第75話 人波の道
人波には、札がない。
荷なら荷主を問える。
馬なら足帳に残せる。
職人なら役を聞ける。
だが、祭礼へ向かう人の群れに、一人ずつ名を問うことはできない。
それでも、流れには筋がある。
津島の祭礼を目前にした朝、那古野の渡し場はいつもより早く目覚めた。
夜明けの薄い青が川面に残るうちから、人が集まり始めていた。笠をかぶった男、子を背負った女、商いの小荷を担いだ若者、酒の匂いをさせた者、ただ祭りを見たいだけの子どもたち。
馬の鼻息が白く立ち、飼葉の匂いと川泥の匂いが混じる。
舟を待つ者の列は、気づけば列ではなく、ただの塊になりかけていた。
甚蔵が馬の口を取りながら、低く唸った。
「これは、荷より厄介ですな」
与八も顔をこわばらせている。
「どの人がどの舟へ行くのか、分かりません」
馬借たちの足元には、前日に作った足帳の控えがある。
だが、今日の人波は帳へ載せる前に動く。
押す者。
戻る者。
小荷を降ろす者。
子どもを肩車する者。
そのすべてが、渡し場の狭い道へ集まっていた。
信長は、川辺の少し高い土手からそれを見た。
龍之介、新五、勝三郎、藤吉郎、又左がそばにいる。平手は那古野で文と控えを受ける役に残った。
「名を問えぬな」
信長が言った。
新五が頷く。
「問えば、その間に押し合いが起きます」
又左は腕を組んだ。
「押す者だけ引きずり出しますか」
「押す者は、一人とは限らぬ」
信長は、人波から目を離さなかった。
「人波は、先に道を作るしかない」
龍之介は頷いた。
戦場なら、敵の厚いところと薄いところを見る。
ここでも同じだった。
ただし、相手は敵兵ではない。
祭礼へ向かう人々だ。
強く裂けば、恐怖になる。
弱く促せば、波に呑まれる。
龍之介は川辺の道を見た。
渡しへ向かう細い道。
荷を一時置ける広い土の場所。
馬留め。
寺へ続く横道。
飯屋の裏手へ抜ける道。
水場。
そして、子どもが迷えば泣き出しそうな雑踏。
「若様」
龍之介は言った。
「人を止めるのではなく、流れを分けましょう」
「どう分ける」
「舟へ乗る者。荷を持つ者。休む者。迷った者。馬を通す道。この五つを、言葉ではなく場所で分けます」
藤吉郎が顔を上げた。
「場所で」
「そうだ。名を問う暇はない。なら、行き先を身体で選ばせる」
信長は少し笑った。
「続けろ」
「舟へ乗る者は川側へ。小荷を持つ者は一度土場へ。休む者と子連れは寺側の日陰へ。馬の道は縄で空ける。迷った者は飯屋の前で聞く」
甚蔵が近くで聞いていて、すぐ頷いた。
「馬の道を先に空けねば、いざという時に荷も人も動かせませぬ」
藤吉郎は考え込んだ。
「飯屋の前なら、人が聞きに来ても不自然ではありません。水も出せます」
信長は即断した。
「やる。新五、縄を借りろ。仁助のところへ人を走らせるまでもない。馬借の荷縄でよい。ただし、注連縄と間違えるな」
甚蔵が笑った。
「荷縄なら、こちらにあります」
「勝三郎、顔を見る者を置け。人波を作る者と、人波に乗る者は違う」
「承知しました」
「藤吉郎。飯屋の前に水と木札を置け。迷った者には、行き先を聞いて札ではなく言葉で返す。無理に名を取るな」
「はい」
「又左」
「はい」
「今日は斬るな。声を通せ」
又左は少しだけ顔をしかめた。
「声でございますか」
「お前の声は大きい」
「武辺者として褒められた気がしませぬが、承知しました」
信長は最後に龍之介を見た。
「お前は、人波の穴を見ろ」
「はい」
龍之介は、川辺へ目を戻した。
穴。
人が詰まるところ。
誰かが転べば波になるところ。
荷が倒れれば道が塞がるところ。
そこを見つけるのが、今日の自分の役だった。
縄はすぐに張られた。
注連縄ではない。
ただの荷縄である。
だが、地面に置き、杭に結び、道の縁を示すだけで、人の流れは少し変わった。
又左が大声を出す。
「舟へ乗る者は川側だ。荷を持つ者は土場へ一度置け。子連れは寺の日陰へ回れ。馬の道を塞ぐな」
言葉は荒い。
だが、分かりやすい。
藤吉郎は飯屋の前に水桶を置き、迷った者へ声をかけていた。
「舟ですか。荷ですか。休みますか。津島へ渡るだけなら川側です。小荷があるなら、先に土場へ」
子どもを連れた女が不安そうに来る。
「この子が泣いてしまって」
「寺の日陰へ。水があります。舟に乗る前に少し休めます」
藤吉郎は、すぐ寺側を示した。
おますが、いつの間にか手伝っていた。
津島へ行ったはずの飯炊きの女である。祭礼方の仕事を済ませ、一度戻る途中だったらしい。
「子連れはこっちだよ。急がなくても舟は逃げない」
その声は、男たちの声より柔らかく、人を動かした。
龍之介は、人波を見ていた。
動きは少し落ち着いた。
だが、完全ではない。
清洲が仕掛けるなら、落ち着き始めた時だ。
混乱している最中より、道ができた後の方が、そこを壊した時に目立つ。
勝三郎が近づいてくる。
「見慣れぬ男が三人。酒の匂いがします。だが、酔いは浅い」
「どこだ」
「土場の端です。小荷を持っていますが、軽そうです」
龍之介は目を向けた。
三人の男。
一人は背が高く、一人は太く、一人は小柄。
いずれも、荷を持っているようで、荷に気を遣っていない。
祭礼へ向かう者の目ではない。
人の流れを見ている。
そのうち背の高い男が、土場へ向かうふりをしながら、馬の道へ近づいた。
馬の道には、与八が一頭を引いている。
そこへ小柄な男が、わざと子どもの泣き声を真似るように大きな声を出した。
「子が倒れたぞ!」
人波が揺れた。
寺側へ流れかけていた者たちが、一斉に振り返る。
太い男が小荷を落とした。
中から乾いた藁が散る。
藁は軽く、風に乗って馬の足元へ転がった。
与八の馬が首を上げる。
目が白くなる。
背の高い男が叫んだ。
「馬が暴れるぞ!」
その声で、まだ暴れていない馬が暴れかけた。
龍之介は動いた。
足が地を蹴る。
人と人の間を抜け、馬の前へ出る。
馬を押さえる前に、声を出した。
「動くな!」
その声は、又左の怒声とは違った。
低く、腹に落ちる声だった。
馬の首筋へ手を当てる。
もう片方の手で轡の近くを押さえ、馬の目の前から藁を足で払う。
力任せではない。
馬の逃げ道を塞がず、首だけを落ち着かせる。
与八がすぐに綱を緩めた。
馬は一度強く鼻を鳴らしたが、暴れなかった。
その間に、又左が声を張る。
「子はどこだ! 倒れた子を見た者、手を上げろ!」
誰も手を上げない。
おますが寺側から叫んだ。
「子はこっちにいる。倒れた子はいないよ!」
藤吉郎も続ける。
「泣いた子はいます。でも倒れていません!」
人波の揺れが、そこで止まった。
信長は、背の高い男を見た。
「今、馬が暴れると言ったな」
男は顔を引きつらせる。
「見えたので」
「まだ暴れていなかった」
勝三郎が、すでに小柄な男の腕を押さえていた。
太い男は逃げようとしたが、甚蔵が行く先に立つ。
甚蔵は殴らなかった。
ただ、馬借らしい低い声で言った。
「荷を拾え。自分で落とした荷だ」
太い男は動けなかった。
龍之介は、馬の首筋を撫でながら、背の高い男を見た。
殺気はない。
だが、悪意はある。
大混乱を起こすつもりではなかったのだろう。
少し揺らし、馬が暴れたと叫び、那古野の馬借が道を塞いだと言う。
それだけでよかった。
清洲にとっては。
三人は渡し場の脇へ連れて来られた。
人波の真ん中ではない。
だが、人から隠しもしない場所である。
信長は、まず落ちた荷を見た。
中身は藁と、軽い木片だった。
祭礼の荷に見せるため、上だけ布で包んであったが、運ぶ価値のあるものではない。
「名は」
背の高い男は黙った。
勝三郎が小柄な男を見る。
「お前から言え」
小柄な男は震えていた。
「清洲門前の、安吉」
太い男は、甚蔵に睨まれて答えた。
「藤次」
背の高い男は最後まで黙ろうとしたが、龍之介が馬のそばから視線を向けると、諦めた。
「岩松」
信長の眉がわずかに動く。
前日、足帳に名を載せれば若の馬になると馬借へ声をかけた男である。
又左が低く笑った。
「自分で思っただけの男か」
岩松の顔が赤くなる。
信長は又左を止めた。
「煽るな」
又左は口を閉じた。
信長は岩松へ向く。
「今度も、自分で思っただけか」
岩松は答えない。
信長は問いを変えた。
「倒れた子はいなかった。馬も暴れていなかった。荷は空に近い。なぜ叫んだ」
「人が多かったので、危ないと」
「危なくしたのは誰だ」
岩松は黙る。
龍之介は口を挟んだ。
「若様。荷を落とした場所が、馬の道の曲がり目です」
信長は地面を見る。
確かに、藁が散ったのは馬の道の曲がり目だった。
馬が驚けば、川側へ跳ねる。
人波が避ければ、寺側へ押す。
小さな揺れで済ませるには、よく選ばれた場所だった。
信長は岩松を見た。
「誰に教わった」
岩松は唇を噛んだ。
安吉が震えながら言った。
「清洲の、北蔵の者が……祭礼の日は人が多いから、馬の道を塞げば那古野の足帳など役に立たぬと」
岩松が叫ぶ。
「黙れ!」
勝三郎が一歩前へ出ただけで、岩松は口を閉じた。
信長は安吉へ問う。
「北蔵の誰だ」
「名は聞いておりませぬ。ただ、甚内様のところへ出入りする者と」
甚内。
弥惣の仮帳の鍵を持つ、北蔵の古い帳場役。
また線が戻った。
信長は平手がいないことを思い出し、藤吉郎へ言った。
「控えろ」
藤吉郎は、すでに板へ書いていた。
手は少し震えている。
だが、字は読める。
信長は続ける。
「倒れた子、なし。馬の暴れ、なし。荷は藁と木片。落とした場所、馬の道の曲がり。清洲門前岩松、安吉、藤次。北蔵甚内の周りの者より、馬の道を塞げば足帳は役に立たぬと聞く。そう残せ」
藤吉郎は、必死に書いた。
龍之介は馬から手を離した。
馬は落ち着いている。
与八が深く頭を下げた。
「助かりました」
「馬が賢かった」
龍之介はそう言った。
与八は少し笑った。
「では、馬にもあとで飼葉を多めに」
「足帳に残せ」
龍之介が言うと、与八は今度ははっきり笑った。
緊張が、少しだけ解けた。
だが、信長は三人をすぐ罰しなかった。
それどころか、人波を先に戻した。
「舟へ乗る者は川側。子連れは寺側。荷を落とした者は、土場で改める。馬の道を塞ぐな」
又左がその言葉を大声で繰り返す。
おますと藤吉郎が子連れを日陰へ導く。
甚蔵と与八は、馬の道をもう少し広げるため、荷縄の位置を変えた。
龍之介は、曲がり目の土を見て言った。
「ここは狭い。馬の道を真っ直ぐにした方がいい」
甚蔵が頷く。
「川側へ少し寄せますか」
「いや、川側へ寄せると、人が落ちる。寺側へ半歩寄せて、曲がりを緩くする」
信長が聞いていた。
「できるか」
甚蔵は周囲を見た。
「杭を打ち替えれば」
信長は即座に命じた。
「打ち替えろ。岩松たちは、その間そこに座らせておけ。逃がすな。だが、見せ物にするな」
勝三郎が頷く。
「承知しました」
杭を打ち替える間、人波はまた揺れかけた。
だが、今度は早かった。
藤吉郎が飯屋の前で声を出す。
「舟へ行く方は川側です。荷の方は土場へ。子連れは寺の日陰へ。馬の道は今直しています。少し待ってください」
おますも続ける。
「待つなら水を飲みなさい。押したら余計に遅くなるよ」
その言葉は効いた。
人は、ただ待てと言われると苛立つ。
何を直しているか分かれば、少し待てる。
甚蔵と馬借たちは、杭を打ち替え、荷縄を張り直した。
馬の道の曲がりは、先ほどより緩くなった。
龍之介はそれを見て頷いた。
「これなら、藁を落とされても馬の頭を逃がせる」
信長は静かに言った。
「足帳の外にあったものを、道に戻したな」
龍之介は答えた。
「はい。帳だけでは、曲がりは直りません」
「そうだ」
信長は、人波を見た。
「帳に残し、道を直す。両方要る」
藤吉郎は、その言葉も板に小さく書き加えた。
人波が落ち着いた後、岩松たちの聞き取りが始まった。
場所は渡し場の脇。
人の流れから少し離れているが、川も馬も見える場所だった。
信長は、三人を並べなかった。
一人ずつ聞く。
最初は安吉。
安吉は怯えきっており、聞かれる前から話した。
「清洲門前で、岩松に誘われました。祭礼の日に那古野の馬の道で声を上げれば、銭をもらえると」
「誰から銭を受けた」
「岩松からです」
「岩松は誰から受けたと言った」
「北蔵の方、とだけ」
「甚内の名は」
「岩松が言いました。甚内様のところの者だから、心配ないと」
次は藤次。
藤次は藁の荷を落とした男である。
「荷の中身は」
「藁と木片です。軽い方が落としやすいと言われました」
「誰に」
「岩松に」
「落とす場所は」
「馬の道の曲がりで、と」
「なぜ」
「馬が驚けば、人が騒ぐと」
最後に岩松。
岩松は、最初は黙っていた。
だが、安吉と藤次の言葉を聞かされると、少しずつ崩れた。
「北蔵へ出入りする甚内様の手代から聞きました。祭礼の日は、名を問えぬ。馬の道で一度騒げば、足帳など誰も見ない。那古野の馬借が道を塞いだと言える、と」
「甚内本人か」
「本人ではありません」
「手代の名は」
「善八」
また新しい名が出た。
信長は、藤吉郎へ控えさせた。
藤吉郎の手はもう震えていない。
岩松は続けた。
「銭は受けました。ですが、大事にするつもりは」
又左が口を開きかけたが、信長が目で止める。
「小さく騒ぐつもりだったか」
岩松は頷いた。
「はい」
「小さく騒げば、人波が大きくする」
信長の声は冷たかった。
「それが分からぬなら、祭礼の場へ近づくな」
岩松は顔を伏せた。
信長は三人を見た。
「お前たちをここで斬れば、清洲は言う。那古野は祭礼に来た者を斬った、と。だから斬らぬ」
三人の肩がわずかに緩む。
信長は続けた。
「だが、許したのではない。名を残す。銭を出した者、声をかけた者、落とした場所、荷の中身、全部残す。祭礼が終わるまで寺で預かる。逃げれば、自分の口を自分で軽くしたことになる」
三人は深く頭を下げた。
龍之介は、その処置に納得した。
斬るより重いことがある。
祭礼の場で騒ぎを起こした者として名を残される。
そして、なぜ斬られなかったかも残る。
清洲の使える形を減らすためだった。
夕刻、渡し場の人波はどうにか大きな混乱なく流れた。
舟は遅れた。
馬も待った。
だが、誰も大怪我はしなかった。
子どもが二人迷ったが、飯屋の前で水を飲んでいるところを親が迎えに来た。
小荷が一つ土場で紛れたが、荷札と口で持ち主が見つかった。
馬の道は、曲がりを緩くしたことで最後まで保った。
甚蔵は、日暮れ前に信長へ報告した。
「待ちは出ました。足帳に載せます。ですが、馬は暴れず、人も潰れませんでした」
「よい」
信長は短く答えた。
藤吉郎が足帳へ書き込む。
祭礼人波により渡し待ち。
馬の道張り替え。
藁荷騒ぎにより一時停止。
飼葉、二頭分追加。
迷子二名、飯屋前で保護。
信長は、その控えを見た。
「迷子も書くのか」
藤吉郎は少し不安そうに顔を上げた。
「書いてしまいました」
「よい」
信長は言った。
「人波の中では、迷子も道の乱れだ。見つかったことも残せ」
おますが近くで笑った。
「その子たち、泣きすぎて腹を空かせていましたよ」
「飯を食わせたか」
「薄い粥を少し。親から銭は受け取りました」
信長は頷く。
「それも残せ。施しにするな。親の面子もある」
おますは目を丸くし、それから笑った。
「若様は、細かいですね」
「細かくしないと、清洲が大きくする」
信長が言うと、おますは深く頭を下げた。
「違いありません」
龍之介は、夕暮れの川を見た。
今日は勝った。
だが、完全な勝ちではない。
岩松たちは捕らえた。
甚内の周りに善八という名も出た。
人波の道も作れた。
それでも、祭礼はまだ終わっていない。
日が暮れるほど、人の気は緩み、酒も入る。
夜の人波は、昼より読みにくい。
清洲では、坂井大膳が岩松たちの失敗を聞いていた。
馬は暴れなかった。
子も倒れていなかった。
人波は揺れたが、那古野は道を直し、足帳へ載せた。
岩松、安吉、藤次の名が残り、甚内の手代、善八の名まで出た。
大膳は、しばらく扇を開かなかった。
「人波まで帳へ入れたか」
控えの男は答えた。
「帳だけではなく、道も変えたようです。馬の道の曲がりを緩めたと」
「ふむ」
大膳の目が細くなる。
「帳と道。三郎は、また二つで受けた」
男は黙っている。
大膳は、ゆっくり扇を開いた。
「岩松はもう使えぬ。善八も一度引かせろ。甚内の周りに火が近い」
「甚内を動かしますか」
「まだ動かすな。動けば、三郎の目に入る」
「では、次は」
大膳は、少しだけ笑った。
「祭礼は、夜がある」
控えの男が顔を上げる。
「夜でございますか」
「昼の人波は、道を作れば流れる。夜は酒が入る。灯りが揺れる。誰が押したか分からぬ。荷ではない。人波でもない。影だ」
男は息を呑んだ。
「火を」
「大火はいらぬと言った。だが、灯明が一つ倒れれば、皆が火を見て走る。火そのものではなく、火を見た人の足が乱れる」
大膳は、扇を閉じた。
「夜の灯りを使え。那古野が火を恐れて祭礼を止めたと言えればよい。止めずに乱れれば、それもよい」
清洲の影は、人波から夜の灯りへ移ろうとしていた。
夜、那古野の庭へ戻ると、藤吉郎はぐったりしていた。
朝から人を分け、水を出し、迷子を見つけ、控えを書き続けた。
飯屋の小僧には重い一日だった。
それでも、手に持った板を離さない。
龍之介が声をかける。
「休め」
「はい。でも、これだけ写してから」
「明日でもよい」
「忘れます」
藤吉郎は真面目に答えた。
「人波のことは、早く書かないと混ざります。誰が倒れたのか、誰が泣いたのか、誰が荷を落としたのか。少し経つと、全部同じ騒ぎになります」
龍之介は、藤吉郎を見た。
疲れている。
だが、目はぼやけていない。
「そうだな」
龍之介は隣に座った。
「なら、俺が言う。お前が書け」
藤吉郎は驚いた顔をしてから、すぐ頷いた。
「お願いします」
龍之介は、今日見たことを順に言った。
人波を五つに分けたこと。
舟、荷、休み、迷い、馬の道。
岩松たちが藁荷を落としたこと。
馬は暴れなかったこと。
子は倒れていなかったこと。
馬の道の曲がりを緩めたこと。
迷子二人が見つかったこと。
粥の銭を親から受け取ったこと。
藤吉郎は、それを書いた。
字は少し乱れていたが、筋は残った。
信長は縁側で、それを見ていた。
「龍之介」
「はい」
「夜が来る」
「はい」
龍之介は顔を上げた。
「火ですか」
信長は、少しだけ目を細めた。
「お前もそう見るか」
「昼の人波が崩れなかった。次は、帳にも道にも収まりにくいものを使うはずです。夜なら、灯りです」
信長は頷いた。
「火消しの筋を作る。だが、祭礼を止めた形にはしない」
「灯りを消しすぎれば、祭礼を止めたと言われます」
「ああ。灯りを守りながら、火の逃げ道を見る」
龍之介は、昼の馬よりも厄介だと思った。
馬は首を押さえれば落ち着く。
人波は道を分ければ流れる。
だが、夜の火は、人の目を奪う。
小さな火でも、見た者の心には大きく映る。
呂布の武なら、火を持つ者を叩き伏せられる。
郭嘉の知なら、火を置く場所を読むことはできる。
だが、祭礼の灯りを守りながら火を抑えるには、また別の手が要る。
遠くで、寺の鐘が鳴った。
昼は越えた。
次は夜だった。




