第69話 消される口
使われた口は、軽く見られる。
都合よく声を出させ、都合が悪くなれば、風のせいにして消す。
半七の名が積み重なりすぎた翌朝、勝三郎のところへ小平が戻った。
寺の紙仕事へ置かれてから、小平は大きな顔をしなくなった。人の間を縫うように歩き、聞いたことも、見たことも、余計な飾りをつけずに戻す。
その小平が、いつもより早い足で那古野へ入ってきた。
庭では、信長が平手、新五、龍之介と半七の足について話していた。祭礼の物、人、怒り。どこを辿っても半七の名が出る。だが、半七だけを押さえれば、そこで線が切れる。
そう話していたところだった。
小平は膝をつくと、すぐに言った。
「半七が、清洲門前の北蔵におりませぬ」
勝三郎の目が細くなる。
「いつからだ」
「夜明け前に北蔵へ入るところまでは見ました。ですが、出た時は表ではなく、裏の炭小屋側からです。男二人がついておりました」
信長は黙って聞いていた。
小平は続ける。
「半七は自分の足で歩いておりました。ただ、腰の袋を持っておりませぬ。いつも持っている木札の束もありません」
「どこへ向かった」
「清洲門前の東外れ、古い酒蔵の方へ。そこから川筋へ抜けられます」
平手が低く息を吐いた。
「逃げた形にできますな」
新五も頷いた。
「あるいは、帳面や銭を持って消えたと」
龍之介は、小平の言葉を頭の中で並べた。
腰の袋がない。
木札の束もない。
自分の足で歩いているが、男二人がつく。
逃げる者なら、道具を持つ。
呼ばれた者なら、手ぶらでも行く。
消される者なら、手ぶらにされる。
信長は短く言った。
「行く」
又左が一歩前へ出た。
「若」
「お前は残れ」
「またでございますか」
「半七を助けに行くのではない。消されぬよう見る。槍の気配はいらぬ」
又左は歯を噛み、すぐ頭を下げた。
「承知しました」
信長は勝三郎へ向く。
「顔を覚えろ。だが、先に捕らえるな」
「はい」
「龍之介」
「はい」
「逃がすな。だが、壊すな」
「承知しました」
その言い方に、龍之介はわずかに息を吸った。
逃がすな。
壊すな。
半七は味方ではない。
だが、勝手に消されてよい口でもない。
それが、今日の仕事だった。
古い酒蔵は、清洲門前の賑わいから少し外れた場所にあった。
昔は酒を置いていたというが、今は戸口に古縄が掛かり、壁の一部が崩れかけている。裏手には細い道があり、その先は川へ向かう。
信長たちは、表から近づかなかった。
小平が知っている路地を使い、勝三郎が先に目を走らせる。
酒蔵の脇で、半七は立っていた。
いや、立たされていた。
男二人のうち、一人は半七の前で何かを言い聞かせている。もう一人は荷車の脇にいた。荷車には古い筵が掛けられている。
半七の顔は青かった。
声は聞こえない。
だが、唇が何度も動いていた。
弁解している。
そう見えた。
信長は足を止める。
「聞けるか」
小平は小さく頷き、低い塀の陰へ回った。
龍之介は半七の姿を見た。
あの男は、多くの荷に名を乗せた。
米にも、縄にも、紙にも、人にも、職人にも。
疲れを使い、怒りを使った。
許せる相手ではない。
だが、今の半七は、使った側ではなく、使われた側へ落とされかけている。
塀の向こうから、小平が戻った。
「荷金の不足を半七のせいにすると言っております。北蔵の帳場へ戻れば詰められる。川向こうでしばらく身を隠せ、と」
勝三郎が問う。
「誰が言っている」
「一人は、北蔵の帳場に出入りする弥惣。もう一人は見覚えが薄いですが、酒蔵の裏で荷を扱う男です」
弥惣。
新しい名だった。
信長は目を細める。
「川向こうへ出すのか」
「はい。荷車へ乗せるつもりかと」
半七は殺されるとは限らない。
だが、川向こうへ出され、荷金不足の名を着せられれば、清洲門前から消える。
その後で、半七が逃げた、半七が勝手にやった、と言えばよい。
線が切れる。
信長は静かに言った。
「出る」
勝三郎が頷いた。
龍之介は、荷車の車輪を見る。
古いが、動く。
もし動き出せば、狭い裏道を抜けて川へ向かう。
止めるなら、最初の動きで止めなければならない。
信長は、正面から入った。
「朝から、ずいぶん急ぎだな」
その声に、半七の肩が跳ねた。
弥惣と呼ばれた男が振り向く。
痩せた男だった。目尻が細く、口元に愛想笑いの癖がある。だが、信長の顔を見た瞬間、その笑いは消えた。
「若様。これは、清洲門前の内の始末で」
「内の始末を、川へ流すのか」
弥惣は頭を下げた。
「流すなどとは。半七が少々疲れておりまして、休ませようと」
半七が顔を上げかけた。
だが、弥惣の目を見て、すぐ伏せる。
信長は、それも見た。
「半七」
半七は震える声で答えた。
「は、はい」
「お前は休みに行くのか」
半七は答えられなかった。
弥惣が横から言う。
「本人も、しばらく身を」
「半七に聞いている」
信長の声が低くなった。
弥惣は口を閉じた。
半七は、喉を鳴らした。
「私は……北蔵へ戻れと言われれば戻ります。ただ、弥惣殿が、今戻れば荷金の不足を私が被ることになると」
「不足はあるのか」
「分かりませぬ。私は帳場を持っておりませぬ」
「では、なぜお前が被る」
「私の名が出すぎたから、と」
半七は、そこまで言って顔を歪めた。
自分で言って、自分の立場が分かったのだろう。
使われた名が、多すぎた。
だから、捨てるにも都合がよい。
信長は弥惣を見た。
「半七は帳場を持っていないと言った」
「ですが、荷の口利きを」
「口利きと帳場は違う」
信長は短く切った。
「荷金の不足があるなら、帳場の名を出せ。荷の名を出せ。日付を出せ」
弥惣は黙った。
龍之介は、その横で動く荷車の男を見た。
男の手が、馬の手綱へ伸びている。
次の瞬間、荷車が動いた。
半七を乗せる前に、車をずらして道を塞ぐつもりだったのか、それとも逃げるつもりだったのか。
どちらにせよ、動きは速かった。
龍之介は地面を蹴った。
荷車の前へ出る。
馬が驚き、首を上げる。
龍之介は馬を殴らない。
荷車の轅を片手で掴み、もう片方の手で馬の首筋に触れた。
ぐっと、車が止まった。
車輪が泥を噛み、軋んだ音を立てる。
馬は暴れかけたが、龍之介の手が首を押さえると、不思議なほど動きを弱めた。
荷車の男が目を見開く。
弥惣も声を失った。
龍之介は、静かに言った。
「馬まで巻き込むな」
それだけだった。
だが、その場にいた者たちは見た。
荷車を止めた力。
馬を傷つけなかった手。
ただの文問答ではない。
那古野には、力もある。
だが、力の向きは選ばれている。
信長は、龍之介の背を見てから、弥惣へ戻った。
「逃げるな。今逃げれば、荷金不足を抱えて逃げた者になる」
弥惣の顔が青くなった。
それは、半七へ着せようとしていた言葉だった。
勝三郎が弥惣と荷車の男の顔を見た。
「名を言え」
弥惣は答えた。
「清洲北蔵の帳場手伝い、弥惣」
荷車の男は、少し遅れて言った。
「酒蔵裏の荷扱い、源作」
「誰に命じられた」
弥惣は黙る。
信長は言った。
「今、坂井の名を出せば楽になると思うな。出せぬ名を出せば、お前の名が軽くなる」
弥惣は汗を浮かべた。
龍之介は、信長の言葉を聞いていた。
ここでも急がない。
大膳の名は、まだ出させない。
無理に出せば、偽の線になる。
信長は続けた。
「半七の名が残りすぎた。だから荷金不足を着せて川向こうへ出す。そう考えた者がいる。お前か」
弥惣は口を開きかけた。
だが、すぐ閉じる。
その沈黙が、半分の答えだった。
半七が、突然膝をついた。
「若様。私は、言われた通りに口を使いました。米、縄、紙、職人、人の札。どれも、私が勝手に思いついたことではございません」
信長は冷たく問う。
「なら、誰だ」
半七は弥惣を見た。
弥惣は目で止めようとした。
半七は震えた。
だが、龍之介が止めた荷車を見た。
自分が乗せられかけた車だった。
それで腹が決まったのか、半七は絞り出すように言った。
「最初は、北蔵の帳場へ置かれた短冊でした。次に、弥惣殿から口で。祭礼の荷になってからは、半分は弥惣殿、半分は北蔵奥の小部屋で聞きました」
「誰から」
「顔は見ておりませぬ。屏風の向こうからでございます」
弥惣が叫びかけた。
「半七!」
勝三郎が一歩前へ出る。
弥惣は黙った。
信長は半七へ問う。
「声は」
「年は若くありませぬ。静かな声でした。私の名を使え、だが名を残すな、と」
「残ったな」
半七は顔を伏せる。
「はい」
「だから消されかけた」
半七は、その言葉に肩を震わせた。
信長は少しの間、黙った。
それから言った。
「半七。お前は許されたわけではない」
「はい」
「だが、勝手に消えてよい口でもない」
半七は、畳もない土の上で頭を下げた。
「はい」
「弥惣。源作。お前たちも同じだ。ここで斬らぬ。だが、名は残す」
弥惣の顔が歪む。
「若様、これは清洲の内の」
「清洲の内なら、那古野へ噂を流すな」
信長の声が鋭くなった。
「那古野の名を使い、津島の祭礼を使い、商人、馬借、職人、女衆を揺らした。内で済むと思うな」
弥惣は、それ以上言えなかった。
半七たちは、那古野へ連れられた。
捕らえた形にはしない。
だが、勝手に戻らせもしない。
場所は寺の馬留めに近い小屋だった。
市助や多吉の時と同じく、人目から隠しすぎず、かといって晒し者にもならぬ場所である。
寺の慶順が呼ばれた。
半七を見ると、慶順はすぐに水を出させた。
「飲みなさい」
半七は戸惑った。
「私は」
「喉が枯れたままでは、同じ言葉を二度言えぬ」
半七は震える手で水を飲んだ。
信長は慶順へ頷き、それから平手を呼ばせた。
平手が筆を取り、半七、弥惣、源作の言葉を順に残していく。
半七の名で動いた荷と人。
弥惣が北蔵の帳場手伝いであること。
荷金不足を半七へ被せる話。
川向こうへ出すつもりだったこと。
屏風の向こうの声。
北蔵奥の小部屋。
短冊。
まだ、坂井大膳の名は書かない。
書けない。
だが、北蔵の奥に誰かがいる。
それは残った。
半七は、何度も同じところで口ごもった。
平手は急がせなかった。
信長も、急がせなかった。
龍之介はそれを見ていた。
半七は嘘をつくかもしれない。
自分を軽くするため、弥惣へ寄せるかもしれない。
屏風の向こうという曖昧な言い方で逃げているかもしれない。
だから、すべてを信じてはならない。
だが、すべてを嘘とも決めつけてはならない。
使われた者の口は、濁っている。
濁った水でも、流れの向きは分かる時がある。
信長は、半七へ言った。
「明日、同じことをもう一度言え」
半七は顔を上げる。
「明日も、でございますか」
「今日だけなら、恐れで言ったことになる。明日も言えれば、言葉の形が少し固まる」
半七は、唇を噛んで頷いた。
「言います」
「変わったところがあれば、それも言え。嘘を守るより、間違いを直す方がましだ」
半七の目が赤くなった。
「はい」
弥惣は黙っている。
源作も黙っている。
それぞれに水は出された。
だが、自由にはされない。
那古野の場は、罪人を斬る場ではなく、口を残す場へ変わっていた。
その日のうちに、信長は大殿へ文を送らせた。
平手が文案を読み上げる。
「清洲門前の半七、米、縄、紙、祭礼支度人、若職人の件に名多く出る。夜明け前、清洲北蔵裏より弥惣、源作に伴われ、東外れの古酒蔵へ向かう。荷金不足を半七へ負わせ、川向こうへ出す話あり」
信長は頷く。
平手は続けた。
「半七は、これまでの口利きにつき、北蔵帳場の短冊、弥惣の口、北蔵奥の小部屋、屏風の向こうの声を挙げる。ただし、声の主は未詳。那古野にて半七、弥惣、源作の名を残し、翌日改めて同じ筋を聞くこととする」
「よい」
信長は言った。
「坂井の名は」
平手は問うた。
信長は首を横に振る。
「まだ書かぬ。だが、北蔵奥の小部屋と屏風の向こうの声は書け。父上なら、そこに誰が座れるかを考える」
平手は深く頷いた。
「承知しました」
新五が静かに言う。
「清洲は、半七を切れなくなりましたな」
「切りにくくはなった」
信長は答えた。
「だが、今度は半七の言葉を嘘にしに来る。あるいは、半七が恐れて言ったとする」
勝三郎が言った。
「弥惣と源作も同じく、口を揃えられる恐れがあります」
「ああ。だから明日もう一度聞く。別々に聞く。半七だけではなく、弥惣、源作もだ」
藤吉郎は、そのやり取りを聞いていた。
「一度言っただけでは、駄目なんですね」
信長が見る。
「駄目ではない。だが、弱い」
「弱い」
「人は怖い時、嘘も本当も混ぜる。明日も同じところがあれば、そこは少し強くなる。変わるところがあれば、なぜ変わったかを見る」
藤吉郎は深く頷いた。
「飯の味見も、一口だけでは分からない時があります」
又左が横から言う。
「また飯か」
藤吉郎は、今度は少しだけ笑った。
「でも、一口目で熱すぎると、味が分かりません」
信長が笑った。
「悪くない。今日の半七は熱すぎる。明日、冷めてからもう一度だ」
庭の空気が、少しだけ緩んだ。
だが、龍之介は油断しなかった。
半七を消す手は防いだ。
しかし、半七の口が残ったことで、次はその口を濁らせる手が来る。
それが、龍之介には見えていた。
清洲では、坂井大膳が報告を聞いていた。
半七は消えなかった。
弥惣と源作も那古野へ連れられた。
荷金不足の話も、川向こうへ出す話も、北蔵奥の小部屋のことも、半七の口から出た。
大膳は怒らなかった。
扇を開いたまま、しばらく目を閉じていた。
「半七は、やはり残ったか」
控えの男が頭を下げる。
「申し訳ございませぬ」
「謝るな。半七を消すには、少し遅かった」
大膳は静かに言った。
「三郎は、半七を捕らえなかった。助けた形にもしていない。口を残した」
「はい」
「面倒だ」
その一言には、本当の苦さがあった。
大膳は目を開ける。
「では、次は半七の口を濁す」
「濁す」
「半七は恐れていた。弥惣も恐れていた。源作は金で動いたと言える。三人の言葉が揃わぬようにすればよい」
「どのように」
「それぞれに、別の恐れを入れる」
大膳は扇を閉じた。
「半七には、家族の話を。弥惣には、帳場の不足を。源作には、荷車の盗みを。それぞれ、自分を守るために言葉を変えたくなるものを入れよ」
控えの男は、深く頭を下げた。
「那古野の中へ、届きますか」
「届かせるのではない。外で噂にすればよい。半七は家族を守るために嘘を言った。弥惣は帳場を逃れるために人へ罪を着せた。源作は銭をもらった。そう流せ」
大膳は、窓の外へ目を向ける。
「口は残った。なら、口の周りを濁す」
清洲の影は、半七の証言そのものではなく、証言を受け取る者の耳を濁らせようとしていた。
夜、那古野の庭には、昼の荷車の轍の泥がまだ少し残っていた。
龍之介は、あの荷車を止めた時の手応えを思い出していた。
轅を掴んだ瞬間、若い肉体の奥から力が湧いた。
呂布の武は、喜んでいた。
止めろ。
砕け。
引き倒せ。
そう囁くような感覚があった。
だが、龍之介は馬を傷つけなかった。
荷車を壊さなかった。
半七を救うためではない。
口を残すためだった。
その違いを、忘れてはならない。
藤吉郎が、少し離れたところで木札を見ていた。
清洲門前改め済と焼かれた粗い札である。証として、破らず残してある。
「半七さんは、悪い人なんですか」
藤吉郎が問うた。
龍之介は、すぐに答えなかった。
「悪いことはした」
「はい」
「だが、悪い人と決めて終わらせるには、使われすぎている」
藤吉郎は札を見つめた。
「使われた人は、許されるんですか」
「許されるとは限らない」
「では、なぜ助けたんですか」
「助けたのではない。消されると困るから止めた」
藤吉郎は、少し考えて頷いた。
「消えると、道が見えなくなる」
「ああ」
「でも、消えずに残ったら、その人のしたことも残ります」
「そうだ」
藤吉郎は、木札を両手で持った。
「それは、怖いですね」
「怖い」
龍之介は言った。
「だから、名を残すのは軽いことではない」
夜風が庭を抜けた。
寺の鐘が遠くで鳴る。
半七は小屋で眠れているだろうか。
弥惣は、何を考えているだろうか。
源作は、明日同じことを言えるだろうか。
清洲は、必ず次の手を打つ。
半七の口を残されたなら、今度はその口を濁しに来る。
龍之介は空を見た。
呂布の武なら、半七を連れ去ろうとした者を叩き伏せられる。
郭嘉の知なら、半七を消す筋も読める。
だが、残った口から何を聞き、何を疑い、何を待つか。
そこには、武よりも知よりも、我慢が要る。
信長は今日、半七を斬らず、許さず、消させなかった。
それは地味な一手だった。
だが、清洲の線を初めて大きく手元へ引き寄せた一手でもあった。
龍之介は、拳をゆっくり開いた。
壊す力を、止める力へ変える。
それもまた、この乱世で生きるための武なのだろう。




