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【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


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第59話 祈りの札

 祈りの名は、手を止めさせる。


 だからこそ、清洲はそれを荷へ結んだ。


 川俣屋惣兵衛が去った翌朝、寺の馬留めへ小さな荷が届いた。


 荷そのものは大きくない。


 油紙に包まれた箱が二つ。


 縄で固く括られ、端には札が結ばれていた。


 ただの荷札ではない。


 墨で、牛頭天王、とある。


 その下に、津島天王社筋祈願、と書かれていた。


 馬借の与八は、その札を見て手を止めた。


 荷を持ち込んだ男は、すぐに言った。


「天王社筋の札だ。触るなら、粗末にならぬようにな」


 与八の手が縄から離れる。


 馬借頭の甚蔵が、奥から出てきた。


「荷主は」


「津島筋だ」


「誰の荷かと聞いている」


 男は顔をしかめた。


「天王社の札が見えぬか」


「見える。だから、荷主を聞いている」


 甚蔵の声は低かった。


 寺の馬留めにいた者たちが、ちらちらと札を見る。


 牛頭天王。


 疫病除け。


 川と舟と祭礼の名。


 商人の名より、さらに古い響きがあった。


 男は、その空気を見て少し声を大きくした。


「祈りの荷を疑うのか。那古野は、天王様の札にも名を問うのか」


 その一言で、場が固まった。


 問えば、不敬。


 問わねば、名なき荷。


 与八の喉が鳴った。


 甚蔵は、すぐには答えなかった。


 それから、寺の小僧へ言った。


「那古野へ知らせろ。荷は動かすな。だが、地面に置くな。板を敷け」


 男が眉を上げる。


「祈りの荷を止めるのか」


「止めるのではない」


 甚蔵は札を見た。


「粗末にしないために、名を整える」


 男は舌打ちしかけたが、すぐに口を閉じた。


 周りの目がある。


 天王社の札を結んだ荷を、地面へ投げることもできない。


 だが、名を聞かれて答えられぬ荷を、そのまま通すこともできない。


 場は、そこで止まった。


 知らせは、すぐ那古野へ届いた。


 信長は庭にいた。


 平手、新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、彦右衛門、又左が控えている。朝の湿った空気が残り、遠くから寺の鐘が細く聞こえた。


 使いの小僧は膝をつき、息を整えて言った。


「寺の馬留めに、牛頭天王の札を結んだ荷が届きました。津島天王社筋祈願とあり、荷主を問うと、持ち込んだ男が、祈りの荷を疑うのかと」


 庭の空気が変わった。


 又左が低く唸る。


「今度は札か」


 信長は笑わなかった。


「来たな」


 平手が問う。


「寺社の名でございますな」


「ああ」


 信長は小僧へ聞いた。


「甚蔵はどうした」


「荷は動かさず、板を敷いて置けと。粗末にしないために名を整える、と申しております」


 信長の目が、わずかに明るくなった。


「よい」


 短い言葉だった。


「止めるでもなく、流すでもなく、扱いを整えた。よい」


 藤吉郎が小さく息を吐いた。


「天王様の札だと、みんな触りにくくなります」


「だから結んだ」


 信長は言った。


「商人の顔で揺れぬなら、祈りの顔で揺らす。大膳らしい」


 龍之介は、使いの言葉を頭の中で並べていた。


 牛頭天王。


 津島天王社筋祈願。


 だが、誰の荷かはない。


 どこへ運ぶかもない。


 何を祈ったかもない。


 祈りの名だけが、荷の先に立っている。


 信長は新五へ向いた。


「行くぞ」


「はい」


「ただし、札を乱暴に扱うな。祈りを笑うな。笑えば負けだ」


 新五が頷く。


「承知しました」


「龍之介」


「はい」


「お前は札ではなく、縄を見ろ。荷ではなく、持ち込んだ男の足を見ろ」


「承知しました」


「藤吉郎」


「はい」


「寺の者に聞け。天王社の札を粗末にせず、荷の名を問うにはどうするか」


 藤吉郎は少し緊張した顔で頷いた。


「はい」


 信長は最後に又左を見た。


「今日は、怒るな」


「若」


「怒るな」


「承知しました」


 又左は、口を結んだ。


 祈りの札を相手に槍は振れない。


 だが、だからこそ、場が難しい。


 寺の馬留めでは、荷が板の上に置かれていた。


 甚蔵が腕を組み、与八が少し離れて立っている。


 荷を持ち込んだ男は、屋根の下で不満そうに待っていた。


 その荷は、小さかった。


 油紙に包まれた箱が二つ。


 縄は新しい。


 札は白く、墨もまだ濃い。


 表には、牛頭天王。


 裏には、津島天王社筋祈願。


 だが、願主の名がない。


 社人の名もない。


 納めた日もない。


 龍之介は、札に手を伸ばさず、まず縄を見た。


 結びは固い。


 だが、商人の荷縄というより、見せるために整えた結びだった。濡れた川荷の縄ではない。昨日、縄屋仁助が話していた「川荷の濡れ方」とは違う。


 彦右衛門がそっと覗き込む。


「縄が乾きすぎておりますな」


 龍之介は頷いた。


「津島から川を来た荷には見えません」


 荷を持ち込んだ男が聞きつけて声を上げる。


「祈りの札にまで難癖をつけるか」


 新五が一歩前へ出た。


「札には難癖をつけておりません」


「では、何を」


「荷の道を見ています」


 男は鼻で笑った。


「天王様の札があれば、道は通る」


「通るために、誰の祈りかを聞きます」


 新五の声は静かだった。


「誰が祈り、誰の荷に結び、どこへ運ぶのか。それが分かれば、粗末にせず運べます」


「信心が足りぬ」


「信心があるから問うのです」


 男は、返す言葉に詰まった。


 藤吉郎は寺の僧と話していた。


 年配の僧で、名を慶順という。


 この寺で火消しや馬留めの騒ぎを見てきた男だった。


 藤吉郎が頭を下げる。


「慶順様。こういう札は、勝手に外してはいけませんか」


「外すにも、置くにも、粗末にせぬ形がある」


 慶順は荷を見た。


「ただし、札があるから何も聞けぬ、ということはない。祈りにも、願主がある。願主のない祈りは、宙に浮く」


 藤吉郎は目を上げた。


「宙に浮く」


「誰の病除けか。どの舟の安全か。どの蔵の火除けか。祈りには、向く先がある」


 龍之介は、その言葉を聞いた。


 祈りにも、向く先がある。


 それは荷と同じだった。


 荷には行き先がある。


 祈りにも行き先がある。


 行き先のない祈り札は、祈りを守っているのではなく、祈りの名を使っているだけだ。


 信長は慶順へ向いた。


「札を粗末にせず、荷を改めるにはどうする」


 慶順は少し考えた。


「まず、札を読んだ者の名を残します。次に、札を荷から切り離さず、縄ごと別の布で包みます。荷を開くなら、願主と行き先を尋ねてから。答えぬなら、寺で預かる形にして、勝手には運ばせませぬ」


 男が声を荒げた。


「寺で預かるだと。清洲へ急ぐ荷だ」


 信長の目が男へ向いた。


「清洲へ急ぐのか」


 男はしまったという顔をした。


 今まで、津島筋の祈願荷と言っていた。


 だが、行き先を問われて、清洲と口にした。


 勝三郎の目が細くなる。


 新五は静かに言った。


「今、清洲と申したな」


 男は口を開いたが、言葉が出ない。


 龍之介は荷の箱を見た。


 津島の祈り。


 清洲へ急ぐ荷。


 だが、荷主も願主もない。


 道だけが見えてきた。


 慶順の指示で、札は荷から外されなかった。


 縄ごと白い布で覆われ、板の上に置かれた。


 その横で、宗右衛門、湊屋、縄屋仁助も呼ばれた。信長が那古野から使いを出していたのである。


 縄屋仁助は、荷縄を見るなり顔をしかめた。


「これは川荷の縄ではございませぬ」


 荷を持ち込んだ男が睨む。


「縄屋が天王様の札を見るのか」


「札ではなく、縄を見ております」


 仁助は淡々と言った。


「津島から川を来る荷は、縄の湿りが違います。これは近くで括ったものです。しかも、荷を守る結びではなく、札を見せる結びです」


 湊屋甚右衛門も箱を見た。


「舟で来た箱には、角に擦れが出ます。これはない」


 宗右衛門は札の紙を見た。


「紙も、昨日の津島筋御用の紙に似ておりますな」


 彦右衛門が頷く。


「同じ筋かもしれませぬ」


 信長は男を見た。


「名を言え」


 男は黙った。


「荷主の名。願主の名。清洲のどこへ運ぶのか。どれか一つでよい」


 男は唇を噛んだ。


「祈りの荷を」


「祈りを盾にするな」


 信長の声が低くなった。


 場が凍った。


 信長は続ける。


「祈りを粗末に扱うつもりはない。だから寺で預かる。だが、名を言えぬ荷を、天王様の札で押し通すなら、それは祈りを荷の盾にしている」


 男は、初めて目を逸らした。


 又左の手が動きかける。


 信長は見ずに言った。


「又左」


「……はい」


「怒るな」


「承知しております」


 声だけが少し硬かった。


 藤吉郎は、男を見ていた。


 怒るより先に、見る。


 最近、何度もそう教えられている。


 男の足元には、乾いた泥がついていた。


 川の泥ではない。


 清洲門前の道でよく見る、白っぽい土だった。


 藤吉郎は小さく言った。


「川から来た足ではないと思います」


 龍之介が見る。


 藤吉郎は続けた。


「寺の裏の水場を使った人の足でもありません。清洲門前の乾いた道の土に似ています」


 甚蔵が男の足元を見て頷いた。


「確かに」


 男は後ずさった。


 勝三郎がすでに退路へ回っている。


「走るな」


 勝三郎の声は静かだった。


「走れば、祈りの荷を置いて逃げた男になる」


 男は止まった。


 それで勝負は決まった。


 荷は寺で預かることになった。


 札は外さない。


 破らない。


 ただし、荷も動かさない。


 願主、荷主、行き先が分かるまで、寺の預かりとする。


 慶順が白布を整え、札の文字を読んだ者の名を控えた。


 牛頭天王。


 津島天王社筋祈願。


 願主、不明。


 荷主、不明。


 行き先、男の口より清洲とあり。


 その控えを、平手の覚えにも写す。


 信長は、荷を持ち込んだ男へ言った。


「お前は帰す」


 又左が目を上げた。


 信長は続ける。


「ただし、顔は残す。次に同じ札を使えば、祈りの名を使った男として扱う」


 男は顔を青くした。


「捕らえぬので」


 新五が問う。


「捕らえれば、天王社筋の荷を持った男を那古野が捕らえたと言われる」


 信長は答えた。


「だが、帰せば、清洲へ伝わる。札は効かなかったとな」


 勝三郎が頷く。


「顔は覚えました」


「よい」


 男は、寺の門から出された。


 走りはしなかった。


 走れば、余計に目立つ。


 背中は小さくなり、やがて曲がり角の向こうへ消えた。


 与八が、ようやく息を吐いた。


「触ってよいのか、悪いのか、分からなくなりました」


 慶順が言った。


「分からぬ時は、粗末にせぬ形で止めればよい」


 甚蔵が頷く。


「今日、それを覚えた」


 信長は与八を見る。


「祈りの札を見て手を止めたのは、悪くない」


 与八は驚いた顔をした。


「よろしいので」


「ああ。止まったから、粗末にせずに済んだ。だが、止まったまま流せば、相手の勝ちだ」


 与八は深く頭を下げた。


「覚えます」


 藤吉郎は、その言葉を胸に置いた。


 止まる。


 粗末にしない。


 だが、流されない。


 それは、若い足の時と同じだった。


 那古野へ戻ると、信長は庭で報告をまとめさせた。


 平手が筆を取り、新五が横で事実を並べる。


「寺の馬留めに、牛頭天王、津島天王社筋祈願と記した札を結ぶ荷あり。願主、荷主、行き先の記載なし。持ち込んだ男は、荷主を問われると祈りの荷を疑うのかと声を上げる。のち、清洲へ急ぐ荷と自ら申す。縄は川荷のものにあらず。箱に舟擦れなし。札は破らず、外さず、寺にて白布を掛け預かる」


 信長は頷いた。


「それでよい」


 平手が問う。


「大殿へは」


「送る」


 今回は、迷わなかった。


「祈りの名を使った荷だ。父上へ残す」


 平手は筆を進める。


「清洲の名は」


「男が清洲へ急ぐと申したところまで書け。坂井の名はまだ書かぬ」


「承知しました」


 又左は、今度も黙っていた。


 信長が横目で見る。


「何だ」


「怒るなと言われておりますので」


「賢い」


「ありがたく」


 庭に少し笑いが落ちた。


 だが、信長の目は笑っていない。


「大膳は、まだ奥を持っている」


 龍之介も同じことを感じていた。


 天王社の札は、商人の名より古い。


 だが、それだけでは終わらない。


 札が効かないなら、本物に近いものを出してくる。


 社人。


 御師。


 寄進。


 祭礼。


 舟の祈り。


 祈りの名は、商いの道にも入り込んでいる。


 信長は藤吉郎を見た。


「何を見た」


 藤吉郎は少し考えた。


「札は、粗末にしてはいけません。でも、札だけで荷を通すと、誰の祈りか分からなくなります」


「よい」


「あと、祈りにも向く先があると、慶順様が言いました」


 信長は、その言葉を気に入ったようだった。


「祈りにも向く先がある、か」


 平手も筆を止め、静かに頷いた。


「覚えておくべき言葉ですな」


 信長は言った。


「なら、それを決まりにする。祈りの札ある荷は、粗末に扱わぬ。だが、願主、荷主、行き先を問う。答えぬなら、寺で預かる。破らず、外さず、流さずだ」


 新五が頭を下げた。


「寺、馬留め、商人へ伝えます」


「勘十郎の館にもだ」


 権六が一歩前に出る。


「はっ」


「若衆が札を怖がるかもしれぬ。怖がるなとは言うな。粗末にするな、流されるな、と言え」


「承知しました」


 信長は、庭の外へ目を向けた。


「祈りを敵にするな。祈りの名を使う手を敵にしろ」


 龍之介は、その言葉を聞いて、胸の奥が冷えるのを感じた。


 信長は若い。


 だが、この区別を即座に言える。


 神仏を斬るのではない。


 それを盾にする手を見る。


 この危うい細道を、信長は踏み外さなかった。


 清洲では、坂井大膳が報告を聞いていた。


 天王社筋を匂わせる札は、寺の馬留めで止まった。


 破られてはいない。


 外されてもいない。


 だが、荷は動かなかった。


 願主、荷主、行き先が問われ、男は清洲へ急ぐ荷と口を滑らせた。


 縄と箱も見られ、川荷ではないと商人たちに言われた。


 大膳は、しばらく目を閉じていた。


「破らなかったか」


 控えの男が頭を下げる。


「はい」


「外しもしなかった」


「はい」


「寺に預けた」


「そのようで」


 大膳は低く笑った。


「三郎め。嫌なところへ置く」


 祈りの札を破れば、不敬。


 そのまま通せば、罠。


 寺に預ける。


 それは、祈りを立てながら荷を止める手だった。


「ですが、札は効きました。馬借も一度は手を止めました」


「それでよい」


 大膳は目を開けた。


「一度止まる。それが分かれば十分だ」


「次は」


「本物に近づける」


 控えの男が顔を上げる。


「社人を動かしますか」


「まだだ」


 大膳は首を振った。


「本物をいきなり動かせば、こちらも縛られる。まずは、天王社へ寄進したことのある者を使う」


「寄進者」


「商人でも、馬借でも、船持ちでもよい。天王社へ銭や油を納めたことのある者なら、札を語れる」


 大膳は扇を手に取った。


「三郎は、願主を問うた。なら、願主を立ててやる」


 控えの男は、ゆっくり頭を下げた。


「本物の願主を」


「本物に近い願主だ」


 大膳は笑った。


「祈りと商いの間は、細い。そこを踏ませる」


 清洲の影は、破れぬ札から、名のある祈りへ移ろうとしていた。


 夜、那古野の庭に湿った風が入っていた。


 龍之介は、寺の馬留めに置かれた白布の荷を思い出していた。


 札は破られなかった。


 荷も通らなかった。


 それで済んだように見える。


 だが、相手はそれを見ている。


 祈りの名で、人の手が止まること。


 粗末に扱えぬものほど、場を縛ること。


 そして、信長が寺に預けるという道を選んだこと。


 次は、もっと逃げ道を狭くしてくる。


 龍之介には、そう思えた。


 藤吉郎は少し離れたところで、慶順から聞いた言葉を紙に写していた。


 祈りにも、向く先がある。


 短い言葉だった。


 だが、今日の場を救ったのは、その一言でもあった。


 道には行き先がある。


 荷にも行き先がある。


 祈りにも、向く先がある。


 向く先のない名は、人を止めるための札になる。


 龍之介は夜空を見た。


 呂布の武なら、荷を持ち込んだ男を一息で地に伏せられた。


 だが、それでは祈りの札ごと踏みつけることになる。


 郭嘉の知なら、札の裏にある手を見る。


 だが、見えすぎれば、人の信心まで道具に見えてしまう。


 そのどちらでもないところに立たねばならない。


 祈りを斬らず、罠を通さず。


 信長は今日、その細い場所に立った。


 龍之介もまた、そこを見失ってはならない。


 遠くで、寺の鐘が一つ鳴った。


 川はまだ遠い。


 だが、天王社の名は、もう那古野の門前まで来ている。


 次に来る札には、名がある。


 龍之介は、そう思った。


 名があるからこそ、さらに厄介になる。



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