第74話 待つ足の値
走る足には、値がつく。
だが、待つ足の値は見えにくい。
馬は、立っている間も腹を空かせる。
人も、待たされる間に気が荒れる。
手間帳を作った翌朝、渡し場で馬借たちの声が荒れた。
きっかけは、小さな一言だった。
「橘屋は走った分を帳に載せた。紙屋は選んだ分を帳に載せた。縄屋は夜仕事を帳に載せた。では、馬を止められた俺たちの待ちは、どこへ行った」
言ったのは久六だった。
以前、権次とともに那古野の文を運び、清洲筋から仕事を断られかけた馬借である。
普段は口数の多い男ではない。
だが、その朝は目の下に疲れがあり、馬の鼻面を撫でる手にも苛立ちが見えた。
寺の馬留めには、与八、権次、甚蔵もいた。
祭礼支度の荷は細かくなり、待ちが増えている。米、縄、紙、人、職人、文。荷の名を問うたび、馬は止まる。渡しの順が変わる。飼葉も要る。
そこへ清洲からの声が混じった。
商人と職人は帳に名が載る。
馬借は、ただ待たされる。
若様は紙と縄には値をつけるが、馬の腹には値をつけない。
誰が言い出したかは分からない。
だが、馬借にとっては刺さる言葉だった。
甚蔵は腕を組み、久六を叱らずに聞いていた。
与八は困った顔で、馬の綱を握っている。
「久六さん。若様に言えば」
「言えば、また帳か」
久六は吐き捨てるように言った。
「帳に載るのは悪くねえ。だが、俺たちの待ちは、紙に書けば軽く見える。馬を止め、舟を待ち、荷主が分からず、受け手が分からず、半日潰れる。それを一行で済まされたらたまらん」
権次が低く言う。
「清洲の声に乗るな」
「乗っているつもりはない」
久六は権次を見た。
「だが、腹が立つのは本当だ。清洲の声だから腹が立たない、とはならん」
その場が静まった。
甚蔵がようやく口を開いた。
「それを、若様に言う」
「俺がか」
「お前が言った。なら、お前が言え」
久六は顔をしかめた。
「斬られはしねえだろうな」
甚蔵は鼻で笑った。
「斬られるようなことを言うなら、俺が先に殴る」
久六は、ますます渋い顔になった。
だが、逃げなかった。
那古野へ知らせが届くと、信長はすぐ寺の馬留めへ向かった。
同行したのは、平手、新五、龍之介、藤吉郎、勝三郎である。又左も来たがったが、信長は今度は止めなかった。
「又左も来い。ただし、馬借より先に怒るな」
「若。私はそこまで短気では」
又左が言いかけると、信長が横目で見た。
「ないと言い切れるか」
「……気をつけます」
寺の馬留めには、馬借たちが集まっていた。
馬の息が白く、土には蹄の跡が重なっている。飼葉桶の縁には、かじられた跡があった。人が待てば、足が疲れる。馬が待てば、腹が減る。その当たり前が、そこには匂いとしてあった。
信長は、まず馬を見た。
「甚蔵。何頭いる」
「今ここに七頭。渡し場に三頭。津島へ向かったものが二頭」
「昨日、待たされたのは」
「寺の馬留めで二頭。渡し場で四頭。清太らの職人の件で一刻近く。与十郎殿の文でさらに待ちました」
信長は頷き、久六へ目を向けた。
「不満を言ったのはお前か」
久六は、腹を括ったように頭を下げた。
「はい」
「言え」
久六は、一度甚蔵を見た。
甚蔵は何も言わない。
久六は顔を上げ、信長へ言った。
「紙屋も縄屋も橘屋も、手間が帳に載りました。それはよろしいと思います。ですが、馬借の待ちは軽く見られがちです。荷が動かぬ間も、馬は食います。人も、次の仕事を逃します。荷主不明、受け手不明、札の改め、文の返し。それで待った時間も、手間ではないのかと」
信長は、遮らなかった。
久六は続けた。
「清洲の声に乗りたいわけではございません。けれど、清洲から『お前たちの待ちは値にならぬ』と言われれば、腹が立つのは本当です」
「よく言った」
信長は短く答えた。
久六は拍子抜けした顔になった。
「怒られませぬか」
「怒る理由がない」
信長は馬留めの土を見た。
「馬借の待ちは、見落としていた。こちらの落ち度だ」
平手がわずかに目を伏せた。
新五も黙っている。
信長は続けた。
「ただし、紙屋の手間と、縄屋の手間と、馬借の待ちは同じ物差しでは量れぬ。同じ帳へただ並べれば、また比べられる」
久六は眉を寄せる。
「では、載せぬので」
「載せる」
信長は即座に言った。
「だが、別に載せる。馬借には馬借の足帳を作る」
甚蔵が顔を上げた。
「足帳」
「そうだ。運び賃、待ち賃、空戻り、飼葉。この四つに分ける」
馬借たちの間に、低いざわめきが走った。
信長は指を折るように言った。
「運び賃は、荷を運んだ値。待ち賃は、荷主や受け手の不明、改め、文の返しで馬を止めた値。空戻りは、荷が取り消しになり、戻りで仕事を失った値。飼葉は、待ちによって余分に食わせた分」
甚蔵の目が細くなる。
「若様。そこまで分ければ、馬借も納得しやすい」
久六も、先ほどまでの苛立ちを少し失っていた。
「待ち賃だけでなく、飼葉も」
「馬は霞を食わぬ」
信長は言った。
「馬が食うなら、その値は残す」
藤吉郎が小さく頷いた。
飯屋の顔だった。
「人の飯と同じですね」
信長は藤吉郎を見た。
「言ってみろ」
「働いていなくても、待っている人は腹が減ります。馬も同じです。待たせたなら、食べる分を見ないと、次に動けません」
「そうだ」
信長は頷いた。
「馬借は、馬を連れている。人だけの待ちではない。そこを忘れれば、道が痩せる」
足帳の書き方を決めるため、馬留めの板の上に紙が広げられた。
平手が筆を持つ。
甚蔵が、昨日の動きを一つずつ言う。
寺の馬留めで待った馬。
渡し場で止まった馬。
清太ら職人の竹と紙箱で待った時間。
与十郎の文を受け、返し文が整うまで待った馬。
御幣紙と注連縄を津島へ送るため、予定していた別の荷を後に回した馬。
久六が、途中で口を挟む。
「若様。時間をどう見ます。鐘一つでよいので」
信長は甚蔵を見る。
「どうしている」
甚蔵は答えた。
「厳しくは見ませぬ。朝の鐘から昼の鐘まで、昼から夕の鐘まで。長く待ったものは半日、短いものは半刻ほどと見ます」
「なら、それでよい。細かすぎれば、帳が荷になる」
平手が頷いた。
「半刻、一刻、半日。一日。この四つほどでまとめますか」
「よい」
信長は言った。
「ただし、待ちの理由を必ず書け。荷主不明。受け手不明。文待ち。渡し待ち。雨待ち。馬の休み。全部同じ待ちにするな」
久六が、少し驚いたように信長を見る。
「馬の休みも、書くので」
「書く」
信長は答えた。
「ただし、値は違う。人の都合で待たせたのか、馬を守るために休ませたのかを分ける。馬を休ませた分まで他人へ被せるな。だが、急ぎのために休ませる暇が減ったなら、それも残せ」
甚蔵が深く頭を下げた。
「若様、それは助かります。馬借の中でも、休みと待ちを混ぜる者がおります。混ぜれば、後で揉めます」
「揉める前に分けろ」
信長は言った。
龍之介は、その場を見ていた。
足帳。
それは、単なる追加の帳ではない。
馬借の仕事を、商人や職人の手間と同じ場所へ無理に押し込まないためのものだった。
同じ不満でも、性質が違う。
違うものを同じ欄へ入れれば、必ず比べられる。
清洲は、そこを狙った。
なら、那古野は物差しを分ける。
久六は、少し躊躇ってから言った。
「若様。これでは、馬借だけ特別扱いと言われませぬか」
「言われる」
信長はあっさり答えた。
「だから、特別扱いではなく、別扱いだと言う」
「別扱い」
「紙と縄を同じ物差しで見なかった。馬も同じだ。紙には紙の腰がある。縄には縄の向きがある。馬には馬の腹と足がある」
甚蔵が笑った。
「分かりやすい」
久六も、ようやく少し笑った。
「馬の腹と足、ですか」
「そうだ。そこを軽く見る者に、荷は任せぬ」
馬借たちの顔が変わった。
怒りが消えたわけではない。
だが、自分たちの仕事が、きちんと言葉にされた。
それだけで、場の棘は少し抜けた。
その時、渡し場から使いが走ってきた。
「清洲筋の男が、馬借へ声をかけております」
勝三郎がすぐ立つ。
「何と」
「足帳に名を載せれば、若様の馬になる。清洲の荷は受けられなくなるぞ、と」
久六の顔が赤くなる。
「ほら来た」
信長は動じなかった。
「早いな」
又左が低く言う。
「捕らえますか」
「捕らえる前に、聞かせる」
信長は立ち上がった。
渡し場へ向かうと、男はまだいた。
細い顔の荷扱いだった。清洲門前で何度か見た顔だと勝三郎が小声で言う。男は馬借数人を相手に、笑いながら話していた。
「足帳など作れば、那古野の若様の帳に入る。帳に入れば、若様の馬だ。清洲の荷を引く時に、那古野へ断りを入れるのか」
馬借たちは迷っていた。
そこへ信長が歩いていく。
男の顔が強張った。
「面白い話をしているな」
「若様。これは、ただの世間話で」
「続けろ。帳に入れば、わしの馬になるのか」
男は返事に詰まった。
信長は、馬借たちへ向けて言った。
「聞け。足帳は、馬借を抱える帳ではない。待たされた理由と値を残す帳だ。那古野の荷でも、清洲の荷でも、津島の荷でも、待たせたなら理由を書く。誰の馬かを決める帳ではない」
男は口を開きかける。
信長が先に続けた。
「むしろ、帳がなければ、待たせた側の声が強くなる。待っていない、急がせていない、馬が勝手に遅れた、と言われる。足帳は、馬借の足を縛るものではない。足を消されぬためのものだ」
甚蔵が、はっきり頷いた。
「その通りです」
久六も続いた。
「若様の馬になるのではなく、待ったことを消されぬための帳だ」
馬借たちの迷いが、少し引いた。
信長は男へ向いた。
「名は」
男は目を泳がせる。
「ただの荷扱いで」
「ただの荷扱いという名の者はいない」
勝三郎が前へ出る。
男は観念したように言った。
「清洲門前、岩松」
「誰から聞いた」
「自分で思っただけで」
信長は薄く笑った。
「それも書け。岩松、自分で思っただけ、と」
平手がいないため、藤吉郎が慌てて小さな板へ控えた。
岩松は顔を赤くする。
「そこまで書かずとも」
「自分で思ったのだろう。残してよいはずだ」
周りの馬借たちが、少し笑った。
岩松は、居づらくなったのか、頭を下げて逃げるように去った。
追わない。
ただ、名は残った。
信長は馬借たちへ向き直る。
「足帳は、誰かを縛る帳ではない。縛るものなら、お前たちは破ってよい」
甚蔵が深く頭を下げた。
「その言葉、馬借仲間へ伝えます」
「伝えろ。ただし、待ちを大きく書くな。大きく書けば、次にお前たちの帳が疑われる」
甚蔵は笑った。
「そこも伝えます」
久六は、信長へ頭を下げた。
「若様。先ほどの不満、取り下げはしませぬ」
「取り下げるな。帳にした」
「はい」
久六の顔には、まだ疲れがあった。
だが、朝のような荒さは消えていた。
那古野へ戻ると、足帳の写しが作られた。
手間帳とは別にする。
見せる時も、並べ方を工夫することになった。
橘屋の手間、紙屋の選び、縄屋の急ぎ。
それらと馬借の待ちは、横並びにしない。
別の紙に書き、必要な時に合わせて見る。
平手が言った。
「同じ束に綴じますか」
信長は少し考えた。
「同じ箱に入れる。だが、紙は分ける」
新五が頷いた。
「同じ乱れから出たものだが、性質が違う」
「そうだ」
信長は言った。
「清洲筋の乱れで増えた手間という箱は同じだ。だが、商いの走り、職人の手、馬借の足は違う。違うものを一つに潰すな」
藤吉郎は、その言葉を控えた。
同じ箱。
違う紙。
その形が、妙に分かりやすかった。
飯屋でも、同じ釜場で働いていても、米を研ぐ者、水を運ぶ者、火を見る者では手間が違う。
全部を「飯の手伝い」とだけ書けば、揉める。
だが、別々にしすぎれば、皆が同じ飯を作っていることを忘れる。
同じ箱。
違う紙。
それが今日の答えだった。
信長は平手へ言った。
「大殿へ送る文にも書け。清洲筋の声により、馬借の待ちが軽く見られているとの不満あり。那古野にて足帳を作る。運び賃、待ち賃、空戻り、飼葉に分け、理由を残す。馬借を若の馬とするものではなく、待ちと足を消されぬための控えとする」
平手は筆を走らせた。
「岩松の件も」
「書け。清洲門前岩松、足帳に名を載せれば若の馬になると馬借へ声をかける。本人は自分で思っただけと申す。名を残す」
又左が笑いを堪えるような顔をした。
「自分で思っただけ、まで書かれるのはなかなか堪えますな」
「なら、言わぬことだ」
信長は平然と言った。
庭に、小さな笑いが落ちた。
だが、龍之介はその笑いの奥にあるものを見ていた。
岩松は小さな口だ。
半七ほどの線はないかもしれない。
だが、小さな口が増えれば場は荒れる。
小さな口の名を軽く残すことが、次の大きな嘘を防ぐ。
清洲では、坂井大膳が岩松の失敗を聞いた。
足帳。
運び賃、待ち賃、空戻り、飼葉。
しかも、手間帳と同じ箱に入れるが、紙は分けるという。
大膳は、扇を開いたまま、しばらく何も言わなかった。
「同じ箱、違う紙か」
控えの男は頭を下げる。
「はい」
「三郎は、比べさせぬために分けた。だが、同じ乱れの中には入れた」
大膳は、かすかに笑う。
「厄介だな」
男は黙っている。
「岩松は」
「名を残されました。自分で思っただけ、と」
大膳の口元が少し歪んだ。
「愚かだが、使い捨てるほどでもない。しばらく黙らせろ」
「次は、いかがいたしますか」
大膳は、扇を閉じた。
「祭礼の日が近すぎる。帳で割るには、少し遅い」
男が顔を上げる。
「では」
「当日の人波だ」
大膳の声が低くなる。
「荷、紙、縄、人、職人、馬借。どれも個別に分けられた。なら、分けられぬものを使う」
「分けられぬもの」
「人波だ。参る者、見る者、商う者、子を連れた女、酒を飲む男。名を問えぬ数の者たちだ。そこで一度声を上げれば、帳など間に合わぬ」
控えの男の顔が強張る。
「祭礼の場で」
「大火にするな。死人もいらぬ。だが、人が押し合い、荷が倒れ、那古野の馬借が道を塞いだと言えればよい」
大膳は、扇を机に置いた。
「三郎は名を分ける。なら、名を分けられぬ場で揺らす」
清洲の影は、帳で扱える不満から、帳に載せきれない人波へ手を伸ばそうとしていた。
夜、那古野の庭は冷えていた。
藤吉郎は、手間帳と足帳の写しを並べていた。
同じ箱に入るが、紙は違う。
その意味を、何度も考えている。
龍之介が隣に座る。
「まだ見ているのか」
「はい。分けると分かりやすいです。でも、分けすぎると、皆が同じ祭礼支度で動いていることを忘れそうです」
「だから同じ箱だ」
「はい」
藤吉郎は頷いた。
「同じ箱、違う紙。覚えます」
龍之介は、庭の闇を見た。
今日の火は、一つ消えた。
だが、清洲が次に何をするかは見えている。
帳に入るものを外されたなら、帳に入らないものを使う。
人波。
祭礼の当日。
名を問う暇のない場所。
子供の泣き声、馬の嘶き、酒の匂い、押し合う肩。
そこでは、紙も帳も遅れる。
呂布の武なら、人波を力で割れる。
郭嘉の知なら、混乱の起点を探せる。
だが、人波の中で力を見せすぎれば、かえって恐怖が広がる。
戦場より厄介かもしれない。
信長は縁側で、足帳の写しを見ていた。
若い顔に疲れはある。
それでも、目は祭礼の先を見ているようだった。
龍之介は思った。
ここまで、清洲の手は一つずつ分けられてきた。
荷。
祈り。
古い判形。
祭礼の日限。
働く人。
職人の怒り。
半七の口。
津島の面子。
那古野の手間。
馬借の足。
だが、祭礼当日の人波は、一つずつ分ける前に押し寄せる。
そこでどう守るか。
次の勝負は、帳の外にある。
遠くで、寺の鐘が鳴った。
祭礼は、もう目前だった。




