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【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


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第60話 願主の名

 名のある祈りは、名のない札より厄介だった。


 牛頭天王の札を結んだ荷が寺に預けられた翌朝、寺の馬留めに一台の荷車が入ってきた。


 荷は油壺だった。


 藁で巻かれた壺が四つ。揺れれば割れるため、荷車の上には柔らかい藁と古布が敷かれている。縄はきちんと締められ、壺の一つにだけ白い札が結ばれていた。


 札には、前日のものと同じように牛頭天王の文字があった。


 だが、違うところもある。


 願主、榊屋弥左衛門。


 寄進油、四壺。


 津島天王社へ。


 昨日の札にはなかった名が、そこにはあった。


 馬借の与八は、荷車の前で足を止めた。


 すぐに手を出さなかったのは、昨日のことを覚えていたからである。


 馬借頭の甚蔵も、札を見ると眉を動かした。


「願主があるな」


 荷車の脇に立っていた男が、深く頭を下げた。


「榊屋弥左衛門と申します。津島天王社へ油を納める約束をしておりました。家の者の熱が引きまして、その礼でございます」


 弥左衛門は四十を少し越えた頃の男だった。顔色は悪く、目の下に疲れがある。だが、着物も帯も乱れてはいない。慌てているのではなく、迷いながら来た顔だった。


 その後ろに、もう一人の男が立っていた。


 清洲門前の荷扱いを名乗る男である。


 名を仙八と言った。


 仙八は、弥左衛門が頭を下げ終える前に口を開いた。


「願主も荷も札も揃っている。昨日とは違う。これは止められまい」


 甚蔵は、仙八を見た。


「誰も止めるとは言っておらぬ」


「では、通してもらおう。清洲北蔵へ一度入れ、そこから津島へ回す」


 与八が荷車の綱を持ったまま、動きを止めた。


 甚蔵も黙った。


 弥左衛門が困ったように口を挟む。


「私には、清洲北蔵へ入れれば、そこから津島へ滞りなく届くと聞かされております」


「誰に」


 甚蔵が問う。


 弥左衛門は仙八を見る。


 仙八は、すぐに言った。


「津島筋の決まりだ」


「誰の決まりかと聞いている」


 甚蔵の声は低い。


 仙八の目が少しだけ鋭くなった。


「馬借が、天王社への寄進にまで口を出すか」


 その言葉で、場が固まりかけた。


 昨日と同じだった。


 祈りの名を出せば、人の手は止まる。


 だが、昨日と違い、今度は願主がいる。


 荷もある。


 油壺も本物に見える。


 甚蔵は少し考え、それから与八に命じた。


「板を敷け。荷は板の上へ。壺を揺らすな。那古野へ知らせる。寺の慶順様にも来てもらえ」


 仙八が鼻で笑った。


「また名を問うか」


 甚蔵は、札を見たまま答えた。


「願主の名がある。だから、願いの道を間違えぬように聞く」


 与八は板を敷き、油壺を荷車の上で安定させた。


 弥左衛門は不安そうに札を見ていた。


 その目には、嘘をついている者の濁りはなかった。


 だからこそ、厄介だった。


 知らせを受けた信長は、すぐに寺の馬留めへ向かった。


 平手、新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、彦右衛門が従う。又左も来たが、信長は寺へ入る前に釘を刺した。


「又左、今日は壺を割るな」


「割りませぬ」


「人も割るな」


「若、その言い方は」


「怒るなという意味だ」


 又左は、少しだけ息を吐いた。


「承知しております」


 寺の馬留めに着くと、油の匂いがかすかに漂っていた。


 壺は板の上に置かれ、白い札は外されずに残っている。慶順がそばに立ち、甚蔵と与八が荷車の前を守っていた。


 弥左衛門は信長を見ると、膝をついた。


「若様。私は、祈りを盾にするつもりではございませぬ。ただ、家の者が助かった礼を、津島天王社へ届けたいだけでございます」


 仙八がすぐに続けようとした。


「その通りでございます。願主も名乗り、荷も」


 信長は仙八を見ずに言った。


「弥左衛門に聞いている」


 仙八の口が閉じた。


 信長は弥左衛門へ向く。


「願いは、誰のためだ」


「妻でございます。高い熱が三日続き、医者にも祈れと言われました。そこで、牛頭天王へ油を納めると願をかけました」


「妻は」


「熱は引きました。まだ弱っておりますが、起き上がれるようになりました」


「なら、礼を届けたい気持ちは本物だな」


 弥左衛門の顔が少し歪んだ。


「はい」


 信長は、今度は壺を見る。


「油も本物か」


 弥左衛門は頷いた。


「はい。店の油です。粗末なものは納められませぬ」


 信長は龍之介へ視線を向けた。


「見ろ」


「はい」


 龍之介は壺に触れず、まず縄と藁を見た。縄は昨日のような見せるためのものではない。壺を守るため、揺れに合わせて締められている。


 藁も新しいものと古いものが混じっていた。


 使い慣れた荷造りだった。


 彦右衛門がそばで頷く。


「これは壺を運ぶ結びです。札を見せるためだけではありませぬ」


 藤吉郎は壺の下を覗き込んだ。


「油の匂いもします。空ではありません」


 仙八が苛立った声を出す。


「だから、そう申している。願主も荷もある。通してもらおう」


 信長は、そこで初めて仙八を見た。


「清洲北蔵へ入れると言ったな」


「津島へ回すためでございます」


「なぜ、清洲北蔵を挟む」


「津島筋の荷は、そうするのが安全で」


「誰が決めた」


 仙八は一瞬、黙った。


 その一瞬を、龍之介は見た。


 弥左衛門は困惑している。


 甚蔵は黙っている。


 慶順は札を見ている。


 仙八だけが、問いを嫌がっていた。


 信長は重ねた。


「天王社へ納める油なら、津島へ届けばよい。清洲北蔵へ入れねばならぬ理由は何だ」


「札を改めるためでございます」


 慶順が顔を上げた。


「誰が改める」


 仙八は僧に問われ、少しだけ声を落とした。


「津島筋の者が」


「社人か」


「それは」


「社人ではないのだな」


 慶順の声は穏やかだったが、逃げ場がなかった。


「天王社へ納める油なら、社へ届いて初めて寄進となる。途中の蔵で札を重ねれば、祈りが増すわけではない」


 弥左衛門が慶順を見た。


「そうなのでございますか」


「少なくとも、この寺ではそう見る。願主があり、品があり、納め先があるなら、粗末にせず、そのまま納め先へ向けるのが筋だ」


 仙八が声を荒げた。


「この寺が津島の作法を決めるのか」


 信長が静かに言った。


「決めていない」


 仙八が信長を見る。


「では」


「清洲北蔵を挟む理由を聞いているだけだ」


 それだけだった。


 だが、それだけで仙八は詰まった。


 祈りの札はある。


 願主もいる。


 油も本物だ。


 だからこそ、余計な蔵だけが浮いた。


 宗右衛門と湊屋甚右衛門も呼ばれた。


 油壺の扱いと、津島へ向かう道を知る者が必要だったからである。


 宗右衛門は札を読み、弥左衛門へ丁寧に頭を下げた。


「願主の名も、品も、納め先もございます。粗末に扱うものではございませぬ」


 弥左衛門は、少し安心したように息を吐いた。


 湊屋は壺の積み方を見た。


「川へ出すなら、このままでは揺れます。もう一枚、壺の間へ布を噛ませた方がよろしい」


 弥左衛門が慌てて言う。


「布なら用意いたします」


「こちらでも出せます」


 湊屋は落ち着いて答えた。


「それから、津島へ送るなら、清洲北蔵へ入れるより、渡しで舟を選んだ方が早い。油壺は積み替えが少ない方が割れませぬ」


 仙八が口を挟む。


「清洲北蔵なら、津島筋がまとめて」


「まとめるほどの荷ではありません」


 湊屋は仙八を見た。


「四壺です。まとめる間に日が過ぎます。願主が礼を急ぐなら、余計な蔵を挟まぬ方がよい」


 その言葉は、弥左衛門に届いた。


「では、清洲北蔵へ入れずとも」


「届きます」


 宗右衛門が答えた。


「ただし、願主の名、品、納め先、渡す者の名を控えます。途中で壺が割れた時、誰がどこまで持ったか分かるようにするためです」


 弥左衛門は深く頷いた。


「それでお願いいたします」


 仙八の顔が硬くなった。


「勝手なことを」


 信長は言った。


「願主が決めた」


「若様が言わせたのでしょう」


「弥左衛門」


 信長は仙八を相手にしない。


「清洲北蔵へ入れるか。このまま津島へ向けるか。お前が決めろ」


 弥左衛門は、札と油壺を見た。


 祈りは、誰かのものではない。


 自分が願い、自分が礼を届けるものだ。


 そのことを、ようやく思い出した顔だった。


「このまま津島へ向けます」


 はっきりと言った。


「妻の礼でございます。どこの蔵へ入れるかより、天王社へ届くことを望みます」


 信長は頷いた。


「よい」


 仙八が一歩引いた。


 勝三郎がその背後にいる。


「帰るなら、ゆっくり帰れ」


 勝三郎は静かに言った。


「走れば、願主の荷を置いて逃げた男になる」


 仙八は昨日の男と同じように、足を止めた。


 同じ手は、もう効きにくくなっていた。


 油壺は、寺の馬留めで積み直された。


 札は外さない。


 ただし、札だけを先に立てることもしない。


 願主、品、納め先、渡す者の名を寺と橘屋と馬借がそれぞれ控えた。


 慶順が筆を取り、声に出して読んだ。


「願主、榊屋弥左衛門。品、寄進油四壺。納め先、津島天王社。途中、清洲北蔵へ入れず、渡しより津島筋へ向ける。扱い、寺の馬留め、橘屋、湊屋、馬借甚蔵」


 弥左衛門は、その控えを聞いて何度も頭を下げた。


「ありがとうございます」


 信長は言った。


「礼は、油が届いてから言え」


「はい」


「それと、祈ったことを恥じるな」


 弥左衛門は顔を上げた。


 信長の声は低く、しかしはっきりしていた。


「人が弱った時に祈るのは、悪いことではない。だが、その祈りに余計な蔵を挟ませるな」


 弥左衛門の目が赤くなった。


「肝に銘じます」


 藤吉郎は、その言葉を聞いていた。


 祈りを笑わない。


 願主を責めない。


 だが、祈りの道に余計な蔵を入れない。


 昨日より難しかった。


 昨日の荷は、名がなかった。


 今日の荷には、名があった。


 名があるからこそ、傷つけてはいけないものが増える。


 与八が馬の口を取り、油壺の荷車がゆっくり動き出した。


 湊屋の者が道案内につき、橘屋の番頭が途中の控えを持つ。馬借は甚蔵が選んだ二人で、口の堅い者だった。


 信長は、荷車が寺の門を出るまで見送った。


 仙八は、少し離れたところでそれを見ていた。


 清洲北蔵へ入るはずだった荷が、別の道へ進む。


 札は剥がされていない。


 祈りも否定されていない。


 ただ、清洲の蔵だけが外された。


 仙八は唇を噛み、何も言わずに去った。


 那古野へ戻ると、信長は報告をまとめさせた。


 平手が筆を取り、新五が事実を並べる。


 弥左衛門の名。


 願いの筋。


 油壺四つ。


 清洲北蔵を挟むと言われていたこと。


 だが、願主本人の望みにより、津島へ直接向けたこと。


 札は外さず、荷も止めず、余計な蔵だけを外したこと。


 信長は最後まで聞いてから言った。


「父上へは、今すぐ送らぬ」


 平手が顔を上げる。


「今回は送らぬので」


「弥左衛門は罠ではない。巻き込まれた者だ。すぐ大きくすれば、願主の名まで騒ぎになる」


 龍之介は、内心で頷いた。


 昨日は送った。


 名のない祈り札が、清洲へ急ぐ荷として来たからだ。


 今日は違う。


 願主は本物で、荷も本物だった。


 文にすることが、逆に人を傷つける場合がある。


 信長は続けた。


「覚えは残せ。だが、父上へは次の荷の動きと合わせて送る。弥左衛門の名は軽く扱うな」


 平手は静かに頭を下げた。


「承知しました」


 又左が、腕を組んだまま言う。


「清洲の蔵は外せましたな」


「ああ」


 信長は短く答えた。


「だが、大膳は見る。名のある祈りなら、どこまで通るか。それを見た」


 新五が頷く。


「次は、さらに本物に近づけるでしょう」


「だろうな」


 信長は庭の湿った土を見た。


「社人か。寄進を扱う者か。天王社の近くで飯を食っている者か。どれにせよ、こちらが祈りを粗末にした形を作りに来る」


 藤吉郎が口を開いた。


「若様。今日の荷は、通しました。でも、清洲の蔵は通しませんでした」


「そうだ」


「祈りは通して、余計な道は通さない」


 信長は、少し笑った。


「覚えたな」


 藤吉郎は頭を下げる。


「はい」


「では、それを飯屋にも言え。札があるから全部通すな。札があるから全部止めるな。願主、品、納め先を見る。粗末にせず、余計な蔵を挟ませぬ」


「承知しました」


 信長は権六へ向いた。


「勘十郎の館にも同じように伝えろ。若衆が祈りの名で動かされぬようにな」


「はっ」


「怖がるなとは言うな。恐れ方を間違えるなと言え」


 権六は、深く頭を下げた。


「必ず、そのまま」


 龍之介は、信長の言葉を聞きながら思った。


 恐れ方を間違えるな。


 それは、このところの全てに通じている。


 火を恐れる。


 雨を恐れる。


 外の名を恐れる。


 祈りの札を恐れる。


 恐れること自体は、悪ではない。


 恐れたところへ、相手が道を置く。


 そこを見なければならない。


 清洲では、坂井大膳が仙八の報告を聞いていた。


 榊屋弥左衛門の寄進油は、清洲北蔵へ入らなかった。


 札は剥がされていない。


 願主の名も傷つけられていない。


 油壺は寺、橘屋、湊屋、馬借の控えを持って、津島へ向けられた。


 大膳は、しばらく何も言わなかった。


 仙八は畳に額をつけている。


「申し訳ございませぬ」


「謝るな」


 大膳は静かに言った。


「弥左衛門は本物だった。油も本物だった。札も、偽物ではない」


「はい」


「三郎は、祈りを止めなかった。清洲の蔵だけを外した」


 大膳は、そこで少し笑った。


「嫌な外し方をする」


 仙八は顔を上げられない。


「では、次はいかがいたしましょう」


「本物をもっと近づける」


「社人でございますか」


「まだ早い」


 大膳は首を振った。


「社人を動かせば、こちらも傷を負う。まずは、天王社へ出入りする御師筋の者を使う」


「御師筋」


「祈りを運び、札を配り、寄進を取り次ぐ者だ。商人より祈りに近く、社人より軽い」


 仙八は、ゆっくり頷いた。


 大膳は続ける。


「三郎は願主を見た。品を見た。納め先を見た。なら、今度は取り次ぐ者を立てる。祈りには、願う者だけでなく、受ける者もいるとな」


「那古野が、その者にも名を問えば」


「祈りを疑うと騒げる」


 大膳は扇を開いた。


「問わねば、道が開く」


 部屋の外で、風が鳴った。


「祈りの道は、細いほどよい。三郎に、その細道を歩かせる」


 清洲の影は、願主の名から、祈りを取り次ぐ者の名へ移ろうとしていた。


 その夜、那古野の庭では、湿った風がまだ残っていた。


 龍之介は、油壺の荷車が門を出ていく時の音を思い出していた。


 ぎしり、ぎしりと、車輪が鳴っていた。


 壺は割れなかった。


 札は剥がされなかった。


 願主は責められなかった。


 それでも、清洲北蔵だけは外された。


 見事な勝ち方ではない。


 派手な斬り合いでもない。


 だが、龍之介には、今日の一手が重く感じられた。


 人の祈りに罠が混じった時、祈りごと斬れば、人は離れる。


 罠を怖れて祈りごと通せば、道は奪われる。


 信長は、その間を選んだ。


 祈りを通し、余計な蔵を外す。


 簡単に聞こえる。


 だが、その判断には、人の弱さを笑わぬ強さが要る。


 龍之介は、掌を見た。


 呂布の武なら、仙八を押さえつけることは容易だった。


 郭嘉の知なら、清洲北蔵の筋を見抜くことも難しくはない。


 しかし、人が妻のために祈った気持ちまで、戦場の駒のように見てしまえば、こちらも清洲と同じ場所へ落ちる。


 武だけでも足りない。


 知だけでも足りない。


 人の祈りを、人のものとして残したまま、罠の筋だけを外す。


 龍之介は、そこにこの戦の難しさを見た。


 遠くで、寺の鐘が鳴った。


 その音は、昨夜よりも少し近く聞こえた。


 津島の川はまだ遠い。


 だが、祈りを運ぶ者の足は、もう那古野へ向かっている。


 次に来るのは、願主ではない。


 祈りを取り次ぐ者だ。


 龍之介は、そう思った。


 名があり、顔があり、祈りに近い者。


 それは、今日よりさらに扱いにくい相手になる。



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