第49話 文の足
文は、槍より軽い。
だが、届けば槍より重くなることがある。
信長の文は、夜明け前に那古野を出る支度を整えていた。
一つは平手家の若い者が持つ。
もう一つは、信頼できる馬借二人が道を分けて運ぶ。文の中身は同じではない。平手の者が持つ文には、灰桶、札紐、縄端、銭、休み小屋、鍛冶宿の火までの筋が細かく書かれている。馬借に持たせる文は短い。荷筋に異常あり。清洲門前の荷札と縄に手あり。詳報は別使にて、とだけ記した控えだった。
片方が止められても、もう片方が異常を知らせる。
それが平手の策だった。
信長は、庭でその話を聞き、短く頷いた。
「文も荷と同じだな」
平手が答える。
「同じ道へ二つ乗せれば、同じ場所で止まります」
「なら、分ける」
「はい」
庭には、新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、彦右衛門、又左がいる。権六は勘十郎の館へ行っている。勘十郎の場は昨日、自分で火を消した。だが、火種が完全に消えたわけではない。
藤吉郎は、文の包みを見ていた。
「文も飯みたいです」
新五が目を向ける。
「今度は文を食うのか」
「食べません。けれど、届ける人が腹を空かせたら、文も止まります」
平手が静かに頷いた。
「その通りです」
藤吉郎は少し驚いた顔をした。
叱られると思っていたのだろう。
平手は続けた。
「使いは、文だけを持って走るわけではありません。馬も要る。水も要る。途中で止まる場所も要る。文にも足があります」
信長は、庭の土に線を引いた。
那古野。
末森。
清洲門前。
寺の馬留め。
古い坂道。
川沿いの道。
「大膳も分けるだろう」
新五が言うと、信長は頷いた。
「分ける。清洲から父上へ、こちらより早く文を入れようとする。強く責める文ではない。憂う文だ」
「若様が清洲門前を乱している、と」
龍之介が言うと、信長は口元だけで笑った。
「そうだ。わしが乱しているのではなく、乱れているものを見ているだけだがな」
又左が鼻を鳴らす。
「それなら、こちらも強く書けばよいのでは」
「強く書けば、同じ喧嘩になる」
信長は言った。
「父上に見せるのは、怒りではない。筋だ」
龍之介は、その言葉に頷いた。
灰も、札紐も、縄端も、銭も、休み小屋も、鍛冶宿も。
それぞれだけなら弱い。
だが、つながれば筋になる。
信長は文そのものではなく、筋を父へ見せようとしている。
その時、勝三郎が口を開いた。
「文を追う者も見るべきかと」
「見る」
信長は即答した。
「だが、文を守りすぎるな。守りすぎれば、文が危ういと知らせるようなものだ」
勝三郎は頷いた。
「では、少し離れて」
「そうだ。勝三郎は弥太郎の道を見る。又左は馬借二人の道へ回れ」
又左が顔を上げる。
「文の道ですか」
「そうだ。槍を振る道ではない」
「承知しました」
「不満そうだな」
「少しだけ」
「正直でよい。だが今日は、文を通す日だ」
又左は頭を下げた。
「承知しました」
信長は龍之介へ目を向けた。
「お前は今日は出ぬ」
「私も、でございますか」
「火箸を受けた手で馬に乗るな」
龍之介は反射的に手を見た。
布の下で、掌がまだ熱を持っている。
「動けます」
「動けるから止めている」
信長の声は軽いが、目は鋭かった。
「お前が出れば、文よりお前を見る者が出る。今日は文の足を見る日だ」
龍之介は、静かに頭を下げた。
「承知しました」
藤吉郎が少しだけ心配そうに見ている。
龍之介は笑って見せた。
「飯を食べれば治るらしいからな」
「治りません」
「お前が言ったのだろう」
「考え直しました」
庭に小さな笑いが起きた。
だが、文の足はすぐに道へ出る。
平手の若い者、馬借二人、勝三郎、又左。
それぞれが別の道へ散った。
平手家の若い者は、弥太郎といった。
年は二十に届くかどうか。足は速いが、まだ顔に固さがある。文を懐に入れ、馬を急がせすぎぬように走らせていた。
文は、速ければよいわけではない。
馬を潰せば、途中で止まる。
道を急ぎすぎれば、目立つ。
弥太郎は平手からそう言われていた。
だから、焦りを喉の奥へ押し込みながら、末森へ向かう道を選んだ。
最初の半刻は何事もなかった。
だが、古い坂道へ差しかかる手前で、道に荷車が止まっていた。
車輪が外れたと言う。
米俵が傾き、馬が一頭、道を塞いでいる。荷車の男たちは、困った顔で車輪を直していた。
弥太郎は手綱を引いた。
道は狭い。
無理に通れば、荷車へ馬が触れる。
戻れば時間を失う。
荷車の男が顔を上げた。
「すまぬ。少し待ってくれ」
声は本当に困っているようにも聞こえた。
だが、弥太郎は昨日まで那古野で見てきた話を思い出した。
荷は、止まる場所で手が入る。
文も同じだ。
止められた時こそ、顔を見る。
弥太郎は馬から降りずに言った。
「どこの荷だ」
「清洲門前へ」
「誰の荷だ」
「米屋の」
「米屋の誰だ」
男は一瞬だけ黙った。
その沈黙で、弥太郎の腹が決まった。
「急ぎの用がある。脇を通る」
「危ないぞ」
「なら、荷を少しどけよ」
弥太郎は強く言った。
男たちは、顔を見合わせた。
その隙に、弥太郎は馬を横へ寄せる。畦の端を踏ませ、馬の腹が少し泥に触れる。危ういが、通れないほどではない。
男の一人が、慌てて手を伸ばした。
「待て」
その手は、馬の手綱ではなく、弥太郎の腰へ伸びた。
文の位置を探る手だった。
弥太郎は身を捻り、手を避けた。
その瞬間、後ろから声が飛んだ。
「その手は何だ」
勝三郎だった。
彼は弥太郎から少し遅れて、別の馬で追っていた。文を守るためではなく、文を止める者を見るためである。
荷車の男たちの顔色が変わる。
勝三郎は馬を降りない。
ただ見ている。
「車輪が外れたなら、車輪を直せ。使いの腰へ手を伸ばすな」
男は手を引っ込めた。
弥太郎はその隙に馬を進める。
畦を抜け、道へ戻った。
振り返らない。
勝三郎も追わない。
荷車の男たちは、逃げなかった。逃げれば怪しい。だから、なおさら顔を覚えられる。
勝三郎は、ただその顔を見た。
文は、止まらなかった。
一方、馬借二人は川沿いの道を進んでいた。
名前は権次と久六。
どちらも口数は少ない。荷を運ぶ者の癖で、道を見ながら余計な話をしない。
二人が持つ文は短い。
詳しい証の束ではない。
しかし、これが届けば、大殿は異常を知る。
川沿いの道は、清洲門前から少し外れる。馬は少し歩きにくいが、人目は少ない。途中に小さな渡しがあり、そこを越えれば末森へ向かいやすい。
その渡しで、船頭がいなかった。
舟はある。
櫂もある。
だが、船頭の姿がない。
権次が舌打ちしそうになったところで、久六が手で止めた。
「待て」
岸の小屋から、年寄りの女が出てきた。
「船頭は腹を下して寝ておる。今日は舟が出せぬ」
久六は、女を見る。
顔は嘘をついているようには見えない。
だが、舟が出せないにしては、岸に濡れた足跡がある。ついさっき誰かが舟を動かした跡だ。
権次が低く言った。
「舟は出たな」
女の顔が動く。
「知らぬ」
「誰が出した」
「知らぬ」
久六は周囲を見た。
小屋の裏に、握り飯の竹皮が落ちている。
食べたばかりだ。
船頭が腹を下しているなら、誰がそこで飯を食ったのか。
権次は言った。
「回るぞ」
「回れば遅れる」
「ここで待つ方が遅れる」
久六は頷いた。
二人は舟を使わず、川沿いを少し戻り、浅瀬を探すことにした。馬を濡らす危険はあるが、文を止めるよりましだった。
その時、小屋の裏から若い男が飛び出した。
手には短い棒。
狙いは馬ではない。
久六の懐だった。
権次が間に入った。
棒が肩へ当たる。
鈍い音がした。
権次は顔をしかめたが、倒れなかった。
馬借は、荷を守るために肩で受けることを知っている。
久六は馬を引き、文を守る。
若い男は二撃目を振る前に、足を止めた。
岸の向こうから、又左が歩いてきたからだ。
槍を担いでいる。
走ってはいない。
だが、逃げ道へ立つ速さがある。
「棒で文を探るか」
又左の声は低い。
若い男は逃げた。
又左は追わない。
権次が肩を押さえながら言う。
「追わないのか」
「顔は見た」
「それだけでいいのか」
「今日は文を通す日だ」
又左は不満そうに言った。
自分に言い聞かせているようでもあった。
久六は頭を下げた。
「助かった」
「礼はいい。行け」
二人の馬借は、浅瀬へ向かった。
権次の肩は痛む。
だが、文は濡れていない。
馬もまだ動く。
文の足は、止まらなかった。
末森では、織田信秀が二つの文を受け取った。
先に届いたのは、清洲からの文だった。
清洲門前の商人宿が乱れている。
那古野の若衆が荷札、縄、米、渡し場にまで詮議を及ぼし、商人たちが不安を抱いている。
信長殿は若く才気ある方ながら、清洲の筋へ踏み込みすぎているのではないか。
勘十郎様の若衆の場まで、その騒ぎに巻き込まれぬよう、家中で整えていただきたい。
文は、怒っていなかった。
むしろ、憂えていた。
だからこそ、厄介だった。
信秀は、その文を読み終え、しばらく黙っていた。
そばには、家臣が数人控えている。重臣たちも、清洲の名が出れば軽くは見られない。
やがて、二つ目の文が届いた。
平手の若い者、弥太郎が持ってきた文である。
弥太郎の袴には泥がついていた。
信秀は、まずそこを見た。
「急いだか」
弥太郎は頭を下げる。
「途中、荷車に道を塞がれました。脇を通りました」
「誰の荷だ」
「名を言えませぬでした」
信秀の目が細くなる。
弥太郎は文を差し出した。
信秀は封を切る。
中には、平手の筆で整えられた筋があった。
橘屋の古印。
灰小屋の荷札。
鉄の桶印。
升屋の米。
馬方への脅し。
渡し場の縄。
湊屋、浜屋、縄屋の荷の顔。
通し銭の噂。
休み小屋の札紐。
鍛冶宿の灰。
そして、焦げ残った木札の欠片と、坂に似た傷の写し。
信秀は、読みながら表情を変えなかった。
だが、読み終えた後、清洲の文と那古野の文を並べた。
「清洲は、商いが乱れていると言う」
誰も答えない。
信秀は続けた。
「三郎は、商いを乱す手があると言う」
部屋の空気が重くなる。
信秀は、焦げ残った木札の写しへ目を落とした。
「坂に似た傷か」
家臣の一人が言った。
「坂井大膳殿を指すものでしょうか」
「指しすぎている」
信秀は即座に言った。
その声に、家臣たちは黙った。
「大膳が己の名をここまで見せるか。あるいは、大膳の名を餌にした者か。どちらにせよ、名を決めるには早い」
信秀は清洲の文を指で押さえた。
「だが、清洲の文は早すぎる」
「早すぎる、でございますか」
「鍛冶宿の灰の話がこちらへ届く前に、清洲は商いの乱れを憂う文を出している。なら、清洲は騒ぎを知っていたか、知るべき場所にいた」
家臣たちの顔が変わった。
信秀は、さらに弥太郎の泥を見た。
「途中で道を塞いだ荷車も、偶然とは限らぬ」
弥太郎は深く頭を下げた。
そこへ、遅れて馬借の権次と久六が着いた。
権次の肩には布が巻かれている。
信秀は、それも見た。
「肩は」
「棒を受けました」
「誰に」
「渡しの小屋裏から出た若い男です。文を狙ったものと思われます」
信秀は、静かに息を吐いた。
「文にも手が伸びたか」
部屋の空気が、さらに重くなる。
信秀は、清洲の文、信長の文、短い控えの文を並べた。
そして言った。
「三郎は、騒いでいるのではない。騒ぎの筋を拾っている」
その一言で、場が動いた。
信秀は続ける。
「だが、三郎にも釘を刺す。清洲へ踏み込みすぎるな。証を積め。名を決めつけるな。商人を守ると言って、商いを己の手に握るな」
家臣たちが頭を下げる。
信秀は、今度は清洲の文を見た。
「清洲へは問う。商人が恐れているというなら、どの商人か。荷が乱れているというなら、どの荷か。誰の御用で、誰が憂うているのか。名を出せ、と」
その声は静かだった。
だが、重かった。
「三郎へ返書を書く」
信秀は筆を取らせた。
那古野へ返書が届いたのは、夜に入ってからだった。
信長は、広間で封を切った。
平手、新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、彦右衛門、又左が控えている。権六も、勘十郎の館から戻っていた。
信長は文を読み、少しだけ笑った。
「父上らしい」
平手が問う。
「何と」
信長は読み上げた。
「清洲門前の荷筋に手が入ったこと、捨て置くな。ただし、名を急ぐな。坂井の名を軽く用いるな。商人を守ると言い、商人を己の手に握るな。証を積み、筋をもって問え」
又左が腕を組む。
「叱られておりますな」
「半分な」
信長は笑った。
「もう半分は、進めと言っておる」
続けて、信長は文の後半を読んだ。
「清洲へは、大殿より問う。清洲門前の商人が恐れているというなら、名を出せ。荷が乱れているというなら、荷を示せ。誰の御用で、誰が憂うているのかを示せ、と」
広間の空気が変わった。
大殿が動く。
これは大きい。
信長の私的な詮議ではなく、尾張の荷筋への問いになる。
藤吉郎が小声で言った。
「文、届いたんですね」
「ああ」
龍之介は頷いた。
届いた。
だが、簡単ではなかった。
荷車で止められ、渡しで狙われ、馬借が肩に棒を受けた。
文にも足があり、その足もまた狙われた。
信長は返書を畳む。
「勝三郎。弥太郎と馬借二人に飯と手当を出せ。大げさに褒めるな。だが、軽く扱うな」
「承知」
「又左」
「はい」
「文の道にも、次から目を置く。だが、槍を見せすぎるな」
「承知しました」
又左は、少しだけ嬉しそうだった。
藤吉郎が手を上げる。
「馬借の飯も見ますか」
「見る」
信長は即答した。
「文を運ぶ者の腹が空けば、文も止まる」
藤吉郎は真剣に頷いた。
「はい」
信長は龍之介へ向いた。
「お前はどう見る」
「清洲は、まだ名を出していません。ですが、大殿が名を問えば、清洲は答えを用意せざるを得なくなります」
「そうだ」
「次は、清洲が誰の名を出すかです。商人の名か、守護様方か、大和守様方か、坂井様方か。あるいは、別の名を切り捨てるか」
信長は満足げに頷いた。
「そこを見る」
龍之介は頭を下げた。
戦場がまた変わった。
荷を守る戦から、文を通す戦へ。
文を通した先で、名を問う戦へ。
清洲は、もう曖昧なままではいられない。
その夜、清洲では坂井大膳が、信秀からの問いを受け取っていた。
清洲門前の商人が恐れているというなら、名を出せ。
荷が乱れているというなら、荷を示せ。
誰の御用で、誰が憂うているのかを示せ。
文は、静かだった。
だが、逃げ道を一つずつ塞ぐ文だった。
大膳は、長く黙った。
控えの男が言う。
「いかがいたしましょう」
「名を出さねばならぬな」
「商人の名を出しますか」
「出せば、その商人を三郎に見られる」
「では、守護様方と」
「曖昧すぎる。信秀殿は、さらに問う」
大膳は、指で文の端を叩いた。
「切る名が要る」
控えの男の顔がこわばった。
「切る名」
「そうだ。清洲門前の荷筋を勝手に乱した者がいる。坂井の名を騙った者がいる。そういう形にする」
「誰を」
大膳は、しばらく黙った。
そして、低く言った。
「前掛けの男は戻らぬ。多吉も戻らぬ。なら、その上にいた小者を一人、切る」
「しかし」
「切らねば、こちらへ来る」
大膳の声は冷たい。
「荷の道は、時に荷を捨てねば守れぬ」
控えの男は頭を下げた。
大膳は窓の外を見た。
「三郎は、父の重みを使った。なら、こちらは清洲の内で一つ首を落として、筋を作る」
清洲の影は、今度は自らの尾を切ろうとしていた。
那古野の夜。
龍之介は、返書の言葉を思い返していた。
証を積み、筋をもって問え。
名を急ぐな。
商人を守ると言い、商人を己の手に握るな。
信秀の言葉は、信長を認めつつ、縛っている。
それは父の言葉だった。
ただ褒めるのでも、止めるのでもない。
信長が行き過ぎぬよう、しかし進めるように、重しを置いている。
龍之介は、手の布を外し、掌を見た。
火傷は赤い。
だが、昨日より痛みは引いている。
藤吉郎が横から覗く。
「少し治っています」
「飯では治らなかったがな」
「水でしょうか」
「たぶん、時間だ」
「時間も飯みたいですね」
「それはどういう意味だ」
「ないと動けません」
龍之介は、少し笑った。
遠くで、馬が鳴いた。
文を運んだ馬かもしれない。
文の道も、荷の道も、人と馬と飯でできている。
そして、その先で名が問われる。
清洲は、誰の名を出すのか。
誰を切るのか。
龍之介は清洲の方角を見た。
まだ斬る時ではない。
だが、清洲は自分の尾を斬るかもしれない。
その時、切られる者が何を言うか。
何を持って逃げるか。
そこに、次の筋が出る。
夜の向こうで、見えない文が走っている。
戦は、紙の上で静かに刃を研ぎ始めていた。
第49話─了




