↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
61/101

第61話 取り次ぐ者

 祈りには、道がある。


 その道を預かる者が来た。


 榊屋弥左衛門の寄進油は、寺の馬留めを出て、渡し場へ向かっていた。


 油壺は四つ。


 札は外していない。


 願主、榊屋弥左衛門。


 品、寄進油四壺。


 納め先、津島天王社。


 寺の控え、橘屋の控え、湊屋の控え、馬借の控え。


 それぞれに同じ名が残されている。


 荷車を引く馬の口を取っていた与八は、昨日よりも慎重だった。壺は割れやすい。荷の名も重い。祈りの札を粗末にしてはならないが、札だけを見て道を変えるわけにもいかない。


 渡し場に近づくと、川の匂いが濃くなった。


 水面には薄い朝靄が残り、舟板を打つ小さな音が岸に返っている。船頭たちはまだ声を抑えていたが、荷が来たと見ると、こちらへ目を向けた。


 湊屋の者が先に舟を見ていた。


 浅い舟ではなく、油壺を積んでも揺れにくい舟を選ぶためである。


 その時、渡し場の奥から一人の男が出てきた。


 僧ではない。


 社人でもない。


 だが、ただの商人でもなかった。


 白く日に焼けた小袖に、古い袈裟のような布を肩へ掛け、腰には木札を束ねた紐を下げている。頭は丸めていないが、髪は短く整えられ、歩くたびに札がかすかに鳴った。


 男は油壺の札を見ると、深く頭を下げた。


「牛頭天王への寄進油でございますな」


 与八は荷車を止めた。


「どなたで」


「祐円と申します。津島天王社へ出入りし、祈願と寄進を取り次ぐ者でございます」


 湊屋の者が表情を変えた。


 名前を聞いたことがあるのだろう。


 祐円は懐から小さな帳面を出した。


「榊屋弥左衛門殿の願、承っております。寄進油四壺。こちらで預かり、津島へ納めましょう」


 与八の手が止まった。


 願主の名がある。


 品も合っている。


 納め先も合っている。


 そして、今度は取り次ぐ者の名まで出た。


 昨日より、本物に近い。


 だからこそ、場が重くなった。


 湊屋の者が、慎重に問う。


「祐円殿は、弥左衛門殿から直接お聞きで」


「願をかけた時に、名は預かっております」


「今日、油がこちらを通ることも」


 祐円は、少しだけ間を置いた。


「昨日、清洲筋より聞きました」


 与八は、その言葉に引っかかった。


 清洲筋。


 また、そこが挟まっている。


 祐円は穏やかに続けた。


「祈りの荷は、扱いを誤ると願主に障ります。商人衆や馬借衆が粗末に扱ったと言われぬためにも、ここから先は御師筋が預かるのが筋でございましょう」


 言葉は柔らかい。


 だが、そこには圧があった。


 渡し場にいた者たちが、油壺と祐円を見比べる。


 祈りを取り次ぐ者が来た。


 ならば渡すべきではないか。


 そういう空気が生まれた。


 与八は、昨日の甚蔵の言葉を思い出した。


 分からぬ時は、粗末にせぬ形で止めればよい。


「少し、お待ちください」


 与八は言った。


「那古野へ知らせます」


 祐円は静かに微笑んだ。


「祈りの道に、また問いを挟まれますか」


 与八は頭を下げた。


「挟むのではございません。道を間違えぬために、確かめます」


 声は少し震えた。


 だが、足は動かなかった。


 知らせは、渡し場から那古野へ走った。


 信長は庭ではなく、馬屋の前にいた。津島へ目を送る者をどう選ぶか、馬借の名を聞いていたところだった。


 知らせを聞くと、信長の顔から余分な色が消えた。


「来たか」


 平手が低く言う。


「取り次ぐ者でございますな」


「そうだ」


 信長は短く答えた。


「願主、品、納め先の次は、取り次ぎの名。順に来るな」


 龍之介は頷いた。


 清洲の手は、少しずつ本物へ近づいている。


 偽の札。


 名のない祈り。


 願主のある寄進。


 そして今度は、祈りを取り次ぐ者。


 全部が偽物ではない。むしろ、本物が混じるほど危ない。


 信長はすぐに命じた。


「渡しへ行く。又左は来い。ただし、前へ出るな。新五、龍之介、勝三郎。藤吉郎も来い。祈りの道を見るには、足の遅い者も要る」


 藤吉郎は一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに頭を下げた。


「はい」


 平手が問う。


「慶順様は」


「呼べ。昨日、祈りには向く先があると言った者だ。取り次ぎにも向く先があるか、聞く」


 信長は歩き出した。


「今日は、荷を奪わせぬ。だが、祐円を侮るな」


 龍之介は、その言葉に少し目を細めた。


 信長はもう分かっている。


 祐円はただの小者ではない。


 ここで粗く扱えば、那古野は祈りの取り次ぎを軽んじたと言われる。


 かといって、そのまま渡せば、昨日外したはずの清洲筋が、また寄進油の道へ戻ってくる。


 細い道だった。


 渡し場には、すでに人が集まり始めていた。


 油壺。


 牛頭天王の札。


 御師筋の祐円。


 それだけで、見物の目が寄る。


 川風が水面を撫で、油壺を包む藁がかすかに鳴った。


 祐円は騒がなかった。


 怒りもしない。


 ただ静かに立っている。


 それが、かえって場を重くしていた。


 信長が着くと、祐円は深く頭を下げた。


「若様におかれましては、ご機嫌麗しく」


「挨拶はよい」


 信長は油壺を見た。


「祐円と申したな」


「はい。津島天王社へ出入りし、願と寄進を取り次いでおります」


「社人か」


「社人ではございませぬ」


「では、社の者ではない」


 祐円は少しだけ目を伏せた。


「社へ出入りを許された者にございます。願主の思いを社へ届ける、それが私どもの務めです」


 信長は頷いた。


「ならば、祈りを扱う者だ」


「そのように心得ております」


「では聞く。榊屋弥左衛門の油を、お前に渡せば、誰が受け取ったことになる」


 祐円は答えた。


「祐円が預かり、津島天王社へ納めます」


「預かりと納めは違う」


 その一言で、祐円の表情が少し変わった。


 龍之介は、信長の言葉を聞いて内心で頷いた。


 そこだった。


 祐円は取り次げる。


 だが、祐円に渡した時点で、社へ納めたことになるのか。


 ならない。


 その間に、道がある。


 信長は続けた。


「榊屋は妻の熱が引いた礼として油を納めたいと言った。ならば、油が社へ届くことが大事だ。お前が預かることで早く確かに届くならよい。だが、清洲筋から聞いたと言ったな」


「はい」


「なぜ、願主からではない」


 祐円は静かに息を吸った。


「願主は、祈りの筋を知らぬこともございます。周りの者が取り次ぎへ知らせることは珍しくありません」


「珍しくないことと、今回正しいことは違う」


 信長の声は荒くない。


 だが、川風よりも冷たかった。


 慶順が遅れて到着した。


 寺の僧は、祐円を見ると軽く頭を下げた。


「祐円殿。お久しゅうございます」


「慶順殿」


 二人は知り合いだった。


 場の空気が、さらに複雑になる。


 藤吉郎が小さく息を呑んだ。


 敵ではない。


 知らぬ者でもない。


 それでも、見なければならない。


 信長は慶順へ向いた。


「慶順。祈りを取り次ぐ者に渡せば、それで社へ納めたことになるのか」


 慶順は少し考えた。


「必ずしも、とは申せませぬ。取り次ぎは、橋のようなもの。橋を渡り始めたからといって、向こう岸へ着いたわけではございません」


 祐円が眉を動かした。


「慶順殿」


「祐円殿を疑っているのではない」


 慶順は穏やかに言った。


「ただ、願主の祈りを確かに届けるなら、どこで誰が預かり、どこで誰へ渡すかを残すのが筋でございましょう」


 信長は祐円を見る。


「聞いたか」


「はい」


「ならば、こうする。油はお前へ渡してもよい。ただし、この渡し場で、お前が預かったことを残す。次に、津島で誰へ渡すかも残す。清洲の蔵を挟むなら、その理由も残す」


 祐円は黙った。


 湊屋の者が息を止めている。


 与八も動かない。


 信長は言った。


「残せるなら、取り次げ。残せぬなら、湊屋の舟で社の近くまで送る」


 祐円の目が細くなった。


 これは拒絶ではない。


 だから騒げない。


 だが、好きに道を曲げることもできない。


 祐円は、しばらく川を見ていた。


 水面に朝日が揺れている。


 舟が一艘、岸から少し離れて待っていた。船頭は櫓に手を置いたまま、こちらを見ている。


「若様は、祈りの道を帳面に縛るおつもりか」


 祐円が言った。


 信長は答えた。


「縛るのではない。切れぬように結ぶ」


「祈りは、帳面だけで届くものではございません」


「知っている」


 信長は即座に言った。


「だから札を破らなかった。願主も責めなかった。今日もお前を追い払っていない」


 祐円は、そこで初めて黙った。


「だが、祈りの名で清洲の蔵を通すなら、それは商いの道でもある。商いの道なら、誰がどこで預かったかを残す」


 龍之介は、信長の横顔を見た。


 若い。


 だが、危うい道の上で足が止まらない。


 祈りを否定せず、商いからも逃げない。


 その両方を同時に扱っている。


 祐円は、ゆっくり口を開いた。


「清洲の蔵を挟むつもりは、ございません」


 仙八の名は出ない。


 だが、場にいる者は聞いた。


 信長は少しだけ目を細める。


「では、どこへ運ぶ」


「津島の社近くに、寄進を預かる家がございます。そこへ」


「名は」


 祐円は、今度は詰まらなかった。


「榎本屋清左衛門」


 湊屋の者が顔を上げた。


「榎本屋なら、存じております。社近くで油と灯明を扱う家です」


 信長は湊屋を見る。


「確かか」


「はい。少なくとも、名だけの家ではございません」


「なら、その名を控えろ」


 平手はいない。


 代わりに龍之介が、板に置かれた紙へ筆を走らせた。


 願主、榊屋弥左衛門。


 品、寄進油四壺。


 渡し場にて、祐円が取り次ぎを申し出る。


 祐円、社人にあらず。津島天王社へ出入りし、願と寄進を取り次ぐ者。


 清洲筋より荷を知る。


 清洲北蔵は挟まず。


 津島社近く、榎本屋清左衛門へ渡すという。


 龍之介は筆を止めた。


 祐円は、その控えを見ていた。


 不満はある。


 だが、虚偽とは言えない。


 藤吉郎が、油壺の藁を見て言った。


「壺は、祐円様の舟へ積み替えるのですか」


 祐円が答える前に、湊屋の者が言った。


「こちらの舟の方が揺れは少ない」


 藤吉郎は祐円を見る。


「祈りを取り次ぐ人と、壺を割らずに運ぶ舟は、別でもよいのでしょうか」


 祐円は藤吉郎を見た。


 子供ではない。


 だが、まだ若い。


 その若い者に問われた言葉は、場の芯を突いていた。


 慶順が静かに言う。


「祈りを運ぶことと、壺を守ることは、同じではありません。だが、どちらも欠ければ届きませぬ」


 信長は頷いた。


「では、祐円は札と願いの取り次ぎとして同道する。壺は湊屋の舟で運ぶ。舟の者、馬借、祐円、それぞれが控えを持つ。津島で榎本屋へ渡したなら、受け取りの印を戻せ」


 祐円は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 その声には、最初の柔らかな圧とは違うものがあった。


 完全な敗北ではない。


 だが、祐円は自分の役を狭められた。


 祈りの取り次ぎ。


 荷の支配ではない。


 そこが分けられた。


 油壺は、渡し場で積み直された。


 湊屋の舟に壺を載せる。


 壺の間には布を入れ、藁を足した。


 札は外さない。


 ただし、札だけを舟の前へ立てることもしない。


 願主の名、品、納め先、取り次ぐ者、渡す先。


 それらを控えた紙を、油壺の内側の布包みに一つ、湊屋の者に一つ、祐円に一つ持たせた。


 与八が、荷車の綱を畳みながら息を吐いた。


「祈りの人が来ても、荷の人は要るんですね」


 甚蔵が頷く。


「祈りだけでは壺は運べん。壺だけでも祈りは届かん。どちらも要る」


 藤吉郎は、その言葉を覚えようと小さく繰り返した。


 祈りだけでは壺は運べない。


 壺だけでも祈りは届かない。


 分ける。


 だが、切らない。


 最近ずっと続いてきたことが、ここでも同じ形をしていた。


 祐円は舟へ乗る前、信長へ向き直った。


「若様」


「何だ」


「祈りの道を疑いすぎれば、人は遠ざかります」


「そうだろうな」


「ですが、今日の若様の扱いなら、願主は傷つきませぬ」


 信長は少しだけ黙った。


「なら、そう伝えろ」


「誰に」


「津島で、聞く者がいればだ」


 祐円は、わずかに笑った。


「承知しました」


 舟が岸を離れた。


 油壺は静かに揺れている。


 札は風に鳴らないよう、布で半ば押さえられていた。


 祈りは見える。


 だが、見せびらかされてはいない。


 その姿を見て、龍之介はようやく息を吐いた。


 今日は斬らずに済んだ。


 止めずにも済んだ。


 だが、簡単に通したわけでもない。


 細い川筋を、何とか渡した。


 那古野へ戻ると、信長は馬屋の前で報告をまとめさせた。


 平手が聞き取り、龍之介が渡し場で取った控えを渡す。


 信長はそれを見て、短く言った。


「今日は父上へ送る」


 平手が頷いた。


「承知しました」


 昨日は送らなかった。


 願主を騒ぎに巻き込まぬためだった。


 だが、今日は違う。


 祈りを取り次ぐ者が現れ、清洲筋から荷のことを聞いたと自ら言った。清洲北蔵は挟まないと決まったが、清洲筋が祈りの道へ手を伸ばしている事実は残す必要があった。


 信長は言う。


「榊屋弥左衛門の寄進油四壺、渡し場にて御師筋祐円が取り次ぎを申し出る。祐円は社人にあらず、津島天王社へ出入りし、願と寄進を取り次ぐ者。荷のことは清洲筋より聞いたと申す。清洲北蔵は挟まず、津島社近く榎本屋清左衛門へ渡すこととし、湊屋の舟で送る。控えを三つに分け、祐円、湊屋、荷に持たせる。そう書け」


 平手は筆を進めた。


「坂井の名は」


「まだ書かぬ」


 信長は答えた。


「だが、清洲筋という言葉はそのまま書け。祐円が言った言葉だ」


「承知しました」


 新五が口を開く。


「御師筋を敵に回さずに済みました」


「ああ」


 信長は頷く。


「だが、近づいてきた。札より近い。願主よりも、さらに道の中にいる」


 藤吉郎が言った。


「祈りの取り次ぎと、荷を運ぶ人は、別なんですね」


「別だ」


 信長は言った。


「だが、別だからといって切り離せば届かぬ。そこが難しい」


 藤吉郎は真剣に頷いた。


 信長は、庭にいる者たちへ目を向ける。


「決まりを増やす。祈りの荷に取り次ぎの者が来た時は、社人か、御師筋か、ただの商人かを分ける。次に、誰から荷を知ったかを聞く。最後に、どこで誰へ渡すかを残す」


 平手が筆を止めずに言う。


「願主、品、納め先に加え、取り次ぎの名、聞いた筋、渡す先でございますな」


「そうだ」


 又左が腕を組む。


「どんどん細かくなりますな」


 信長は又左を見た。


「面倒か」


「面倒です」


「だが、斬るより早い」


 又左は少し黙り、それから苦笑した。


「最近、それが分かってきました」


「よいことだ」


 場にわずかな笑いが落ちる。


 だが、信長の目は鋭いままだった。


「大膳は、次にさらに近いものを出す。社人そのものか、あるいは社の名を借りた文か」


 龍之介は頷いた。


 祐円は本物寄りだった。


 だが、社人ではない。


 次に来るものは、もっと社に近い。


 あるいは、もっと近く見える。


 清洲の手は、じりじりと祈りの奥へ入っている。


 清洲では、坂井大膳が祐円の報告を聞いていた。


 祐円は清洲北蔵を挟むことを通せなかった。


 だが、追い返されたわけではない。


 油壺は湊屋の舟で津島へ向かい、祐円は取り次ぎとして同道した。


 榎本屋清左衛門の名も出した。


 控えも三つに分けられた。


 大膳は、しばらく扇を開いたまま動かなかった。


「役を分けたか」


 控えの男が頭を下げる。


「はい」


「祈りを取り次ぐ者と、荷を運ぶ者を分けた」


「そのようで」


「三郎は、物を分けるのが上手い」


 大膳は低く言った。


「だから厄介だ。祈りを敵にせぬ。御師筋も敵にせぬ。だが、道だけは渡さぬ」


 控えの男は答えられない。


 大膳は扇を閉じた。


「だが、祐円を通したことは大きい」


「通した、と申しますと」


「取り次ぐ者を拒まなかった。つまり、三郎は祈りの筋を断てぬ。そこは分かった」


 大膳の目が細くなる。


「次は、社の名をもっと近づける」


「社人でございますか」


「社人そのものはまだ重い。だが、社の判がある文ならどうだ」


 控えの男が顔を上げる。


「判」


「本物でなくともよい。似た判でもよい。見る者が迷えば、それでよい」


「偽判は危うくございませぬか」


「だから、はっきり偽とは分からぬものを使う」


 大膳は静かに笑った。


「古い控えから写した判。昔の寄進に使われた札。今も通るかどうか、誰にもすぐには分からぬものだ」


 控えの男は、ゆっくり頭を下げた。


「三郎は、判にも名を問うでしょうか」


「問うだろう」


 大膳は言った。


「だが、問えば時間がかかる。問わねば通る。どちらでもよい。津島の道に、迷いが生まれればな」


 清洲の影は、祈りを取り次ぐ者の次に、判の古さへ手を伸ばそうとしていた。


 夜、那古野の庭は静かだった。


 龍之介は、渡し場の光景を思い返していた。


 油壺。


 白い札。


 祐円の穏やかな声。


 慶順の「橋」という言葉。


 信長の「預かりと納めは違う」という一言。


 あの一言がなければ、場は祐円へ傾いていたかもしれない。


 祈りを取り次ぐ者は、確かに必要だ。


 だが、取り次ぎは到着ではない。


 橋を渡り始めても、向こう岸に着いたわけではない。


 それは、兵の道にも似ていた。


 荷を出しただけでは、届いたことにならない。


 文を持たせただけでは、読まれたことにならない。


 命じただけでは、成ったことにならない。


 間にいる者。


 運ぶ者。


 取り次ぐ者。


 預かる者。


 その一つずつが、道を変える。


 龍之介は、掌を開いた。


 呂布の武は、間に入る者を力でどかせる。


 郭嘉の知は、間に入る者の意図を読む。


 だが、今日必要だったのは、どかすことでも、疑うことだけでもなかった。


 役を分けることだった。


 祈りを取り次ぐ役。


 壺を運ぶ役。


 名を残す役。


 それぞれを分けて、同じ先へ向ける。


 それができなければ、祈りの道は清洲の道に変わっていた。


 遠くで、馬が鼻を鳴らした。


 川はまだ遠い。


 だが、津島へ向かった油壺は、もう水の上にある。


 次に来るものは、さらに古い顔をしているだろう。


 札か。


 判か。


 社の名か。


 龍之介は夜空を見上げた。


 古い名は、重い。


 重いからこそ、人は手を止める。


 その重さを利用する手を、見失ってはならない。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。