第55話 ぬかるむ道
雨に名はない。
だからこそ、清洲はそこへ手を隠した。
夜半から降り始めた雨は、明け方になっても細く続いていた。大粒ではない。だが、土をじわじわと柔らかくし、道の低いところへ水を集めるには十分な雨だった。
那古野の庭にも、湿った土の匂いが漂っている。
藤吉郎が、軒下から空を見上げていた。
「嫌な雨です」
龍之介は同じ空を見た。
「強くはないな」
「だから嫌です。強い雨なら、みんな用心します。こういう雨は、気づいた時には道が悪くなっています」
信長が、その言葉に少し笑った。
「分かってきたな」
庭には平手、新五、勝三郎、彦右衛門、又左がいる。権六は勘十郎の館へ向かう前で、源太と孫七も軒下に控えていた。
その時、寺の馬留めから使いが駆け込んできた。
小平だった。
足元は泥で汚れ、息が荒い。
「若様。榎の曲がりで荷車が沈みました」
信長の目が細くなる。
「荷は」
「飯屋へ回す米と、勘十郎様の館へ向かう薪です。どちらも同じ曲がりで止まっております」
平手が低く言った。
「よりによって、飯と薪ですか」
小平は頷く。
「はい。馬が引いても車輪が抜けませぬ。橋板も少し浮いていると」
又左が顔を上げた。
「押しに行きます」
「押すだけなら、また沈む」
信長は即座に言った。
又左の足が止まる。
信長は小平へ問う。
「水はどちらへ流れている」
「それが、道の脇へ流れませぬ。低い方に溜まっております」
龍之介は、小さく息を吐いた。
雨に名はない。
だが、水には行き場がある。
行くべき場所へ流れていないなら、そこには手が入っている。
信長は龍之介へ視線を向けた。
「見るか」
「はい」
「新五、龍之介。道を見ろ。又左、源太、孫七は荷を軽くする。荷車を壊すな。馬を潰すな」
「承知しました」
「藤吉郎、小平。誰が先に水の溜まりを見たか、どの荷が先に沈んだかを聞け。ただし、雨を責めるな」
藤吉郎が頷く。
「雨に聞いても、荷は動きません」
「そうだ」
信長は笑った。
「返事をする者を見ろ」
彦右衛門が腰を上げた。
「車輪と橋板を見ます」
「頼む」
信長は最後に平手へ向いた。
「父上への文はまだよい。だが、覚えは取れ。雨で荷が止まった、ではなく、雨でどこが止まったかだ」
「承知しました」
雨の中、龍之介たちは榎の曲がりへ向かった。
榎の曲がりは、寺の馬留めから清洲門前へ抜ける途中にある低い道だった。
大きな榎が道の脇に立ち、その根を避けるように道が少し曲がっている。晴れていれば何でもない場所だが、雨が降れば水が溜まりやすい。
そこに、荷車が二つ止まっていた。
一つは米俵。
一つは薪束。
どちらも車輪が半ば泥に沈んでいる。馬は鼻息を荒くし、馬借たちが綱を引いているが、動かせば動かすほど車輪が深く入る。
甚蔵も来ていた。
馬借頭は、雨に濡れた肩を払うこともせず、道を見ている。
「無理に引くな」
甚蔵が声を飛ばした。
「馬の脚を取られる。荷を下ろせ」
馬借たちはすぐ動いた。
だが、荷を下ろすにも足元が悪い。米俵を泥に置けば湿る。薪束も泥を吸えば重くなる。
又左が着くなり、米俵を抱え上げた。
「こっちへ板を敷け」
源太と孫七が近くの板を運ぶ。
彦右衛門が橋板を見ると、眉を寄せた。
「これは雨だけではありませぬな」
龍之介もしゃがんだ。
橋板の端が少し浮いている。
釘が抜けたわけではない。
だが、押し込まれていた楔が緩んでいる。しかも、緩んだ場所だけ泥が新しい。雨で自然に浮いたというより、先に触られていたように見える。
新五が問う。
「誰かが緩めたか」
「そう見えます」
彦右衛門は、指で泥をぬぐった。
「雨で緩むなら、全体が緩む。ここだけではない。ここだけ先に力がかかっております」
龍之介は道の脇へ目を向けた。
本来、水は榎の根元を避けて、脇の細い溝へ流れるはずだった。
だが、その溝が途中で詰まっている。
枯れ草。
泥。
折れた小枝。
それだけなら自然にも見える。
しかし、詰まっている場所があまりに都合よく、道の低い部分のすぐ手前だった。
龍之介は、枯れ草を少し持ち上げた。
下から、藁縄が出てきた。
わざわざ束ねて押し込んである。
「溝を塞いでいます」
龍之介が言うと、甚蔵が顔をしかめた。
「雨のせいに見せて、水を逃がさなかったか」
「はい」
藤吉郎が、小平と一緒に荷の周りを見て回っていた。
戻ってきて言う。
「先に沈んだのは薪の荷です。でも、米の荷が来るまで誰も動かさなかったそうです」
新五が目を細める。
「なぜだ」
「清洲門前から来た男が、雨では仕方ない、米も来るから一緒に押せばよいと言ったそうです」
「その男は」
「いません」
藤吉郎は悔しそうに言った。
「顔は二人が見ています。荷担ぎ風だけど、肩に跡が薄かったと」
龍之介は、前の火を思い出した。
荷担ぎの格好で、肩に跡がない男。
同じ者か。
同じような者を使っているのか。
どちらにせよ、清洲の手は雨の中にも残っていた。
新五が短く命じた。
「溝を開ける。荷は軽くする。橋板は仮に押さえる。米は濡らすな」
又左が声を張った。
「源太、孫七。土を掻け。足場を作るぞ」
源太と孫七は、すぐに膝まで泥に入った。
筒ではない。
今日は鍬と板だ。
孫七が小さく笑った。
「筒を持たぬ日の方が忙しいな」
源太が返す。
「道が沈めば、筒も運べぬ」
又左が二人を睨む。
「口より手を動かせ」
「はい」
藤吉郎と小平は、枯れ草と藁縄を引き抜いた。水が少しずつ動き出す。
最初は細い流れだった。
だが、溝が開くにつれ、道に溜まった水が脇へ逃げ始めた。
甚蔵が低く言った。
「水が動けば、馬も動ける」
与八が馬の頭を撫でながら頷いた。
「焦らせません」
「そうだ。馬は泥を怖がる。人が焦れば、馬も焦る」
雨は降り続いている。
だが、道は少しずつ道へ戻り始めた。
荷車は、すぐには動かなかった。
まず薪を半分下ろした。
次に米俵を板の上へ移した。
その間、飯屋の者が布を持ってきて、米俵にかける。勘十郎の館からは、竹若と弥八郎が若衆を二人連れてきた。
権六もいる。
「勘十郎様より、薪はこちらで受け取りに来たと」
竹若が言った。
以前なら、勘十郎の館から人が出るだけで清洲に噂を置かれただろう。
だが、今は違う。
薪の行き先が勘十郎の館なら、受け取る者の名を出して動く。
隠れずに、しかし騒がずに。
弥八郎は泥を見て顔をしかめたが、すぐに袖をまくった。
「どこを持てばよろしいですか」
又左が少し驚いた顔をした。
「お前らが持つのか」
竹若が答える。
「木太刀を振るだけでは、水桶も持てぬと言われましたので」
権六が咳払いした。
「言ったのは勘十郎様です」
又左は、少しだけ笑った。
「なら、こっちだ。泥に足を取られるな」
竹若と弥八郎は薪束を運び始めた。
佐吉はいない。
飯場の火と灰を見ているのだろう。
勘十郎の場も、少しずつ役を持ち始めている。
一方、米俵の方では、飯屋の女衆が数を数えていた。
「これは飯屋へ行く分です。濡らしたら困ります」
藤吉郎が頷く。
「板の上に置いてください。泥の上へは置かないで」
女衆の一人が笑った。
「小僧に指図されるとはね」
「米が濡れるよりましです」
「それはそうだ」
短いやり取りで、場が少し軽くなる。
だが、龍之介は笑わなかった。
この場は、うまく動いている。
だからこそ、誰かが見ているはずだった。
勝三郎が、少し離れた木陰を見ていた。
龍之介が近づくと、勝三郎は低く言った。
「いた」
「誰が」
「火の時の声の男とは別です。だが、同じように水も土も持たず、見ていた」
「追いますか」
「今日は追いません」
勝三郎は即答した。
「ここで追えば、荷が止まる。顔は見ました」
龍之介は頷いた。
この数話で、皆が覚え始めている。
今、何を優先するか。
追うのか。
残すのか。
運ぶのか。
消すのか。
名を問うことは、足を止めることではない。
足の使い方を間違えないためのものだ。
やがて、溝が開き、橋板が仮に押さえられ、荷車の下に板が差し込まれた。
甚蔵が声を出す。
「引け。焦るな。一、二で止めるぞ」
馬借たちが綱を引く。
車輪が、ぐ、と泥から持ち上がった。
与八が馬の首を撫でる。
「もう少しだ」
車輪が抜けた。
場に、短い安堵の息が広がった。
米も薪も、ひとまず助かった。
だが、龍之介は溝から引き抜いた藁縄を見ていた。
雨ではない。
雨だけではない。
清洲は、自然の中に手を隠し始めている。
那古野へ戻ると、信長は濡れた藁縄を見た。
雨のせいで黒ずみ、泥を吸っている。
だが、結び目は人の手のものだった。
彦右衛門が橋板の楔を並べる。
「楔も、自然に抜けたものではありませぬ。少しずつ緩めて、雨で浮いたように見せております」
信長は、しばらく黙っていた。
庭には、泥を落とした新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、又左、彦右衛門、源太、孫七がいた。権六も竹若たちを戻してから来ている。
信長は、やがて言った。
「雨は悪くない」
誰も答えない。
「雨で道が悪くなるのは当たり前だ。だが、道を悪くするために雨を使った者がいる」
平手が頷く。
「大殿へは、その筋で」
「書け」
信長は言った。
「榎の曲がりにて、雨中、米荷と薪荷が沈む。溝に藁縄と枯れ草を詰め、水を逃がさぬ仕掛けあり。橋板の楔も人為に緩む。荷は馬借、飯屋、勘十郎様の若衆らの手で救出。米、薪とも大きな損なし。そう書け」
平手が筆を取る。
「清洲の名は」
「まだ書くな」
又左が少しだけ口を開きかけたが、すぐ閉じた。
信長はそれを見て笑った。
「言いたいことは分かる」
「はい」
「だが、雨に清洲の名は書いていない」
「藁縄には」
「書いていない」
又左は不満そうに頷いた。
「承知しました」
信長は続ける。
「ただし、顔は残せ。勝三郎、見ていた男は」
「覚えました」
「よい」
藤吉郎が手を上げた。
「若様。溝にも役が要ります」
「どういうことだ」
「火の前に水桶を決めるなら、雨の前に溝を見る人も決めた方がいいです。雨が降ってから詰まりを探すと遅いです」
信長は、満足げに目を細めた。
「その通りだ」
藤吉郎は少し嬉しそうにした。
信長は平手へ向く。
「寺の馬留め、榎の曲がり、飯屋の裏、渡し場。雨の前に溝を見る者を決めろ。ただし、那古野の役人を立てるな」
平手がすぐに意図を読む。
「それぞれの場で見る者を置く」
「そうだ。寺は寺。飯屋は飯屋。馬留めは馬借。勘十郎の館へ向かう薪道は、勘十郎の若衆にも見せる」
権六が頷いた。
「勘十郎様へ伝えます」
「水の道も、荷の道だ」
信長は言った。
「雨が降る前に、水の逃げ道を見る。これも兵だ」
龍之介は、その言葉に深く頷いた。
兵。
この場で、水路を見ることを兵と言う。
槍や弓ではない。
だが、確かに戦の一部だった。
米が遅れれば飯が止まる。
薪が遅れれば火が止まる。
道が沈めば、名を問うどころではなくなる。
道を守ることは、軍を守ることと同じだった。
清洲では、坂井大膳が榎の曲がりの報告を聞いていた。
雨は降った。
溝は詰まった。
橋板も浮いた。
米荷と薪荷は止まった。
だが、荷は失われなかった。
馬も潰れなかった。
米も大きく濡れなかった。
勘十郎の若衆まで薪を運び、飯屋の女衆は米を守った。
そして、藁縄と楔の件は大殿へ送られたという。
大膳は、しばらく目を閉じていた。
控えの男が頭を下げる。
「申し訳ございませぬ」
「謝るな」
大膳は静かに言った。
「雨は降った。道も沈んだ。手は効いた」
「しかし、荷は」
「救われたな」
大膳は薄く笑う。
だが、その笑みには苛立ちが混じっていた。
「三郎は、また場を握らずに場を動かした。馬借、飯屋、寺、弟君の若衆。それぞれが動いた」
控えの男は黙った。
「それが厄介だ」
大膳は指で文机を叩いた。
「那古野の者が直接命じたなら、那古野が道を支配したと言える。だが、場の者が自分で動けば、噂が弱くなる」
「次は、いかがいたします」
大膳は窓の外を見た。
雨はもう止みかけている。
雲の切れ目から、薄い光が見えていた。
「道を沈めてもだめなら、道を選ばせる」
「選ばせる」
「そうだ」
大膳は低く言った。
「二つの道を用意する。一つは遅いが安全。一つは早いが危うい。三郎がどちらを選ぶかを見る」
「荷でございますか」
「人でもよい。文でもよい。だが、そろそろ荷だけでは弱い」
控えの男が顔を上げる。
大膳は続けた。
「若い者を使う」
「若い者」
「勘十郎様の若衆だ」
部屋の空気が冷えた。
「弟君の場は強くなってきた。なら、その強さを試す。火消し、水桶、薪道。役を持ち始めた若い者ほど、自分が役に立つと知れば前へ出る」
「危うい道へ誘うので」
「誘うだけだ」
大膳は笑った。
「選ぶのは向こうだ」
清洲の影は、雨の道から、若い足へ目を移した。
那古野の夜。
雨は止んでいた。
だが、庭の土はまだ湿っている。
龍之介は、榎の曲がりから持ち帰った藁縄を思い出していた。
雨は自然だ。
だが、雨を待って手を入れる者がいる。
火もそうだった。
薬もそうだった。
馬借の名も、札屋の名も、市助の名も。
清洲は、何か一つを使うのではない。
場にあるものを使う。
雨が降れば雨を使う。
火があれば火を使う。
人が怯えれば怯えを使う。
龍之介は、自分の掌を開いた。
火傷はもう薄い跡になっている。
だが、今は武の痛みより、道の重さの方が残っていた。
藤吉郎が隣に来た。
「雨がやむと、普通の道に見えますね」
「ああ」
「でも、今日の朝は敵でした」
「道は敵にも味方にもなる」
「じゃあ、味方にしておかないといけませんね」
龍之介は少し笑った。
「そうだな」
藤吉郎は少し考えてから言った。
「溝を見る役、俺も覚えます」
「飯屋だけでなく、溝も見るのか」
「飯屋に米が来ないと、飯が炊けません」
「筋は通っている」
藤吉郎は真剣だった。
龍之介は、榎の曲がりの泥を思い出した。
泥に膝をついた源太と孫七。
薪を運んだ竹若と弥八郎。
馬を落ち着かせた与八。
米を守った飯屋の女衆。
道は、一人では守れない。
そして、道を守る者が増えれば、清洲の手はそれだけ通りにくくなる。
だが、大膳はそれで諦める男ではない。
次はきっと、人を動かす。
役を覚え始めた者。
前へ出ることを覚えた者。
若い足。
龍之介は夜の向こうを見た。
乾けば、泥はただの土に戻る。
だが、一度沈んだ車輪の跡は、しばらく消えない。
人の手も同じだ。
雨に紛れても、跡はどこかに残る。
龍之介は、その跡を見落とさぬよう、夜の道を見ていた。




