第53話 急ぎ荷の名
急ぎ荷は、名を嫌った。
その報せが来たのは、朝餉の後だった。
寺の馬留めへ、清洲門前から薬荷が持ち込まれたという。
届け先は、熱を出した子。
荷主は、清洲御用。
中身は、急ぎの薬。
それ以上を問うと、持ってきた男は声を荒らげた。
名を問うている間に、子が死んだらどうする。
そう言ったという。
信長は庭でその報せを聞き、しばらく黙った。
庭には、平手、新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、彦右衛門、又左がいる。権六も、勘十郎の館へ向かう前に足を止めていた。
「来たな」
信長が言った。
声は静かだった。
又左が眉を寄せる。
「薬でございますか」
「薬とは限らぬ」
信長は短く返した。
「だが、本当に薬かもしれぬ」
その一言で、庭の空気が重くなった。
清洲が仕掛けた偽の急ぎ荷。
そう決めつければ楽だった。
だが、熱を出した子が本当にいれば、荷を止めることは命に触れる。逆に、名も中身も曖昧なまま走らせれば、あとで何を運んだか分からなくなる。
名を問えば遅れる。
問わなければ切られる。
清洲は、その間へ荷を置いてきた。
平手が静かに言う。
「大膳の手でしょうな」
「だろう」
信長は頷いた。
「名を問う仕組みは遅い。そう言わせるための荷だ」
藤吉郎が少しだけ前へ出た。
「でも、子が本当に熱を出しているなら」
「助ける」
信長は即答した。
藤吉郎の顔が上がる。
「荷を止めるために人を死なせるほど、わしは暇ではない」
信長は言った。
「だが、名のない荷をそのまま流すほど、愚かでもない」
龍之介は、その言葉に頷いた。
人と荷を分ける。
たぶん、それしかない。
助けるべき人は助ける。
だが、荷の名と中身は残す。
信長は新五へ向いた。
「寺の馬留めへ行け。権次、久六、与八もいるなら使え。ただし、馬借だけに背負わせるな」
「承知しました」
「龍之介」
「はい」
「お前も行け。急ぎ荷を止めるな。流すな。分けろ」
短い命令だった。
だが、意味は重い。
龍之介は頭を下げた。
「人と荷を、でございますね」
「そうだ」
信長は笑った。
「薬が必要なら薬師を走らせろ。荷主の名が必要なら、別の者に追わせろ。急ぐものを一つの足で運ぶから詰まる」
平手が頷いた。
「二つの足に分ける」
「三つでもよい」
信長は言った。
「人を診る足。荷を運ぶ足。名を追う足。それぞれ別に走らせろ」
又左が少し不満そうに言った。
「槍の出番は」
「今日はない」
「承知しました」
「不満か」
「少しだけ」
信長は口元だけで笑った。
「正直でよい。だが今日は、槍より足を使え」
「承知しました」
藤吉郎が少しだけ口元を緩めた。
信長は勝三郎へ向く。
「持ってきた男の顔を見る。だが、捕らえるな」
「承知」
「彦右衛門。包みを見る。薬そのものは薬師に任せる」
「はい」
信長は最後に権六へ言った。
「勘十郎の場にも伝えろ。急ぎと言われても、名を捨てるな。ただし、急ぐ人は捨てるな」
権六は深く頭を下げた。
「承知しました」
急ぎ荷の戦が始まった。
槍の音はない。
だが、遅れれば人が苦しむ。
間違えれば名が切られる。
それは、これまでで一番細い道だった。
寺の馬留めには、すでに人が集まり始めていた。
馬借たち。
寺の下働き。
近くの飯屋の者。
それから、薬荷を持ってきた男。
男は小綺麗な身なりをしていた。前に与八へ名のない小荷を持ちかけた男とは違う顔だが、目の動きは似ていた。誰が揺れているかを探す目である。
荷は小さかった。
油紙に包まれ、紐で結ばれている。
上に札が一枚ついていた。
清洲御用。
ただ、それだけである。
与八が、荷の前で固まっていた。
権次と久六もいる。
馬借頭の甚蔵は、少し離れて腕を組んでいた。口を出すべきか、出せば馬借が那古野に寄ったと言われるか、その間を量っている顔だった。
新五が前へ出た。
「荷はどこへ」
男はすぐ答えた。
「熱を出した子のところへ」
「子の名は」
「急ぎだ」
「名を聞いている」
「名を問うている間に死んだら、そちらの責でよいのか」
周囲がざわついた。
良い言葉ではない。
だが、人を動かす言葉だった。
母親らしき女が泣いているわけではない。苦しむ子がここにいるわけでもない。それでも、熱を出した子と聞けば、人は不安になる。
藤吉郎が小声で言った。
「子の名前を知らない薬なんですね」
男の目が藤吉郎へ向く。
「小僧が口を挟むな」
龍之介が半歩前へ出た。
「では、大人が聞きます。子の名は」
男は龍之介を見た。
流れ者、と言いたげな目だった。
「清洲門前の裏長屋だ」
「長屋の誰です」
「急ぎだと言っている」
「急ぎなら、なおさら届け先が要ります。違う家へ持っていけば、それだけで遅れる」
男は黙った。
その沈黙で、場の空気が少し変わる。
龍之介は続けた。
「薬師の名は」
「清洲の薬師だ」
「清洲の誰です」
「御用だ」
「御用とは、誰の」
また、名が消える。
新五は冷たい目で男を見た。
「荷を止めるつもりはない。だが、名のない薬をそのまま走らせることもできぬ」
男が声を張った。
「ほら見ろ。那古野は薬まで止める。熱を出した子がいるというのに」
その声に、周囲がまた揺れた。
清洲の狙いはこれだ。
名を問う姿を見せ、遅らせていると騒ぐ。
与八の手が震えていた。
昨日、名のない荷を断った若い馬借である。
今度は、命を盾にされている。
龍之介は、信長の言葉を思い出した。
人を診る足。
荷を運ぶ足。
名を追う足。
分ける。
「小平」
龍之介が呼ぶと、寺の方から小平が駆けてきた。
「はい」
「清洲門前の裏長屋で、今朝から熱を出した子を知っていますか」
小平は少し考えた。
「飯屋の裏の、おさとの子なら、昨日から熱です。太助という子です」
男の顔がわずかに動いた。
龍之介は見逃さない。
「太助。母は、おさと」
小平は頷いた。
「はい。飯屋の椀洗いを手伝う女です。昨日、寺へ水をもらいに来ていました」
龍之介は新五へ目を向けた。
新五はすぐに判断した。
「藤吉郎。小平と走れ。太助が本当に熱を出しているか、今どこにいるかを見る。だが、薬包みには触るな」
「はい」
藤吉郎は返事をして、小平と走り出した。
新五は続ける。
「権次、久六。薬師を呼べるか」
甚蔵が口を開いた。
「那古野寄りの薬師なら、玄庵が近い。足は遅いが、薬を見る目はある」
権次が立つ。
「俺が呼びます」
「肩は」
「馬を走らせるのは肩ではありませぬ」
甚蔵が少し笑った。
「行け。だが、馬を潰すな」
「承知」
権次が馬へ向かう。
久六は荷のそばに残った。
新五は与八へ向いた。
「与八。この荷を運びたいか」
与八は喉を鳴らした。
「運ばねば、子が困るなら」
「では、待て。子の場所と薬の中身が分かり次第、お前が運べ」
与八の目が揺れた。
「俺が」
「昨日、名のない荷を断った。今日は名が出れば運ぶ。それを見せろ」
甚蔵が低く頷いた。
「よい」
男が苛立ったように言う。
「だから遅い。薬師を呼び、子を確かめ、その間に」
龍之介は男を見た。
「その間に、あなたは子の名も薬師の名も言わない」
男の口が止まった。
「急いでいるのは、子のためですか。それとも、名を問わせないためですか」
周囲のざわめきが、少し変わった。
疑いのざわめきになった。
男は、それ以上声を張れなかった。
藤吉郎と小平が戻ってきたのは、思ったより早かった。
藤吉郎は息を切らしていたが、言葉は崩れなかった。
「太助は本当に熱を出しています。母親のおさと殿もいました。ですが、この薬を頼んだ覚えはないそうです」
場が静まった。
小平が続ける。
「おさとは、昨日、玄庵先生のところへ行こうとして、銭が足りず戻ったそうです。今朝は飯屋の女衆が湯を飲ませています」
男の顔がこわばった。
龍之介は問う。
「おさとは、薬を欲しがっているのですね」
「はい」
藤吉郎が答える。
「でも、誰がこの薬を送ったかは知りません」
そこへ、権次が玄庵を連れて戻ってきた。
玄庵は痩せた老人だった。
白髪交じりの髪を布でまとめ、小さな薬箱を肩から下げている。馬に揺られたせいか、少し機嫌が悪そうだった。
「急ぎの薬だと聞いた」
声は枯れているが、目は鋭い。
新五が荷を示す。
「中を見ていただきたい。熱を出した子は実在する。だが、荷主と薬師の名がない」
玄庵は鼻を鳴らした。
「薬師の名がない薬ほど、急がせるな」
男が言い返そうとする。
玄庵は先に睨んだ。
「黙れ。薬は急ぐが、毒も急ぐ」
その一言で、男は黙った。
玄庵は油紙の包みを開けた。
中には、乾いた薬草と粉薬が入っている。
玄庵は匂いを嗅ぎ、指先で少し擦った。
「熱冷ましではある」
周囲の空気が少し緩みかけた。
だが、玄庵はすぐに続けた。
「ただし、強い。子の腹には重い。量も多い。このまま飲ませれば、熱より先に腹を壊す」
おお、と小さな声が漏れた。
男の顔が引きつる。
「清洲の薬師が」
「誰だ」
玄庵が問う。
「名を言え。薬師なら薬に名を置く。置かぬなら、薬師ではなく、薬を持った誰かだ」
男は答えられなかった。
玄庵は自分の薬箱を開く。
「太助という子か」
藤吉郎が頷いた。
「はい」
「歳は」
「五つほどです」
「汗は」
「額に少し。手足は熱いです。でも、目は開けました」
「水は飲めるか」
「少しなら」
玄庵は頷いた。
「なら、これを薄く煎じる。今の包みは使わぬ。おさとの家へ案内しろ」
男が声を上げた。
「では、この薬は」
「預かる」
新五が言った。
「人は助ける。荷は改める」
龍之介は、その言葉を胸の中で繰り返した。
人は助ける。
荷は改める。
遅らせない。
流さない。
分ける。
与八が一歩前へ出た。
「俺が玄庵先生を乗せます。太助の家まで」
甚蔵が問う。
「運べるか」
「荷主の名は分かりません。ですが、運ぶ人の名と行き先は分かります。玄庵先生を、太助の家へ運びます」
甚蔵は、少しだけ笑った。
「それなら馬借の仕事だ」
玄庵が不満そうに言う。
「揺らすなよ」
与八は慌てて頭を下げた。
「できるだけ」
「できるだけでは困る」
「では、揺らしませぬ」
「それでよい」
場に少しだけ笑いが戻った。
与八は玄庵を馬に乗せ、小平と藤吉郎が道案内についた。権次と久六も後ろから続く。
薬荷を持ってきた男は、なおも何かを言おうとした。
勝三郎が、その顔を静かに見ていた。
「急ぎの薬は届いた」
男は言葉を失った。
「いや、届いたのは薬師か」
勝三郎は、わざと軽く言った。
「どちらにせよ、子は見に行った。お前の荷は残った。何が不満だ」
男は答えない。
不満など言えるはずがない。
人を助けた。
荷は残した。
名も問うた。
清洲が作ろうとした遅れは、そこで形を失った。
太助の家は、飯屋の裏にある小さな長屋だった。
中は狭く、土間には水桶と古い椀が置かれている。奥で、小さな子が布をかけられて寝ていた。
すでに飯屋の女衆の耳には、寺の馬留めに清洲御用の薬荷が来たという話が届いていた。
清洲から薬が来た。
那古野が止めた。
そういう噂になるはずだった。
だが、長屋へ先に入ってきたのは、薬包みではなく玄庵だった。
母のおさとは、玄庵の姿を見るなり、畳に手をついた。
「先生」
「頭を下げる前に水を持て」
「はい」
玄庵は太助の額に手を当て、目を見た。
「熱はある。だが、今すぐ死ぬ熱ではない」
おさとの肩から力が抜けた。
玄庵は持ってきた薬を薄く煎じ、少しずつ飲ませるように言った。
「一度に飲ませるな。水も少しずつだ。汗をかいたら布を替えろ。飯は無理に食わせるな」
藤吉郎は、その言葉を真剣に聞いていた。
与八も、戸口で息を整えながら見ている。
おさとは震える声で言った。
「清洲から薬が来たと聞きました」
玄庵が鼻を鳴らす。
「来た。だが、あのまま飲ませれば腹を壊す」
おさとは顔を青くした。
「誰が」
「それを今、聞いている」
藤吉郎が答えた。
「おさと殿は、誰かに薬を頼みましたか」
「いいえ。先生のところへ行こうとはしました。でも、銭が足りず」
おさとは言いにくそうに俯いた。
与八が、ぽつりと言った。
「銭が足りぬなら、先にそう言えばよかった」
おさとは驚いて顔を上げる。
「馬借様に言えることでは」
「馬借は薬師ではない。だが、薬師のところへ人を運ぶことはできる」
与八は少し照れたように目を逸らした。
「名があれば」
藤吉郎は、その言葉を聞いて小さく頷いた。
名があれば、動ける。
誰が困っているか分かれば、足を向けられる。
急ぎとは、名を捨てることではない。
急ぐためにこそ、名が要る。
玄庵は太助の脈を見ながら言った。
「明日の朝までに熱が引かねば、また呼べ」
「はい」
「銭の話は後だ」
おさとは泣きそうな顔になった。
「ありがとうございます」
「礼は熱が引いてから言え」
玄庵はそう言い、薬箱を閉めた。
外では、飯屋の女衆が集まっていた。
目の前で起きたことは、噂と違った。
薬師が来た。
子を診た。
名のない薬は使わず、別の薬を飲ませた。
その場にいた者たちは、それを見ていた。
那古野へ戻ると、信長は報告を最後まで聞いた。
薬荷を止めなかったこと。
荷主の名は出なかったこと。
太助という子は実在したこと。
母のおさとは薬を頼んでいなかったこと。
包みの薬は熱冷ましではあったが、子には強すぎたこと。
玄庵が別の薬を出し、与八が運んだこと。
信長は、しばらく黙っていた。
やがて言った。
「よい」
短い一言だった。
藤吉郎がほっと息を吐く。
信長はそれを見て、少しだけ笑った。
「油断するな。大膳は失敗しても、ただでは失敗せぬ」
平手が頷く。
「薬荷を使った以上、次は噂を変えてくるでしょうな」
「変える」
信長は言った。
「那古野は薬を止めた、とは言いにくい。だが、那古野は清洲の薬師を信用せず、自分の薬師を立てた、とは言える」
新五が目を細める。
「清洲の面目を潰した、と」
「そうだ」
又左が不満げに言う。
「では、どうしても文句を言われるではありませんか」
「言わせておけ」
信長は即答した。
「だが、こちらから先に筋を出す」
平手が筆を用意する。
信長は言った。
「大殿へ送る。清洲御用とだけ記された薬荷が寺の馬留めへ持ち込まれた。届け先不明、薬師名不明。清洲門前の太助なる子が熱を出していることは確認。薬師玄庵が診立て、荷の薬は子には強すぎると見立てたため、別薬を用いた。荷は封を改め、名を問うため預かる。そう書け」
平手は頷いた。
「承知しました」
信長は続ける。
「それから、太助の母には銭を押しつけるな。薬代は玄庵へこちらから払うが、表には出すな。飯屋の女衆に湯と布を持たせろ。那古野が救った形にしすぎるな」
龍之介は、そこで信長の意図を理解した。
助けたことを大きく見せれば、清洲は言う。
那古野が清洲門前の民を抱えようとしている、と。
だから、助ける。
だが、抱えない。
薬代も、布も、湯も、できるだけその場の者の手で回す。
信長は人を救うことすら、政治の形を見ながら行っている。
冷たいのではない。
冷たく見なければ、助けた相手まで火に巻かれる。
藤吉郎が言った。
「若様。与八殿は、良かったと思います」
「何がだ」
「昨日は名のない荷を断りました。今日は、名のある人を運びました」
信長は藤吉郎を見た。
「そうだな」
「急ぐことと、名を聞かないことは、同じではないんですね」
「違う」
信長は頷いた。
「急ぐために、名を聞くこともある」
龍之介は、その言葉を胸に刻んだ。
急ぎ荷の答えは、それだった。
名を問うことは、遅らせるためではない。
正しく急ぐためにある。
その夜、清洲では坂井大膳が薬荷の結果を聞いていた。
太助は死んでいない。
薬は使われていない。
薬師玄庵が診た。
与八が運んだ。
荷は那古野に残った。
そして、薬荷の件は大殿へ送られた。
大膳は、しばらく何も言わなかった。
控えの男は、畳へ額を近づけている。
「申し訳ございませぬ」
「謝るな」
大膳は静かに言った。
「子が死ななかったのはよいことだ」
控えの男は顔を上げかけた。
大膳は冷たい目で続ける。
「死ねば騒ぎが大きすぎる。こちらの手も濃くなる。生きて、少し揉めるくらいがよかった」
控えの男は、また頭を下げた。
「ですが、揉めませなんだ」
「揉めた」
大膳は文机を指で叩いた。
「那古野は清洲の薬を使わなかった。清洲御用の薬師を信用しなかった。そこは残る」
「清洲の薬師名は出しておりませぬ」
「だからこそ、今から作る」
控えの男の肩が揺れた。
大膳は続ける。
「名のない薬師では弱い。なら、薬師の名を後から立てる。清洲門前の薬種商に、あれはうちの薬だったと言わせる」
「しかし、玄庵が子には強すぎると」
「薬は薬だ。量を誤ったのは、那古野が勝手に改めたからだと言える」
「それは」
「苦しいな」
大膳は薄く笑った。
「だが、苦しい筋でも、噂にはなる」
控えの男は黙った。
大膳は窓の外を見た。
「三郎は、急ぎ荷を止めなかった。荷と人を分けた。厄介だ」
その声には、初めてはっきりとした苛立ちが混じっていた。
「では次は、分けられぬものを使う」
「分けられぬもの」
「火だ」
大膳は言った。
「火は、人と荷を分けて待ってはくれぬ。火が出れば、皆が走る。誰の名かなど問う暇はない」
控えの男の顔が青くなる。
「火を」
「大火にはせぬ」
大膳は冷たく言った。
「小さな火でよい。荷蔵の端、飯屋の裏、馬留めの藁。消さねばならぬ火を置く。三郎がどう動くかを見る」
清洲の影は、名を嫌う急ぎ荷から、名を焼く火へ移ろうとしていた。
那古野の夜。
龍之介は、太助の家で見た光景を思い出していた。
狭い土間。
熱い額。
水桶。
玄庵の皺だらけの手。
与八の震える声。
名があれば、運べる。
あれは、ただの言葉ではなかった。
昨日まで名のない荷に揺れていた若い馬借が、今日は名のある人のために馬を出した。
それだけで、道は少し変わった。
藤吉郎が隣に座っている。
珍しく、すぐには喋らなかった。
やがて、小さく言った。
「急いでいる時ほど、名前が要るんですね」
「ああ」
「違う家に薬を持っていったら、もっと遅れます」
「そうだ」
「それに、違う薬を飲ませても困ります」
「そうだな」
藤吉郎は膝の上で手を握った。
「太助、明日には熱が下がるでしょうか」
「玄庵殿は、今すぐ死ぬ熱ではないと言っていた」
「はい」
「なら、今夜は水と布だ」
藤吉郎は頷いた。
龍之介は、空を見上げた。
名を問えば遅れる。
清洲はそう言わせようとした。
だが、今日分かった。
名を問うことは、遅らせるためではない。
誰を助けるのか。
何を運ぶのか。
誰が責を持つのか。
それを早く決めるために、名が要る。
呂布の武なら、道を塞ぐ者を蹴散らして進める。
郭嘉の知なら、荷の裏にある狙いを読む。
だが、熱を出した子の前では、それだけでは足りない。
斬るより先に、診る者を走らせる。
疑うより先に、水を飲ませる。
そして、助けた後で荷の名を残す。
戦は、ただ勝てばよいわけではない。
勝った後に、道が残らなければならない。
龍之介は、掌を開いた。
火傷の跡は薄くなっている。
だが、清洲の次の手は、きっとまた熱を持つ。
急ぎ荷が失敗したなら、次はもっと急ぐものを使う。
水で冷ませる熱か。
それとも、火か。
夜風の中で、どこか遠くの犬が吠えた。
龍之介は顔を上げる。
戦は、道の上から、火のそばへ移ろうとしていた。




