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【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


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第77話 帰り道の銭袋

 祭りは、終わる時に気が緩む。


 始まりには緊張がある。


 火を見れば身構える。


 人波が押せば足を踏ん張る。


 だが、夜が白み、灯りが一つずつ消え、遠くから帰り支度の声が混じり始めると、人の心は先に家へ帰ってしまう。


 そこに、隙ができる。


 明け方の渡し場には、疲れた息が満ちていた。


 舟を待つ者。


 津島から戻る者。


 眠った子を背負う女。


 酒の匂いを残した男。


 売れ残りの小荷を担ぐ商人。


 祭礼の支度で使った道具を戻す者。


 皆、行きよりも足が重い。


 信長は土手から、その帰りの流れを見ていた。


 龍之介、新五、勝三郎、藤吉郎、又左がそばにいる。甚蔵と与八は馬の道を見ていたが、さすがに顔に疲れが出ていた。


 夜の灯りは守った。


 大きな火は出なかった。


 だが、祭りはまだ終わっていない。


「帰り道は、行き道と違う」


 信長が言った。


 藤吉郎は、板の端に書いたその言葉をもう一度見た。


 夜明け前に書いた字だ。


 墨が乾ききっていない。


「行きは、舟、荷、休み、迷い、馬の道に分けました」


 藤吉郎が言う。


「帰りは」


 信長が促す。


 藤吉郎は少し考えた。


「帰る人。戻す荷。酔った人。忘れ物。迷子。あと、精算です」


 信長は頷いた。


「よい。精算を忘れるな。祭りの後は、銭が動く」


 龍之介は、その言葉に目を細めた。


 銭。


 清洲が次に使うなら、そこだ。


 荷は分けた。


 人波も分けた。


 灯りも分けた。


 なら、帰り道では、誰のものか曖昧になりやすい銭や忘れ物を使う。


 拾えば盗み。


 拾わねば失せ物。


 開ければ横領。


 届けても、誰へ届けたかで揉める。


 祭礼後の銭袋は、荷より厄介だった。


 信長は甚蔵へ言った。


「忘れ物所を作れ。寺の軒下だ。銭、袋、道具、子どもの履物、何でもそこへ持っていく。拾った者が開けるな。届けた時刻、拾った場所、拾った者を残す」


 甚蔵はすぐ頷いた。


「馬借にも伝えます」


「精算は渡し場でするな。人の流れの中で銭を数えれば、必ず揉める。橘屋か榎本屋の控え場へ回せ」


 新五が頷いた。


「銭を見せないためではなく、数える場所を分けるためですな」


「そうだ」


 信長は言った。


「隠せば疑われる。人波の中で出せば奪われる。だから、場所を分ける」


 又左が腕を組む。


「銭袋一つにも、道が要るとは」


「銭袋だからこそ要る」


 信長は短く答えた。


 藤吉郎は、その言葉も控えた。


 銭袋にも道が要る。


 飯屋なら、売上の銭箱を土間の真ん中で数えたりしない。


 それと同じだ。


 ただ、祭礼の帰り道では、その当たり前が崩れやすい。


 忘れ物所は、寺の軒下に作られた。


 慶順が座り、藤吉郎が控えを手伝う。


 おますも戻ってきた。


 子連れの女や酔った者の扱いに慣れているため、自然と人が寄る。


 忘れ物所の前には、粗い板が置かれた。


 拾った場所。


 拾った者。


 届けた時刻。


 中身は、持ち主または立会いの者が来るまで開けない。


 その決まりを、又左が大声で読み上げた。


「銭袋を拾った者は開けるな。寺の軒下へ持ってこい。拾った場と名を残せ。勝手に開ければ、その時点で疑われるぞ」


 言い方は荒い。


 だが、効いた。


 人々は、銭袋という言葉に反応した。


 拾えば得をするかもしれないものが、拾えば疑われるものへ変わったからだ。


 龍之介は、渡し場の端を見ていた。


 帰る者の足は鈍い。


 荷を戻す者は、行きよりも雑になりやすい。


 売れ残りの小荷、空になった油壺、使った縄、余った紙、木片、藁、酒樽。


 そこへ銭袋が混じれば、誰のものか分かりにくい。


 勝三郎が近づいた。


「清洲門前の顔が二人。岩松の仲間ではありません。だが、北蔵の周りで見たことがあります」


「どこだ」


「渡し場の戻り荷の近くです。一人は銭を探すふりをして、地面ばかり見ています」


 龍之介は視線を向けた。


 男は確かに地面を見ている。


 疲れた者の足元ではない。


 何かを落とす場所を探している目だった。


「若様」


 龍之介が声をかけると、信長もすぐに見た。


「見ておけ。まだ動くな」


 勝三郎が頷き、人の流れへ溶けた。


 しばらくして、戻り荷の列が少し詰まった。


 空樽を載せた小さな荷車が、渡し場の入口で止まったのである。


 そのわずかな混み合いの中で、地面を見ていた男が腰を落とした。


 拾ったようにも、落としたようにも見える動きだった。


 次の瞬間、与八が声を上げた。


「銭袋です!」


 人々の顔が一斉にそちらへ向く。


 与八の足元に、小さな布袋が落ちていた。


 紐で口を括り、表に紙が挟んである。


 祭礼方精算。


 那古野馬借預かり。


 そう書かれていた。


 場がざわついた。


 その紙だけで、十分だった。


 那古野の馬借が、祭礼方の精算銭を預かった。


 もし袋を開けば、中身に触れたと言われる。


 もし拾わなければ、踏まれて消える。


 与八は、手を伸ばしかけて止まった。


 信長が言った決まりを、思い出したのだろう。


「拾った場所を見てください! 私は開けません!」


 与八の声は震えていた。


 だが、正しかった。


 甚蔵がすぐに人を下げた。


「誰も触るな。場所を見る」


 龍之介は、布袋の周りを見た。


 土に新しい跡がある。


 落ちた袋なら、重みで少し沈む。


 だが、この袋は人の足の横へ、置かれたようにある。


 信長が近づく。


「拾う者を決める。与八、触るな。甚蔵、お前が布ごと持て。勝三郎、落ちたところを見た者を探せ。藤吉郎、忘れ物所へ先に走れ。銭袋が来る。開けるなと伝えろ」


 藤吉郎は走りかけ、すぐ足を緩めた。


 昨日の火の時と同じだ。


 走れば人がつられる。


 早足で、しかし慌てず、寺の軒下へ向かった。


 銭袋が寺の軒下へ運ばれる前に、声が上がった。


「祭礼方の銭が盗まれたぞ!」


 清洲門前の顔をした男だった。


 勝三郎が見ていたうちの一人である。


「那古野の馬借が拾った! 袋に書いてある!」


 人がまたざわつく。


 だが、今度は又左がすぐに声を張った。


「開けていない! 拾った場も残す! 寺の軒下へ運ぶ!」


 甚蔵も続く。


「馬借が開ければ疑われるから、開けていない。見たい者は寺へ来い。人波で騒ぐな」


 信長は、声を上げた男へ向いた。


「お前は、中身を見たのか」


 男は言葉に詰まる。


「袋に祭礼方精算と」


「中身を見たのか」


「いや、しかし」


「見ていないものを盗まれたと言ったのか」


 男は黙った。


 勝三郎がその腕を取る。


「名は」


「……清洲門前、勘助」


 場が冷えた。


 善八の口から出た、甚内の甥の名。


 その本人だった。


 信長は、すぐには追及しなかった。


「勘助。お前も寺へ来い。見ていない銭を盗まれたと言った理由を聞く」


 勘助は逃げようとした。


 だが、龍之介がすでに退路へ立っていた。


 刀を抜いてはいない。


 ただ立っているだけだ。


 それで、勘助は足を止めた。


 龍之介の目には、昨夜の火とは違うものがあった。


 逃げれば倒される。


 だが、倒されても殺されるとは限らない。


 その加減が、かえって怖い。


 勘助は観念したように頭を下げた。


「参ります」


 信長は、周囲へ言った。


「祭礼方の銭かどうか、まだ分からぬ。那古野馬借の銭かどうかも、まだ分からぬ。分からぬものを、盗まれたと言うな。寺の軒下で開ける。与十郎か九郎左衛門を呼べ。橘屋も呼べ。銭は、人波の中で数えぬ」


 その声で、人々の騒ぎは少し収まった。


 分からぬものを、分からぬまま扱う。


 ここ数日の那古野のやり方を見ていた者たちは、その意味を理解し始めていた。


 寺の軒下には、慶順、藤吉郎、おますがいた。


 そこへ、甚蔵が布袋を運ぶ。


 信長、龍之介、勝三郎、勘助も続いた。


 ほどなく、与十郎と九郎左衛門が呼ばれて来た。


 祭礼は終わりに向かっているが、二人ともまだ帳面を手放していなかった。


 九郎左衛門は袋を見るなり、眉を寄せた。


「祭礼方の精算袋ではございませぬ」


 勘助の顔が動いた。


 信長は問う。


「なぜ分かる」


 九郎左衛門は、袋の紐を指した。


「祭礼方の精算袋は、二重に括り、端を内へ入れます。これは一重で、端が外へ出ている。急ぎで似せた結びです」


 与十郎も紙を見た。


「字も違います。祭礼方の筆役、喜左殿の字ではありません」


「那古野馬借預かりとある」


 信長が言うと、甚蔵が首を横に振った。


「馬借が精算銭を預かる決まりはございません。荷の運び賃なら受けますが、祭礼方全体の精算銭など預かりませぬ」


 信長は頷いた。


「開ける。立会いは、慶順、九郎左衛門、与十郎、甚蔵、橘屋が来たら宗右衛門。まだ来ていなければ番頭でもよい。拾った場は渡し場入口、戻り荷の詰まり。拾った者は甚蔵。最初に見つけた者は与八。声を上げた者は勘助。そう残せ」


 藤吉郎は、必死に書く。


 宗右衛門の番頭、茂兵衛が駆け込んできた。


「橘屋、立ち会います」


 信長が頷く。


「開けろ」


 慶順が袋を開いた。


 中には銭が入っていた。


 だが、まとまった精算銭にしては雑だった。


 銭の種類が混じり、紐の通し方もばらばらである。


 底には、小さな紙片が入っていた。


 那古野馬借へ預け済。


 半額、後ほど北蔵より。


 その一文を見た瞬間、場の空気が変わった。


 北蔵。


 またそこへ戻った。


 与十郎が銭を数えた。


「三百二十文です」


 九郎左衛門は首を振る。


「祭礼方の精算銭としては半端です。今日この時刻に、その額を馬借へ預ける理由もございませぬ」


 甚蔵が低く言った。


「馬借の運び賃なら、誰の馬、どの荷、どこまで、が要ります」


 信長は勘助を見た。


「勘助。お前は、中身を見ずに祭礼方の銭が盗まれたと言った」


 勘助の額に汗が浮く。


「袋に」


「祭礼方の袋ではない。字も違う。額も半端。底には北蔵の名がある」


 勘助は黙った。


 勝三郎が静かに言った。


「落としたのは、お前か」


「違います」


「では、誰が」


 勘助は唇を噛んだ。


 信長は声を落とした。


「甚内か」


 勘助は反射的に顔を上げた。


 それで、十分だった。


 信長は、それ以上名を押さなかった。


「今の顔も残せ」


 藤吉郎が戸惑う。


「顔も、でございますか」


「勘助、甚内の名で顔を上げる。そう書け。証ではない。だが、見たことだ」


 藤吉郎は、震える字で書いた。


 龍之介は、その一言に感心した。


 顔は証にならない。


 だが、見たことではある。


 残せば、後で他のものと繋がるかもしれない。


 消せば、二度と戻らない。


 勘助は寺の小屋へ預けられた。


 善八とは別にする。


 口裏を合わせさせないためである。


 銭袋は、寺で封をし直し、立会い全員の名を控えた。


 中身の三百二十文は、祭礼方のものとは認められず、北蔵の名があるため、那古野で預かることになった。


 信長は、甚蔵へ言った。


「馬借の名は汚さぬ」


 甚蔵は頭を下げる。


「ありがたく」


「ただし、与八が最初に見つけたことは残す。疑われたことも残す。後で消すな」


 与八は、まだ青い顔をしていた。


「私の名も残るので」


「残る」


 信長は言った。


「だが、盗んだ名ではない。見つけ、開けず、知らせた名だ」


 与八は唇を噛み、深く頭を下げた。


「はい」


 藤吉郎は、それを控えながら思った。


 同じ名でも、残し方が違う。


 盗んだ名。


 見つけた名。


 開けなかった名。


 知らせた名。


 そこを分けなければ、人は簡単に汚される。


 信長は与十郎へ向いた。


「津島へ戻ったら、祭礼方の精算袋の結びと筆を、今後も同じにしろ。途中で変えるな」


 与十郎は頷いた。


「はい」


「変えたい時は、帳に残せ。結びも字も、証になる」


 九郎左衛門が深く頷く。


「肝に銘じます。古い形には、こういう時の意味もあるのですな」


「そうだ」


 信長は言った。


「古いものは、ただ古いだけではない。変わらぬから、偽物を見つける物差しになる」


 九郎左衛門は、静かに頭を下げた。


 その顔には、昨日の硬さとは違うものがあった。


 津島の古いものが、今度は清洲の罠を外した。


 龍之介は、その流れを重く見た。


 清洲が利用しようとした古さが、那古野の場で証になった。


 これもまた、向きを変えた一手だった。


 昼近く、祭礼から戻る人波は少しずつ薄くなった。


 寺の軒下には、忘れ物が並んでいる。


 子どもの片方だけの草履。


 竹の小さな飾り。


 空の酒徳利。


 布袋。


 紙の束。


 その一つ一つに、拾った場所と者の名が添えられた。


 全てが大事なものではない。


 だが、大事かどうかを拾った者が決めない。


 持ち主が現れるまで、残す。


 それだけで、帰り道の騒ぎはかなり減った。


 藤吉郎は、疲れ切った顔で控えを整理していた。


 おますが横から言う。


「飯屋の子、手が止まってるよ」


「すみません」


「謝るより、先に水を飲みなさい」


 藤吉郎は水を飲み、また筆を持った。


 龍之介は、その横で銭袋の控えを見ていた。


 祭礼方精算。


 那古野馬借預かり。


 半額、後ほど北蔵より。


 清洲の手は、最後まで北蔵へ戻る。


 甚内。


 善八。


 勘助。


 岩松。


 半七。


 弥惣。


 源作。


 線は、だいぶ集まってきた。


 だが、坂井大膳の名はまだ直接出ていない。


 信長は、その名を急がない。


 祭礼を守り切るまでは、名より場が先だった。


 勝三郎が戻ってきた。


「若様。戻り道で大きな騒ぎはありません。酒に酔って寝た者が二人。寺で預かっています」


「銭は」


「持ち物を本人の前で確認し、寺の控えに残しました」


「よい」


 信長は頷いた。


「祭礼は終わったな」


 その言葉に、周囲の者たちが初めて息を吐いた。


 完全に終わったわけではない。


 だが、大きな山は越えた。


 火も、人波も、銭袋も、大事にはならなかった。


 清洲が作ろうとした「那古野が祭礼を乱した」という形は、少なくともこの場では崩れた。


 那古野へ戻ると、信長はすぐに大殿への文を作らせた。


 平手が筆を構える。


 信長は、疲れた顔のまま口述した。


「祭礼帰り道、忘れ物所を寺軒下に設け、拾った場所、拾った者、届けた時刻を残す。渡し場入口、戻り荷の詰まりにて、祭礼方精算、那古野馬借預かりと記した銭袋あり。与八が見つけ、開けずに知らせる。甚蔵が布ごと運び、寺にて立会いのもと開封」


 平手の筆が走る。


「袋は津島祭礼方の精算袋の結びに合わず、字も祭礼方筆役と違う。中身三百二十文、額半端。底に『那古野馬借へ預け済。半額、後ほど北蔵より』との紙片あり。九郎左衛門、与十郎、橘屋茂兵衛、慶順、甚蔵立会い」


 信長は続けた。


「清洲門前勘助、中身を見る前に祭礼方の銭が盗まれたと声を上げる。甚内の名に反応あり。勘助は善八とは別に寺へ預ける。銭袋は祭礼方のものとは認められず、北蔵の名あるため那古野にて預かる」


 平手が顔を上げた。


「甚内の名が、かなり近くなりました」


「ああ」


 信長は答えた。


「だが、まだ甚内本人を押さえるな。まず北蔵の箱、仮帳、甚内、善八、勘助、岩松、半七の口を並べる。父上へ送る」


 平手は頷いた。


「坂井の名は」


 信長は少し黙った。


 又左も新五も、龍之介も、その沈黙を見ていた。


 ここまで来れば、誰もが思う。


 清洲。


 北蔵。


 甚内。


 その奥にいる者。


 だが、信長は首を横に振った。


「まだだ」


 又左が小さく息を吐いた。


 信長は言った。


「祭礼は守った。次は清洲の帳を開かせる。名は、その時でよい」


 龍之介は、その言葉に頷いた。


 祭礼の場で名を置けば、祭礼を政治の場にしたと言われる。


 祭礼を終わらせた後、帳を開かせる。


 順番が要る。


 信長は、それを守っている。


 清洲では、坂井大膳が帰り道の銭袋の失敗を聞いていた。


 勘助は押さえられた。


 銭袋は祭礼方のものではないと見抜かれた。


 北蔵の紙片も残った。


 甚内の名に勘助が反応したことまで控えられた。


 大膳は、しばらく黙っていた。


 扇も開かない。


 やがて、低く言った。


「祭礼は越えられたか」


 控えの男は頭を下げる。


「はい」


「甚内が近いな」


「はい」


「切るな」


 控えの男が顔を上げる。


「よろしいので」


「今切れば、三郎の思う通りだ。甚内が消えれば、北蔵の奥に誰がいたか、誰もが考える」


 大膳は、ゆっくり扇を手に取った。


「甚内には、帳を整えさせる。善八と勘助は、軽い手代として切り捨ててもよい。だが、甚内はまだ使う」


「那古野は、北蔵の帳を求めてくるかと」


「来るだろう」


 大膳は笑った。


「なら、見せられる帳を用意する」


「仮帳を」


「仮帳ではない。本帳だ。綺麗な本帳をな」


 控えの男は、背を震わせた。


 大膳は続けた。


「三郎は、汚れたものを拾うのが上手い。なら、綺麗すぎるものを見せてやる」


 清洲の影は、祭礼の場から、整えられた帳へ移ろうとしていた。


 夜、那古野の庭は静かだった。


 祭礼の喧騒が遠くへ引き、耳の奥にだけ残っている。


 藤吉郎は、座ったまま眠りかけていた。


 手にはまだ板を抱えている。


 龍之介は、その板をそっと抜こうとした。


 藤吉郎が目を開ける。


「まだ、書きます」


「もう十分だ」


「銭袋のところだけ、もう一度」


「明日でいい」


「忘れます」


 龍之介は少し笑った。


 何度も聞いた言葉だった。


「では、一つだけ書け」


「はい」


「拾った者を、盗んだ者にしない」


 藤吉郎は、ゆっくり板へ書いた。


 拾った者を、盗んだ者にしない。


 書き終えると、ようやく力が抜けたように肩を落とした。


「大事ですね」


「ああ」


「与八さん、すごく怖そうでした」


「怖かっただろうな」


「でも、開けなかったから助かった」


「決まりがあったからだ」


 藤吉郎は頷いた。


「決まりは、人を縛るだけじゃないんですね」


「守ることもある」


 夜風が庭を抜けた。


 信長は縁側で、大殿へ送る文の写しを見ている。


 祭礼は終わった。


 だが、終わったことで、次の段階が始まる。


 北蔵。


 甚内。


 仮帳。


 本帳。


 そして、その奥にいる者。


 龍之介は、空を見た。


 呂布の武なら、北蔵へ踏み込むことはできる。


 郭嘉の知なら、綺麗に整えられた帳の不自然さも読めるかもしれない。


 だが、ここまで積んできたものを乱さず、清洲の帳を開かせるには、信秀の重さが要る。


 若の信長だけではなく、大殿の名が要る。


 祭礼を守った証は揃った。


 次は、清洲へ問いを返す番だ。


 遠くで、寺の鐘が鳴った。


 その音は、祭礼の終わりではなく、次の始まりのように聞こえた。



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