↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
75/97

第75話 人波の道

 人波には、札がない。


 荷なら荷主を問える。


 馬なら足帳に残せる。


 職人なら役を聞ける。


 だが、祭礼へ向かう人の群れに、一人ずつ名を問うことはできない。


 それでも、流れには筋がある。


 津島の祭礼を目前にした朝、那古野の渡し場はいつもより早く目覚めた。


 夜明けの薄い青が川面に残るうちから、人が集まり始めていた。笠をかぶった男、子を背負った女、商いの小荷を担いだ若者、酒の匂いをさせた者、ただ祭りを見たいだけの子どもたち。


 馬の鼻息が白く立ち、飼葉の匂いと川泥の匂いが混じる。


 舟を待つ者の列は、気づけば列ではなく、ただの塊になりかけていた。


 甚蔵が馬の口を取りながら、低く唸った。


「これは、荷より厄介ですな」


 与八も顔をこわばらせている。


「どの人がどの舟へ行くのか、分かりません」


 馬借たちの足元には、前日に作った足帳の控えがある。


 だが、今日の人波は帳へ載せる前に動く。


 押す者。


 戻る者。


 小荷を降ろす者。


 子どもを肩車する者。


 そのすべてが、渡し場の狭い道へ集まっていた。


 信長は、川辺の少し高い土手からそれを見た。


 龍之介、新五、勝三郎、藤吉郎、又左がそばにいる。平手は那古野で文と控えを受ける役に残った。


「名を問えぬな」


 信長が言った。


 新五が頷く。


「問えば、その間に押し合いが起きます」


 又左は腕を組んだ。


「押す者だけ引きずり出しますか」


「押す者は、一人とは限らぬ」


 信長は、人波から目を離さなかった。


「人波は、先に道を作るしかない」


 龍之介は頷いた。


 戦場なら、敵の厚いところと薄いところを見る。


 ここでも同じだった。


 ただし、相手は敵兵ではない。


 祭礼へ向かう人々だ。


 強く裂けば、恐怖になる。


 弱く促せば、波に呑まれる。


 龍之介は川辺の道を見た。


 渡しへ向かう細い道。


 荷を一時置ける広い土の場所。


 馬留め。


 寺へ続く横道。


 飯屋の裏手へ抜ける道。


 水場。


 そして、子どもが迷えば泣き出しそうな雑踏。


「若様」


 龍之介は言った。


「人を止めるのではなく、流れを分けましょう」


「どう分ける」


「舟へ乗る者。荷を持つ者。休む者。迷った者。馬を通す道。この五つを、言葉ではなく場所で分けます」


 藤吉郎が顔を上げた。


「場所で」


「そうだ。名を問う暇はない。なら、行き先を身体で選ばせる」


 信長は少し笑った。


「続けろ」


「舟へ乗る者は川側へ。小荷を持つ者は一度土場へ。休む者と子連れは寺側の日陰へ。馬の道は縄で空ける。迷った者は飯屋の前で聞く」


 甚蔵が近くで聞いていて、すぐ頷いた。


「馬の道を先に空けねば、いざという時に荷も人も動かせませぬ」


 藤吉郎は考え込んだ。


「飯屋の前なら、人が聞きに来ても不自然ではありません。水も出せます」


 信長は即断した。


「やる。新五、縄を借りろ。仁助のところへ人を走らせるまでもない。馬借の荷縄でよい。ただし、注連縄と間違えるな」


 甚蔵が笑った。


「荷縄なら、こちらにあります」


「勝三郎、顔を見る者を置け。人波を作る者と、人波に乗る者は違う」


「承知しました」


「藤吉郎。飯屋の前に水と木札を置け。迷った者には、行き先を聞いて札ではなく言葉で返す。無理に名を取るな」


「はい」


「又左」


「はい」


「今日は斬るな。声を通せ」


 又左は少しだけ顔をしかめた。


「声でございますか」


「お前の声は大きい」


「武辺者として褒められた気がしませぬが、承知しました」


 信長は最後に龍之介を見た。


「お前は、人波の穴を見ろ」


「はい」


 龍之介は、川辺へ目を戻した。


 穴。


 人が詰まるところ。


 誰かが転べば波になるところ。


 荷が倒れれば道が塞がるところ。


 そこを見つけるのが、今日の自分の役だった。


 縄はすぐに張られた。


 注連縄ではない。


 ただの荷縄である。


 だが、地面に置き、杭に結び、道の縁を示すだけで、人の流れは少し変わった。


 又左が大声を出す。


「舟へ乗る者は川側だ。荷を持つ者は土場へ一度置け。子連れは寺の日陰へ回れ。馬の道を塞ぐな」


 言葉は荒い。


 だが、分かりやすい。


 藤吉郎は飯屋の前に水桶を置き、迷った者へ声をかけていた。


「舟ですか。荷ですか。休みますか。津島へ渡るだけなら川側です。小荷があるなら、先に土場へ」


 子どもを連れた女が不安そうに来る。


「この子が泣いてしまって」


「寺の日陰へ。水があります。舟に乗る前に少し休めます」


 藤吉郎は、すぐ寺側を示した。


 おますが、いつの間にか手伝っていた。


 津島へ行ったはずの飯炊きの女である。祭礼方の仕事を済ませ、一度戻る途中だったらしい。


「子連れはこっちだよ。急がなくても舟は逃げない」


 その声は、男たちの声より柔らかく、人を動かした。


 龍之介は、人波を見ていた。


 動きは少し落ち着いた。


 だが、完全ではない。


 清洲が仕掛けるなら、落ち着き始めた時だ。


 混乱している最中より、道ができた後の方が、そこを壊した時に目立つ。


 勝三郎が近づいてくる。


「見慣れぬ男が三人。酒の匂いがします。だが、酔いは浅い」


「どこだ」


「土場の端です。小荷を持っていますが、軽そうです」


 龍之介は目を向けた。


 三人の男。


 一人は背が高く、一人は太く、一人は小柄。


 いずれも、荷を持っているようで、荷に気を遣っていない。


 祭礼へ向かう者の目ではない。


 人の流れを見ている。


 そのうち背の高い男が、土場へ向かうふりをしながら、馬の道へ近づいた。


 馬の道には、与八が一頭を引いている。


 そこへ小柄な男が、わざと子どもの泣き声を真似るように大きな声を出した。


「子が倒れたぞ!」


 人波が揺れた。


 寺側へ流れかけていた者たちが、一斉に振り返る。


 太い男が小荷を落とした。


 中から乾いた藁が散る。


 藁は軽く、風に乗って馬の足元へ転がった。


 与八の馬が首を上げる。


 目が白くなる。


 背の高い男が叫んだ。


「馬が暴れるぞ!」


 その声で、まだ暴れていない馬が暴れかけた。


 龍之介は動いた。


 足が地を蹴る。


 人と人の間を抜け、馬の前へ出る。


 馬を押さえる前に、声を出した。


「動くな!」


 その声は、又左の怒声とは違った。


 低く、腹に落ちる声だった。


 馬の首筋へ手を当てる。


 もう片方の手で轡の近くを押さえ、馬の目の前から藁を足で払う。


 力任せではない。


 馬の逃げ道を塞がず、首だけを落ち着かせる。


 与八がすぐに綱を緩めた。


 馬は一度強く鼻を鳴らしたが、暴れなかった。


 その間に、又左が声を張る。


「子はどこだ! 倒れた子を見た者、手を上げろ!」


 誰も手を上げない。


 おますが寺側から叫んだ。


「子はこっちにいる。倒れた子はいないよ!」


 藤吉郎も続ける。


「泣いた子はいます。でも倒れていません!」


 人波の揺れが、そこで止まった。


 信長は、背の高い男を見た。


「今、馬が暴れると言ったな」


 男は顔を引きつらせる。


「見えたので」


「まだ暴れていなかった」


 勝三郎が、すでに小柄な男の腕を押さえていた。


 太い男は逃げようとしたが、甚蔵が行く先に立つ。


 甚蔵は殴らなかった。


 ただ、馬借らしい低い声で言った。


「荷を拾え。自分で落とした荷だ」


 太い男は動けなかった。


 龍之介は、馬の首筋を撫でながら、背の高い男を見た。


 殺気はない。


 だが、悪意はある。


 大混乱を起こすつもりではなかったのだろう。


 少し揺らし、馬が暴れたと叫び、那古野の馬借が道を塞いだと言う。


 それだけでよかった。


 清洲にとっては。


 三人は渡し場の脇へ連れて来られた。


 人波の真ん中ではない。


 だが、人から隠しもしない場所である。


 信長は、まず落ちた荷を見た。


 中身は藁と、軽い木片だった。


 祭礼の荷に見せるため、上だけ布で包んであったが、運ぶ価値のあるものではない。


「名は」


 背の高い男は黙った。


 勝三郎が小柄な男を見る。


「お前から言え」


 小柄な男は震えていた。


「清洲門前の、安吉」


 太い男は、甚蔵に睨まれて答えた。


「藤次」


 背の高い男は最後まで黙ろうとしたが、龍之介が馬のそばから視線を向けると、諦めた。


「岩松」


 信長の眉がわずかに動く。


 前日、足帳に名を載せれば若の馬になると馬借へ声をかけた男である。


 又左が低く笑った。


「自分で思っただけの男か」


 岩松の顔が赤くなる。


 信長は又左を止めた。


「煽るな」


 又左は口を閉じた。


 信長は岩松へ向く。


「今度も、自分で思っただけか」


 岩松は答えない。


 信長は問いを変えた。


「倒れた子はいなかった。馬も暴れていなかった。荷は空に近い。なぜ叫んだ」


「人が多かったので、危ないと」


「危なくしたのは誰だ」


 岩松は黙る。


 龍之介は口を挟んだ。


「若様。荷を落とした場所が、馬の道の曲がり目です」


 信長は地面を見る。


 確かに、藁が散ったのは馬の道の曲がり目だった。


 馬が驚けば、川側へ跳ねる。


 人波が避ければ、寺側へ押す。


 小さな揺れで済ませるには、よく選ばれた場所だった。


 信長は岩松を見た。


「誰に教わった」


 岩松は唇を噛んだ。


 安吉が震えながら言った。


「清洲の、北蔵の者が……祭礼の日は人が多いから、馬の道を塞げば那古野の足帳など役に立たぬと」


 岩松が叫ぶ。


「黙れ!」


 勝三郎が一歩前へ出ただけで、岩松は口を閉じた。


 信長は安吉へ問う。


「北蔵の誰だ」


「名は聞いておりませぬ。ただ、甚内様のところへ出入りする者と」


 甚内。


 弥惣の仮帳の鍵を持つ、北蔵の古い帳場役。


 また線が戻った。


 信長は平手がいないことを思い出し、藤吉郎へ言った。


「控えろ」


 藤吉郎は、すでに板へ書いていた。


 手は少し震えている。


 だが、字は読める。


 信長は続ける。


「倒れた子、なし。馬の暴れ、なし。荷は藁と木片。落とした場所、馬の道の曲がり。清洲門前岩松、安吉、藤次。北蔵甚内の周りの者より、馬の道を塞げば足帳は役に立たぬと聞く。そう残せ」


 藤吉郎は、必死に書いた。


 龍之介は馬から手を離した。


 馬は落ち着いている。


 与八が深く頭を下げた。


「助かりました」


「馬が賢かった」


 龍之介はそう言った。


 与八は少し笑った。


「では、馬にもあとで飼葉を多めに」


「足帳に残せ」


 龍之介が言うと、与八は今度ははっきり笑った。


 緊張が、少しだけ解けた。


 だが、信長は三人をすぐ罰しなかった。


 それどころか、人波を先に戻した。


「舟へ乗る者は川側。子連れは寺側。荷を落とした者は、土場で改める。馬の道を塞ぐな」


 又左がその言葉を大声で繰り返す。


 おますと藤吉郎が子連れを日陰へ導く。


 甚蔵と与八は、馬の道をもう少し広げるため、荷縄の位置を変えた。


 龍之介は、曲がり目の土を見て言った。


「ここは狭い。馬の道を真っ直ぐにした方がいい」


 甚蔵が頷く。


「川側へ少し寄せますか」


「いや、川側へ寄せると、人が落ちる。寺側へ半歩寄せて、曲がりを緩くする」


 信長が聞いていた。


「できるか」


 甚蔵は周囲を見た。


「杭を打ち替えれば」


 信長は即座に命じた。


「打ち替えろ。岩松たちは、その間そこに座らせておけ。逃がすな。だが、見せ物にするな」


 勝三郎が頷く。


「承知しました」


 杭を打ち替える間、人波はまた揺れかけた。


 だが、今度は早かった。


 藤吉郎が飯屋の前で声を出す。


「舟へ行く方は川側です。荷の方は土場へ。子連れは寺の日陰へ。馬の道は今直しています。少し待ってください」


 おますも続ける。


「待つなら水を飲みなさい。押したら余計に遅くなるよ」


 その言葉は効いた。


 人は、ただ待てと言われると苛立つ。


 何を直しているか分かれば、少し待てる。


 甚蔵と馬借たちは、杭を打ち替え、荷縄を張り直した。


 馬の道の曲がりは、先ほどより緩くなった。


 龍之介はそれを見て頷いた。


「これなら、藁を落とされても馬の頭を逃がせる」


 信長は静かに言った。


「足帳の外にあったものを、道に戻したな」


 龍之介は答えた。


「はい。帳だけでは、曲がりは直りません」


「そうだ」


 信長は、人波を見た。


「帳に残し、道を直す。両方要る」


 藤吉郎は、その言葉も板に小さく書き加えた。


 人波が落ち着いた後、岩松たちの聞き取りが始まった。


 場所は渡し場の脇。


 人の流れから少し離れているが、川も馬も見える場所だった。


 信長は、三人を並べなかった。


 一人ずつ聞く。


 最初は安吉。


 安吉は怯えきっており、聞かれる前から話した。


「清洲門前で、岩松に誘われました。祭礼の日に那古野の馬の道で声を上げれば、銭をもらえると」


「誰から銭を受けた」


「岩松からです」


「岩松は誰から受けたと言った」


「北蔵の方、とだけ」


「甚内の名は」


「岩松が言いました。甚内様のところの者だから、心配ないと」


 次は藤次。


 藤次は藁の荷を落とした男である。


「荷の中身は」


「藁と木片です。軽い方が落としやすいと言われました」


「誰に」


「岩松に」


「落とす場所は」


「馬の道の曲がりで、と」


「なぜ」


「馬が驚けば、人が騒ぐと」


 最後に岩松。


 岩松は、最初は黙っていた。


 だが、安吉と藤次の言葉を聞かされると、少しずつ崩れた。


「北蔵へ出入りする甚内様の手代から聞きました。祭礼の日は、名を問えぬ。馬の道で一度騒げば、足帳など誰も見ない。那古野の馬借が道を塞いだと言える、と」


「甚内本人か」


「本人ではありません」


「手代の名は」


「善八」


 また新しい名が出た。


 信長は、藤吉郎へ控えさせた。


 藤吉郎の手はもう震えていない。


 岩松は続けた。


「銭は受けました。ですが、大事にするつもりは」


 又左が口を開きかけたが、信長が目で止める。


「小さく騒ぐつもりだったか」


 岩松は頷いた。


「はい」


「小さく騒げば、人波が大きくする」


 信長の声は冷たかった。


「それが分からぬなら、祭礼の場へ近づくな」


 岩松は顔を伏せた。


 信長は三人を見た。


「お前たちをここで斬れば、清洲は言う。那古野は祭礼に来た者を斬った、と。だから斬らぬ」


 三人の肩がわずかに緩む。


 信長は続けた。


「だが、許したのではない。名を残す。銭を出した者、声をかけた者、落とした場所、荷の中身、全部残す。祭礼が終わるまで寺で預かる。逃げれば、自分の口を自分で軽くしたことになる」


 三人は深く頭を下げた。


 龍之介は、その処置に納得した。


 斬るより重いことがある。


 祭礼の場で騒ぎを起こした者として名を残される。


 そして、なぜ斬られなかったかも残る。


 清洲の使える形を減らすためだった。


 夕刻、渡し場の人波はどうにか大きな混乱なく流れた。


 舟は遅れた。


 馬も待った。


 だが、誰も大怪我はしなかった。


 子どもが二人迷ったが、飯屋の前で水を飲んでいるところを親が迎えに来た。


 小荷が一つ土場で紛れたが、荷札と口で持ち主が見つかった。


 馬の道は、曲がりを緩くしたことで最後まで保った。


 甚蔵は、日暮れ前に信長へ報告した。


「待ちは出ました。足帳に載せます。ですが、馬は暴れず、人も潰れませんでした」


「よい」


 信長は短く答えた。


 藤吉郎が足帳へ書き込む。


 祭礼人波により渡し待ち。


 馬の道張り替え。


 藁荷騒ぎにより一時停止。


 飼葉、二頭分追加。


 迷子二名、飯屋前で保護。


 信長は、その控えを見た。


「迷子も書くのか」


 藤吉郎は少し不安そうに顔を上げた。


「書いてしまいました」


「よい」


 信長は言った。


「人波の中では、迷子も道の乱れだ。見つかったことも残せ」


 おますが近くで笑った。


「その子たち、泣きすぎて腹を空かせていましたよ」


「飯を食わせたか」


「薄い粥を少し。親から銭は受け取りました」


 信長は頷く。


「それも残せ。施しにするな。親の面子もある」


 おますは目を丸くし、それから笑った。


「若様は、細かいですね」


「細かくしないと、清洲が大きくする」


 信長が言うと、おますは深く頭を下げた。


「違いありません」


 龍之介は、夕暮れの川を見た。


 今日は勝った。


 だが、完全な勝ちではない。


 岩松たちは捕らえた。


 甚内の周りに善八という名も出た。


 人波の道も作れた。


 それでも、祭礼はまだ終わっていない。


 日が暮れるほど、人の気は緩み、酒も入る。


 夜の人波は、昼より読みにくい。


 清洲では、坂井大膳が岩松たちの失敗を聞いていた。


 馬は暴れなかった。


 子も倒れていなかった。


 人波は揺れたが、那古野は道を直し、足帳へ載せた。


 岩松、安吉、藤次の名が残り、甚内の手代、善八の名まで出た。


 大膳は、しばらく扇を開かなかった。


「人波まで帳へ入れたか」


 控えの男は答えた。


「帳だけではなく、道も変えたようです。馬の道の曲がりを緩めたと」


「ふむ」


 大膳の目が細くなる。


「帳と道。三郎は、また二つで受けた」


 男は黙っている。


 大膳は、ゆっくり扇を開いた。


「岩松はもう使えぬ。善八も一度引かせろ。甚内の周りに火が近い」


「甚内を動かしますか」


「まだ動かすな。動けば、三郎の目に入る」


「では、次は」


 大膳は、少しだけ笑った。


「祭礼は、夜がある」


 控えの男が顔を上げる。


「夜でございますか」


「昼の人波は、道を作れば流れる。夜は酒が入る。灯りが揺れる。誰が押したか分からぬ。荷ではない。人波でもない。影だ」


 男は息を呑んだ。


「火を」


「大火はいらぬと言った。だが、灯明が一つ倒れれば、皆が火を見て走る。火そのものではなく、火を見た人の足が乱れる」


 大膳は、扇を閉じた。


「夜の灯りを使え。那古野が火を恐れて祭礼を止めたと言えればよい。止めずに乱れれば、それもよい」


 清洲の影は、人波から夜の灯りへ移ろうとしていた。


 夜、那古野の庭へ戻ると、藤吉郎はぐったりしていた。


 朝から人を分け、水を出し、迷子を見つけ、控えを書き続けた。


 飯屋の小僧には重い一日だった。


 それでも、手に持った板を離さない。


 龍之介が声をかける。


「休め」


「はい。でも、これだけ写してから」


「明日でもよい」


「忘れます」


 藤吉郎は真面目に答えた。


「人波のことは、早く書かないと混ざります。誰が倒れたのか、誰が泣いたのか、誰が荷を落としたのか。少し経つと、全部同じ騒ぎになります」


 龍之介は、藤吉郎を見た。


 疲れている。


 だが、目はぼやけていない。


「そうだな」


 龍之介は隣に座った。


「なら、俺が言う。お前が書け」


 藤吉郎は驚いた顔をしてから、すぐ頷いた。


「お願いします」


 龍之介は、今日見たことを順に言った。


 人波を五つに分けたこと。


 舟、荷、休み、迷い、馬の道。


 岩松たちが藁荷を落としたこと。


 馬は暴れなかったこと。


 子は倒れていなかったこと。


 馬の道の曲がりを緩めたこと。


 迷子二人が見つかったこと。


 粥の銭を親から受け取ったこと。


 藤吉郎は、それを書いた。


 字は少し乱れていたが、筋は残った。


 信長は縁側で、それを見ていた。


「龍之介」


「はい」


「夜が来る」


「はい」


 龍之介は顔を上げた。


「火ですか」


 信長は、少しだけ目を細めた。


「お前もそう見るか」


「昼の人波が崩れなかった。次は、帳にも道にも収まりにくいものを使うはずです。夜なら、灯りです」


 信長は頷いた。


「火消しの筋を作る。だが、祭礼を止めた形にはしない」


「灯りを消しすぎれば、祭礼を止めたと言われます」


「ああ。灯りを守りながら、火の逃げ道を見る」


 龍之介は、昼の馬よりも厄介だと思った。


 馬は首を押さえれば落ち着く。


 人波は道を分ければ流れる。


 だが、夜の火は、人の目を奪う。


 小さな火でも、見た者の心には大きく映る。


 呂布の武なら、火を持つ者を叩き伏せられる。


 郭嘉の知なら、火を置く場所を読むことはできる。


 だが、祭礼の灯りを守りながら火を抑えるには、また別の手が要る。


 遠くで、寺の鐘が鳴った。


 昼は越えた。


 次は夜だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。