第58話 古い信用
古い信用は、顔をして来た。
津島筋御用の紙が出た翌日、橘屋の奥座敷に一人の商人が座った。
名を、川俣屋惣兵衛という。
年は六十に近い。
白いものの混じった髭を短く整え、背は低いが、座ると不思議に大きく見える男だった。派手な着物ではない。だが、袖口も帯もよく手入れされている。長く商いの場に座ってきた者の、余計な力の抜けた姿だった。
津島衆ではない。
だが、津島へ荷を通したことのある商人だった。
その触れ込みだけで、橘屋の番頭たちは声を低くし、湊屋甚右衛門も浜屋利兵衛も、少し背筋を伸ばした。
龍之介は、部屋の端でその空気を見ていた。
那古野側からは新五、龍之介、藤吉郎、彦右衛門、勝三郎が来ている。又左は外に置いた。槍の気配を持ち込む場ではない。
惣兵衛は、置かれた茶に手をつけず、ゆっくり口を開いた。
「若い筋は、よく働く」
誰も答えなかった。
惣兵衛は続ける。
「荷札を見る。紐を見る。穴を見る。馬を見る。溝を見る。火の跡を見る。なかなか細かい」
褒めているようで、違う。
言葉の端に、笑いが混じっていた。
宗右衛門が静かに言う。
「川俣屋殿。本日は津島筋のことで」
「分かっております」
惣兵衛は頷いた。
「だから申すのです。津島の商いは、細かく問えば通るものではない。古い顔で通る」
部屋の空気が変わった。
古い顔。
それは、商人たちにとって軽くない言葉だった。
新五は表情を変えない。
「古い顔とは、どなたの顔ですか」
惣兵衛は新五を見た。
「若い方は、すぐ名を問う」
「問わねば、荷が迷います」
「荷は、顔で迷わぬようにするものです」
惣兵衛は湊屋の方へ少し顔を向けた。
「湊屋殿なら、お分かりでしょう。川の荷は、紙一枚で動くのではない。舟頭の顔、蔵番の顔、荷主の顔。ああ、この筋なら大丈夫だと皆が知っているから動く」
湊屋甚右衛門は、すぐには答えなかった。
惣兵衛の言葉は、間違いではない。
それが厄介だった。
嘘なら切れる。
だが、半分正しい言葉は、場に残る。
浜屋利兵衛が口を開く。
「川俣屋殿は、津島へ荷を」
「若い頃から幾度も」
「近年は」
惣兵衛の目が、わずかに細くなった。
「近年は、若い者に任せております」
龍之介は、そこを聞いた。
嘘ではない。
ただ、今の荷ではない。
惣兵衛は古い津島を知っている。
それは確かだ。
だが、今この時、どの荷がどの舟で、どの蔵へ入るのか。
そこまでは、まだ見えない。
藤吉郎が、小さく手を上げた。
新五が目で促す。
「川俣屋様」
「何かな」
「古い釜でも、今日炊く米は今日量ります」
惣兵衛の眉が動いた。
藤吉郎は続ける。
「昔から使っている釜でも、今日の米が何升か見ないと、飯が足りなくなります。津島の古い顔があるのは分かります。でも、今日の荷が何かは、今日聞かないと分かりません」
部屋が静かになった。
湊屋が小さく息を吐く。
笑いではない。
感心に近かった。
惣兵衛は藤吉郎を見つめた。
「飯屋の小僧か」
「はい」
「口が立つ」
「米が足りないと、怒られますので」
今度は、浜屋が少し笑った。
惣兵衛は笑わなかった。
「だが、飯と津島の商いを同じにされては困る」
龍之介は、そこで口を開いた。
「同じではありません」
惣兵衛の目が龍之介へ向く。
「津島の方が大きい。だからこそ、余計に今日の荷を見なければなりません」
「若い」
惣兵衛は短く言った。
「大きい名ほど、先に礼を尽くすものです。疑いから入れば、相手は背を向ける」
「疑いではなく、繋ぎです」
「繋ぎ」
「はい。古い顔を、今の荷へ繋ぎます」
龍之介は、机の上に置かれた紙を見た。
「津島筋御用とだけ書かれた紙では、誰の顔も見えません。川俣屋殿が津島を知るなら、その顔を荷へ繋いでください。どの荷か。どの店か。どの蔵か。そこへ川俣屋殿の名を添えていただければ、商人たちは動きやすくなります」
惣兵衛の口元が固くなった。
「わしに責を負えと」
「顔を出すとは、そういうことではありませんか」
龍之介の声は荒げない。
だが、部屋の空気は張った。
惣兵衛は、湊屋、浜屋、縄屋、升屋を順に見た。
商人たちは目を逸らさない。
それぞれ、古い信用の重さを知っている。
同時に、責のない顔だけが場を揺らす怖さも知っている。
惣兵衛は低く言った。
「わしの顔を疑うか」
新五が答えた。
「疑いません。だから、使わせていただきたい」
「使う?」
「はい。津島を知る川俣屋殿の顔で、どの荷かを示していただく。そうすれば、橘屋も湊屋も浜屋も動けます」
惣兵衛は黙った。
責を負わずに古い信用を語るなら、場を揺らせる。
だが、責を負って荷を示せと言われると、簡単には頷けない。
それが、この場の勝負だった。
惣兵衛は、しばらくして茶碗を持ち上げた。
飲むまでの動きは、ゆっくりだった。
年寄りの余裕にも見える。
だが、龍之介には、考えるための間に見えた。
「津島の蔵を、知らぬわけではない」
惣兵衛は言った。
「知っております」
「舟頭も何人か知っている。昔からの筋もある」
「はい」
「だが、今動いている荷のすべてを知っているわけではない」
「それでよいのです」
龍之介は答えた。
「知っていることと、知らないことを分ければ」
惣兵衛の目がわずかに動く。
宗右衛門が静かに頷いた。
「川俣屋殿。私どもも、津島を軽く見たいわけではございませぬ。むしろ逆です。津島の名が重いからこそ、軽い紙に載せられぬのです」
湊屋も続けた。
「川の荷は、水の深さを見ます。見ずに舟を出せば、古い顔でも底を擦ります」
浜屋利兵衛が言う。
「蔵も同じです。古い蔵でも、今日空いているかは見ねばなりませぬ」
縄屋仁助は、机の端に置かれた荷札用の紙を指で撫でた。
「紐も、古い結び方だから切れぬとは限りませぬ。濡れれば緩みます」
惣兵衛は、一人ずつ見た。
場の空気が変わっている。
那古野が商人を握っているのではない。
商人たち自身が、古い信用を今の荷へ繋ぎ直そうとしている。
そこへ、升屋久兵衛が低い声で言った。
「川俣屋殿。米は古い付き合いだけでは炊けませぬ」
惣兵衛が苦い顔をする。
「米屋まで飯屋のようなことを言うか」
「米屋だから言います」
久兵衛は頭を下げた。
「古い客でも、今年の米の出来は見ます。見ぬまま売れば、客に泥を食わせることになります」
藤吉郎が思わず久兵衛を見た。
久兵衛は見返さない。
ただ、商人の顔で座っていた。
惣兵衛は、ようやく小さく息を吐いた。
「分かった」
部屋の緊張が、少しだけ緩む。
「津島の名を出すなら、荷と店と蔵を添えよ。そういうことだな」
宗右衛門が深く頭を下げる。
「はい」
「ただし」
惣兵衛の声が戻った。
「那古野のやり方は若い。若いものは、古いものに笑われる」
信長はいない。
だが、その場の誰も信長を見なかった。
新五が答えた。
「笑われても、荷が通ればよいのです」
惣兵衛は新五を見た。
「強いな」
「弱ければ、商人が困ります」
惣兵衛は、今度は少し笑った。
「では、わしからも一つ言う。津島を知りたいなら、津島へ行った者の話だけで足りぬ。川を見ろ。舟の腹を見ろ。蔵の湿りを見ろ。遠くから名だけを眺めても、いつまでも怖いままだ」
龍之介は頭を下げた。
「覚えておきます」
惣兵衛は立ち上がった。
「今日のところは、わしの顔で荷を動かす話ではない。わしは責を負えぬ」
宗右衛門が静かに言う。
「それを聞けただけで、十分でございます」
「嫌味か」
「商いです」
惣兵衛は一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
今度の笑いには、少しだけ本物の色があった。
惣兵衛が帰った後、橘屋の奥座敷には、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に息を吐いたのは、湊屋甚右衛門だった。
「怖い男ですな」
宗右衛門が頷く。
「ええ。半分、本物です」
龍之介も同じことを感じていた。
川俣屋惣兵衛は、清洲に言わされただけの男ではない。
津島を知る商人としての重みは確かにある。
だから、場が揺れた。
だからこそ、危ない。
新五が言った。
「嘘だけなら、楽でした」
「本当が混じると、人は迷う」
勝三郎が静かに続ける。
藤吉郎は、紙を見ていた。
「古い顔は、悪いものではないんですね」
宗右衛門が答えた。
「悪くありませぬ。むしろ、商いでは宝です」
「でも、今日の荷につながっていないと、困る」
「その通りです」
藤吉郎は頷いた。
「古い釜も、底が抜けていたら飯は炊けません」
久兵衛が咳払いした。
「小僧、釜から離れぬな」
「分かりやすいので」
「それはそうだ」
場に少し笑いが戻った。
新五は宗右衛門へ向き直る。
「川俣屋殿の名は、悪く扱わぬ方がよい」
「承知しております」
「ただし、あの方が責を負わぬ荷を、津島筋として動かすな」
「はい」
湊屋が言った。
「こちらからも、津島を知る者を増やさねばなりませぬな」
浜屋が頷く。
「蔵を見た者。舟を見た者。水を見た者」
縄屋仁助は言った。
「紐もです。川荷の紐は、濡れ方が違います」
藤吉郎が目を上げる。
「飯もですか」
全員が藤吉郎を見る。
藤吉郎は慌てずに続けた。
「舟で来た米と、陸を来た米では、湿り方が違うんじゃないかと」
升屋久兵衛が、今度は笑わなかった。
「違う」
短い答えだった。
「教えていただけますか」
「暇な時にな」
「はい」
龍之介は、そのやり取りを見ていた。
津島を知らぬことを恥じるのではない。
知らぬなら、知る目を増やす。
それが今日の答えだった。
那古野へ戻ると、信長は庭で報告を聞いた。
惣兵衛が来たこと。
古い顔を盾にしたこと。
だが、今の荷には責を負えぬと自分で認めたこと。
橘屋、湊屋、浜屋、縄屋、升屋がそれぞれ、古い信用と今の荷を分けて考え始めたこと。
信長は最後まで聞くと、少しだけ口元を上げた。
「斬らずに済んだか」
新五が頷く。
「はい。斬れば、古い信用ごと敵に回しました」
「だろうな」
信長は言った。
「古いものは、邪魔なだけではない。邪魔に見える時ほど、使い方を間違えるな」
平手が静かに頷く。
「大殿へは」
「急がぬ」
信長は意外なことを言った。
又左が顔を上げる。
「送らぬので」
「今日は送らぬ」
信長は答えた。
「紙が来た時は送った。今度は商人同士の場だ。すぐ父上へ上げれば、那古野が川俣屋を訴えた形になる」
龍之介は頷いた。
ここも、前と違う。
何でも文にすればよいわけではない。
文にすることで、大きくなりすぎるものもある。
信長は続ける。
「ただし、覚えは取る。川俣屋惣兵衛は、津島を知るが今の荷に責を負わぬ。橘屋らは、古い顔と今の荷を分けると決めた。そう残せ」
平手が筆を取る。
「承知しました」
信長は藤吉郎を見た。
「お前は何を見た」
藤吉郎は少し背筋を伸ばした。
「古い顔は、悪くありません。でも、今日の荷につながらないと困ります」
「よい」
「それと、津島を知らないまま怖がるより、見た人に聞いて、自分でも少しずつ見る方がよいと思いました」
信長は満足げに笑った。
「なら、見に行く者を作る」
庭の空気が変わった。
信長は平手へ向く。
「津島へすぐ大人数は出さぬ。だが、荷に紛れて目を送る。湊屋から一人、橘屋から一人、馬借から一人。那古野の名ではなく、商いの見習いとして行かせる」
平手が言う。
「若の者は」
「出さぬ」
信長は即答した。
「那古野の若い者が津島を探りに来たとなれば、面倒になる。まずは商人の目で見る」
龍之介は、信長の判断に納得した。
見たいからといって、旗を立てて行くわけではない。
外の名には、外の見方が要る。
勝三郎が問う。
「危うくは」
「危うい」
信長はあっさり言った。
「だから、見に行く者を選ぶ。口が軽い者は駄目だ。利にだけ走る者も駄目だ。見たものを大きくも小さくもせず、持ち帰る者が要る」
藤吉郎が少し前へ出た。
信長は先に言った。
「お前はまだ行くな」
藤吉郎の口が閉じる。
「飯屋の釜を空けるな。津島を見る目は、まずここで育てろ」
「はい」
少し悔しそうだった。
だが、藤吉郎は頭を下げた。
止まることも、役。
それを覚えたばかりだった。
その夜、清洲では坂井大膳が、川俣屋惣兵衛の話を聞いていた。
惣兵衛は、那古野を若いと言った。
古い顔の大切さも語った。
だが、今の津島荷に責を負うことは避けた。
橘屋らは、それを聞いたうえで、荷を止めなかった。
大膳は、扇を開いたまま黙っていた。
控えの男が頭を下げる。
「川俣屋は、押し切れませなんだ」
「押し切るための男ではない」
大膳は静かに言った。
「場を古くするための男だ」
「古く」
「そうだ。三郎の場は新しい。問いを数え、役を分け、名を残す。そこへ古い顔を入れれば、商人は迷う」
「迷いはしました」
「なら、効いた」
大膳は扇を閉じた。
「だが、三郎は斬らなかった。川俣屋を敵にしなかった。それが厄介だ」
控えの男は顔を伏せた。
大膳は続ける。
「次は、もっと古いものを使う」
「津島の古い商人を、さらに」
「いや」
大膳は首を振った。
「商人より古いものだ」
「何でございますか」
「津島の天王社筋だ」
部屋の空気が止まった。
大膳は窓の外を見た。
「津島の商いには、寺社の顔もある。寄進、祭礼、舟の祈り。商人の名では動かぬ者も、天王社の札では動く」
控えの男は、ゆっくり頭を下げた。
「祈りの札を、荷に」
「まだ直接ではない。まず、津島へ行く荷に、天王社筋を匂わせる札を添える。誰が剥がせるかを見る」
大膳は薄く笑った。
「三郎は名を問う。では、祈りの札にも同じように問えるか」
清洲の影は、古い信用の奥にある、さらに古い名へ手を伸ばしていた。
夜、那古野の庭は静かだった。
龍之介は、川俣屋惣兵衛の座っていた姿を思い出していた。
嘘つきではない。
敵とも言い切れない。
だが、あの男の言葉で場は確かに揺れた。
古い信用。
それは、ただの過去ではない。人が長く商いを続け、約束を守り、顔を覚えられ、失敗も成功も積んできた重みだ。
それを軽く扱えば、こちらが浅く見える。
だが、それに呑まれれば、今の荷が見えなくなる。
藤吉郎は津島へ行きたがったが、信長は止めた。
龍之介も、それでよいと思った。
知らぬものを知りに行くには、先に足元で見る目を作る必要がある。飯屋に来る米の湿り、縄の濡れ方、舟で来た荷の匂い。ここで見えるものを覚えれば、津島へ行った時に見る目が変わる。
古いものは厄介だ。
だが、すべて捨てればよいわけではない。
道もそうだ。
古い道には、人が通ってきた理由がある。
だが、板が腐れば踏み抜く。
古い信用も同じだ。
理由を見て使う。
腐りを見て避ける。
龍之介は、まだ見ぬ津島の川を思った。
水の深さ。
舟の腹。
蔵の湿り。
天王社筋の札。
商いの奥には、さらに別の名がある。
清洲は、きっとそこへ手を伸ばす。
夜風が、ほんの少し湿っていた。
川はまだ遠い。
だが、その匂いは、少しずつ那古野へ近づいていた。




