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【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


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第63話 判の返り道

 判形は、押した者だけのものではない。


 押された紙を持って歩く者まで、重くする。


 古い判形への問いを返した翌朝、橘屋へ二人の男が来た。


 一人は、前にも文を運んだ長右衛門である。


 日に焼けた顔に深い皺を刻み、腰の木札を鳴らさぬよう歩く、津島の川筋の男だった。


 もう一人は、長右衛門より少し若い。


 三十を過ぎた頃の、目つきの鋭い商人である。着物は目立たないが、襟元に崩れがなく、腰の袋もよく締められている。油壺を預かった榎本屋清左衛門の番頭、佐平だった。


 橘屋宗右衛門は、二人を奥へ通す前に番頭へ命じた。


「若様へ知らせなさい。これは、店だけで聞く話ではない」


 佐平は、その言葉にわずかに顔を強張らせた。


「那古野へ訴えに来たわけではございません」


 宗右衛門は静かに答えた。


「訴えかどうかを決める前に、話の筋を揃えます」


 長右衛門は何も言わなかった。


 ただ、腰の木札へ手を触れ、すぐに離した。


 紙を運ぶ者は、紙の中身から逃げられない。


 それを知っている顔だった。


 那古野からは、信長、新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、彦右衛門が来た。平手は屋敷に残り、届いた文の控えを整理している。又左は橘屋の外に置かれた。槍の気配を商人の座敷に入れれば、話の形が変わるからである。


 奥座敷に入ると、佐平はすぐに頭を下げた。


「榎本屋清左衛門が番頭、佐平にございます。このたびは、戻しました控えの判形と添え書きにつき、誤りがございました」


 信長は座るなり言った。


「誤りとは、どこだ」


 余計な挨拶はなかった。


 佐平は一度息を吸った。


「寄進油四壺が榎本屋へ届いたことは、間違いございません。祐円殿も同道され、壺も割れず、札も外れておりませぬ。そこは、控えの通りです」


「では、違うのは」


「添え書きでございます」


 佐平は紙を出した。


 昨日の返し文の写しではない。


 榎本屋の内で急ぎ書かれた、別の控えだった。


「祈願荷の取り次ぎは津島筋へ任すべきこと、以後、那古野にて細かく問い留むること、慎むべし。この一文は、榎本屋清左衛門の定めではございません」


 宗右衛門の眉が動いた。


 湊屋甚右衛門も同席していたが、低く唸るだけで口は挟まなかった。


 信長は問う。


「誰が書いた」


「蔵の古番、伊助でございます」


「榎本屋の者か」


「はい。長く蔵を見ている者です。古い控えを多く知り、昔の判形の場所も知っております」


 龍之介は、その名を頭に置いた。


 伊助。


 榎本屋の外の者ではない。


 中にいる古い手だ。


 だから厄介だった。


 外から差し込まれた偽文なら切れる。だが、蔵の古番が古い控えを出したなら、榎本屋の内側の声になる。


 信長は紙を見たまま言った。


「判形は本物か」


 佐平は、すぐには答えなかった。


「古いものです。少なくとも、榎本屋に残っている判形ではあります」


「今も使っているのか」


「普段は使いませぬ。古い寄進控えや、昔の天王社筋の荷を照らす時に出すことはあります」


 彦右衛門が静かに身を乗り出した。


「つまり、判形そのものは榎本屋にある。ただし、今の決まりを示すために押すものではない」


 佐平は深く頭を下げた。


「その通りでございます」


 藤吉郎が、小さく言った。


「古い判で、今の荷に余計な決まりを足したんですね」


 佐平は藤吉郎を見た。


 若い小者の言葉として聞き流しかけた顔をしたが、すぐ表情を改めた。


「厳しく言えば、そうなります」


 信長は佐平を見る。


「厳しく言わねばならぬ場だ」


 佐平はもう一度頭を下げた。


「はい」


 座敷の空気が重くなった。


 だが、まだ終わっていない。


 信長は続けた。


「伊助は、なぜそんな添え書きを入れた」


 佐平は、口を閉じた。


 長右衛門がそこで初めて顔を上げた。


「それは、私からも申し上げられます」


 信長の目が長右衛門へ向く。


「言え」


「榎本屋へ荷が届いた時、清洲筋の者が一人、先におりました。名は半七と聞いております。川筋の者ではございません」


 勝三郎の目が細くなった。


「清洲門前の荷扱いか」


「そのように見えました」


「何をした」


「伊助殿へ申しておりました。那古野は細かい問いで祈願荷を遅らせる。津島の古い筋を見せてやらねば、今後も荷が止まる、と」


 佐平が悔しそうに唇を噛む。


「伊助は、それに乗ったのです。あの者は、那古野の若い仕組みを嫌っております。古い筋を軽く見るな、と」


 新五が口を開いた。


「伊助殿は、清洲に買われたのか」


「それは違います」


 佐平は即座に言った。


 その声には、番頭として蔵の者を守る響きがあった。


「伊助は頑固ですが、榎本屋を売る男ではありません。古いものを守っているつもりで、余計な一文を足しました」


 龍之介は、その答えを聞いて、内心で頷いた。


 売ったのではない。


 揺らされた。


 自分の正しさを突かれた。


 それは、金で動く者より厄介だった。


 信長は、しばらく文を見ていた。


 古い判形。


 榎本屋の番頭。


 蔵の古番。


 清洲筋の半七。


 運んだ長右衛門。


 それぞれの役が、ようやく見えてきた。


「佐平」


「はい」


「榎本屋は、油壺を社へ納めたのか」


「まだでございます」


 信長の視線が鋭くなった。


「なぜだ」


「伊助の添え書きで、内が割れました。まず判形の扱いを決めねばならぬと。油壺は蔵に置かれたままです」


 藤吉郎が息を呑みかけ、すぐに堪えた。


 祈りの荷は、まだ届いていない。


 榎本屋へ着いた。


 だが、天王社へは納まっていない。


 昨日、信長が言った通りだった。


 預かりと納めは違う。


 その違いの間に、清洲の手が入り込んでいる。


 信長は短く言った。


「まず油を納めろ」


 佐平は顔を上げた。


「しかし、判形の件が」


「判形より先だ」


 信長の声は低い。


「弥左衛門は、妻の熱が引いた礼として油を納めた。判形の争いのために蔵で止めるなら、それこそ祈りを商いの揉め事へ巻き込むことになる」


 佐平は、言葉を失った。


 宗右衛門が静かに頷く。


「若様のおっしゃる通りです。判のことは判のこと。油は油です」


 湊屋も続けた。


「壺は届いております。なら、納め先へ進めるべきです。割れてもいない、傷んでもいないなら、蔵で止める理由は薄い」


 佐平は深く頭を下げた。


「戻り次第、すぐ社へ納めます」


「それを誰が見届ける」


 信長が問う。


 佐平は一瞬詰まったが、すぐ答えた。


「祐円殿、榎本屋、湊屋の者で」


「足りぬ」


 場が静まる。


 信長は長右衛門へ目を向けた。


「長右衛門、お前も見ろ」


「私でございますか」


「お前は文を運んだ。なら、返り道も見ろ。油が蔵で止まったことを知っている者が、社へ納まったところまで見れば、話が曲がりにくい」


 長右衛門は、しばらく黙った。


 それから、深く頭を下げた。


「承知しました」


 信長は佐平へ戻る。


「判形の件は、油を納めた後だ。古い判形がどの控えに基づくか、誰が押したか、今回限りか今後すべてか。それは別に答えろ」


 佐平は、今度は迷わなかった。


「はい」


「伊助を罰するかどうかは、榎本屋の内のことだ。だが、伊助が押した一文で那古野や橘屋や馬借の道を縛ることは認めぬ」


「承知しました」


 信長は、そこで少しだけ口調を緩めた。


「古いものを守りたい者は、敵とは限らぬ。だが、古いものを守ると言って今の荷を止めるなら、止めた者の名は残る」


 佐平は、その言葉を噛み締めるように頭を下げた。


 座敷を出ると、橘屋の表には人が集まり始めていた。


 榎本屋の番頭が那古野へ来た。


 古い判形がどうなった。


 津島の油が止まったらしい。


 噂は、すでに半分走っている。


 勝三郎は、表にいた男の顔を見た。


 清洲門前で見た顔が一つ混じっていた。


「半七か」


 男が目を逸らす。


 勝三郎は追わなかった。


 ただ、顔を覚えた。


 その横を、又左が通る。


「追わぬのか」


「ここで追えば、榎本屋の番頭を那古野が囲んだ話になります」


 又左は鼻を鳴らした。


「面倒な相手だ」


「面倒だから、顔を残します」


「最近、皆それを言う」


「若の近くにいると、そうなります」


 又左は少し笑った。


「悪くない」


 座敷の内では、宗右衛門が佐平へ水を出していた。


 責めるためではない。


 話を最後まで聞くためである。


 藤吉郎は、戸口のそばで二人を見ていた。


「佐平様は、悪い人なんですか」


 龍之介は、すぐには答えなかった。


「悪い人と決めるには早い」


「でも、判の紙を戻しました」


「戻した。だが、違うところを違うと言いに来た」


 藤吉郎は、少し考えて頷いた。


「間違えた後に、直しに来た人なんですね」


「今のところは、そう見る」


 藤吉郎は、納得したように紙の控えを見た。


「それなら、油を先に社へ届けた方がいいです」


「なぜだ」


「奥方様が助かったお礼の油だからです。判のことで止まったら、奥方様も弥左衛門様も困ります」


 龍之介は頷いた。


「その通りだ」


 藤吉郎の言葉は幼くない。


 飯屋で飯を切らさぬために人を見てきた目が、少しずつ荷と祈りにも向いている。


 今日の場で大事なのは、誰を責めるかではない。


 何を先に進めるかだった。


 油を納める。


 判形を問う。


 伊助の一文を榎本屋の定めにしない。


 半七の顔を残す。


 それぞれを混ぜずに進める。


 那古野へ戻った信長は、平手へ口述した。


「榊屋弥左衛門の寄進油四壺、榎本屋に届くも、古い判形と添え書きにより、社へ納まらず蔵に留まる。榎本屋番頭佐平、自ら那古野へ来たり、添え書きは榎本屋清左衛門の定めにあらず、蔵の古番伊助が古い判形を用い記したものと述べる」


 平手は筆を走らせる。


 信長は続けた。


「清洲筋の半七なる者、伊助へ那古野が祈願荷を細かく留めると告げ、古い筋を示すよう促した由。榎本屋は、まず油を天王社へ納め、その後、判形の由来、押した者、今後へ及ぶか否かを答えることとする」


 平手が顔を上げた。


「大殿へ送りますか」


「送る」


 信長は答えた。


「今回は、津島の内側で油が止まった。清洲筋の半七の名も出た。父上へ残す」


「坂井の名は」


「まだ書かぬ」


 信長は即答した。


「半七までだ。大膳の名は、半七がどこから来たかを見てからでよい」


 新五が頷いた。


「名を急がぬ方がよろしいかと」


「ああ。急げば、こちらが作った名になる」


 龍之介は、その判断を聞いていた。


 清洲の手は見える。


 だが、名を決めつけるには、まだ一段足りない。


 この我慢が、ここまでの流れを支えている。


 又左が腕を組んだ。


「しかし、半七を泳がせすぎるのも危うくありませぬか」


「泳がせるのではない」


 信長は言った。


「泳いでいる水を見ている」


 又左は眉を上げ、それから苦笑した。


「若、だんだん言い方が意地悪くなっております」


「お前がすぐ斬りたがるからだ」


「最近は我慢しております」


「知っている」


 短いやり取りで、庭の空気が少し緩む。


 だが、信長の目はすぐに細くなった。


「榎本屋の内が割れた。これは大きい」


 平手が頷く。


「津島の名が一つではないと、周りにも見えます」


「そこを清洲は使う」


 信長は言った。


「榎本屋を責めすぎるな。佐平を守りすぎるな。伊助を笑うな。古いものを守りたい者まで敵にすれば、津島そのものを敵に回す」


 龍之介は、深く頷いた。


 ここで必要なのは、勝つことだけではない。


 津島の中の割れ目を、清洲に広げられないことだ。


 清洲では、坂井大膳が半七から報告を受けていた。


 榎本屋の番頭佐平が、那古野へ行った。


 古い判形の添え書きは榎本屋の定めではないと述べた。


 蔵の古番伊助が名を出された。


 寄進油は、まず社へ納めることになった。


 大膳は、半七を叱らなかった。


 ただ、静かに聞いた。


「伊助は動いたか」


「はい」


「佐平は戻したか」


「はい」


「油は止まったか」


「一度は」


「なら、効いた」


 半七は顔を上げた。


「しかし、若様は油を先に納めよと」


「それもよい」


 大膳は薄く笑った。


「油が納まれば、願主は那古野を恨まぬ。だが、榎本屋の中には残る。伊助は、自分が古い筋を守ったと思っている。佐平は、それを余計な添え書きだと思っている」


「榎本屋の内が」


「割れた」


 大膳は扇を広げた。


「津島の名は一つではない。三郎もそれを知った。だが、知ったからといって、扱えるとは限らぬ」


 半七は頭を下げる。


「次は、伊助をさらに」


「いや」


 大膳は首を振った。


「伊助を急がせるな。古いものを守る者は、急がせると頑なになる。しばらくは、榎本屋の中で自分の正しさを育てさせる」


「では」


「祭礼の日限を使う」


 半七の目が動いた。


 大膳は続けた。


「天王社への油は、祭礼の支度に関わる。日限がある。那古野が問いを重ねるほど、祭礼に遅れるという声を作れる」


「油は納まりますが」


「油一つではない。次の荷だ」


 大膳は窓の外を見た。


「灯明、紙、縄、米。祭礼には物が要る。どれか一つでも遅れれば、誰かが言う。那古野の細かさで、天王様の支度が遅れたとな」


 半七は、ゆっくり頭を下げた。


「祭礼を」


「祭礼そのものを敵に回す必要はない」


 大膳は静かに言った。


「祭礼に遅れることへの恐れを使うのだ」


 清洲の影は、古い判形から、祭礼の日限へ手を伸ばしていた。


 夕刻、橘屋から那古野へ早馬が入った。


 榊屋弥左衛門の寄進油四壺は、榎本屋から天王社へ納められた。


 祐円、長右衛門、湊屋の者が見届け、榎本屋佐平が控えを出した。


 伊助は、その場には出なかったという。


 信長は報告を聞き、ようやく一つ頷いた。


「油は届いた」


 それだけだった。


 だが、その一言で、庭にいた者たちの肩から少し力が抜けた。


 藤吉郎も小さく息を吐く。


「よかったです」


 信長は藤吉郎を見た。


「何がよかった」


「弥左衛門様の願いが、途中で止まらなかったことです」


「そうだ」


 信長は頷いた。


「まず、そこだ」


 龍之介は、その言葉を胸に置いた。


 勝ったかどうかではない。


 誰を責めたかでもない。


 まず、祈りの荷が届いた。


 その事実が、今日の芯だった。


 その芯を外せば、こちらも清洲と同じになる。


 信長は続けた。


「次は祭礼だ」


 新五が顔を上げる。


「もう来ますか」


「来る」


 信長は言い切った。


「祈願荷で駄目なら、祭礼の支度を使う。日限があれば、人は急ぐ。急げば、名を問う手が鈍る」


 平手が静かに頷く。


「灯明、紙、縄、米、薪。祭礼に要る物はいくらでもございます」


「先に見る」


 信長は言った。


「津島の祭礼に何が要るか。どの荷がどこを通るか。橘屋、湊屋、縄屋、升屋へ聞け。寺にも聞け。知らぬまま待てば、また名に止められる」


 龍之介は、信長の横顔を見た。


 待つのではない。


 先に見る。


 ここまでの戦いで、信長の場は少しずつ変わってきた。


 罠を受けて見抜くだけではなく、次に使われる道を先に測る。


 それは、郭嘉の知が好む形でもあった。


 だが、龍之介はそれだけでは足りないことも知っている。


 祭礼は、人の祈りと楽しみと商いが混じる。


 そこに踏み込むなら、今までよりさらに慎重さが要る。


 夜、那古野の庭には、荷縄を干す匂いが残っていた。


 藤吉郎は、昼に結んでいた縄をほどき、もう一度結び直している。


 龍之介は、その手元を見ながら言った。


「少し形になってきたな」


「まだ遅いです」


「遅くても、緩まぬ方がよい」


「はい」


 藤吉郎は頷き、もう一度指を動かした。


 油は届いた。


 だが、判形の問題は残った。


 伊助という名も残った。


 半七という名も残った。


 そして祭礼の日限が、次の影として見えてきた。


 龍之介は、夕暮れに届いた控えを思い出した。


 榊屋弥左衛門の寄進油四壺、津島天王社へ納まる。


 たったそれだけの文が、今日いちばん重かった。


 荷は、届けて終わり。


 祈りも、届いて初めて祈りの形になる。


 古い判形に足を止められ、榎本屋の内が割れ、清洲の手が入っても、最後に油が社へ届いた。


 そこを見失ってはならない。


 龍之介は空を見た。


 祭礼。


 それは、戦場よりも柔らかい顔をしている。


 だが、人を急がせる力は強い。


 祭りに遅れる。


 天王様の支度が間に合わぬ。


 その声が出れば、商人も馬借も飯屋も慌てる。


 清洲は、きっとそこを突く。


 呂布の武では、祭礼の支度は守れない。


 郭嘉の知だけでも、人の楽しみまでは支えられない。


 必要なのは、物の道を先に見る目と、人の心を粗末にしない手だった。


 龍之介は、干された縄の影を見た。


 一本の縄は、強く引けば切れる。


 緩すぎれば荷が落ちる。


 祭礼の道も、おそらく同じだ。


 締めすぎず、緩めすぎず。


 その加減を間違えれば、清洲の手が入る。


 遠くで、寺の鐘が鳴った。


 油は届いた。


 だが、津島へ向かう道は、まだ終わっていない。



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