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【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


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第56話 若い足

 若い足は、急ぎたがる。


 清洲は、そこへ道を置いた。


 雨の翌朝、勘十郎の館の門前へ、一人の男が駆け込んできた。


 泥のついた蓑を着て、息を切らしている。


「榎の先で、橋板が落ちました。小荷を担いだ子が渡れずにおります。手が要ります」


 庭で木太刀の稽古をしていた若衆たちが、いっせいに顔を上げた。


 竹若。


 弥八郎。


 ほかの若い者たち。


 飯場にいた佐吉も、椀を置いて外へ出てきた。


 勘十郎は、広縁で男を見た。


「どこの橋だ」


「榎の先の、古い板橋でございます」


「誰が困っている」


「小荷を担いだ子で」


「名は」


 男は一瞬だけ詰まった。


 その詰まりは小さかった。


 だが、勘十郎は見逃さなかった。


「名は分からぬのか」


「急ぎでございましたので」


「急ぐほど、名は要る」


 勘十郎は静かに言った。


 若衆たちは息を止めた。


 それは、兄の言葉そのものではない。


 だが、この館で何度も確かめてきた筋だった。


 名なき太刀を受けぬ。


 名なき荷を運ばぬ。


 火の前では動き、火の後では名を残す。


 雨の前には溝を見る。


 今度は、橋だ。


 男は少し焦ったように言う。


「子が困っているのです。若い衆が数人走れば」


 竹若の足が半歩前に出た。


 弥八郎も動きかけた。


 役に立ちたい。


 昨日、泥の中で薪を運んだ若い足は、もう自分たちにもできることがあると知っている。


 そこを突かれている。


 勘十郎は、短く命じた。


「竹若、弥八郎。止まれ」


 二人は、はっとして膝をついた。


「はい」


「佐吉」


「はい」


「飯場の火は消えているか」


「灰を見ました。残り火はございません」


「よし。では、お前は飯場に戻れ。今、全員が走れば、館が空く」


 佐吉は悔しそうに唇を噛んだが、すぐ頭を下げた。


「承知しました」


 勘十郎は権六へ視線を向けた。


「権六」


「はっ」


「那古野へ知らせる足を出す。館からは、まず一人も橋へ走らせぬ」


 男の顔色が変わった。


「それでは遅れます」


「遅れるかどうかを決めるために、先に見る」


 勘十郎の声は乱れない。


「子がいるなら助ける。だが、若衆だけで古い板橋へ走らせることはせぬ」


 竹若が顔を上げた。


「勘十郎様。我らは」


「役に立ちたいか」


「はい」


「なら、命じられた役を守れ」


 竹若は、すぐに口を閉じた。


 勘十郎は、庭へ目を向ける。


「竹若は水縄を用意しろ。弥八郎は門を開ける者と閉める者を決めろ。佐吉は飯場に残れ。ほかの者は館の中の子供と女を庭から遠ざける。誰かが橋へ行くなら、那古野と権六が見てからだ」


 男は、なおも言った。


「若い衆が走れば済むことです」


 勘十郎は男を見た。


「済むなら、なおさら誰の子か言えるはずだ」


 男は答えなかった。


 それで十分だった。


「その男は門の内へ入れるな。水を飲ませ、門前で待たせろ。顔は覚えておけ」


 権六が頷いた。


「承知しました」


 勘十郎はもう男を見なかった。


 若い足を走らせる前に、走らせようとする口を止めた。


 那古野へ知らせが届いた時、信長は庭で水桶の印を見ていた。


 火消しの後、桶の数と置き場を決め直していたのである。


 平手、新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、彦右衛門、又左がいた。


 使いの若者は、泥で濡れた膝をついた。


「勘十郎様より。榎の先の古い板橋にて、小荷を担いだ子が渡れぬとの知らせあり。知らせた男は子の名を言えませぬ。勘十郎様は、若衆をまだ走らせておりませぬ」


 信長は、口元だけで笑った。


「止めたか」


 信長はそれ以上、弟の名を口にしなかった。


 だが、誰もが分かっていた。


 平手が静かに言う。


「若衆を誘いに来ましたな」


「だろう」


 信長は頷いた。


「雨で道を沈めても駄目だった。次は、道を選ばせる」


 又左が眉を寄せる。


「古い板橋ですか。走れば危うい」


「だから若い足を呼んだ」


 信長は言った。


「役に立ちたい足ほど、早い道へ向く」


 藤吉郎が小さく頷いた。


「昨日、竹若殿たちは薪を運びました」


「そうだ」


「自分たちもできると思った後です」


 龍之介は藤吉郎を見た。


 その通りだった。


 清洲は、失敗を重ねているようで、こちらの成長を見ている。


 馬借が自分で名を問うようになれば、若い馬借を狙った。


 薬で急ぎを使えなければ、火を使った。


 火が消されれば、雨を使った。


 雨で場の者が動けば、今度は動けるようになった若い者を狙う。


 信長は新五へ向いた。


「橋を見る。だが、騒ぐな。子が本当にいるなら助ける。いなければ、誰が橋へ誘ったかを見る」


「承知しました」


「龍之介」


「はい」


「お前も行け。橋より、人の足を見ろ」


「承知しました」


「又左は少し離れろ。槍の気配で相手を散らすな」


 又左は不満そうに頷いた。


「承知しました」


「藤吉郎」


「はい」


「勘十郎の館へ寄れ。若衆が何を用意しているかを見る。褒めるな。煽るな。役があるとだけ伝えろ」


 藤吉郎はまっすぐ頭を下げた。


「はい」


 信長は最後に勝三郎へ言った。


「二つの道があるはずだ。早い道と遅い道。早い方に目を置け」


「承知」


 信長は空を見た。


 雨は止んだ。


 だが、道はまだ濡れている。


「大膳は、こちらに選ばせたいのだろう」


 信長は言った。


「なら、選ぶ前に道を見る」


 勘十郎の館では、若衆たちが待っていた。


 走ってはいない。


 だが、ただ止まっているだけでもなかった。


 竹若は水縄を出し、弥八郎は門の開け閉めを分け、佐吉は飯場の灰を見ながら、湯を沸かしている。子供を助けて戻った者へ飲ませるためだという。


 藤吉郎はそれを見て、少し目を丸くした。


「準備していたんですね」


 竹若は悔しそうに言った。


「走りたかった」


「走らなかったんですね」


「命じられましたので」


 藤吉郎は頷いた。


「それも役です」


 竹若は、少し驚いた顔をした。


「止まることもか」


「はい。走る人が勝手に増えると、誰がどこにいるか分からなくなります」


 弥八郎が横から言う。


「昨日、薪を運んだ時も、勝手に動くなと言われた」


「今日も同じです」


 藤吉郎は門の方を見た。


「橋へ行く人。館へ残る人。知らせる人。戻った人に湯を出す人。全部いると思います」


 佐吉が飯場から顔を出した。


「飯場に残るのは、地味だ」


 藤吉郎は佐吉を見た。


「火が残っていたら、もっと困ります」


 佐吉は黙った。


 それから、少しだけ口を曲げる。


「分かっている」


「なら、役です」


 藤吉郎はそう言った。


 子供のように励ましたわけではない。


 自分も、飯屋の飯や水桶や溝を見る中で覚えてきたことを、そのまま伝えただけだった。


 勘十郎は広縁でそのやり取りを聞いていた。


「藤吉郎」


「はい」


「三郎は何と」


「橋を見る、と。子が本当にいるなら助ける。いなければ、誰が橋へ誘ったかを見る、と」


 勘十郎は頷いた。


「では、待つ」


 その声に、若衆たちの背筋が伸びた。


 待つ。


 それもまた、若い足には難しい役だった。


 榎の先の古い板橋は、細い谷川にかかっていた。


 谷川といっても深くはない。


 晴れの日なら子供でも渡れるほどの細い流れである。


 だが、雨の後は違った。


 水は増え、岸の土は柔らかくなっている。板橋は細く、真ん中の板が一枚ずれていた。無理に走れば足を取られる。


 そして、橋の手前には二つの道があった。


 まっすぐ橋へ向かう近道。


 少し上へ回り、浅瀬を渡る遠回り。


 勝三郎が低く言った。


「早い道と、遅い道です」


 新五は橋を見た。


「子は」


 龍之介は周囲を見る。


 小荷を担いだ子はいない。


 泣き声もない。


 荷もない。


 ただ、橋の向こうの藪が少し揺れた。


 勝三郎が目を向ける。


「誰かいます」


 又左が槍へ手をかけかけたが、新五が手で止めた。


「散らすな」


 橋のそばには、小さな草履の跡があった。


 だが、浅い。


 泥に乗せただけのような跡だった。


 龍之介はしゃがんだ。


「子供の足跡にしては、重さがありません」


 彦右衛門が覗き込む。


「草履を手で押したか」


「おそらく」


 龍之介は、橋板を見た。


 真ん中の板がずれている。


 だが、完全には落ちていない。


 走れば踏み抜く。


 慎重に見れば渡らない。


 そういうずれ方だった。


「誘いですね」


 新五が頷く。


「若衆が走れば、橋で足を取られる。怪我をすれば、勘十郎様の場が騒ぐ。助けようとしただけだと言える」


 又左の顔が険しくなる。


「ふざけた手だ」


「怒るな」


 新五が言った。


「怒れば走る」


 その一言で、又左は口を閉じた。


 龍之介は橋の向こうを見た。


 藪の奥に、人影が二つ。


 一人は低く身を屈めている。


 もう一人は、道の奥を見ている。


 橋に誘う者。


 怪我を見届ける者。


 今回も役が分かれている。


 勝三郎が静かに言った。


「追えます」


「追わない」


 新五は即答した。


「まず橋を使えなくする。次に遠回りの道を開ける。人影は顔だけ見る」


 龍之介は頷いた。


 子がいないなら、橋へ急ぐ必要はない。


 だが、危ない橋をそのままにもできない。


 次に通る者が本当に落ちる。


「板を外しましょう」


 龍之介が言うと、彦右衛門が目を細めた。


「直すのではなく」


「今ここで半端に直せば、また使われます。危ないなら、危ないと分かる形にした方がよい」


 新五が頷く。


「外せ。通れぬ橋にする」


 又左がようやく動いた。


 槍ではなく、手で橋板を持ち上げる。


 源太と孫七も加わった。


 板は重く、泥で滑る。


 だが、外してしまえば、誰も走って渡れない。


 勝三郎は橋の向こうを見続けていた。


「一人、動きました」


「顔は」


「見ました」


「よい」


 新五は遠回りの浅瀬へ向かう。


「浅瀬の方を見ろ。そこも何かあるかもしれぬ」


 龍之介たちは、少し上流へ回った。


 浅瀬は増水していたが、底は石で固い。杖をつけば渡れる。


 ただし、岸へ下りる場所に、濡れた苔のついた石が置かれていた。


 自然に見える。


 だが、足を置くところだけ、よく滑る。


 彦右衛門が石を蹴った。


「これも置いておりますな」


 又左が低く唸る。


「早い道も危ない。遅い道も足を取る。どちらへ行っても転ばせる気か」


「違います」


 龍之介は言った。


 又左が見る。


「早い道で怪我をすれば、若衆の軽率。遅い道で転べば、助けが遅れたうえに役立たず。どちらでも噂にできます」


 場が静かになった。


 新五は言った。


「なら、三つ目を作る」


「三つ目?」


「橋を使わぬ。浅瀬もそのまま使わぬ。足場を作って渡る」


 又左は、少し笑った。


「それなら、力仕事ですな」


「ようやく出番だ」


 又左の顔が明るくなる。


 龍之介は、少しだけ笑った。


 槍ではない。


 だが、力は要る。


 道を作るための力だ。


 勘十郎の館へ、知らせが戻った。


 子はいなかった。


 橋は罠だった。


 近道は板がずらされ、遠回りの浅瀬にも滑る石が置かれていた。


 橋板は外し、浅瀬には足場を作る。


 若衆は、まだ走るな。


 その知らせを聞いて、竹若は拳を握った。


「我らが走っていれば」


 勘十郎は頷いた。


「落ちていたかもしれぬ」


 弥八郎の顔が白くなる。


「申し訳ございません。動きかけました」


「動かなかった」


 勘十郎は言った。


「そこを覚えろ」


 竹若と弥八郎は顔を上げた。


「動きかけたことを恥じるな。動かずに止まれたことを覚えろ」


 勘十郎の声は、以前より少しだけ強くなっていた。


「役に立ちたいと思うことは悪くない。だが、役は勝手に拾うものではない。場に合わせて受けるものだ」


 佐吉が飯場の方から言った。


「では、我らは何を」


「行く」


 勘十郎は答えた。


 若衆たちが驚く。


「ただし、走らぬ。水縄、板、杭、湯、布を持て。橋を渡るためではない。橋を使えぬと知らせ、遠回りの足場を作るために行く」


 竹若の目が変わった。


「道を作る役ですか」


「そうだ」


 弥八郎が水縄を持つ。


 佐吉は湯を竹筒に入れた。


「戻った者へ飲ませます」


 勘十郎は頷いた。


「よい」


 藤吉郎は、その姿を見ていた。


 さっきまで走りたがっていた若衆が、今は役を持って歩こうとしている。


 速さは消えていない。


 ただ、形が変わった。


 急ぐ足から、支える足へ。


 藤吉郎はその変化を、はっきり見た。


 古い板橋のそばに、勘十郎の若衆が到着した。


 走ってはいない。


 列を乱してもいない。


 竹若は水縄を持ち、弥八郎は杭を抱え、佐吉は湯と布を持っている。ほかの若者は板を担いでいた。


 又左がそれを見て、にやりと笑った。


「やっと来たか」


 竹若は頭を下げる。


「遅くなりました」


「遅くない」


 新五が言った。


「走って落ちるより、ずっと早い」


 竹若は、はっとした顔をした。


 それから、深く頭を下げた。


「はい」


 若衆たちは、浅瀬の足場作りに加わった。


 濡れた石をどける。


 滑らない板を敷く。


 杭を打つ。


 水縄を張る。


 佐吉は湯を配り、濡れた手を拭く布を出した。


 誰かが怪我をしたわけではない。


 だが、怪我をしないために湯と布がある。


 龍之介は、それを見ていた。


 若い足は、急ぎたがる。


 だが、急ぐことだけが足の役ではない。


 止まる。


 支える。


 回る。


 知らせる。


 道を作る。


 その全てが、足の役だった。


 浅瀬の向こうで、藪が揺れた。


 勝三郎が動く。


 今度は追った。


 だが、深追いではない。


 見えるところまで。


 相手は二人いた。


 一人は荷担ぎ風。


 一人は小者風。


 逃げ足は早い。


 勝三郎は戻ると、短く言った。


「顔は見ました。片方は、榎の曲がりで見ていた男です」


 新五が頷く。


「つながったな」


「はい」


「まだ捕らえぬ」


 又左が、今度は何も言わなかった。


 捕らえるより先に、若衆が怪我をせず、道が使えるようになることが大事だと分かっていた。


 やがて、足場ができた。


 浅瀬は、ひとまず渡れる道になった。


 古い板橋には、通行止めの縄を張った。


 竹若が、その縄を見つめる。


「これで、誰も落ちませぬ」


 弥八郎が言う。


「罠だった橋が、知らせる橋になりました」


 龍之介は、その言葉に頷いた。


 いい言い方だった。


 危ないものを隠すのではなく、危ないと分かる形にする。


 それもまた、道を守ることだった。


 那古野へ戻ると、信長は若衆の働きを聞いた。


 橋に子はいなかった。


 草履跡は作られていた。


 橋板はずらされていた。


 浅瀬にも滑る石が置かれていた。


 勘十郎の若衆は走らず、後から水縄と板と杭を持って来て、足場を作った。


 信長は、珍しく声を立てて笑った。


「そうか。走らなかったか」


 平手も目を細める。


「勘十郎様の場が、形を持ってきましたな」


「まだ柔い」


 信長は言った。


「だが、柔いから折れずに曲がることもある」


 龍之介は、その言葉を聞いて少し驚いた。


 信長は勘十郎の場を、ただの危うい火種として見ているわけではない。


 まだ柔い場。


 だからこそ、守りながら形を作る。


 そう見ている。


 信長は平手へ向いた。


「父上へ書け。榎の先の古い板橋にて、子が困るとの知らせあり。子の名なし。勘十郎の館へ直接知らせが入り、若衆を誘う形あり。勘十郎は若衆を止め、那古野へ知らせた。橋板に人為のずれ、浅瀬に滑る石あり。若衆は後に水縄と板を持って足場を作る。そう書け」


 平手が筆を取る。


「清洲の名は」


「書かぬ」


 又左はもう口を開かなかった。


 信長は笑った。


「又左が賢くなった」


「若」


「褒めている」


「ならば、ありがたく」


 場に少しだけ笑いが生まれた。


 だが、信長の目はすぐに鋭く戻った。


「大膳は、勘十郎を直接揺らしに来た。これは軽くない」


 新五が頷く。


「若衆が怪我をすれば、勘十郎様の場は乱れました」


「乱れるだけではない」


 信長は言った。


「兄の仕組みに従ったから弟の若衆が怪我をした。そう言える」


 場が静まった。


 龍之介は、そこで清洲の狙いを改めて理解した。


 これは道の罠だけではない。


 兄弟の間へ入れる楔だ。


 若衆が走って怪我をすれば、勘十郎は責められる。


 止めれば、臆したと言われる。


 助けを求めれば、兄に従ったと言われる。


 どの道を選んでも、噂にされる。


 だから、勘十郎は第四の道を選んだ。


 止まり、知らせ、役を持って行く。


 信長は静かに言った。


「勘十郎へ文を出す」


 平手が顔を上げる。


「大殿への文とは別に」


「ああ」


 信長は少し考えた。


「若衆を止めたこと、よし。道を作らせたこと、よし。ただし、次からは橋を見に行く役を先に決めておけ。急ぎの声が来てから決めるな。そう書け」


 権六が深く頭を下げた。


「お届けいたします」


 信長は権六を見た。


「権六」


「はっ」


「勘十郎は、よく止めた」


 権六の顔が少しだけ動いた。


 それは、短い言葉だった。


 だが、重かった。


「必ず、そのまま伝えます」


「余計な飾りは要らぬ」


「承知しました」


 信長は庭の外へ目を向けた。


「若い足は、止め方を覚えれば強い」


 龍之介は、その言葉を胸に置いた。


 清洲では、坂井大膳が報告を聞いていた。


 勘十郎の若衆は走らなかった。


 橋で怪我人は出なかった。


 浅瀬にも落ちなかった。


 水縄と板と杭で、むしろ足場を作られた。


 しかも、勘十郎は那古野へ知らせ、那古野は大殿へ筋を送ったという。


 大膳は、扇を閉じた。


「止まったか」


 控えの男が頭を下げる。


「はい」


「若い足が」


「はい」


 大膳は、しばらく黙った。


「弟君を侮ったな」


 控えの男は何も言えない。


 大膳は低く続けた。


「三郎だけではない。弟君も、場を持ち始めている」


「次は」


「兄弟の間へ直接入るのは、少し早い」


 大膳は言った。


「弟君が踏みとどまれば、かえって三郎の筋が強くなる」


「では」


「外を使う」


「外」


「津島だ」


 控えの男が顔を上げた。


 大膳は扇で文机を軽く叩いた。


「荷、道、火、雨、若衆。内の場は固まり始めた。なら、外の商いを揺らす。津島の名を使えば、那古野は軽く扱えぬ」


「津島衆を」


「本物を動かす必要はない。津島の名が出れば、商人は勝手に身構える」


 大膳は薄く笑った。


「三郎が商いを握らぬと言うなら、握らぬまま外の商いと向き合えるかを見る」


 清洲の影は、若い足から、外の名へ移ろうとしていた。


 夜、那古野の庭は静かだった。


 雨は上がり、雲の切れ目から月が見えている。


 龍之介は、古い板橋から外した板を思い出していた。


 ずらされた板。


 浅い草履跡。


 滑る石。


 誰も落ちなかったから、ただの木と石に見える。


 だが、もし竹若たちが走っていれば、あれは怪我の道になっていた。


 藤吉郎が隣に来た。


「竹若殿たち、走りませんでした」


「ああ」


「走った方が、早いと思ってしまいます」


「思うだろうな」


「でも、今日は止まった方が早かったんですね」


 龍之介は頷いた。


「怪我をすれば、もっと遅れる」


「道を作れば、次の人も通れます」


「そうだ」


 藤吉郎は少し考えた。


「止まるのも、足の役なんですね」


「難しい役だ」


「俺も、まだすぐ走りたくなります」


「分かっているなら、少しはましだ」


 藤吉郎は苦笑した。


 龍之介は、月明かりの庭を見た。


 若い足は、前へ出る。


 それは悪いことではない。


 前へ出なければ、何も変わらない。


 だが、前へ出る足を誰かが利用する。


 役に立ちたい気持ちを、危うい道へ向ける者がいる。


 だから、止まることを覚えなければならない。


 止まって、見て、知らせて、それから進む。


 それは、臆病ではない。


 次に進むための形だ。


 龍之介は、外した橋板の湿った木目を思い出した。


 板は、橋から外されて初めて罠ではなくなった。


 人も同じかもしれない。


 置かれた場所のまま走れば、誰かの罠になる。


 自分の足で場所を選べば、道になる。


 遠くで、馬が鼻を鳴らした。


 次は津島。


 その名が出れば、商人たちの顔も変わる。


 龍之介は月の下で、まだ見えない外の道を思った。


 内の道を守るだけでは、足りなくなってきていた。



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