第70話 濁る口
同じ水でも、泥を入れれば底が見えなくなる。
口も同じだった。
半七を古い酒蔵から連れ戻した翌朝、那古野の町には三つの噂が流れていた。
半七は、家族を守るために嘘を言った。
弥惣は、帳場の不足を逃れるために半七へ罪を着せた。
源作は、荷車の盗みを隠すために那古野へ従った。
誰が言い始めたのか、はっきりしない。
だが、言葉の回り方が速すぎた。
飯屋の土間で一つ。
寺の馬留めで一つ。
橘屋の店先で一つ。
別々の場所で、まるで同じ朝に種をまかれたように芽を出していた。
藤吉郎は飯屋でそれを聞くと、すぐに那古野へ走った。
信長は庭で、平手と昨日の聞き取りの控えを見ていた。龍之介、新五、勝三郎もいる。又左は少し離れた場所で、若い者に槍の柄を磨かせていたが、藤吉郎の足音に顔を上げた。
藤吉郎は膝をつく。
「若様。半七、弥惣、源作の噂が出ています」
信長は驚かなかった。
「来たか」
「はい。半七は家族を守るために嘘を言った。弥惣は帳場の不足を逃れるために半七へ罪を着せた。源作は荷車の盗みを隠すために那古野へ従った、と」
平手が目を細める。
「早いですな」
新五も低く言った。
「昨日の今日です。清洲の口が動いております」
信長は控えを閉じた。
「半七たちは」
勝三郎が答える。
「寺近くの小屋におります。夜の間、別々に寝かせました。口裏は合わせさせておりません」
「よい」
信長は立ち上がった。
「今日は、三人を別々に聞く。先に半七。次に弥惣。最後に源作。互いの声は聞かせるな」
又左が近づいた。
「若、私も」
「来い。ただし、外で待て」
「また外でございますか」
「噂は人を硬くする。そこへお前が立てば、口が閉じる」
又左は、少し不服そうにしながらも頭を下げた。
「承知しました」
龍之介は、信長の横顔を見た。
清洲の狙いは、半七たちの言葉そのものを潰すことではない。
聞く側の耳を濁すことだ。
半七が何を言っても、家族を守るための嘘だと言える。
弥惣が何を言っても、帳場不足を逃れるためだと言える。
源作が何を言っても、盗みを隠すためだと言える。
これでは、口が残っても、言葉が濁る。
なら、濁ったまま聞くしかない。
その中で、沈まない石を拾うしかない。
半七は、小屋の奥で座っていた。
顔色は悪い。
だが、昨日よりは息が落ち着いていた。眠れたかどうかは分からないが、水は飲み、粥も少し口にしたという。
信長は半七の前に座る。
平手が筆を持ち、龍之介と新五が少し離れて控えた。勝三郎は戸口に立ち、外の気配を見ている。
信長は、噂の話から入った。
「半七。お前が家族を守るために嘘を言ったという声が出ている」
半七の顔が強張った。
「家族は」
「まだ何もしておらぬ。だから先に聞く。お前には家族がいるのか」
「母と、妹がおります」
「清洲門前か」
「いいえ。少し外れた村に」
「昨日、お前が言ったことは、その二人を守るための嘘か」
半七は、唇を噛んだ。
すぐには答えない。
信長も急がせない。
やがて、半七は頭を下げたまま言った。
「守りたいとは思いました」
平手の筆が止まりかけた。
信長は表情を変えない。
「続けろ」
「私は、あのまま川向こうへ出されれば、母と妹に会えなくなると思いました。荷金不足を背負わされれば、村にも顔を出せぬ。だから、昨日は必死で言いました。自分を守るためでもあり、家族を守るためでもあります」
「では、嘘か」
「嘘を混ぜたつもりはありません」
「つもり、では足りぬ」
半七は喉を鳴らした。
「分かります。ですから、覚えていることだけを申します。覚えていないことは、覚えていないと申します」
信長は少しだけ頷いた。
「昨日と同じ筋を言え。違うところがあれば、違うと言え」
半七は息を整えた。
「最初は、清洲門前の北蔵です。灰小屋や米、縄、紙の荷のことで、短い紙が帳場脇へ置かれました。誰の筆かは分かりません。そこに、那古野は名を問う、ならば名を大きくせよ、と」
平手の筆が走る。
「大きくせよ、とは」
「津島筋、天王社筋、祭礼支度。そのような言葉です」
龍之介は、半七の言葉を聞きながら、これまでの流れを思い返した。
津島筋。
天王社筋。
祭礼支度。
確かに順に大きくなっている。
「次は弥惣殿から口で聞きました。米は祭礼支度米。縄は祭礼縄。紙は御幣紙。細かいことを問われたら、祭礼に遅れると言え、と」
「人の札は」
「それは、北蔵奥の小部屋です。屏風の向こうの声が、荷で止まらぬなら人を急がせよ、と」
信長の目が細くなる。
「昨日もそう言ったな」
「はい」
「声の主は見ていない」
「見ておりません」
「声に聞き覚えは」
半七は迷った。
「ございます」
場が静まった。
信長は低く問う。
「誰だと思う」
半七は、すぐには言わなかった。
言えば戻れない。
それが分かっている顔だった。
「名は、申し上げられません」
新五の眉が動く。
又左が外でわずかに身じろぎした気配がある。
信長は、それでも怒らなかった。
「なぜだ」
「違っていたら、私はその方を偽って売ったことになります。合っていても、私はもう生きて戻れませぬ」
「戻りたいのか」
「戻りたいです」
半七は、初めてまっすぐ言った。
「ですが、昨日のまま戻れば消されます。今日、名を出せば、別の形で消されます」
信長は、半七を見つめた。
「では、名ではなく、声の形を言え」
「声の形」
「言い癖。言葉の選び方。誰と決めずに言え」
半七は目を閉じた。
「……『遅れは敵ではない。遅れを誰のせいにするかが肝要』と、そう申しました」
龍之介の背に、薄い冷たさが走った。
言葉が整いすぎている。
ただの北蔵の小者ではない。
人を盤面のように見る者の言い方だった。
信長は平手へ言った。
「そのまま残せ」
平手は頷き、筆を走らせた。
「他には」
「『三郎は物を見る。ならば、物から人へ移せ』とも」
信長は動かなかった。
だが、場の空気は確かに変わった。
三郎。
信長をそう呼ぶ者。
清洲の内にいる者。
信長は半七へ言った。
「よい。今日はそこまででよい」
半七は、力が抜けたように頭を下げた。
「私は」
「まだ許していない。だが、今日の言葉は残す」
「はい」
半七は、それだけで十分だというように目を伏せた。
次に聞いたのは弥惣だった。
弥惣は、昨日より顔色を戻していた。
落ち着いた分だけ、言葉は選ばれるだろうと龍之介は思った。
信長は最初に噂を告げた。
「弥惣。お前が帳場の不足を逃れるため、半七へ罪を着せたという声が出ている」
弥惣は、用意していたように頭を下げた。
「事実無根でございます。帳場の不足など」
「ないのか」
弥惣の言葉が止まる。
信長は続けた。
「ないなら、ないと言え。あるなら、どの荷か言え」
弥惣は汗を浮かべた。
「不足と申すほどではございませぬ。ただ、祭礼支度の荷で、入るはずの銭と出るはずの銭が揃わぬものが」
「それを何と言う」
弥惣は俯いた。
「不足でございます」
平手の筆が走る。
信長は問う。
「誰の帳場だ」
「北蔵の仮帳です」
「本帳ではない」
「はい」
「仮帳を誰が持つ」
「私が書いております」
「半七は」
「口利きです。帳場は持ちませぬ」
「なら、なぜ半七へ不足を負わせる話になった」
弥惣は唇を舐めた。
「半七の名で荷が動いたからです」
「帳場はお前だ」
「はい」
「だが、半七に負わせようとした」
弥惣は黙った。
信長は、そこで声を少し落とした。
「弥惣。お前を斬る場ではない。帳場を見たい」
弥惣の顔が上がる。
「帳場を」
「仮帳を持ってこい」
「それは」
「燃えたか」
弥惣は目を見開いた。
信長は、弥惣の顔を見て言った。
「燃える予定か」
弥惣は、完全に黙り込んだ。
龍之介は、信長の問いの鋭さに息を潜めた。
燃えたか、ではない。
燃える予定か。
つまり、清洲が帳場を消す可能性まで見ている。
弥惣は、小さな声で言った。
「北蔵奥の箱にあります」
「誰が鍵を持つ」
「私と、もう一人」
「名は」
「甚内」
新しい名だった。
平手が残す。
信長は続けた。
「甚内は何者だ」
「北蔵の古い帳場役です。弥惣は手伝いに過ぎぬと、よく申します」
自分のことを三人称のように言いかけ、弥惣は慌てて口を閉じた。
信長はそこを責めなかった。
「甚内は、半七を川向こうへ出す話を知っていたか」
「……知っていたと思います」
「思う、ではなく」
「弥惣一人では決められませぬ」
弥惣は、ようやくそう言った。
「半七を出せと言ったのは」
「甚内です」
「屏風の向こうの声は」
「私は聞いておりません。ただ、甚内は小部屋へ入ることがございます」
信長は頷いた。
「よい。弥惣、お前は帳場の不足を半七へ負わせようとした。それは残る」
弥惣の顔が歪む。
「はい」
「だが、仮帳が残っているなら、お前一人の言葉より強い。燃やされる前に持ってこい」
「私は出られませぬ」
「お前は出さぬ」
信長は勝三郎へ向いた。
「勝三郎。小平をつける。弥惣の言った箱、鍵、甚内を見る。無理に取るな。燃えるかどうかを見る」
勝三郎は頭を下げた。
「承知しました」
弥惣の肩から、少し力が抜けた。
自分が助かったのではない。
だが、帳場そのものが見られる。
それで、少なくとも全部を自分一人にされる道は細くなった。
最後は源作だった。
源作は、三人の中で一番口が重かった。
酒蔵裏の荷扱いで、昨日は荷車を動かそうとした男である。
信長は、最初に噂を告げた。
「源作。お前が荷車の盗みを隠すために那古野へ従ったという声が出ている」
源作は、顔を伏せたまま言った。
「盗んではおりませぬ」
「では、あの荷車は誰のものだ」
「酒蔵裏の共同の車です」
「誰が使える」
「酒蔵の荷扱いなら」
「昨日は、何を積むつもりだった」
源作は黙った。
信長は急がせない。
やがて、源作は低い声で言った。
「半七殿です」
藤吉郎が、控えの端で息を呑みそうになったが、堪えた。
源作は続ける。
「川向こうまで乗せろと。荷ではなく人だから、筵を掛けろと」
「誰が言った」
「弥惣殿からです」
「弥惣だけか」
源作は、少し迷った。
「弥惣殿の後ろに、もう一人おりました。顔は見ておりませぬ。酒蔵の中から、車は汚れている方がよい、と」
「なぜだ」
「荷金を持って逃げる者は、きれいな車には乗らぬ、と」
場が静まった。
逃げた形を作るためだ。
車の汚れまで、逃亡の絵に合わせている。
信長は問う。
「その声に聞き覚えは」
「ございません。ただ、酒蔵裏の者ではありません」
「なぜ分かる」
「酒蔵裏の者は、車を汚れている方がよいなどとは言いません。汚れた車は後で洗う手間が増えます」
源作の声に、初めて怒りが混じった。
荷車を扱う者の怒りだった。
龍之介は、それを聞いて少し頷いた。
昨日、荷車を止めた時、龍之介は馬を傷つけなかった。
源作は、それを見ていた。
だからか、源作は続けた。
「昨日、龍之介殿が車を止めた時、車を壊しませなんだ」
龍之介は源作を見る。
「壊す必要がなかった」
「はい。あれを壊されていたら、私は何も言わなかったと思います。どうせ那古野も、車を物としか見ぬと」
信長は、源作の言葉を聞いていた。
「では、今は言うのか」
「言います。あの車は、半七殿を逃げた者に見せるための車でした。私は銭を受けました。ですが、盗みを隠すためではありませぬ」
「銭は誰から」
「弥惣殿です」
「いくら」
「銭二百」
平手が記す。
源作は、さらに言った。
「そのうち半分は、まだ酒蔵裏の梁の上にあります」
信長の目が細くなる。
「なぜ半分残した」
「半七殿を乗せた後で残りを受け取る約束でした。先に受けた分を使えば、逃げられなくなると思い、置きました」
勝三郎が問う。
「梁のどこだ」
源作は場所を答えた。
これも、確認できる。
信長は頷いた。
「よい。源作、お前は銭を受けた。それは残る」
「はい」
「だが、車を盗んだかどうかは、梁の銭と共同の車の持ち主を見てからだ」
「はい」
源作は、深く頭を下げた。
三人の口は、それぞれ濁っていた。
だが、濁りの中に確かめられる石が出てきた。
仮帳。
甚内。
梁の銭。
北蔵奥の小部屋。
屏風の向こうの声。
清洲が濁そうとした口から、かえって手触りのあるものが出始めていた。
その日の午後、勝三郎と小平が戻った。
北蔵の仮帳は、まだ燃えていなかった。
ただし、箱は別の場所へ移されかけていた。
甚内という古い帳場役もいた。
小平が見たところ、甚内は弥惣が那古野で喋ったことをまだ知らず、箱を奥から表へ出す支度をしていたという。
無理に奪わず、箱が動いたことだけを見届けて戻った。
酒蔵裏の梁からは、源作の言った銭百が見つかった。
勝三郎が源作の言った場所を確認し、酒蔵裏の年寄りにも、あの車が共同の車であることを聞いた。
信長は報告を聞き、短く言った。
「少し固まったな」
平手が頷く。
「三人の言葉が、すべて同じではないところが、かえって自然でございます」
「そうだ」
信長は言った。
「同じすぎれば、口裏だ。違いがあり、確かめられるものがある。そこを残す」
藤吉郎が、控えを見ながら言った。
「濁っていても、底に石があるんですね」
又左が腕を組む。
「今日は飯ではないのか」
藤吉郎は少しだけ考えた。
「粥でも、底に焦げがある時があります」
又左は、あきれたように笑った。
「結局、飯ではないか」
信長も笑った。
だが、すぐ表情を引き締める。
「大殿へ送る。昨日の口に加え、今日の三つを」
平手が筆を取った。
信長は口述する。
「半七、家族を守る意図は認めるも、昨日の筋は大きく変えず。津島筋、天王社筋、祭礼支度と名を大きくせよとの短冊あり。北蔵奥の小部屋、屏風の向こうの声として、『遅れは敵ではない。遅れを誰のせいにするかが肝要』『三郎は物を見る。ならば、物から人へ移せ』との言葉を挙げる」
平手の筆が走る。
「弥惣、北蔵仮帳の不足を認める。仮帳は北蔵奥の箱にあり、鍵は弥惣と甚内。甚内、北蔵古帳場役。半七を川向こうへ出す話、弥惣一人では決められぬと述べる」
信長は続けた。
「源作、酒蔵裏の共同車で半七を川向こうへ乗せるため銭二百を受けたと述べる。うち百は酒蔵裏の梁に残し、確認済み。車は共同のものと酒蔵裏の年寄りより聞く」
平手が顔を上げた。
「坂井の名は」
信長は少し黙った。
庭の者たちも息を詰める。
ここまで来ても、まだ名は出ていない。
だが、言葉の質はかなり近づいている。
信長は首を横に振った。
「まだ書かぬ」
又左がわずかに眉を上げる。
信長は言った。
「父上なら、読めば分かる。こちらが急いで名を置く必要はない」
平手は深く頭を下げた。
「承知しました」
龍之介は、信長の我慢を見た。
ここで坂井大膳の名を書けば、読者なら分かりやすい。
だが、作中の信長は証を積む。
名を急がない。
その慎重さが、清洲の手を少しずつ狭めている。
清洲では、坂井大膳が、那古野へ流した噂が思ったほど効かなかったことを聞いていた。
半七は崩れたが、全てを変えなかった。
弥惣は仮帳と甚内の名を出した。
源作は梁の銭を出した。
大膳は、久しぶりに扇を開かなかった。
閉じたまま、膝の上に置いている。
「濁したつもりが、石を出したか」
控えの男は頭を下げたまま動かない。
「申し訳ございませぬ」
「謝るな。謝っても仮帳は消えぬ」
大膳の声は静かだった。
静かすぎて、かえって冷えた。
「甚内は」
「箱を動かそうとしていたところを見られたようです」
「燃やしていないのか」
「まだ」
大膳は目を閉じた。
「遅い」
それだけだった。
控えの男の肩が震える。
大膳は続けた。
「甚内を切るな。今切れば、三郎の思う壺だ」
「では」
「仮帳を本帳に合わせる」
「合わせる」
「不足ではなく、仮のずれにする。祭礼前で出入りが多く、仮帳の線が乱れた。そういう形にする」
控えの男は、ゆっくり頷いた。
「半七は」
「生かしておけ。だが、半七の声は恐れの声だと流せ」
「弥惣は」
「帳場に戻すな。戻せば帳場が半七へ寄せたことになる」
「源作は」
「銭百を受けた事実がある。銭で動いた者として軽く扱える」
大膳は、扇をようやく開いた。
「次は、祭礼そのものへ寄せる。荷でも人でもない。祭礼の日を前に、津島から正式な催促を出させる」
控えの男が顔を上げる。
「津島から、でございますか」
「津島の中にも、那古野の細かさを嫌う者はいる。榎本屋の伊助だけではない。祭礼前の者に、那古野の問いで支度が遅れたと書かせろ。少しの事実があればよい」
大膳は薄く笑った。
「三郎が名を急がぬなら、こちらは日限を急がせる」
清洲の影は、濁した口から、祭礼そのものの催促へ手を伸ばし始めていた。
夜、那古野の庭は静かだった。
藤吉郎は、今日の控えを何度も見直していた。
半七の言葉。
弥惣の言葉。
源作の言葉。
三つは揃っていない。
だが、揃っていないからこそ、人の言葉に見えた。
「全部同じなら、正しいと思っていました」
藤吉郎が言った。
龍之介は庭石に腰を下ろしている。
「そう見える時もある」
「でも、今日は違うんですね」
「ああ。怖がっている者、隠している者、怒っている者。それぞれ見ている場所が違う。同じになりすぎる方が、おかしいこともある」
藤吉郎は、控えを見つめた。
「それを聞くのは、難しいです」
「難しい」
「俺なら、早く答えを一つにしたくなります」
「皆そうだ」
龍之介は空を見た。
現代でも、そうだった。
揉め事が起きれば、誰が悪いかを早く決めたくなる。
だが、早く決めた答えは、たいてい誰かに都合がいい。
この時代では、その都合が命を奪う。
藤吉郎は言った。
「若様は、坂井の名を書きませんでした」
「ああ」
「もう、だいぶ近い気がします」
「近い。だが、まだ届いていない」
「届いていない荷は、届いたことにしない」
龍之介は微かに笑った。
「覚えているな」
「はい」
藤吉郎は、控えを閉じた。
庭の向こうで、馬が鼻を鳴らす。
寺の鐘は、今夜は少し遠く聞こえた。
龍之介は拳を開く。
今日は、武を使わなかったわけではない。
半七を乗せるはずだった荷車を止めた昨日の力が、今日の聞き取りの前提になっていた。
だが、本当に難しかったのは、その後だった。
残した口をどう聞くか。
濁った言葉から、何を拾い、何を捨てないか。
郭嘉の知は、濁りの奥にある線を見ようとする。
呂布の武は、濁ったものごと断ち切りたがる。
龍之介は、その二つを胸の奥で押さえた。
切れば早い。
だが、切れば見えなくなる。
待てば遅い。
だが、待てば沈むものもある。
清洲は、次に日限を使うだろう。
祭礼そのものの声が来れば、これまでとは重さが違う。
津島の名。
天王社の名。
祭礼の日。
人は、日が迫れば判断を急ぐ。
信長は、それでも急がずにいられるか。
龍之介は、夜の空気を吸った。
戦は、また一つ奥へ入った。




