第52話 馬借の名
馬借の名が、汚され始めた。
最初に仕事を失ったのは、権次と久六だった。
大殿へ文を運んだ二人である。
古い坂道で荷車に道を塞がれ、渡しの小屋裏で棒を受け、それでも文を濡らさず末森へ届けた。信秀の返書が那古野へ戻ったことで、二人の働きは確かに役に立った。
だが、清洲門前では別の言い方になっていた。
権次と久六は、那古野の文を運んだ。
清洲の荷車を無理にどかした。
渡し場で揉め事を起こした。
あの二人を使えば、清洲で目をつけられる。
昼前、権次と久六は那古野の庭へ来た。
権次の肩には、まだ布が巻かれている。久六は隣で口を結んでいた。二人とも、荷を失った馬のような顔をしている。
信長は、二人を立たせたままにはしなかった。
「座れ」
権次は戸惑った。
「我らは馬借でございます」
「知っている。肩を痛めた者を立たせておくほど、わしは馬鹿ではない」
権次は黙って頭を下げ、腰を下ろした。
庭には、平手、新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、彦右衛門、又左がいた。権六も、勘十郎の館へ向かう前に顔を出している。源太と孫七は少し離れて控えていた。
信長は問う。
「荷が減ったか」
久六が答えた。
「はい。清洲門前へ向かう荷を、二つ断られました」
「理由は」
「那古野の使いをしたから、と」
又左が低く唸る。
「文を届けたら、それが罪か」
「罪ではない」
信長は短く言った。
「だが、噂にすれば罪に見える」
龍之介は、権次の肩を見た。
棒を受けた跡がある。
文を守った証でもあり、清洲から見れば、揉め事の証にもされる。
同じ傷が、言い方一つで顔を変える。
信長は続けた。
「権次、久六。お前たちを那古野で抱えれば、食わせることはできる」
二人の顔が動いた。
「だが、それをすれば噂は本当になる。お前たちは那古野の馬借になり、清洲門前の荷を運べなくなる」
権次は唇を噛んだ。
「では、我らは」
「戻す」
信長は言った。
「那古野に抱えるのではない。馬借の中へ戻す。お前たちは、那古野の犬ではない。荷を受け、道を選び、届ける馬借だ。その名を戻す」
久六が、低く問う。
「戻せますか」
「戻すのは、わしではない」
信長は二人を見た。
「お前たちと、馬借仲間だ」
龍之介は、その言葉で今日の戦を理解した。
弥平を渡し場へ戻した時と似ている。
だが、同じではない。
船頭は舟を出した。
商人は札と帳面を見た。
馬借は、道を走る。
なら、馬借の名は、馬と道と荷の扱いで見せるしかない。
信長は平手へ向いた。
「馬借頭を呼べるか」
「すでに声をかけております」
「早いな」
「若が遅いと」
「もうよい」
平手は静かに頭を下げた。
信長は少し笑い、すぐに声を戻した。
「場所は那古野ではない。寺の馬留めだ。清洲門前でもない。権次と久六だけの場にもせぬ。馬借たちが馬を休める場で、荷をどう運んだかを見せる」
藤吉郎が手を上げかけ、少し迷って下ろした。
信長は見逃さなかった。
「言え」
「馬の腹も、見た方がいいと思います」
新五が目を向けたが、藤吉郎は続けた。
「馬が痩せていたら、無理に走ったと分かります。飼葉をちゃんと食べていたら、荷を急がせすぎていないと分かります」
彦右衛門が頷いた。
「小僧の言う通りです。馬借の仕事は、馬に出ます」
信長は満足げに笑った。
「よし。今日は馬を見る」
又左が首を傾げた。
「人ではなく、馬ですか」
「人を見るために、馬を見る」
信長は言った。
「清洲は、権次と久六の名を汚した。なら、こちらは二人の馬と道を見る。どんな道を通り、どこで馬を傷めず、どこで文を守ったか。それを馬借たちに見せる」
龍之介は深く頷いた。
名を守るには、声で否定するだけでは足りない。
仕事そのものを見せる。
それが、今日の答えだった。
寺の馬留めには、昼過ぎから馬借たちが集まり始めた。
大きな寄合ではない。
那古野が命じて集めた形にもしていない。小平の寺の古い馬留めを整えたことで、馬方や馬借が少しずつ休むようになっていた。そこへ、平手の知己を通じて、何人かの顔役に声をかけただけである。
馬借頭の甚蔵は、日に焼けた大柄な男だった。
年は四十を越えている。声は大きくないが、周りの馬借が自然に道を空ける。腕っぷしだけではなく、長く道で食ってきた男の重みがあった。
甚蔵は、権次と久六を見るなり、眉を寄せた。
「噂は聞いた」
権次は頭を下げる。
「ご迷惑を」
「謝るな。謝れば、悪いことをした顔になる」
龍之介は、甚蔵を見直した。
この男も、道の言葉を知っている。
信長本人は来ていない。
那古野側からは、新五、龍之介、彦右衛門、藤吉郎、勝三郎が離れて見ていた。又左は、さらに外にいる。槍の気配を近づけすぎないためだ。
甚蔵は、権次の馬を見た。
脚。
蹄。
腹。
背。
鞍の跡。
それから久六の馬も見る。
しばらくして、甚蔵は言った。
「馬は潰していない」
馬借たちの空気が少し変わった。
甚蔵は続ける。
「急いだ者の馬は、息と脚に出る。こいつらの馬は走っているが、潰れていない。飼葉も食えている。水も飲んでいる」
藤吉郎が小さく頷いた。
口は挟まない。
今日は馬借の場だ。
甚蔵は、次に権次の肩を見た。
「棒を受けたな」
「はい」
「なぜ受けた」
「文を持つ久六へ棒が向いたからです」
「相手を殴り返したか」
「いいえ」
権次は首を振った。
「文を通すのが先でした」
甚蔵は久六を見る。
「文は濡れたか」
「濡れておりません」
「馬は」
「浅瀬を通しました。腹までは濡らしておりませぬ」
甚蔵は、深く息を吐いた。
「なら、馬借の仕事だ」
その一言は重かった。
馬借たちが、互いに顔を見合わせる。
噂は、権次と久六を那古野の使いにした。
甚蔵は、仕事で見た。
馬を潰さず、文を濡らさず、荷主の用を届けた。
それは馬借の仕事だ、と。
そこへ、一人の若い馬借が口を挟んだ。
「だが、清洲で目をつけられる」
場が少し硬くなる。
若い馬借は、顔に不安を隠せていない。
「俺たちは道で食っている。清洲門前で飼葉を断られたら困る。権次と久六が悪いとは言わぬ。だが、同じように見られたら、俺たちまで仕事を失う」
正直な声だった。
清洲の口ではない。
恐れている馬借の声だ。
甚蔵は怒鳴らなかった。
「名は」
「与八」
「与八。お前の言うことも分かる」
与八は驚いた顔をした。
甚蔵は続ける。
「だが、清洲に目をつけられぬために、荷主の用を途中で捨てる馬借だと思われたら、それも終わりだ」
与八は黙った。
龍之介は、その会話を聞きながら、清洲の次の手を感じていた。
顔を持てぬ馬借。
大膳は、そういう者を使うと言っていた。
与八は、まさに浮きかけている。
だが、今ここで責めれば、清洲へ寄る。
恐れを持ったまま、馬借の中へ戻さなければならない。
甚蔵は権次と久六へ言った。
「お前たちは、那古野へ抱えられるな」
「はい」
「だが、仕事を断られて困るなら、俺に言え。清洲門前だけが道ではない。荷主が用を頼むなら、道は選べる」
権次と久六は、深く頭を下げた。
与八も、何かを言いたそうにしていた。
その時、馬留めの外に男が一人現れた。
小綺麗な身なりの男だった。
商人ではない。
馬借でもない。
だが、馬借たちの顔を見て、誰が揺れているかを探している。
勝三郎が、わずかに目を細めた。
男は、与八へ近づいた。
「近くの蔵に小荷がある。馬を遊ばせているなら、運ばぬか」
与八の顔が動く。
甚蔵が振り返った。
「どこの荷だ」
男は笑った。
「清洲門前へ運ぶ小荷だ。急ぎではない。ただ、余計な揉め事に関わらぬ馬借がよい」
その言葉で、場の空気が冷えた。
余計な揉め事。
権次と久六のことを指している。
与八は喉を鳴らした。
仕事は欲しい。
清洲で目をつけられたくない。
その二つの隙間へ、男は荷を差し出してきた。
新五が動こうとした。
しかし、甚蔵が先だった。
「荷主の名は」
「小荷だ。名を言うほどのものではない」
「なら、馬借へ頼むほどの荷でもない」
甚蔵の声は低い。
男の笑みが少し薄くなった。
「銭は払う」
「誰が払う」
「荷主が」
「荷主の名は」
男は答えない。
甚蔵は、馬借たちへ向いた。
「聞いたか」
誰も答えない。
「名のない荷を受ければ、後で何を運んだか分からぬ。何を運んだか分からぬ荷で揉めれば、馬借の名だけが残る。市助と同じだ」
与八の顔が変わった。
市助の名は、もう馬借たちの耳にも入っている。
切られる名。
それがどういうことか、道で食う者は敏い。
男は声を低くした。
「清洲門前の荷を断るのか」
甚蔵は答えた。
「名のない荷を断る」
「同じことだ」
「違う」
甚蔵は一歩も引かなかった。
「清洲門前の荷でも、荷主の名があり、荷の中身があり、運び賃がはっきりしていれば受ける。名を出せぬ荷は受けぬ。それだけだ」
龍之介は、息を吐いた。
勘十郎が言った言葉と似ている。
名なき火は、受けぬ。
馬借の場では、それが名なき荷は受けぬ、になる。
同じ考えが、それぞれの場で別の形を持ち始めていた。
男は与八を見る。
「若いの。仕事を逃すぞ」
与八の手が震えた。
だが、甚蔵が何も言わずに見ている。
権次と久六も見ている。
藤吉郎は口を閉じていた。
与八は、長く迷った。
そして、ようやく言った。
「荷主の名が要る」
男の顔から笑みが消えた。
「お前まで」
「俺は、仕事が欲しい」
与八は声を震わせながら続けた。
「だが、知らぬ荷で名を切られるのは嫌だ」
場が静かになった。
甚蔵が、わずかに頷いた。
男は、それ以上押せなかった。
「面倒な馬借どもだ」
そう吐き捨てて、道の向こうへ歩き出す。
勝三郎が顔を覚える。
追わない。
今日は、捕らえる日ではない。
馬借たちの場が、自分で踏みとどまったことが大きかった。
那古野へ戻ると、信長は報告を聞いて笑った。
「甚蔵が言ったか。名のない荷は受けぬ、と」
「はい」
新五が答える。
「与八も、最後は荷主の名を求めました」
「よい」
信長は満足げに頷いた。
「権次と久六だけを守れば、二人は那古野の馬借になる。だが、馬借の場で名を問えば、道の者の決まりになる」
平手が静かに言う。
「大殿から若への釘にも合いますな。商人を、また馬借を、己の手に握るなという」
「そうだ」
信長は頷いた。
「握らぬ。だが、名を問うことを覚えさせる」
藤吉郎が小さく手を上げた。
「馬を見ると、どう走ったか分かるんですね」
「どう見えた」
「権次殿と久六殿の馬は、疲れていました。でも、壊れていませんでした。ちゃんと休ませた馬でした」
彦右衛門も頷く。
「馬借頭の見立ても同じです。二人は、急ぎながら馬を潰しておりませぬ。文を通した馬借として、仕事は崩れていない」
信長は権次と久六へ飯と手当を出すよう命じた。
ただし、褒美ではない。
肩を痛めた者への手当。
馬を休ませる飼葉。
文を届けた仕事への正当な支払い。
それぞれを分けて出す。
「まとめるな」
信長は言った。
「まとめれば、那古野が二人を買ったように見える。手当は手当、飼葉は飼葉、運び賃は運び賃だ」
龍之介は頷いた。
銭箱の時と同じだ。
混ぜれば噂になる。
分ければ筋になる。
又左が言った。
「それにしても、名のない荷を持ってきた男。捕らえなくてよかったので」
「捕らえれば、荷を頼みに来ただけと言う」
信長は答えた。
「だが、馬借たちが聞いた。名を出せぬ荷を持ってきた男がいた、と。そちらの方が重い」
勝三郎が続ける。
「顔は覚えました。清洲門前でも見ます」
「見ろ」
信長は短く言った。
権六が低く言う。
「勘十郎様の場にも、同じ話を伝えてよろしいか」
「伝えろ」
信長は即答した。
「木太刀も飯も、名なき荷で運ばせるな、と。勘十郎が自分の言葉で言えるようにしておけ」
「承知しました」
龍之介は、少しだけ笑った。
名を問う。
それは、もう那古野だけの言葉ではなくなり始めている。
商人。
船頭。
馬借。
勘十郎の若衆。
それぞれが、自分の場で名を問う。
清洲の曖昧な手が、少しずつ通りにくくなっていた。
その夜、清洲では坂井大膳が、馬留めでの出来事を聞いていた。
権次と久六は、馬借仲間から弾かれなかった。
馬借頭の甚蔵が、二人の仕事を認めた。
与八は揺れたが、名のない荷を受けなかった。
荷を持ちかけた男は、顔を見られて戻った。
大膳は、しばらく黙っていた。
「甚蔵か」
控えの男が頭を下げる。
「はい。あの男が場を締めました」
「道で長く食っている者は、厄介だな」
大膳の声は静かだった。
「若い与八を使えませんでした」
「使えぬわけではない。今日は使えなかっただけだ」
大膳は、指で膝を叩いた。
「だが、三郎は馬借も握らなかったか」
「はい。権次と久六を那古野で抱えることはしておりませぬ」
「父の釘を聞いている」
大膳は、薄く笑った。
「なら、次はそこを突く」
「そこ、とは」
「握らぬなら、守りきれぬ。そういう場を作る」
控えの男は顔を上げた。
大膳は続ける。
「商人も船頭も馬借も、それぞれ自分で名を問うようになった。よいことだ。だが、皆が名を問えば、清洲門前の荷は遅くなる。遅れれば、困る者が出る」
「急ぎ荷でございますか」
「そうだ」
大膳は目を細めた。
「急ぎの薬荷か、葬礼の品か、城へ入れる釘か。名を問うている間に遅れた、と言わせる。三郎の仕組みは、慎重すぎて荷を殺す。そういう噂を作る」
控えの男は深く頭を下げた。
「承知しました」
大膳は窓の外を見た。
「名を問えば、遅れる。問わねば、切られる。さあ、三郎。どちらを選ぶ」
清洲の影は、今度は速さを武器にしようとしていた。
那古野の夜。
龍之介は、寺の馬留めから戻ってきた権次の馬を思い出していた。
疲れてはいた。
だが、潰れていなかった。
あれは、急ぎながらも道を選んだ馬だった。
人の言葉は嘘をつく。
文も嘘をつく。
だが、馬の脚には、その日の道が出る。
龍之介は、それを初めて強く感じた。
藤吉郎が隣で言った。
「馬を見ると、どう走ったか分かるんですね」
「そうだな」
「与八殿、怖そうでした」
「怖かっただろうな」
「でも、荷主の名を聞きました」
「ああ」
藤吉郎は少し考えた。
「怖くても聞けたら、少し強いですね」
龍之介は頷いた。
強いとは、腕で殴ることだけではない。
名のない荷を前にして、荷主の名を聞く。
それだけでも、道は変わる。
市助は、名を切られかけた。
彦兵衛も、名を切られかけた。
権次と久六は、名を汚されかけた。
与八は、名のない荷を受けさせられかけた。
清洲は、人の名を荷札のように括り、要らなくなれば切る。
なら、こちらはそのたびに問う。
誰の荷か。
誰の用か。
誰が困っているのか。
誰が急いでいるのか。
龍之介は、掌を開いた。
火傷の痛みは、もうほとんどない。
だが、戦の形はますます細かく、重くなっている。
次は、速さだ。
清洲はきっと、急ぎ荷を使う。
名を問えば遅れる。
遅れれば人が困る。
そういう形を作ってくる。
名を問うことと、荷を遅らせないこと。
その両方を満たせなければ、こちらの道は詰まる。
龍之介は、遠くで馬が飼葉を噛む音を聞いた。
戦は、また道の上に戻った。
だが今度は、足の速さまで量られる。




