第67話 働く手
人の疲れは、紙よりも破れやすい。
そして、破れた声は、噂になりやすい。
紙の騒ぎが収まった翌朝、那古野の門前に三人の女が来た。
一人は、四十を過ぎた頃の女で、腰に手拭いを挟んでいる。
一人は、まだ若く、腕に細かな紙の切れ端をつけていた。
もう一人は、年かさで、肩に縄を掛けるための布を巻いている。
三人とも、歩き疲れた顔をしていた。
着物の裾には乾いた泥が付き、草履の鼻緒は伸びている。顔色は悪くないが、目の下に濃い疲れがあった。
門番が声をかける前に、年かさの女が言った。
「那古野の若様にお目通り願います。祭礼の支度が遅れております」
門番は、すぐに奥へ知らせた。
信長は庭で平手と話していた。
清洲門前の半七の足をどう見るか、勝三郎から報告を受けていたところである。
使いの言葉を聞くと、信長は短く言った。
「通せ。だが、急がせるな。水を出せ」
女たちは庭先へ通された。
その場には、平手、新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、彦右衛門がいる。又左は少し離れていたが、女たちの顔を見ると、いつもの荒い気配を抑えた。
信長は、まず座らせた。
「名を聞く」
四十過ぎの女が頭を下げる。
「おますと申します。祭礼の炊き出しを手伝う者でございます」
若い女が続く。
「おとよです。御幣や飾り紙を切る手伝いをしております」
年かさの女は、少し低い声で言った。
「さきと申します。注連縄を張る者たちの飯と水を見ております。縄を担ぐ者の手伝いもします」
信長は頷いた。
「三人とも、津島へ向かう途中か」
おますが答える。
「はい。ですが、清洲門前で待たされました。那古野が細かく問い、祭礼支度の荷も人も改めるから、先に清洲で許しを取らねば通れぬと」
庭の空気が変わった。
新五の目が細くなる。
勝三郎は、女たちの足元を見た。
藤吉郎は、思わず口を開きかけ、すぐに閉じた。
信長は怒らなかった。
「誰が言った」
「半七様のところの者です」
おますは、そう言ってから、少し怯えたように顔を伏せた。
「私どもは、ただ急いでおります。祭礼の支度が遅れれば、叱られるのは私どもです。那古野が悪いとか、清洲が悪いとか、そういうことを言いに来たわけではございません。ただ、これ以上止められては困ります」
その声には、怒りよりも疲れがあった。
龍之介は、そこを見た。
大膳は、今度は物ではなく人を使ってきた。
この三人が嘘をついているとは思えない。
だが、見たものを全部知っているわけでもない。
疲れた者の言葉には、筋よりも実感が乗る。
だから強い。
信長は、静かに問うた。
「那古野の者に止められたか」
三人は顔を見合わせた。
若いおとよが、小さく答える。
「いいえ。那古野の方に止められたわけではありません」
「では、清洲門前で待たされた」
「はい」
「何を待てと言われた」
さきが答える。
「那古野へ通るなら、祭礼支度人の札が要ると。札がなければ、津島へ入った時に問い返されると」
平手が眉を寄せた。
「そのような札は、こちらで出しておりませぬ」
おますが顔を上げる。
「では、あれは」
信長は、すぐには答えなかった。
女たちが握りしめていた木札を見た。
小さな札だった。
祭礼支度人。
清洲門前改め済。
そう焼き書きされている。
字は粗い。
だが、急いでいる者なら、ありがたく見える札だった。
信長は札に手を伸ばさない。
「見せろ。触らぬ」
おますが札を差し出す。
信長は顔を近づけた。
「勝三郎」
「はい」
「この焼き印を見たことは」
「清洲門前の北蔵近くで見ました。半七の周りの小荷に似た焼きがあります」
信長は頷いた。
龍之介も札を見た。
名があるようで、ない。
祭礼支度人。
清洲門前改め済。
だが、誰が改めたかはない。
どこへ向かう者かもない。
何の役かもない。
人の疲れに、ただ札を括っただけだ。
信長は三人へ水を出させた。
急がせるなと言った意味を、庭の者たちは理解していた。
疲れた者に畳みかければ、こちらが相手の形にされる。
おますは水を飲み、少し息を整えた。
信長は改めて問う。
「それぞれ、何の役で津島へ向かう」
おますが答える。
「私は飯炊きです。祭礼前の働き手へ飯を出します。米は向こうで受けますが、人手が足りないと呼ばれました」
「何人分を炊く」
「正確には向こうで聞きますが、昼と夕で、合わせて五十人ほどと」
藤吉郎の目が動いた。
五十人。
飯炊きなら、人の数がいる。
おとよが続けた。
「私は紙を切ります。御幣もありますが、全部ではありません。店先や仮の場へ掛ける小さい飾り紙です」
文次がいれば、もっと細かく聞いただろう。
龍之介はそう思った。
さきは縄を扱う者の補助だった。
「縄を張る者の飯と水を見ます。大縄は男衆が張りますが、紙を添えたり、手元の藁を整えたりする者が要ります。私はそちらです」
信長は、三人を順に見た。
「三人とも、荷ではないな」
おますは戸惑う。
「はい」
「だが、支度に要る」
「はい」
「なら、荷と同じに扱ってはならぬ」
平手が静かに頷いた。
信長は新五へ言った。
「人の通りを作る」
新五はすぐに姿勢を正す。
「はい」
「祭礼支度に向かう人は、荷札ではなく、役を聞く。飯炊きなら、誰の飯をどこで炊くか。紙切りなら、何を切るか。縄の手伝いなら、どこで誰に付くか。分かる範囲でよい。分からぬことを無理に言わせるな」
おますが驚いたように信長を見る。
「分からぬことを、言わずともよろしいので」
「嘘を言われる方が困る」
信長は短く答えた。
「分かることを言え。分からぬことは、向こうで誰に聞くかを言え」
おますの目に、少しだけ力が戻った。
龍之介は、その変化を見た。
疲れた人間に、全部を答えさせることはできない。
だが、何も問わず通せば、また清洲の札が増える。
問う量を間違えれば、人は壊れる。
信長は、そこを見た。
藤吉郎が、おますにそっと聞いた。
「飯を炊く場所は、分かりますか」
「榎本屋の裏手の炊き場と聞いています」
「米は」
「向こうで用意すると」
「水は」
「井戸があると聞きましたが、どこの井戸かまでは」
藤吉郎は頷いた。
「分かりました」
おますが、少し不安そうに言う。
「それでは足りませんか」
「いえ。飯炊きなら、炊き場と米と水が分かれば、あとは向こうで人数を聞けます。清洲門前で札を待つより、早いと思います」
おますは、初めて少しだけ笑った。
「飯屋の子かい」
「はい」
「なら、話が早いね」
その笑いに、庭の空気が少し和らいだ。
龍之介は、藤吉郎の聞き方を見ていた。
幼くない。
飯を炊く者として、相手の役に沿って聞いている。
信長も、それを見ていた。
「藤吉郎」
「はい」
「おますには、飯炊きの通り札を作れ。ただし、清洲門前改め済などと書くな」
「何と書けば」
「役を書く。飯炊き、おます。向かう先、榎本屋裏手の炊き場。未確認、人数と井戸。向こうで確認と書け」
平手が頷く。
「未確認まで書くのでございますな」
「書け。分からぬことを隠せば、また札が一人歩きする」
信長は続けて、おとよとさきにも同じように役札を作らせた。
おとよ。
紙切り手伝い。
向かう先、榎本屋を通じ祭礼方。
切る紙、小飾り紙と聞く。
御幣本体か否か、向こうで確認。
さき。
縄張り手伝い。
飯と水、紙添え、藁整え。
向かう先、縄張り場は未確認。
榎本屋または祐円へ確認。
藤吉郎は、その札を見て言った。
「未確認と書くと、弱く見えませんか」
信長は答えた。
「弱くてよい。嘘より強い」
藤吉郎は、深く頭を下げた。
その言葉は、しばらく残るだろうと龍之介は思った。
弱くてよい。
嘘より強い。
それは、人を扱う時に必要な言葉だった。
三人をすぐ津島へ向かわせるかどうかで、少しだけ場が揺れた。
又左が言う。
「送るなら、護りをつけた方がよろしいのでは」
信長は首を振った。
「武者をつければ、那古野が祭礼支度人を押し出した形になる」
新五が言った。
「では、馬借を」
「それも多すぎるな」
龍之介は考えた。
清洲は人の疲れを使っている。
なら、こちらが必要以上に構えれば、さらに噂になる。
那古野が人を囲った。
那古野が津島へ人を送り込んだ。
そう言われる。
龍之介は、勝三郎へ視線を向けた。
勝三郎はすでに分かっていたように頷く。
「顔を知る者を一人、少し後ろから歩かせます。護りではなく、道を見る者として」
信長が頷いた。
「よい。誰だ」
「小平を使えます。足が軽く、顔を消せます」
小平。
かつて清洲の耳として使われかけ、寺の紙仕事に置かれた男である。
今は、完全な家臣ではない。
だからこそ、目立たずに動ける。
信長は少し考えた。
「小平へ、無理はさせるな。三人を助けるのではなく、道を見る。止められた場所、声をかけた者、札を見た者。それだけを戻せ」
「承知しました」
おますが不安そうに問う。
「私どもは、またどこかで止められるのでしょうか」
信長は、正直に答えた。
「止められるかもしれぬ」
三人の顔が強張る。
「だが、今度は言える。那古野で役を聞かれ、分かることと分からぬことを書いた。清洲門前改め済の札ではなく、自分の役を持っている、と」
さきが、木札を見た。
「役を持つ」
「そうだ。祭礼支度人という大きな名ではなく、お前自身の役だ」
さきは、ゆっくり頷いた。
おとよも、自分の札を両手で持つ。
「これなら、誰かに聞かれても答えられます」
「分からぬことは、分からぬと書いてある」
信長は言った。
「だから、無理に答えるな。向こうで確認すると言え」
三人は深く頭を下げた。
疲れた顔は消えていない。
だが、来た時より足元が少し戻っていた。
それで十分だった。
女たちが出た後、信長は清洲門前改め済の木札を見た。
焼き書きは粗い。
だが、考え方は悪辣だった。
荷ではなく、人に札を持たせる。
すると、人が噂を運ぶ。
しかも、その人は嘘をついているつもりがない。
信長は平手へ言った。
「大殿へ送る」
平手は筆を取った。
「祭礼支度人を名乗る三人、那古野門前へ来る。飯炊きおます、紙切り手伝いおとよ、縄張り手伝いさき。清洲門前にて、那古野を通るには祭礼支度人札が要ると待たされ、清洲門前改め済の木札を渡される。札に改めた者の名なし。半七の周りで見た焼きに似る」
信長は続けた。
「三人は那古野の者に止められたわけではない。清洲門前で待たされたもの。那古野にて、各々の役、向かう先、未確認のことを分けて札を改める。津島へ向かわせ、小平に道を見させる」
平手が筆を走らせる。
「坂井の名は」
「まだ書かぬ」
信長はいつものように答えた。
「ただし、半七の札が人へ渡ったことは書け。荷から人へ移った。これは残す」
龍之介は、その言葉を聞いていた。
荷から人へ移った。
まさに、そこだった。
米や縄や紙は、物として見られる。
だが、人は疲れる。
泣く。
怒る。
焦る。
そこに名札を渡せば、噂は生きた声になる。
信長は庭を見渡した。
「今後、祭礼支度人と名乗る者が来たら、荷と同じに扱うな。水を出し、座らせ、役を聞け。分からぬことは無理に言わせるな。分かることと分からぬことを分けて札にする」
新五が頷く。
「人を止めすぎぬための札でございますな」
「ああ。縛る札ではない。迷わせぬ札だ」
藤吉郎が、小さくその言葉を繰り返した。
「迷わせぬ札」
信長は藤吉郎を見る。
「飯屋でも同じだ。働きに来た者へ、何でもさせるな。飯を炊く者、水を運ぶ者、器を洗う者。役を分けろ。疲れた者へ全部聞くな」
「はい」
藤吉郎は深く頭を下げた。
清洲では、坂井大膳が半七から報告を受けていた。
祭礼支度人札を持たせた三人は、那古野で止められた。
だが、責められなかった。
水を出され、座らされ、役を聞かれた。
清洲門前改め済の札は残され、代わりに那古野で役札を作られた。
大膳はしばらく黙っていた。
「泣かせられなかったか」
半七は額を畳につけた。
「申し訳ございませぬ」
「謝るな。人は動いた。疲れも見えた。那古野も手を使った。それで十分だ」
半七は顔を上げない。
大膳は扇を閉じた。
「だが、三郎は人を荷として扱わなかった。そこは覚えておけ」
「はい」
「次は、泣く者ではなく、怒る者だ」
半七が顔を上げる。
「怒る者」
「飯炊きや紙切りの女は、疲れれば泣く。だが、職人や馬借は、疲れれば怒る」
大膳の声は静かだった。
「祭礼前で眠れていない者を使え。縄を担ぐ男、紙を切る若い職人、飯を運ぶ馬借。那古野の問いで待たされたと怒らせろ。怒った者の声は、泣く者の声より遠くへ飛ぶ」
半七はゆっくり頭を下げた。
「誰を」
「仁助の周りはもう固い。文次も同じだ。なら、周りの若い手だ。師匠ほど物を見ず、弟子ほど素直でもない者がよい」
「中ほどの者でございますな」
「そうだ」
大膳は薄く笑った。
「人は、己の腕を認められたい時にいちばん怒りやすい」
清洲の影は、疲れた人の声から、誇りをこじらせた若い職人の怒りへ移ろうとしていた。
夕刻、小平が戻った。
三人は無事に渡し場を越え、津島へ向かったという。
途中、清洲門前の北蔵近くで男二人が声をかけた。
祭礼支度人札はどうした、と。
おますは、那古野で役札を作ったと答えた。
おとよは、分からぬことは向こうで確認すると言った。
さきは、清洲門前改め済の札は、誰が改めたか分からないから使わぬと言った。
男たちは不満そうだったが、三人を止めなかった。
小平は、それを見て戻った。
信長は報告を聞き、短く言った。
「よい」
小平は頭を下げる。
「追われてはおりませぬ」
「なら、休め」
「はい」
小平が下がると、信長は庭にいる者たちへ言った。
「人は通った。だが、清洲はまだ使う。今度は怒りだろう」
又左が苦い顔をした。
「怒りなら、私も使われそうですな」
「もう少し前ならな」
信長は言った。
「今は、多少ましだ」
「ありがたく受け取っておきます」
庭に、わずかな笑いが落ちた。
だが、龍之介は笑いながらも、次の手を考えていた。
若い職人。
馬借。
自分の腕を軽く見られたと感じる者。
祭礼前の疲れと誇りが重なれば、声は荒くなる。
そして荒い声は、人を集める。
その時、こちらが力で押さえれば、那古野が職人を侮ったと言われる。
逆に、怒りに流されれば、清洲の言葉が通る。
次もまた、細い道になる。
夜、那古野の庭は涼しかった。
藤吉郎は、昼に作った役札の控えを見直していた。
飯炊き、おます。
紙切り手伝い、おとよ。
縄張り手伝い、さき。
未確認のことは、未確認と書く。
それが、妙に胸に残っていた。
「分からないことを、分からないと書くのは、怖いですね」
藤吉郎が言った。
龍之介は隣に立った。
「なぜだ」
「役に立たないと思われそうです」
「そう思う者もいる」
「でも、嘘を書くより強いんですね」
「ああ」
龍之介は庭の暗がりを見た。
「分からぬことを分かったことにすると、そこから道が曲がる。今日の三人は、分からぬことを残したから、向こうで聞ける」
藤吉郎は頷いた。
「飯炊きでも同じです。米があるのか、水があるのか、人数が何人か。分からないまま炊き始めると、足りなくなります」
「そうだ」
「俺は、全部知っていないと駄目だと思っていました」
「全部知っている者はいない」
龍之介は言った。
「だから、誰が何を知っているかを残す」
藤吉郎は、控えの札を見つめた。
「誰が何を知っているか」
「それが道になる」
夜風が吹いた。
遠くで、寺の鐘が鳴る。
龍之介は、昼の三人の疲れた顔を思い出した。
物なら、張って見せられる。
切って見せられる。
炊いて見せることもできる。
だが、人の疲れは、見せ物にしてはならない。
清洲は、そこを使う。
泣く者。
怒る者。
急ぐ者。
誇りを傷つけられた者。
人の心は、物よりも形を変えやすい。
呂布の武なら、怒る者を黙らせられる。
郭嘉の知なら、怒りの奥にある筋を読める。
だが、人の疲れを粗末にせず、罠だけを外すには、それだけでは足りない。
水を出す。
座らせる。
役を聞く。
分からないことを無理に言わせない。
戦場とは違うようで、これはこれで戦だった。
龍之介は空を見た。
祭礼の日限は近い。
清洲の手は、物から人へ移った。
次に来るのは、怒りを持った働き手だろう。
その怒りを斬れば、こちらが負ける。
受け流せば、道が曲がる。
ならば、怒りの向きを見なければならない。




