笑わなかった。
「正を見るために、仮を見る」
甚内は黙った。
平手が静かに言った。
「大殿の文には、本帳、仮帳、荷札控え、受け渡し控えとあります」
甚内は、初めてわずかに頭を下げた。
「失礼いたしました。仮帳は北蔵に残しております。必要ならば」
「必要だ」
信長は即答した。
「勝三郎。取りに行かせろ。甚内の者だけで行かせるな。こちらの者もつける。だが、乱すな。箱ごと持って来させろ」
「承知しました」
勝三郎はすぐ立った。
甚内は、静かに息を吸った。
そこでもう一つ崩れた。
持ってこなかったものを、最初に見られたからだ。
本帳は、驚くほど綺麗だった。
紙は揃い、墨の濃さもほとんど乱れていない。日付の欄はまっすぐで、品名も丁寧に並んでいた。
米。
縄。
紙。
油。
祭礼支度人。
飾り台。
馬借。
火の灯明。
帰り道の精算。
すべてが、破綻なく収まっている。
藤吉郎は、最初それを見て感心しかけた。
だが、すぐに違和感を覚えた。
綺麗すぎる。
飯屋の帳なら、忙しい日の欄ほど字が荒れる。後で書き足したところは、墨の濃さが違う。間違えた数を直した跡も出る。
ところが、この帳には、忙しさがない。
祭礼前の混乱が、まるで静かな昼下がりのように整っている。
信長は、帳を見ながら言った。
「宗右衛門」
「はい」
「商いの帳は、こうも整うか」
宗右衛門は慎重に答えた。
「整えることはできます。後で写せば」
「日々使う帳としては」
「使っている帳なら、もっと手が出ます。紙の端が折れ、墨が飛び、急ぎの覚えが入ります」
升屋久兵衛も口を開いた。
「米の帳なら、米粒の粉がつくこともございます。水気を嫌っても、雨の日の荷はどうしても跡が残る」
仁助が本帳の縄の欄を見る。
「縄の本数も綺麗すぎます。半端が出ておりませぬ。祭礼前に縄を扱えば、半端な尋が必ず残ります」
文次も紙の欄を見た。
「紙百枚、三十枚、五十枚と、数がよく揃っておりますな。紙は束で扱いますが、急ぎの時は端数が出ます」
甚内は、静かに答えた。
「本帳でございます。乱れを正した後の帳ゆえ、整っております」
信長は頷いた。
「整えた帳か」
「はい」
「なら、整える前の帳が要る」
甚内は黙った。
藤吉郎は、そのやり取りを見ていた。
本帳が嘘だとは、まだ言えない。
だが、本帳だけでは足りない。
綺麗だから駄目なのではない。
綺麗になる前の手が見えないから駄目なのだ。
龍之介は、本帳の中の一行に目を止めた。
祭礼方精算銭、三百二十文、馬借預かり、後に返し済。
昨日の銭袋と同じ額である。
だが、記載が違う。
返し済。
そんな事実はない。
銭袋は那古野で預かっている。
龍之介は指を置かず、声だけで言った。
「若様。この欄です」
信長が見る。
平手も覗き込む。
「祭礼方精算銭三百二十文、馬借預かり、後に返し済」
信長は甚内を見た。
「いつ返した」
甚内は眉一つ動かさない。
「清洲側の控えでは、戻っております」
「誰へ」
「祭礼方へ」
「祭礼方の誰だ」
「そこまでは、本帳には」
「本帳なのにか」
甚内の口が閉じた。
与十郎の帳面写しを開いた藤吉郎が、慌てて言った。
「津島側には、三百二十文の精算銭を受け取った記録がありません」
九郎左衛門の写しにも、該当はない。
甚蔵が低く言った。
「馬借も預かっておりませぬ。与八は見つけただけです。袋も開けていない」
信長は頷いた。
「ひとつ、浮いたな」
甚内はまだ黙っている。
「返し済とあるが、返した先がない。祭礼方に記録がない。馬借は預かっていない。銭袋は那古野で預かっている。なのに、本帳では返し済」
信長は、本帳を閉じなかった。
「甚内。これは、いつ書いた」
甚内は、答えるまでに一呼吸置いた。
「祭礼後にございます」
「祭礼後のいつだ」
「今朝」
庭にいた者たちの空気が動いた。
甚内は、自分で言ってしまったことに気づいたのだろう。
しかし、もう遅い。
信長は静かに言った。
「今朝書いた本帳か」
甚内は、深く頭を下げる。
「本帳へ整えたのが、今朝にございます」
「なら、祭礼の日々に使っていた帳ではない」
「仮帳をもとに」
「仮帳を見よう」
信長の声は、低くなった。
「綺麗な帳は見た。次は、汚れた帳だ」
勝三郎が戻ってきたのは、それから半刻ほど後だった。
手には、小さな箱がある。
北蔵から持ってきた仮帳の箱である。
箱の端には、煤のような黒い跡があった。
勝三郎は膝をつく。
「北蔵奥の棚より。箱を移そうとしていた者が一人おりました。押さえてはおりません。顔は見ました」
「誰だ」
「善八の兄、伊三郎と名乗りました」
また一つ、名が増えた。
信長は頷き、箱を開けさせた。
中には、薄い帳が数冊入っていた。
本帳とは違う。
紙の大きさも揃っていない。
墨の濃さも違う。
端は折れ、ところどころに急ぎ書きがある。
日付の横へ小さな丸が付いているところもあれば、後で線を引いた跡もある。
藤吉郎は、それを見て思った。
これが、使われた帳だ。
汚い。
だが、生きている。
平手が一冊を開く。
米の欄。
祭礼支度米二俵、蔵田屋、半七口、受け手未詳。
その横に、小さく別筆で書かれている。
祭礼方未記録。押せず。
本帳では、この欄はきれいに整理され、祭礼方支度米、未受け、返し済に近い形になっていた。
次に縄。
綱屋源兵衛、縄三束、半七口、注連縄名目。
横に、仁助拒む。荷縄なら可。津島名にて押せず。
紙。
喜兵衛紙百枚、御幣紙名目。
横に、腰弱し。文次に見られる。別用途へ逃げ。
龍之介は、その言葉に目を細めた。
逃げ。
物の道を正したのではない。
清洲側から見れば、逃げだったのだ。
次の帳には、人の札があった。
おます、おとよ、さき。
清洲門前改め済札、那古野にて役札へ変えられる。
横に、泣かず。
その一言を見て、龍之介は胸の奥が冷えた。
泣かず。
つまり、泣かせるつもりだった。
清太ら職人の欄には、怒らず、組む。
怒らせるつもりだった。
半七の欄には、名残り過ぎ。出す。
そして、その横に別筆。
酒蔵失敗。
銭袋の欄には、帰り道、馬借へ落とす。勘助声。未了。
火の欄には、灯明、善八。小火止まる。灯り番作られる。
人波の欄には、岩松、安吉、藤次。馬暴れず。道直される。
藤吉郎は、文字を追ううちに、背筋が冷えた。
これは帳でありながら、作戦の覚えでもあった。
荷の帳ではない。
人をどう揺らしたかの帳だ。
信長は、しばらく黙って仮帳を見ていた。
それから甚内へ問う。
「甚内。これは、誰の筆だ」
甚内は答えない。
平手が帳を見比べる。
「一つではございません。半七の名が出るところは弥惣に近い筆。人の札のところは別。火と銭袋は、また別でございます」
宗右衛門が静かに言った。
「商いの帳ではございませぬな」
慶順も頷く。
「人の心の動きを、荷のように書いております」
信長は、甚内から目を離さなかった。
「誰が、この帳を見た」
甚内は、しばらく黙った。
やがて、低く答えた。
「北蔵奥の小部屋に置かれておりました」
「誰が来る」
「私、弥惣、善八、勘助、伊三郎。ほかに……」
甚内は、そこで言葉を切った。
信長は急がせなかった。
だが、逃がしもしなかった。
「ほかに」
甚内は、深く頭を下げた。
「屏風の向こうに座る方が、おられました」
場の空気が止まる。
信長は問う。
「名は」
甚内は答えない。
答えられないのではない。
答えれば、戻れないのだ。
信長は、別の問いへ変えた。
「その者は、この帳を何と呼んだ」
甚内は、かすれた声で答えた。
「流れの帳、と」
龍之介の中で、線がさらに濃くなった。
流れの帳。
荷の流れ。
人の流れ。
火の流れ。
銭の流れ。
すべてを一つの流れとして見ている者がいる。
それは、ただの小者ではない。
信長は平手へ言った。
「そのまま残せ」
平手は筆を取る。
流れの帳。
その文字が、控えへ入った。
甚内は、その後も名を出さなかった。
信長も、それ以上は押さなかった。
代わりに、帳そのものを押さえた。
本帳。
仮帳。
荷札控え。
受け渡し控え。
銭袋の紙片。
善八と勘助の口。
半七、弥惣、源作の言葉。
与十郎の帳面写し。
九郎左衛門の控え。
すべてを並べ、平手が大殿へ送るための目録を作った。
甚内は、静かに座っていた。
逃げようともしない。
だが、顔色は悪かった。
自分の守ってきた帳が、守りではなく罠の証になった。
その重さが、今になって肩へ乗っているのだろう。
信長は言った。
「甚内。お前は清洲へ戻さぬ」
甚内は、目を閉じた。
「はい」
「斬るとも言っていない。那古野で預かる。帳のことを、明日もう一度聞く」
「はい」
「今日言えなかった名が、明日も言えぬなら、それでもよい。だが、帳の筆、箱の場所、誰がいつ見たかは言え」
甚内は、深く頭を下げた。
「承知しました」
又左が低く言う。
「若。清洲は黙っておりますまい」
「黙らぬだろうな」
信長は答えた。
「だが、帳は来た。仮帳も来た。流れの帳という名も出た。ここから先は、父上の場だ」
龍之介は、その言葉に頷いた。
信長は清洲を攻めたいはずだ。
自分の名を使われ、那古野の荷を乱され、祭礼まで揺らされた。
だが、ここで若が前へ出れば、清洲との私闘になる。
信秀へ渡す。
それが、次の正しい道だった。
清洲では、坂井大膳が、仮帳まで那古野に取られたことを聞いた。
甚内は戻らない。
本帳は整えた。
だが、仮帳が出た。
しかも、流れの帳という名まで甚内の口から出た。
大膳は、報告を最後まで聞いても表情を変えなかった。
ただ、扇を開かなかった。
それだけが、いつもと違った。
「甚内は、名を出したか」
「まだ出しておりませぬ」
「なら、まだよい」
控えの男は、顔を上げる。
大膳は続けた。
「帳は痛い。だが、帳があれば、帳を作った者にできる」
「甚内へ」
「甚内だけでは足りぬ。弥惣、善八、勘助、岩松。小者どもが清洲門前の利を得ようと勝手に流れを作った。そういう形にする」
控えの男は、低く頭を下げた。
「大殿が動けば」
「その時は、その時だ」
大膳は、ようやく扇を手に取った。
「三郎は、よく拾った。だが、拾ったものが多すぎれば、どれが芯か分からなくなる」
「散らしますか」
「散らす」
大膳の目が細くなる。
「帳が多い。口が多い。名が多い。なら、こちらは言う。那古野は清洲門前の小者の乱れを、清洲全体の罪に仕立てようとしている、と」
控えの男は頷いた。
「小者の乱れに」
「そうだ」
大膳は、扇を開いた。
「大きな名を出さぬまま、小さな名を積み上げた。なら、小さな名の山にしてやる」
清洲の影は、今度は積み上げられた証そのものを、小者の雑多な乱れへ変えようとしていた。
夜、那古野の庭は静かだった。
祭礼の疲れに加え、帳の重みが皆の肩へ乗っている。
藤吉郎は、仮帳の写しを少しだけ見せてもらい、顔色を悪くしていた。
「泣かず、と書いてありました」
龍之介は隣に座っていた。
「ああ」
「おますさんたちを、泣かせるつもりだったんですね」
「そうだろうな」
「清太さんたちは、怒らせるつもりだった」
「ああ」
藤吉郎は、膝の上で拳を握った。
「人を、荷みたいに」
「荷より悪い。荷は泣かない」
藤吉郎は唇を噛んだ。
龍之介は、夜空を見た。
流れの帳。
その言葉は、嫌な響きだった。
郭嘉の知は、流れを見る。
戦場の流れ。
人の流れ。
兵糧の流れ。
だからこそ、龍之介には分かる。
流れを見ること自体が悪ではない。
問題は、その流れの中で人をただの駒として扱うことだ。
泣かせる。
怒らせる。
逃がす。
消す。
それが、帳の言葉になっている。
信長は、縁側で大殿への目録を見ていた。
若い顔には疲れが濃い。
だが、目はまだ前を向いている。
「龍之介」
「はい」
「綺麗な帳と、汚い帳。どちらが嘘だと思う」
龍之介は少し考えた。
「どちらにも、嘘は入ります」
信長は、ふっと笑った。
「そうだな」
「綺麗な帳は、整えた者の嘘が出ます。汚い帳は、急いだ者の本音と、隠し損ねた嘘が出ます」
「では、どちらを見る」
「並べて見ます」
信長は頷いた。
「父上にも、そう送る」
龍之介は頭を下げた。
遠くで、寺の鐘が鳴った。
祭礼は終わった。
帳は開いた。
だが、清洲はまだ名を散らそうとしている。
次は、小者の乱れか、清洲全体の筋か。
そこを分けなければならない。
呂布の武なら、北蔵へ攻め込むことはできる。
郭嘉の知なら、帳の嘘を読むことはできる。
だが、清洲を丸ごと敵にするか、小者の乱れで済ませるか、その線を決めるのは、武でも知でもなく、織田家の政だった。
龍之介は拳を開いた。
自分の役は、その線を見誤らせないことだ。
清洲の小者だけを斬って終わらせてもならない。
証なきまま大きな名へ飛びついてもならない。
名を急ぐな。
大殿の文が、もう一度胸に戻ってきた。




