第73話 手間の値
名を消せば、角は立たない。
だが、働いた手まで消せば、人の心に棘が残る。
津島の九郎左衛門たちが帰った翌朝、那古野の町には別の声が流れ始めた。
若様の名は消えた。
津島は面子を守った。
祭礼方は代価を払った。
けれど、清洲に睨まれるのは誰だ。
急ぎで紙を選んだのは誰だ。
縄を用意したのは誰だ。
橘屋は走り回り、文次は手持ちの良い紙を削り、仁助は店の段取りを崩して縄を出した。
それで、誰の手柄にもならない。
若様は上手く逃げた。
損をするのは、いつも現場だ。
噂は、怒鳴り声ではなかった。
小さな愚痴として出た。
店先の片隅、井戸端、馬留めの陰、紙を乾かす軒下。人が二人寄るたびに、低い声で同じような言葉が落ちた。
藤吉郎は飯屋でその声を聞いた。
飯を食いに来た馬借が、椀を置きながら言ったのである。
「若様の名を消すのは結構だが、消えた名の下で働いた者はたまらんな」
その場では、藤吉郎は何も言わなかった。
言い返せるほど、軽い話ではなかったからだ。
那古野へ戻ると、信長はすでに同じ報告を受けていた。
庭には平手、新五、龍之介、勝三郎がいる。又左も、珍しく黙っていた。
信長は、噂の内容を聞き終えると、短く言った。
「正しいところもある」
又左が眉を動かす。
「清洲の噂ですぞ」
「だからといって、全部間違いとは限らぬ」
信長は庭の土を見た。
「文次も仁助も、橘屋も、手間をかけた。若の名を消したことで、手柄も表へ出ぬ。そこへ清洲から睨まれるなら、割に合わぬと思う者が出る」
平手が静かに頷いた。
「そこを突かれておりますな」
「ああ」
信長は顔を上げた。
「呼べ。橘屋、文次、仁助。それと、店の者もだ。宗右衛門だけ、文次だけ、仁助だけを呼ぶな。手を動かした者を連れて来い」
藤吉郎は、その言葉に少し驚いた。
普通なら、主人だけを呼ぶ。
だが、信長は店の者も呼べと言った。
愚痴は、上の者だけから出ているのではない。
むしろ、下で手を動かした者たちの方が、棘を持ちやすい。
龍之介は、信長の判断を見ていた。
内を割る手は、外から斬れない。
内の声を、内で聞くしかない。
昼前、橘屋宗右衛門、紙師文次、縄屋仁助が那古野の庭へ来た。
それぞれ、店の者を連れている。
橘屋からは番頭の茂兵衛と、若い手代の佐吉。
文次のところからは弟子の弥一。
仁助の縄屋からは、若い職人の勘六。
茂兵衛は落ち着いていたが、佐吉は不安そうに目を伏せている。弥一は口を結び、勘六は明らかに納得していない顔をしていた。
信長は、その顔を見た。
「今日は、礼を言うために呼んだのではない」
宗右衛門が頭を下げる。
「承知しております」
「働いた者の不満を聞く」
その一言で、若い者たちが一斉に固くなった。
文次がすぐに言いかける。
「若様、弟子どもはまだ」
「黙らせるな」
信長は、文次を止めた。
「文次。お前が不満を飲めば、弟子の中に残る。仁助も同じだ。宗右衛門もだ。今日は、残ったものを聞く」
文次は口を閉じた。
仁助も、腕を組んだまま目を伏せる。
信長は、まず橘屋の佐吉へ向いた。
「佐吉。言え」
佐吉は肩を震わせた。
「私でございますか」
「そうだ」
「私は……若様に申し上げるような」
「言えぬなら、言えぬでよい。だが、外で言えば噂になる。ここで言えば、控えになる」
佐吉は、唇を噛んだ。
しばらくして、小さく言った。
「橘屋は、何度も走りました。清洲の荷も、津島の文も、祭礼方の帳面も、みな橘屋を通りました。けれど、若様の名を消すとなると、橘屋も、ただの仲立ちになりました。清洲からは睨まれ、津島からは当然の顔をされます。それでよいのかと、店の者が申しております」
宗右衛門は、佐吉を叱らなかった。
ただ、苦い顔で目を閉じた。
信長は頷いた。
「よい。次、弥一」
文次の弟子は、師の顔を一度見た。
文次は、何も言わない。
弥一は、少し震える声で言った。
「師匠は良い紙を選びました。急ぎで三十枚を出しました。けれど、那古野の名は消えました。津島では、祭礼方が買った紙になる。清洲では、那古野へ紙を出した店だと見られる。どちらにも都合よく使われるのでは、と」
信長は、弥一から目を逸らさない。
「続けろ」
「紙は、急に良いものを三十枚出せと言われて出るものではありません。乾き、厚み、腰を見て、師匠が手元から選びました。その手間は、紙の値だけで足りるのかと」
文次がわずかに息を吐いた。
弟子が思っていた以上に、店のことを見ていたからだろう。
信長は、次に勘六を見た。
「言え」
勘六は、遠慮しなかった。
「若様の名を消すのは分かります。津島の面子も分かります。けれど、縄屋は急ぎで縄を出しました。店の仕事をずらし、夜まで藁を選びました。仁助親方は何も言いませぬが、こちらは手が痛い。清洲の荷が今後うちを避けるなら、損は残ります」
庭の空気が少し荒くなった。
勘六は、言いすぎたと気づいたのか、唇を噛む。
だが、信長は怒らなかった。
「よく言った」
勘六が目を上げる。
信長は続けた。
「今の三つは、不満ではあるが、筋がある。橘屋は走った。文次は選んだ。仁助の店は急ぎで縄を出した。若の名を消しても、その手間は消えぬ」
平手は、すでに筆を取っていた。
信長は言った。
「手間帳を作る」
宗右衛門が顔を上げた。
「手間帳でございますか」
「そうだ。品の代価とは別に、清洲筋の混乱で増えた手間を記す。橘屋の走り、文次の選び、仁助の急ぎ縄。誰が何をしたか、どれだけの手間が増えたか、いくらの値にするかを残す」
勘六が思わず言った。
「銭で口を塞ぐのでございますか」
仁助が叱ろうとしたが、信長の手が先に上がった。
「違う」
信長の声は強かった。
「口を塞ぐ銭なら、帳に載せぬ。手間の値だから帳に載せる。受け取った者の名も、払った者の名も残す。後で問われれば見せる」
勘六は、言葉を失った。
信長は続ける。
「これは褒美ではない。恩でもない。迷惑料でもない。仕事が増えた分の代価だ」
宗右衛門が深く頷いた。
「商いとして扱う、ということですな」
「そうだ。津島には品の代価を払わせた。那古野で増えた確認と急ぎの手間は、まず那古野で立て替える。大殿へも報せる。清洲筋の乱れによって生じた手間として残す」
平手が筆を走らせる。
龍之介は、その言葉を聞きながら、清洲の狙いが外されていくのを感じた。
損をしたと感じる者に、黙れと言えば割れる。
忠義だ、若のためだ、と言えば、清洲に「使われた」と言われる。
だが、手間には値があると認めれば、不満は言葉になる。
言葉になれば、帳に載る。
帳に載れば、噂だけでは動かしにくくなる。
手間帳は、その場で作られ始めた。
平手が大きな紙を出し、宗右衛門が商いの形を整える。
まず橘屋。
津島祭礼方文の受け渡し。
与十郎帳面の照合。
文次、仁助、慶順、祭礼方への呼び出し。
返し文と商い控えの整え。
店の者の走り、二日分。
宗右衛門は、控えめに言った。
「若様、高くつけるものではございませぬ」
信長は首を振る。
「安くもするな」
宗右衛門が目を上げる。
「よろしいので」
「安くすれば、次からただ働きになる」
信長は言った。
「商いを守るなら、値を誤るな」
宗右衛門は、深く頭を下げた。
「承知しました」
次に文次。
御幣紙に使える紙の選別。
手元紙三十枚の見立て。
湿りを避ける包み。
祭礼方用途に合わせた控え。
弟子弥一の手伝い。
文次は、紙そのものの代価とは別に、選びの手間を少しだけ乗せた。
弥一が驚いて師を見る。
文次は、静かに言った。
「お前の手も入っている。書かねば、なかったことになる」
弥一は、深く頭を下げた。
次に仁助。
仮の場に使える注連縄二本。
急ぎの藁選び。
撚り直し。
店の仕事の組み替え。
勘六を含む若い職人二人の夜仕事。
仁助は、少し迷ってから勘六の名を入れた。
勘六は目を見開く。
「親方、私の名まで」
「手を動かしたのはお前だ。文句も言った。なら、名も残れ」
勘六は、顔を赤くした。
信長は、それを見て言った。
「不満を言った者の名を罰として残すのではない。働いた者の名として残す」
勘六は、拳を膝の上で握った。
「はい」
藤吉郎は、その手間帳を食い入るように見ていた。
飯屋でも、同じだと思った。
米を炊いた者。
水を運んだ者。
器を洗った者。
客の前には出ない仕事でも、なかったことにすれば不満になる。
だが、全部を手柄にすれば場が乱れる。
手間として残す。
それが、今日の答えだった。
手間帳に値が入ると、今度は支払いの話になった。
ここが一番難しかった。
宗右衛門が言う。
「那古野で立て替えるにしても、若様の蔵からそのまま出れば、若様が商人と職人を銭で抱えたと言われる恐れがございます」
文次も頷いた。
「口止め料と言われれば、紙師の名が汚れます」
仁助も腕を組む。
「縄屋も同じです」
信長は、それを聞いて頷いた。
「だから、平手の名で出さぬ。若の名でも出さぬ」
平手が顔を上げる。
「では、どこから」
「那古野荷筋改め手間、として出す」
宗右衛門の目が動いた。
信長は続けた。
「那古野の荷筋を乱されたことで増えた手間だ。若の褒美ではない。清洲筋の乱れを受けて、那古野の荷筋を守るために必要になった手間として扱う。支払いは那古野で立て替えるが、帳には理由を残す」
平手が頷いた。
「後に大殿へ示すための帳にもなりますな」
「そうだ」
信長は言った。
「清洲筋へ直接請求するとは今は言わぬ。だが、手間が積まれていることは残す。誰がどれだけ損をしたかを見えるようにする」
宗右衛門は、深く息を吐いた。
「それなら、受けられます」
文次も頷いた。
「口止めではなく、手間の値なら」
仁助も言った。
「若様の恩ではなく、荷筋の手間なら、職人にも説明できます」
勘六が小さく言った。
「手間の値……」
信長は勘六を見る。
「不満は消えたか」
勘六は正直に答えた。
「全部は消えませぬ」
仁助が焦りかけたが、信長は笑った。
「それでよい。全部消えたと言う方が嘘だ」
勘六は、少しだけ顔を上げた。
信長は続ける。
「だが、言う場所を間違えるな。外で言えば清洲の餌になる。ここで言えば、帳になる」
勘六は、深く頭を下げた。
「覚えます」
この瞬間、清洲が撒いた愚痴は、那古野の帳へ変わった。
不満は消えない。
だが、形を持った。
形を持った不満は、噂より扱いやすい。
夕刻、手間帳の写しが三つ作られた。
一つは那古野に残す。
一つは橘屋へ。
一つは大殿へ送る文に添える。
文面には、若の手柄は書かれない。
代わりに、清洲筋の混乱で生じた具体的な手間が並ぶ。
橘屋の走り。
文次の紙選び。
仁助の急ぎ縄。
馬借の待ち。
寺の預かり。
紙仕事。
それぞれの名と値。
藤吉郎は、控えを見ながら小さく言った。
「見えると、違いますね」
龍之介が横に立つ。
「何が」
「損をした、だけだと怒りになります。でも、何をして、どれだけ手間が増えたかを見ると、話になります」
「そうだ」
「飯屋でも、忙しかった、だけだと喧嘩になります。水を何度運んだか、米を何升炊いたか、誰が器を洗ったかを書けば、話せます」
龍之介は頷いた。
「よく見ている」
藤吉郎は、少し照れたように頭を下げたが、すぐに真顔へ戻った。
「でも、これも噂にされますよね。誰がいくら受けたか、と」
「される」
龍之介は即答した。
藤吉郎は顔を上げる。
「では、どうするんですか」
「隠さない」
信長の声が後ろからした。
藤吉郎が振り向く。
信長は、手間帳の写しを持っていた。
「誰がいくら受けたかを隠せば、口止めになる。だから、聞かれれば見せる。ただし、手間も一緒に見せる。銭だけ見せるな」
藤吉郎は頷いた。
「銭だけだと、貰ったように見える」
「そうだ。手間と一緒なら、働いた値になる」
信長は龍之介へ目を向けた。
「清洲は次に、銭の多い少ないを言う」
「でしょうね」
龍之介は答えた。
「弥一はいくら、勘六はいくら。橘屋は得をした。文次は高く売った。仁助は若に取り入った。そう来る」
信長は笑った。
「見えるか」
「見えます」
「なら、先に言わせる場を作る」
平手が、静かに頷いた。
「手間帳を隠さず、必要なら商人と職人の前で読み上げますか」
「全部ではない。銭の額だけが一人歩きしそうなものを、手間ごと読む。聞きたい者には聞かせる。だが、祭礼前に騒ぎにするな」
宗右衛門が言った。
「橘屋で、一度だけ帳を見せる場を作りましょう。店先ではなく奥で。商人、馬借、職人の代表だけを」
信長は頷いた。
「よい。騒ぎになる前に、見せる場所を作る」
龍之介は、その手を見ていた。
隠さない。
だが、晒さない。
見せる場所を選ぶ。
名を消す時と同じだ。
何を残し、何を消し、どこで見せるか。
それが、今の戦だった。
清洲では、坂井大膳が手間帳の噂を聞いた。
那古野の商人と職人は、不満を言った。
信長はそれを罰せず、手間帳に載せた。
品の代価とは別に、清洲筋の混乱で増えた手間として値を付けた。
若の褒美ではなく、口止めでもなく、那古野荷筋改め手間として残した。
大膳は、報告の途中で扇を開いた。
「帳にしたか」
控えの男が頭を下げる。
「はい」
「また帳だ」
大膳の声に、かすかな苛立ちが混じる。
半七の口も帳へ寄った。
与十郎の文も帳で崩された。
今度は不満まで帳へ入れられた。
大膳は、扇の骨を指で弾いた。
「なら、帳の中を争わせる」
「中を」
「誰が多く受けたか。誰の手間が軽く見られたか。橘屋ばかり得をした。文次の紙は高い。仁助の縄は若に近いから値がついた。馬借の待ちは軽い。寺の預かりはただ働きだ。そう言わせろ」
控えの男は頷いた。
「帳があるからこそ、比べられる」
「そうだ」
大膳は薄く笑う。
「見えるものは、妬みの種にもなる。三郎は隠さぬ道を選んだ。なら、見えたものを刺せ」
「どこから始めますか」
「馬借だ」
大膳は言った。
「商人と職人は帳の理屈に慣れている。馬借は待たされた手間を軽く見られると怒りやすい。渡し場から始めろ」
控えの男は、深く頭を下げた。
大膳は窓の外を見た。
「不満を帳に入れたなら、次は帳の並びで割る」
清洲の影は、那古野の手間帳そのものを、次の火種へ変えようとしていた。
夜、那古野の庭は風が冷たかった。
藤吉郎は、昼に作った手間帳の写しを思い返していた。
誰が何をしたか。
どれだけ手間が増えたか。
いくらにしたか。
それを見えるようにするだけで、空気が少し変わった。
だが、同時に怖さもあった。
見えるようにすれば、比べられる。
比べられれば、不満がまた出る。
藤吉郎がそう言うと、龍之介は頷いた。
「出る」
「それでも、見せるんですか」
「隠しても出る」
「難しいです」
「難しいな」
龍之介は庭の暗がりを見た。
現代でも同じだった。
給金。
手当。
役割。
誰が多い、誰が少ない、誰が楽をした、誰が損をした。
見せれば比べられる。
隠せば疑われる。
だからこそ、額だけでなく、理由を残す必要がある。
この時代でも、その理屈は変わらない。
信長は、縁側で一人、手間帳の写しを見ていた。
若い横顔に、少し疲れがある。
だが、目はまだ鋭い。
龍之介は思った。
呂布の武なら、不満を言う者を黙らせることはできる。
郭嘉の知なら、不満がどこへ流れるかを読むことはできる。
だが、働いた者へ正しく値を返すことは、武でも知でも一手では済まない。
帳が要る。
聞く場が要る。
納得しきれない者を残す余地も要る。
清洲は、次に手間帳の中を突くだろう。
誰が多い。
誰が少ない。
誰の名があり、誰の名がない。
その火は、外からではなく、内の腹の底から燃える。
龍之介は、拳をゆっくり開いた。
戦は、また細くなった。
槍を振るう場所はない。
だが、人の損得をめぐるこの戦で負ければ、那古野の場は内から割れる。
遠くで、寺の鐘が鳴った。
祭礼の日限は、もう目前だった。




