第46話 戻らぬ口
捕らえた男は、那古野の奥の小蔵に置かれた。
牢ではない。
だが、逃げられる場所でもない。戸の外には、勝三郎が選んだ若い者が二人つき、新五が出入りを改める。飯は出す。水も出す。傷の手当てもする。
ただし、外へは出さない。
名も、まだ表へは出さない。
男は一晩、ほとんど口を開かなかった。
信長は、朝になっても無理に吐かせなかった。
「戻らぬことが、まず報せになる」
庭で信長が言った。
平手、新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、彦右衛門、又左がいる。源太と孫七は少し離れて控え、権六は勘十郎の館へ向かった。若衆の場にも、休み小屋の噂が流れ込む恐れがあったからだ。
信長は土に線を引く。
休み小屋。
渡し場。
飯屋。
寺の馬留め。
清洲門前。
「昨日、手を押さえた。だが、清洲はまだ知らぬふりができる。なら、次に見るのは、戻らぬ男を誰が探すかだ」
又左が言う。
「探しに来た者を捕らえますか」
「まだ捕らえぬ」
信長は即座に答えた。
「捕らえれば、こちらが人をさらったと騒がれる。まず、誰が探すかを見る。誰が来なくなるかも見る」
龍之介は頷いた。
戻らぬ口。
休み小屋で荷に手を入れようとした男が戻らない。
清洲側から見れば、押さえられたか、逃げたか、裏切ったか、分からない。だから必ず、確かめようとする。
だが、堂々と聞けない。
聞けば、関わりを認めることになる。
なら、噂を使う。
誰かが消えた。
休み小屋は危ない。
那古野が人を隠した。
そう言わせて、反応を見る。
藤吉郎が小さく言った。
「飯屋に来ると思います」
「なぜだ」
勝三郎が問うと、藤吉郎は答えた。
「噂を食べる人は、だいたい飯屋に来ます。飯屋は、人が止まって口を動かす場所です」
「飯は食わぬのにか」
「はい。食べない人ほど、口だけ動きます」
又左が少し嫌そうな顔をした。
「お前の言うことは、日に日に怖くなるな」
信長は笑った。
「よい。なら飯屋を見る。だが、飯屋だけではない。休み小屋を閉じるな。作兵衛を立たせろ。荷も通せ」
平手が頷いた。
「休み小屋が普段通り動いていれば、噂だけが浮きますな」
「そうだ」
信長は新五へ向いた。
「商人には、昨日のことを言いふらすなと伝えろ。ただし、荷の顔を決める話は続けさせろ」
「承知しました」
「勝三郎。戻らぬ男を探す顔を見る」
「承知」
「龍之介。捕らえた男の顔も見ろ。吐かせるのではない。何に怯えているかを見る」
「はい」
信長は最後に又左へ視線を向けた。
「又左。今日は我慢の日だ」
「昨日もそうでした」
「今日もだ」
「承知しました」
又左の返事には、少しだけ諦めが混じっていた。
休み小屋は、朝から開いていた。
作兵衛は、昨日よりも背を丸めていたが、小屋の前に立っていた。逃げていない。荷を勝手に触らない。荷主や馬方がいる前でだけ、土間を掃き、柱のそばを空ける。
湊屋の小さな塩樽が通る。
浜屋の米俵も通る。
縄屋仁助の縄束も通る。
それぞれ、荷の顔を確かめてから、短く休ませて動かす。
休み小屋は閉じていない。
荷も止まっていない。
それがまず大事だった。
龍之介たちは、少し離れて見ていた。
新五は商人たちの横に立たず、道の端にいる。彦右衛門は荷縄を見る老人のように振る舞い、藤吉郎は飯屋と小屋の間を小僧らしく行き来している。勝三郎は人の顔を見るため、わざと休み小屋の近くに長くいない。又左はさらに外側で、源太と孫七を連れて道を押さえる位置にいた。
昼前、最初の噂が来た。
飯屋の客が、何気ないふりで言った。
「昨日、この辺で人が一人消えたそうだな」
飯屋の主人は、手を止めかけた。
だが、すぐに椀を置いた。
「さあ。荷は通っております」
「休み小屋で揉めたとか」
「荷は通っております」
同じ言葉を返す。
余計なことは言わない。
藤吉郎が教えたのではない。新五が昨日、飯屋の主人に言い含めた言葉だった。
噂を受ける時は、否定を重ねるな。
見えている事実だけ言え。
荷は通っている。
飯は出している。
休み小屋は開いている。
それだけでよい。
客は少し不満そうにした。
飯は食べている。
噂を食うだけの男ではない。だが、誰かに言わされているのかもしれない。
藤吉郎は、その客の箸の動きを見ていた。
「食べています」
龍之介の横へ戻り、小声で言う。
「噂だけの人ではありません。でも、飯が進んでいません」
「怖がっているのか」
「少し。自分の噂ではないけど、言わされたか、聞かされたか」
勝三郎が頷いた。
「なら、口の端だな」
口の端。
噂を作る者ではなく、運ばされる者。
それもまた、見るべきものだった。
しばらくして、別の男が来た。
今度は飯を頼まない。
水だけ飲ませろと言い、飯屋の奥から休み小屋を見ている。
藤吉郎の目が細くなる。
「食べない人です」
龍之介もその男を見た。
昨日の銭を出した男ではない。
だが、姿勢が似ている。腹ではなく、人の反応を見に来た者の姿勢だった。
男は、飯屋の主人へ声をかけた。
「作兵衛は無事か」
飯屋の主人は答えに迷った。
そこへ、作兵衛本人が小屋の前で桶を持って出てきた。
水を捨て、土間へ戻る。
男の顔がわずかに変わった。
作兵衛がいる。
休み小屋は開いている。
荷も通っている。
なら、昨日何があったのか。
男の目が揺れる。
勝三郎は、その揺れを見逃さなかった。
男は水だけ飲み、銭を置こうとした。
飯屋の主人が言う。
「水だけなら、銭は要りませぬ」
「取れ」
「飯代ではございませぬ」
男は銭を引っ込め、外へ出た。
向かったのは、清洲門前ではない。
寺の馬留めの方だった。
勝三郎が小さく言った。
「追わぬ。見る」
龍之介は頷いた。
寺の馬留め。
清洲は、休み小屋だけでなく、作った逃げ道も見ようとしている。
那古野の小蔵で、捕らえた男は膝を抱えて座っていた。
腕は縛られているが、きつくはない。逃げられぬようにしているだけだ。
龍之介は、新五とともに男の前へ座った。
勝三郎は戸の外にいる。
男の顔には、寝ていない疲れがあった。
新五が静かに問う。
「名は」
男は黙る。
「名を言わぬままでも、飯は出す。だが、名を言わぬままでは、お前をどこへ戻すかも決められぬ」
男は少しだけ顔を上げた。
「戻すのか」
初めて口を開いた。
声はかすれている。
龍之介は答えた。
「すぐには戻せません」
「なら同じだ」
「同じではありません。殺すつもりなら、昨日のうちにそうしています」
男は龍之介を見た。
小刀を落とされた相手だ。
その目には、恐れと戸惑いが混じっていた。
「腕を折らなかった」
「折る必要がなかったからです」
「普通は折る」
「普通を知るほど、この乱世に長くありません」
男は、少しだけ眉を動かした。
新五が問う。
「誰に頼まれた」
男は唇を噛む。
「名は知らない」
「では、どこで頼まれた」
沈黙。
龍之介は男の膝を見る。
震えている。
こちらを恐れているだけではない。
別の何かを恐れている。
「休み小屋の者が、あなたを探しに来ると思っていますか」
男の顔が動いた。
当たりだ。
「それとも、探しに来ないことを恐れていますか」
男は視線を逸らした。
龍之介は続けた。
「あなたが戻らないと、向こうはあなたを切る。そう言われているのでは」
男の喉が鳴った。
新五が静かに待つ。
急がない。
しばらくして、男は小さく言った。
「戻らぬ者は、知らぬ者になる」
龍之介の胸が冷えた。
清洲の手口だ。
使う。
戻らなければ、知らない者にする。
男は続ける。
「俺は、荷に触れと言われた。札を替えろ、縄を替えろ。だが、人を斬れとは言われていない」
「誰に」
「名は知らぬ」
「場所は」
「清洲門前の……古い鍛冶宿の裏」
龍之介は、新五と目を合わせた。
鍛冶宿。
鉄の道で一度浮かんだ場所だ。
炭、鉄、米、縄、休み小屋。
線がまた、清洲門前の鍛冶宿へ戻ろうとしている。
男は、もう一度口を閉じた。
新五はそれ以上問わなかった。
「名は」
男はしばらく迷い、ようやく答えた。
「多吉」
「多吉。今日はここまでだ」
新五が立ち上がる。
龍之介も立った。
戸を出る前、多吉がぽつりと言った。
「作兵衛は、悪い男じゃない」
龍之介は振り返った。
「分かっています」
多吉は、また黙った。
庭で報告を聞いた信長は、しばらく黙っていた。
「鍛冶宿の裏か」
「はい」
新五が答える。
「名は知らぬと言っています。場所だけが出ました」
平手が目を細める。
「鉄の時に見えた清洲門前の鍛冶宿ですな」
「戻ったな」
信長は低く言った。
龍之介は頷いた。
最初に鉄の餌を撒いた時、清洲門前の鍛冶宿の印が出た。そこから橘屋、米、馬方、渡し場、商人、休み小屋へ広がった。そして今、捕らえた多吉の口から、また鍛冶宿の裏が出た。
偶然ではない。
清洲の手の一部は、そこを通っている。
又左が言う。
「今度こそ、鍛冶宿へ踏み込みますか」
信長は首を横に振る。
「まだ踏み込まぬ」
又左は今度こそ、はっきり不満を顔に出した。
「若様」
「踏み込めば、裏は空になる。多吉が戻らぬと分かった今、向こうは鍛冶宿を掃除する。こちらが行く頃には、灰しか残らぬ」
「では」
「掃除する者を見る」
信長は言った。
「休み小屋で証を消そうとした。今度は鍛冶宿の裏で、証を消す者が動く。そこを見る」
勝三郎が頷いた。
「戻らぬ口を探す者と、証を消す者。二つの流れが出ます」
「そうだ」
信長は庭の線を増やした。
休み小屋。
寺の馬留め。
渡し場。
清洲門前の鍛冶宿。
飯屋。
「噂は、人が消えたと流すだろう。証は、消しに来るだろう。なら、こちらは消えるものを見る」
藤吉郎が首を傾げた。
「消えるものを見るんですか」
「そうだ。昨日まであった顔が、今日ない。昨日まで通った荷が、今日通らぬ。昨日まで飯を食った者が、今日来ない。そういう消え方だ」
藤吉郎は真剣に頷いた。
「来ない飯も見るんですね」
「見ろ」
信長は即答した。
藤吉郎は目を輝かせかけ、新五に見られて静かに背を正した。
信長は龍之介へ向いた。
「龍之介」
「はい」
「多吉を殺さず置いた意味が出た。だが、ここからは危うい」
「はい」
「向こうは、多吉が何を話したか分からぬ。だから余計に動く。焦る者も出る」
龍之介は、清洲の方角を思った。
大膳は焦っている。
だが、焦りを隠すはずだ。
その下で、末端の者が証を消そうとする。噂を撒く者が走る。使われた者が怯えて逃げる。
そこに、線が出る。
「若様。多吉を動かしますか」
「まだ動かさぬ。だが、生きていることは伏せる。死んだとも言わぬ。消えたままにする」
平手が静かに言う。
「曖昧さを、こちらが使うのですな」
「清洲ばかりに使わせるな」
信長は笑った。
その笑みに、若い危うさと鋭さが混じっていた。
その日の夕方、寺の馬留めに男が一人来た。
昼前、飯屋で水だけ飲んだ男である。
男は馬留めを遠巻きに見ていた。
小平が水桶を洗っている。馬方が一人、馬に飼葉を食わせている。橘屋の手代が縄を持って立っている。
普通に動いている。
男は、それをしばらく見た。
そして、小平へ声をかけた。
「昨日、休み小屋で何かあったか」
小平の手が止まった。
藤吉郎は、馬留めの裏で息を潜めていた。
小平は、言われた通りに答えた。
「荷は通っています」
「人が消えたと聞いた」
「荷は通っています」
「作兵衛は」
「水桶を洗うなら、手伝いますか」
男は黙った。
小平は、少し震えていた。
だが、逃げなかった。
余計なことも言わなかった。
持てる重さだけを持っている。
藤吉郎は、その姿を見て唇を噛んだ。
男は諦めたように馬留めを離れる。
その先に、勝三郎がいた。
声はかけない。
ただ顔を覚える。
男は清洲門前ではなく、古い鍛冶宿の方へ歩いていった。
線は、また一つ太くなった。
夜、那古野の庭で、藤吉郎は小平のことを報告した。
「震えていました。でも、言われたことだけ言えました」
信長は頷いた。
「よい」
「怖かったと思います」
「怖がってよい。怖がりながら、持てるだけ持てばよい」
藤吉郎は深く頭を下げた。
龍之介は、その横で黙っていた。
小平。
作兵衛。
多吉。
弥平。
それぞれが、清洲の手に触れられた者たちだ。
誰も強くない。
だが、強くない者たちが道の途中にいる。
そこを守るか、そこを利用するかで、道の形は変わる。
信長は、清洲門前の方角へ目を向けた。
「鍛冶宿を見る。明日だ」
庭の空気が変わった。
又左が顔を上げる。
「動けますか」
「見るだけだ」
「またですか」
「まただ」
信長は平然と言った。
「だが、近い。鍛冶宿で証を消す手が出れば、次は押さえる」
又左は、今度は不満を飲み込んだ。
「承知しました」
龍之介は、自分の手を見た。
多吉を止めた感触は、まだ残っている。
次に手を伸ばす者は、小刀だけで済むとは限らない。鍛冶宿なら刃物もある。火もある。鉄もある。
呂布の武は、そこへ向かうことを喜んでいる。
郭嘉の知は、火と逃げ道と人の動きを数えている。
その間で、龍之介自身が息を整える。
まだ斬る時ではない。
だが、斬るかもしれない場所へ、近づいている。
那古野の夜は、戻らぬ口の噂を抱えたまま、静かに深まっていった。
第46話─了




