第66話 紙の白さ
紙は、白ければ清いわけではない。
何に使うかで、白さの意味が変わる。
注連縄の騒ぎから一日も経たぬうちに、今度は紙が来た。
場所は橘屋だった。
朝の店先に、細長い箱を背負った男が二人立った。箱の中には、束ねた紙が収められている。外から見れば、丁寧な荷に見えた。
荷札には、こうある。
津島祭礼方御用。
御幣紙、百枚。
受け手、榎本屋佐平。
清洲門前、紙屋喜兵衛。
半七口利き。
名前は揃っていた。
何に使うかも書いてある。
何枚かも書いてある。
受け手もある。
前の米や縄より、ずっと整っている。
だからこそ、橘屋の番頭はすぐに宗右衛門を呼んだ。
宗右衛門は荷札を読み、箱の蓋を開けずに目を細める。
「御幣紙、百枚か」
紙を運んできた男が頷いた。
「祭礼の日限が迫っております。受け手も、枚数も、用途も書いております。これは止められますまい」
宗右衛門は、その男を見た。
「名は」
「喜兵衛の店の者で、弥七と申します」
「紙屋の者か」
「はい」
「なら、箱を開ける前に那古野へ知らせます」
弥七の眉が上がる。
「まだ問いを重ねるので」
「問いではありません。御幣紙として扱うためです」
宗右衛門は番頭へ目配せした。
番頭はすぐに走った。
弥七は不満そうだったが、荷札にはっきり名がある以上、声を荒げにくい。
橘屋の店先には、白い紙の箱だけが静かに置かれた。
その静けさが、かえって重かった。
那古野へ知らせが届くと、信長はすぐに動いた。
平手、新五、龍之介、藤吉郎、勝三郎、彦右衛門が従う。又左も来たが、橘屋の外へ置かれた。
「又左、今日は紙を破るな」
「若。もう先に言われることに慣れてまいりました」
「慣れたなら、破るな」
「承知しております」
又左は不満げではあったが、外で足を止めた。
橘屋の奥座敷には、宗右衛門のほか、寺の慶順、縄屋仁助、升屋久兵衛も呼ばれていた。紙そのものを見る者として、紙屋の弥七もいる。
そして、宗右衛門が別に呼んだ男がいた。
那古野で紙を扱う紙師、文次である。
文次は五十近い男で、指先が細かった。紙を扱う者らしく爪は短く、手の甲には細かな傷がある。口数は少なそうだが、箱を見た時の目だけは鋭かった。
信長は座るとすぐに言った。
「開けろ。ただし、乱暴にするな」
文次と弥七が箱の紐をほどいた。
中から現れたのは、白い紙の束だった。
百枚。
ぱっと見れば、確かに白い。
だが、文次は一枚を持ち上げると、すぐに眉を寄せた。
紙を光へ透かす。
指先で端を撫でる。
折らずに、軽く曲げる。
その動きだけで、紙の扱いに慣れた者だと分かった。
「どう見る」
信長が問う。
文次は紙を置いた。
「包み紙としては、悪くございませぬ。控えを書く紙としても、使えます。ですが、御幣紙としては薄い。腰が弱く、切った時に垂れが死にます」
弥七が顔を赤くした。
「那古野の紙師が、清洲門前の紙を粗いと言うのか」
その言葉を、信長は聞き逃さなかった。
「文次は、清洲を笑ったのではない。紙を見た」
前の縄の時と同じ言葉だった。
だが、必要な言葉でもあった。
弥七は口をつぐむ。
慶順が紙を見た。
「御幣は、切ればよいというものではございませぬ。紙が立たねば、祓いの形が崩れます」
藤吉郎は黙って紙を見ていた。
白い。
だが、どこか頼りない。
飯で言えば、白く炊けていても水が多すぎる飯に似ている。腹には入るが、握り飯には向かない。
そう思ったが、口にはしなかった。
ここで軽い例えを出す場ではない。
信長が気づいたように、藤吉郎へ目を向ける。
「何を見ている」
藤吉郎は、少し考えてから答えた。
「同じ紙でも、包む紙と、切って立てる紙では、違うのだと思いました」
「続けろ」
「包むなら、柔らかい方がよい時もあります。でも、御幣にするなら、切った時に形が残らないと困ります」
文次が、藤吉郎を見た。
「その通りです」
短いが、はっきりした答えだった。
藤吉郎は頭を下げた。
信長は紙束へ視線を戻す。
「では、切って見せられるか」
弥七が慌てた。
「御幣紙を勝手に切るのですか」
慶順が答えた。
「百枚すべてではありません。一枚を試し、粗末にならぬよう寺で扱います。御幣紙として通すかどうかを見るには、切った姿を見ねばなりません」
信長は頷いた。
「一枚だけだ。切った紙は、寺で預かれ」
慶順が頭を下げる。
「承知しました」
文次は一枚を取り、慶順の指示で御幣の形に切った。
刃は鋭い。
手つきも丁寧だった。
だが、切られた紙は、持ち上げるとすぐに腰を失った。白い垂れが前を向かず、横へ逃げる。わずかな風で、形が崩れた。
次に、文次は自分の紙を一枚出し、同じように切った。
そちらは強すぎず、弱すぎず、持ち上げた時に形が残る。
白い紙が、正面を向いた。
場にいた者たちは、言葉より先に違いを見た。
弥七の顔が硬くなる。
信長は問う。
「文次。この紙は使えぬのか」
「御幣紙としては、使う場所を選びます。神前へ立てる御幣には向きませぬ。ただ、包み紙、控え紙、灯明を覆う紙としてなら使えます。白さも悪くはありません」
「捨てる紙ではない」
「はい。捨てる紙ではございません。ただ、御幣紙として百枚通す紙ではありませぬ」
信長は、そこを聞いた。
米もそうだった。
縄もそうだった。
今度の紙も、物そのものが悪ではない。
名が違う。
使い所が違う。
そこを間違えさせようとしている。
弥七は、なおも食い下がった。
「受け手は榎本屋佐平様と書いております。御幣紙百枚、祭礼方御用とも。これで足りませぬか」
龍之介は、紙を見たまま言った。
「足りないのは、紙の名ではありません」
弥七が龍之介を見る。
「では、何が」
「どの御幣に使うかです」
慶順が頷いた。
「御幣にも、場があります。社前に立てるもの、仮の場を清めるもの、荷に添えるもの、店先へ掲げるもの。すべて同じ紙でよいわけではございません」
信長が弥七へ向く。
「この紙は、どの御幣に使うと聞いた」
「祭礼方と」
「答えになっていない」
弥七は黙った。
勝三郎が静かに問う。
「半七からか」
弥七の喉が動いた。
「……はい」
「半七は、どの御幣に使うと言った」
「津島の祭礼に要る、と」
「それだけか」
「はい」
勝三郎は頷いた。
追わない。
ただ、残す。
信長は宗右衛門へ言った。
「扱いは、前と同じ筋でよい。ただし紙は姿を変える。返しは丁寧にしろ」
宗右衛門は深く頭を下げた。
「御幣紙としては、使用場所と受け手の確認が足りぬため通せぬ。ただし、包み紙、控え紙、灯明覆いとしてなら使える。喜兵衛へ、御幣として使う場所を示すか、別用途の紙として相場で売るか、返すかを問う」
信長は頷いた。
「それでよい」
文次が、控えめに口を開いた。
「若様。ひとつ、加えていただけますか」
「言え」
「この紙を漉いた者を責めぬ、と。紙としては悪くありません。御幣紙として回した筋が悪いのであって、漉いた手まで笑われては困ります」
信長の目が少し和らいだ。
仁助と同じだった。
職人は、物を見ている。
だからこそ、物を作った者を無闇に貶めない。
「書け」
信長は言った。
「紙を漉いた者を責めぬ。御幣紙として回した筋を問う。そう残せ」
文次は深く頭を下げた。
「ありがたく」
藤吉郎は、そのやり取りを胸に刻んだ。
米を作った者。
縄を綯った者。
紙を漉いた者。
そこまで敵にしてしまえば、道は痩せる。
間違った名で回した者を問う。
物を作った手は、物として見る。
それが、那古野のやり方になりつつあった。
紙束は、橘屋で預かることになった。
御幣紙としてではない。
用途未定の祭礼紙としてである。
ただし、紙そのものを粗末には扱わない。切った一枚は慶順が寺へ持ち帰り、残りは湿りを避けて箱へ戻した。
荷札は破らない。
その横に、新しい札を添える。
御幣紙としての使用場所不明。
受け手、榎本屋佐平とあるが、祭礼方のどの場か未確認。
包み紙、控え紙、灯明覆いとしては使用可。
紙屋喜兵衛、半七口利き。
弥七は、その札を見て顔をしかめた。
「これでは、うちの紙が御幣に使えぬ紙だと言われたようなものです」
文次が静かに答えた。
「どの御幣にも使えぬとは言っていない。どの御幣に使うか分からぬまま百枚通せぬと言っている」
「同じではないか」
「違う」
文次の声は強くなかった。
だが、紙を扱う者の芯があった。
「紙は、使い所を間違えれば悪い紙にされる。お前の店の紙を守りたいなら、どこへ使う紙かを聞いて戻れ」
弥七は口を閉じた。
怒る相手を見失った顔だった。
信長は弥七へ言った。
「戻って喜兵衛へ伝えろ。御幣紙として使う場所を示せ。別用途の紙として売るなら相場を見る。返せと言うなら返す。ただし、半七の名は残した」
弥七はうなだれる。
「承知しました」
勝三郎は、その顔を覚えた。
弥七は悪い紙を持ってきたのではない。
だが、半七の言葉を運んだ。
そこは残る。
消してはならない。
那古野へ戻ると、信長は平手へ報告をまとめさせた。
「橘屋へ、清洲門前紙屋喜兵衛より、御幣紙百枚と称する紙束届く。受け手、榎本屋佐平。半七口利き。紙師文次、寺の慶順立ち会いのもと一枚を御幣形に切り、神前へ立てる御幣紙としては腰弱しと見る。ただし、包み紙、控え紙、灯明覆いとしては使用可」
平手は筆を進める。
信長は続けた。
「御幣紙としては、使用場所不明のため通さず。喜兵衛へ、御幣として使う場所を示すか、別用途の紙として相場で売るか、返すかを問う。紙を漉いた者は責めず、御幣紙として回した筋を問う。半七の名を残す」
平手が頷いた。
「大殿へは」
「送る」
信長は即答した。
「米、縄、紙。祭礼支度の三つに、半七の名が絡んだ。残す」
「坂井の名は」
「まだ書かぬ。だが、半七が清洲門前で誰に会っているかを見る」
勝三郎が頭を下げた。
「半七の足を見る者を置きます」
「追いすぎるな。追えば、こちらが半七を恐れている形になる」
「承知しました」
又左が腕を組んでいた。
「紙一枚で、ずいぶん手間がかかりますな」
信長は又左を見た。
「紙一枚で、名が変わるからだ」
又左は黙った。
信長は続ける。
「白い紙に牛頭天王と書けば札になる。切れば御幣になる。包めば供物になる。何も書かねば控えにもなる。だから、紙は厄介だ」
藤吉郎が頷いた。
「飯で言えば、米のままか、握り飯か、粥か、供えか、みたいなものです」
又左が藤吉郎を見る。
「お前は何でも飯にするな」
藤吉郎は真面目に答えた。
「飯屋ですので」
場に少し笑いが落ちた。
だが、信長は笑いながらも目を細めていた。
「悪くない例えだ。同じ米でも、形が変われば扱いが変わる。同じ紙でも、形が変われば名が変わる。なら、形を変えた者の名を残せ」
平手は、その言葉も控えに加えた。
清洲では、坂井大膳が弥七の報告を聞いていた。
御幣紙百枚は、御幣紙として通らなかった。
だが、紙として悪いとはされなかった。
包み紙、控え紙、灯明覆いとしては使えると見られた。
紙を漉いた者は責められず、御幣紙として回した筋が問われた。
半七の名も、また残った。
大膳は、文机の上で指を組んだ。
「切って見せたか」
半七が頭を下げる。
「はい。一枚を御幣形に切り、腰が弱いと」
「縄は張って見せた。紙は切って見せた。物を場に出すな、三郎は」
大膳の声には、苛立ちよりも感心に近いものが混じっていた。
半七は顔を上げない。
「次はいかがいたしましょう」
「米、縄、紙。祭礼支度の名は使った。どれも通り切らぬが、那古野は手間を食った」
「はい」
「だが、同じ物で押せば、形が固まる」
大膳は扇を開いた。
「次は、人を使う」
「人、でございますか」
「祭礼支度に携わる者だ。荷ではない。人が遅れたと言わせる」
半七は息を呑んだ。
大膳は続ける。
「紙も縄も米も、物なら見られる。なら、今度は働く手を使う。津島へ向かうはずの職人、紙を切る者、縄を張る者、飯を炊く女衆。誰かが言えばよい。那古野の問いで、我らの仕事が遅れたとな」
「事実でなくとも」
「人の疲れは、事実になりやすい」
大膳は低く言った。
「祭礼前は誰も忙しい。少し待たされただけでも、遅れたと言える。そこへ声を乗せる」
半七は、ゆっくり頭を下げた。
「人の疲れを使うのでございますな」
「そうだ」
大膳は窓の外を見た。
「物を見せられるなら、人を泣かせろ。三郎は、物より人を粗末にできぬ」
清洲の影は、祭礼の物から、祭礼に働く人の疲れへ手を伸ばそうとしていた。
夕刻、橘屋から返しが来た。
紙屋喜兵衛は、紙束を返せとは言わなかった。
御幣紙として使う場所も、すぐには示せなかった。
代わりに、包み紙と灯明覆いとして相場で売る、と返した。
ただし、喜兵衛自身は「御幣紙として回せと言った覚えはない」とも書いてきた。
半七が、祭礼方御用として急がせたらしい。
信長はその返しを読み、紙を畳まずに平手へ渡した。
「残せ」
「承知しました」
「喜兵衛は紙を売った。半七が名を変えた」
信長はそう言い、庭にいる者たちへ目を向けた。
「ここを混ぜるな。紙屋を責めれば、半七の筋が消える」
新五が頷いた。
「物を作った者と、名を変えた者を分ける」
「そうだ」
藤吉郎は、静かに聞いていた。
米。
縄。
紙。
どれも同じようで、同じではない。
米は、食べられるか。
縄は、どこへ張るか。
紙は、何に姿を変えるか。
それぞれ見る目が違う。
信長は藤吉郎へ言った。
「飯屋へ伝えろ。紙も米と同じだ。名が変われば扱いが変わる。祭礼方御用と聞いても、誰が何に使うかを聞け」
「はい」
「それと、紙を粗末にするな。使い道を外された紙は悪くない」
「承知しました」
藤吉郎は頭を下げた。
龍之介は、その姿を見ながら思った。
藤吉郎はもう、ただ飯屋の小僧として聞いているのではない。
物の名と役を分ける目を、少しずつ持ち始めている。
それは、後に大きな力になるかもしれない。
だが今は、那古野の庭で紙一枚の扱いを覚えているだけだった。
それでよい。
大きな知恵は、最初から大きな形では来ない。
米を見て、縄を見て、紙を見る。
その積み重ねが、人を作る。
夜、那古野の庭には、昼に切った御幣の一片が慶順の手で寺へ運ばれた後の静けさが残っていた。
龍之介は、文次が切った紙の垂れを思い出していた。
白い紙が、持ち上げた瞬間に横へ逃げる。
それだけで、御幣としては使いにくいと分かる。
だが、包み紙としてなら悪くない。
灯明覆いにも使える。
同じ紙なのに、名が変われば価値も変わる。
そして、名を間違えれば、良い紙まで悪く見える。
清洲の手は、そこを突いている。
紙屋を怒らせる。
那古野の紙師を怒らせる。
祭礼方を焦らせる。
それぞれの怒りや焦りに、噂を乗せる。
信長は今日、それを切った。
紙を切って見せることで。
龍之介は掌を開いた。
呂布の武なら、弥七を黙らせることは容易い。
郭嘉の知なら、半七の意図を読むことも難しくない。
だが、白い紙を正しく扱うには、文次の指が要る。
慶順の目が要る。
宗右衛門の商いの筋が要る。
信長の判断が要る。
一人の武や知で押し切れば、紙を破るだけで終わる。
それでは、道は守れない。
藤吉郎が庭の端で、昼に聞いたことを小さく復唱していた。
「米は形で飯が変わる。紙は形で名が変わる……」
龍之介は声をかけなかった。
覚えようとしている時は、邪魔をしない方がいい。
夜風が吹いた。
遠くの寺から、薄く鐘の音が届く。
祭礼の日限は近い。
米、縄、紙。
物を使った揺さぶりは、ひとまず形を見せた。
次は、人だ。
龍之介には、それが分かっていた。
疲れた者。
急ぐ者。
待たされた者。
祭礼の支度に働く人の声は、物よりも扱いが難しい。
人を粗末にすれば、那古野の場は壊れる。
だが、人の疲れに流されれば、清洲の道が開く。
龍之介は、夜の庭で息を吐いた。
紙は白かった。
だが、白いからこそ、何色にも染まる。
次に清洲が染めようとするのは、物ではない。
人の心だ。




