第48話 弟の火消し
鍛冶宿の灰は、夜が明ける前に包まれた。
焦げた札紐。
焼け残った木札。
坂に似た傷のある欠片。
切られた縄端。
多吉の名と、鍛冶宿の裏という言葉。
休み小屋の作兵衛の証言。
それらを平手が改め、文にまとめる。
信長は、明け方の庭でその包みを見ていた。
「父上へ送る」
声は短かった。
又左は、少し不満そうに腕を組んでいる。清洲へ直接ぶつけるものと思っていたのだろう。だが、信長は首を振った。
「清洲へ先に投げれば、清洲は名を替える。父上へ先に見せる。尾張の荷筋に手が入っている、と」
平手が文を畳み、封をした。
「大殿なら、清洲へ問う筋をお持ちです」
「そうだ」
信長は頷く。
「わしが騒げば、三郎がまた清洲門前で暴れていると言われる。父上が問えば、尾張の筋の話になる」
龍之介は、その言葉を聞きながら、手の布を巻き直していた。
火箸を押さえた掌は、まだ熱い。
大きな傷ではない。
だが、痛みが残るたびに、鍛冶宿の火と前掛けの男の顔が浮かぶ。
信長は、ふと龍之介へ目を向けた。
「痛むか」
「少しだけです」
「少しで済んだならよい」
そう言ってから、信長は清洲ではなく、勘十郎の館の方角を見た。
「大膳は、今度は弟の場へ火を入れる」
庭の空気が変わった。
新五が静かに問う。
「鍛冶宿から、勘十郎様へ」
「そうだ。兄が商人を勝手に改め、清洲門前を乱している。尾張の商いを危うくしている。勘十郎様はそれと一線を引くべきだ。そんな声になる」
又左が眉をひそめる。
「弟君をまた担ぐと」
「担ぐほど露骨には来ぬ」
信長は答えた。
「若衆の場に火を入れる。兄上は乱暴だ。弟君の場は清らかであれ。そう言えば、若い者は言いやすい」
龍之介は、勘十郎の館に置かれた鞘のままの太刀を思い出した。
竹若。
弥八郎。
佐吉。
若衆の場は、ようやく形を持ち始めていた。
そこへ、兄の荷騒ぎを切り離せという声が入る。
清洲にとっては、直接反乱を煽るよりやりやすい。
勘十郎自身を動かせなくても、周りの若い腹を動かせばよい。
信長は権六へ向いた。
権六もまた、勘十郎の館へ向かう前に庭へ呼ばれていた。
「権六」
「はっ」
「弟の館へ戻れ。だが、わしの言葉で押さえるな」
「若様の言葉を伝えぬので」
「伝えるなとは言っておらぬ。押さえるなと言った。勘十郎に、自分で火を消させろ」
権六は、少し黙った。
それから深く頭を下げた。
「承知しました」
「勘十郎が問うなら答えろ。だが、先に答えを置くな」
「難しゅうございますな」
「難しいから、お前に行かせる」
権六は、わずかに口元を緩めた。
「ならば、行ってまいります」
信長は、見送るように頷いた。
龍之介はその横顔を見ていた。
守るのではない。
選ばせる。
清洲の火を、兄が消すのではなく弟に消させる。
それは、危うい。
だが、それができなければ、勘十郎の場はいつまでも信長の影になる。
勘十郎の館では、朝の稽古が始まっていた。
竹若が、礼の始めを告げる。
「礼」
声は、以前より落ち着いていた。
弥八郎は木太刀の数を改め、佐吉は飯場の奥で椀を洗っている。まだ正式な若衆ではないが、場の端にいることを許されていた。
勘十郎は上座に座り、稽古を見ていた。
館の隅には、例の祝い太刀がまだ鞘のまま置かれている。
包みは解かれていない。
その横には、贈り主返答待ちの札がある。
場は、以前より少しだけ勘十郎のものになっていた。
だからこそ、火は入りやすい。
昼前、館へ一人の男が来た。
清洲門前の商人宿に出入りしているという触れ込みの男だった。武士ではない。だが、ただの商人でもない。言葉の端に、誰かの意を背負った硬さがある。
男は、勘十郎へ直に会おうとはしなかった。
若衆の端にいた竹若へ、そっと言った。
「清洲門前で、兄君がずいぶん荷を改めておられるとか」
竹若の顔が動いた。
「兄君とは」
「信長様にございます。商人たちは恐れております。荷を見られ、札を改められ、いずれ通し銭を取られるのではないかと」
竹若は、すぐに返事をしなかった。
以前なら、こういう話に強く反応していたかもしれない。清洲の祝い太刀を見たがった時のように、場が認められるならよいではないかと押したかもしれない。
だが、今の竹若には役がある。
礼の始めと終わりを告げる役。
場の声を乱さぬ役。
竹若は、男を見て言った。
「それを、なぜ私に言う」
男は少し笑った。
「若衆の場は、勘十郎様の場でしょう。兄君の荷騒ぎとは、離れておく方がよろしいかと」
「離れるとは」
「勘十郎様は、清洲門前の荷改めには関わらぬ。若衆の場は、商人から銭を取るような話とは無縁である。そう、軽く言っておかれるだけでよいのです」
竹若は黙った。
その横で、弥八郎が木太刀を持ったまま固まっている。
佐吉も、飯場の戸口から顔を出していた。
男の言葉は、毒ではなく火種だった。
兄の騒ぎとは離れておけ。
勘十郎の場を清く保て。
言葉だけ聞けば、筋があるように聞こえる。
だが、そこに乗れば、勘十郎の場は兄と弟を分ける札になる。
竹若は、しばらく考えた。
そして言った。
「その話は、私が受ける話ではない」
男の笑みが少し薄くなる。
「では、勘十郎様へ」
「勝手に通せぬ」
「ただの心配でございます」
「心配なら、名を出せ」
竹若の声が少し震えた。
しかし、逃げてはいなかった。
「誰の心配だ。清洲門前の誰か。商人か。守護様方か。大和守様方か。坂井様方か」
男の顔から笑みが消えた。
そこへ権六が戻ってきた。
館の門を入ってすぐ、場の空気が違うことに気づいたのだろう。
「何の話だ」
権六の声は低かった。
男は頭を下げた。
「ただ、商人たちの不安を」
「誰の不安だ」
権六が問う。
竹若の問いと同じだった。
男は答えられない。
勘十郎が、上座から静かに声を出した。
「こちらへ」
場が静まった。
男は、勘十郎の前へ進むしかなかった。
勘十郎は、男をしばらく見ていた。
若い顔に、迷いはあった。
だが、その迷いは以前のように人の言葉へ流される迷いではなかった。自分で量ろうとしている迷いだった。
「兄上が、清洲門前の商いを乱していると言うのか」
男は頭を下げた。
「そのように申す者がいると」
「誰が」
「商人たちが」
「商人の誰だ」
男は黙る。
勘十郎は続けた。
「湊屋か。浜屋か。縄屋か。橘屋か。飯屋か。渡しの船頭か。休み小屋の者か」
男の目が揺れた。
勘十郎は、名をいくつも挙げた。
それは、ただ兄から聞かされた言葉ではない。
権六や勝三郎から伝えられた話を、勘十郎自身が覚えていたのだ。若衆の場へ入る火がどこから来るか、少しずつ見始めていた。
「誰も名を出さぬなら、商人たちとは言えぬ」
勘十郎の声は、まだ強くはない。
だが、場には届いた。
男は言葉を探した。
「しかし、勘十郎様の場は、清らかに保たれるべきかと」
「清らかとは何だ」
勘十郎が問う。
「荷の道で困る者を見ぬことか。飯を食えぬ者を知らぬふりすることか。兄上と違う顔を持つために、尾張の道を見ぬことか」
権六は、黙っていた。
助け舟を出さない。
勘十郎に言わせている。
竹若も、弥八郎も、佐吉も、その言葉を聞いている。
男は、ようやく少し焦った。
「私は、ただ、若衆の場に余計な火が入らぬよう」
「なら、火を持ち込むな」
勘十郎が言った。
その一言で、場が静まった。
勘十郎は立ち上がる。
「兄上が何をしているか、私はすべてを知らぬ。知らぬことを、知った顔では言わぬ」
男は顔を上げた。
勘十郎は続ける。
「だが、清洲門前で荷の札が替えられ、縄が切られ、灰が焼かれたという話は聞いた。商人が困っているなら、困らせている者が誰かを問うべきだ。兄上を恐れよという話だけを、私の場へ置くな」
竹若が、思わず息を呑んだ。
弥八郎も、木太刀を握る手に力を入れていた。
佐吉は、飯場の戸口で真剣な顔をしている。
勘十郎は、男へ向けて言った。
「戻って伝えよ。勘十郎の場は、兄上の荷改めを責める札にはならぬ。だが、商人が本当に困っているなら、名を出して言え。誰が困り、誰が止め、誰が銭を取ろうとしたのか。それを言え」
男は、深く頭を下げるしかなかった。
「承知しました」
「それと」
勘十郎の声に、男が止まる。
「この場へ二度と、名のない心配を持ち込むな」
男は、顔色を変えずに去ろうとした。
しかし、竹若が門まで送る形でついた。
弥八郎も、その後ろへ行く。
追い詰めない。
だが、ただ帰すわけでもない。
男が誰と目を合わせ、どちらへ歩くかを見るためだった。
竹若は、小さな声で弥八郎へ言った。
「見ろ。だが、走るな」
「お前が言うのか」
「言う役だ」
弥八郎は少しだけ笑った。
男は館を出ると、清洲門前の方ではなく、いったん飯屋のある道へ曲がった。
竹若と弥八郎は、その先までは追わなかった。
だが、道は覚えた。
勘十郎は、男が去った後もしばらく立っていた。
権六が、ようやく口を開く。
「よう言われました」
勘十郎は、少し苦い顔をした。
「手が震えた」
「震えても、言えればよろしい」
「兄上なら、笑って言うのだろうな」
「若なら、笑いながら噛みつくでしょうな」
勘十郎は、ほんの少しだけ笑った。
だが、すぐに真顔に戻る。
「権六」
「はい」
「私は、兄上の駒ではない」
「存じております」
「だが、清洲の札にもならぬ」
「はい」
「では、私は何をすればよい」
権六は、すぐには答えなかった。
信長に言われた通り、答えを先に置かない。
勘十郎は、自分で考えた。
そして、若衆の方へ向いた。
「竹若」
「はい」
「今日の稽古の終わりに、荷の話をする」
竹若が目を丸くした。
「荷の話でございますか」
「そうだ。木太刀も、飯も、米も、縄も、勝手に湧くわけではない。若衆が木太刀を振るなら、その木太刀がどこから来るかを知る」
弥八郎が顔を上げた。
「道具の数を改めるだけではなく、来た道も見るということでございますか」
「そうだ」
佐吉がおずおずと言った。
「飯場もですか」
勘十郎は頷いた。
「飯場もだ。ただし、難しいことをさせるのではない。飯の米がどこから来たか、薪がどこから来たか、椀が足りるか。それだけでよい」
権六は、内心で唸った。
信長が作ってきた流れを、勘十郎が自分の場の形に変えようとしている。
兄の真似ではない。
弟の場の兵站だ。
小さく、若衆に合う形で。
勘十郎は、鞘のまま置かれた太刀を見た。
「太刀を開けぬまま置くのは、見栄ではない。名のないものを受けぬためだ。なら、飯も木太刀も、名のないまま受けるな」
竹若は深く頭を下げた。
「承知しました」
弥八郎も続く。
「木太刀の数だけでなく、誰が持ってきたかも控えます」
佐吉は少し考えた後、言った。
「飯場の米は、明日から米俵の札を見ます」
権六がすぐに言う。
「見るだけだ。勝手に触るな」
「はい」
佐吉は慌てて頭を下げた。
場に、少し笑いが戻った。
だが、その笑いは軽くない。
若衆の場が、また一つ自分の足を持ち始めた。
那古野へ、勘十郎の館での出来事が伝わったのは夕方だった。
権六が戻り、信長へ報告する。
名のない心配を持ち込むな。
勘十郎の場は、兄上の荷改めを責める札にはならぬ。
商人が本当に困っているなら、名を出して言え。
勘十郎は、そう言ったという。
信長は、しばらく黙っていた。
庭には、平手、新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、彦右衛門、又左がいる。
やがて信長は、小さく笑った。
「言ったか」
「はい」
権六が答える。
「勘十郎様ご自身の言葉にございます」
「そうか」
信長は、少しだけ空を見た。
その顔には、兄としての安堵があった。
だが、すぐに武将の顔へ戻る。
「それで、男はどこへ行った」
勝三郎が問うより早く、権六が答えた。
「館を出た後、飯屋の道へ曲がったとのこと。竹若と弥八郎が見ております」
「竹若が見たか」
「はい。追いすぎず、道を覚えたそうです」
信長は笑った。
「竹若も役を覚えてきたな」
藤吉郎が嬉しそうに言った。
「飯屋に曲がるなら、噂を食べる人ですね」
「そうだろうな」
信長は頷いた。
「新五。飯屋の道に目を置け。だが、勘十郎の館の者が見たということは伏せろ」
「承知しました」
龍之介は、勘十郎の言葉を思い返していた。
名のない心配を持ち込むな。
それは、信長の言葉とは少し違う。
信長なら、面白がりながら相手を追い詰める。
勘十郎は、震えながらも、自分の場を守る言葉として言った。
その違いが大事だった。
信長は龍之介へ向いた。
「どう見る」
「勘十郎様の場が、少し自分で火を消しました」
「少しか」
「はい。まだ油は残っております」
信長は声を上げて笑った。
「よい言い方だ」
平手が静かに言う。
「若衆の場に、荷の来た道を見せるのは良いことです。武芸だけではなく、道具と飯がどこから来るかを知れば、清洲の声に乗りにくくなります」
「勘十郎が自分で決めたなら、なおよい」
信長は満足げに頷いた。
だが、すぐに清洲の方角を見る。
「大膳は、これで諦めぬ。弟の場が燃えぬなら、次は父上への文の道だ」
龍之介は顔を上げた。
「文の道」
「そうだ。灰と札紐を父上へ送った。なら、その文を遅らせるか、先に清洲の文を父上へ入れるか、どちらかだ」
新五が目を細める。
「使者を見ますか」
「見る。だが、こちらの文はもう出た」
信長は平手へ向いた。
「誰に持たせた」
「平手家の者と、信頼できる馬借二人にございます。道を分けております」
信長は頷いた。
「よい」
龍之介は、また戦場が動いたのを感じた。
荷から火へ。
火から若衆へ。
若衆から文へ。
清洲の手は、一つ塞げば別へ移る。
だが、今度は違う。
勘十郎の場が、自分で火を消した。
それは、ただ防いだだけではない。
信長側の内側が強くなったということだった。
その夜、清洲では坂井大膳が報せを聞いていた。
勘十郎の館へ入れた口は、場を割れなかった。
竹若に止められ、勘十郎に問われ、名のない心配を持ち込むなと言われた。
若衆の場では、木太刀や飯の来た道を改める話まで出たという。
大膳は、しばらく黙っていた。
「弟君も、火を消されたか」
控えの男は頭を下げる。
「申し訳ございませぬ」
「謝るな。火は入った。燃えなかっただけだ」
大膳は、冷たく言った。
「三郎だけなら、もっと荒く燃えたかもしれぬ。だが、弟君が自分で消した。そこが厄介だ」
「次は」
「文だ」
大膳は即答した。
「三郎は信秀殿へ灰を送った。こちらも、先に文を入れる。清洲門前の商いが、那古野の若衆の勝手な詮議で乱れている、と」
「大殿へでございますか」
「大殿へだ。ただし、強く責めるな。憂う形にする。信長殿が若さゆえに清洲の筋へ踏み込みすぎている。弟君の場まで巻き込まれぬよう、家中で整えていただきたい。そう書け」
控えの男は頭を下げた。
「承知しました」
大膳は、さらに言った。
「使者は一人にするな。道を分けろ。三郎も同じことをしているはずだ」
「はい」
「文の道は、荷より細い。だが、届けば重い」
大膳は、薄く笑った。
「灰を送るなら、こちらは言葉を送る」
清洲の影は、今度は文の道へ伸びた。
那古野の夜。
龍之介は、勘十郎から届いた短い札を見ていた。
札には、ただ一言だけ書かれていた。
名なき火は、受けぬ。
その字は、まだ若い。
整っているとは言いがたい。
だが、勘十郎の字だった。
龍之介は、少し長くその札を見た。
信長は、横から言った。
「弟らしい字だ」
「はい」
「震えておるな」
「それでも書いています」
「そうだ」
信長は、小さく笑った。
「それでよい」
龍之介は札を戻した。
名なき火は、受けぬ。
その言葉は、清洲の祝い太刀を開けなかった時から続いている。荷の名、商人の名、銭の名、火の名。すべてに同じ問いがある。
誰の名か。
何のためか。
名がなければ受けない。
それは、信長だけの戦いではなくなりつつあった。
勘十郎も、自分の場でその問いを持ち始めている。
龍之介は、火箸で痛めた手を握った。
まだ斬る時ではない。
だが、今日は斬らずに済んだだけではない。
弟の場が、自分の言葉で火を消した。
それは、どんな敵兵を倒すよりも、今は大きいのかもしれない。
夜の向こうで、文を運ぶ馬の足音が遠ざかっていく。
信長の文。
清洲の文。
どちらが先に大殿へ届くのか。
次の戦場は、槍の間合いではない。
道を走る文の速さと、そこに乗る名の重さだった。
第48話─了




