第40話 運ぶ足
湊屋の本物の米は、昼前に那古野へ入るはずだった。
前日に信長が命じた通り、塩樽と同じ荷で、小さな米俵を一つ。縄は湊屋のいつもの結び。俵の底も乾いているはずだった。偽の湊屋米と比べるための、いわば米の証人である。
だが、昼を過ぎても荷は来なかった。
最初に気づいたのは藤吉郎だった。
「遅いです」
庭で木片を並べていた藤吉郎が、顔を上げた。
信長は眉を動かす。
「腹が減ったからではないな」
「違います。湊屋の馬方は、いつもなら昼前に清洲門前を抜けます。塩樽の荷は重いので、日が傾く前に次の休み場へ入らないと困ります」
彦右衛門も頷いた。
「荷が重い時は、時刻が顔になります。遅れるなら、何かあったのでしょう」
龍之介は、昨日の坂井大膳の影を思い出していた。
米そのものが駄目なら、米を運ぶ者を揺らす。
馬方。
船頭。
荷担ぎ。
米は勝手に歩かない。
歩くのは人と馬だ。
信長は立ち上がった。
「新五」
「はい」
「門前へ出ろ。龍之介、彦右衛門、藤吉郎も行け。又左は少し離れてつけ。派手に構えるな」
「承知しました」
「源太と孫七は」
又左が問うと、信長は少し考えた。
「今日は連れていく。ただし、筒は見せるな。荷を守るのではなく、荷を運ぶ者を守る日だ」
孫七の顔が強張った。
源太はその横で、短く頭を下げる。
信長は二人へ目を向けた。
「撃つ日ではない。だが、逃げぬ日だ」
「はい」
孫七の返事は、以前より細くはなかった。
清洲門前へ近づく道で、湊屋の荷は見つかった。
米俵は無事だった。
塩樽も無事である。
だが、馬が一頭、道脇で止まっていた。脚を痛めたわけではない。鞍も荷縄も大きく崩れていない。ただ、馬方たちが動けずにいた。
いや、動かずにいた。
荷の横に、湊屋の馬方が二人。さらに見知らぬ荷担ぎが三人。顔には疲れと迷いが浮かんでいる。近くの木陰には、清洲門前で何度か見たことのある男が一人立っていた。大男ではない。刀見でもない。飯屋で弥吉へ握り飯を見せた男でもない。
だが、同じ匂いがある。
荷ではなく、人を見ている目だ。
新五が先に進んだ。
「湊屋の荷だな」
馬方の一人が、ほっとしたように頭を下げた。
「はい。湊屋より那古野へ」
「なぜ止まっている」
馬方はすぐには答えなかった。
木陰の男が口を開く。
「馬を休ませているだけでございましょう。荷が重ければ、休むこともあります」
新五は男を見た。
「そちらは」
「通りすがりにございます」
「通りすがりが、荷の休み方まで答えるのか」
男の笑みが少し硬くなった。
龍之介は馬方の手を見た。
縄を握る手が震えている。
疲れではない。
脅されている。
彦右衛門は荷縄を見ていた。
「縄は解かれていません。だが、荷を一度下ろしかけた跡がある」
藤吉郎が馬の横を見て、低く言った。
「馬は休んでいません。人が止まっています」
新五が馬方へ向き直る。
「誰に止められた」
馬方は唇を噛んだ。
木陰の男が一歩近づく。
「荷を運ぶ者が、誰の荷を運ぶか考えるのは当然でございましょう。清洲門前を通るなら、清洲の顔も見ねば」
又左の手が槍へ動きかけた。
源太が孫七の前に半歩出る。
龍之介は、又左より先に口を開いた。
「清洲のどなたの顔ですか」
男は龍之介を見た。
「またそれですか」
「はい。またそれです」
龍之介は静かに答えた。
「守護様方か。大和守様方か。坂井様方か。それとも、名を出せぬどなたかか」
男の目が冷える。
「流れ者が、よく口を出す」
「今日は荷ではなく、人が止まっています。人が止まれば、米も止まります」
龍之介は馬方へ視線を移した。
「米俵は勝手に歩きません。歩かせる者を止めるなら、誰の名で止めたのかが要ります」
男は返事をしなかった。
代わりに、馬方の一人が小さく声を出した。
「……このまま那古野へ運べば、次から清洲門前で馬を使わせぬと」
もう一人が顔を伏せる。
「馬の飼葉も、休み場も、通しの口利きも、なくなると」
藤吉郎の顔が変わった。
飯だけではない。
馬にも飯が要る。
人が歩くにも、馬が歩くにも、休み場と飼葉が要る。
そこを握られれば、荷は止まる。
新五が木陰の男へ問う。
「それを言ったのは、そちらか」
「私は何も」
「では、誰だ」
「清洲門前には、いろいろな声がございます」
男はそう言って笑った。
名を出さない。
いつもの手だ。
龍之介の中で、呂布の武がわずかに熱を持つ。
ここで一歩詰めれば、男は逃げるか、供を呼ぶか、何かを出す。捕らえれば、手がかりになるかもしれない。
だが、今日の目的は男を捕らえることではない。
荷を運ぶ足を戻すことだ。
龍之介は馬方へ向いた。
「運びたいですか」
馬方は顔を上げた。
「運ぶのが仕事です」
「なら、運びましょう」
木陰の男が鼻で笑った。
「簡単に言う。次から馬を使えなくなれば、誰が責を取る」
龍之介は返さなかった。
返したのは新五だった。
「湊屋の荷は、那古野が受ける。清洲門前で馬を使わせぬという話が本当なら、湊屋へも話を通す。馬方を勝手に責めさせぬ」
「林殿が口を出す話ですか」
「清洲門前で、名を出さぬ者が馬方を止めた。林の名で、その筋を聞くには十分だ」
男の笑みが消えた。
そこへ、又左が少し離れた場所から大きめの声で言った。
「馬を替えるなら、那古野からも出せるぞ」
男の目が又左へ向く。
又左は槍を構えていない。
ただ立っている。
だが、目立つ。
源太と孫七は、その後ろで静かに控えていた。筒は布に包まれたままだ。見せてはいない。だが、知っている者なら、その形だけで分かる。
木陰の男は、これ以上押せないと判断したらしい。
「ご随意に」
そう言って、道の向こうへ歩き出した。
追わない。
龍之介は、そう決めた。
今は、荷を動かす。
荷は、すぐには動かなかった。
馬方たちの恐れは消えていない。
次から清洲門前で馬を使わせぬ。
それは、馬方にとってかなり重い脅しだった。道で食っている者にとって、休み場や飼葉場を失うことは、仕事を失うことに近い。
藤吉郎が馬の鼻先を見て言った。
「馬も腹が減っています」
新五が目を向ける。
「分かるのか」
「飼葉桶を見ています。人の飯と同じです」
彦右衛門が頷いた。
「この先の休み場が使えぬなら、馬も不安になる。いや、不安になるのは馬方か」
龍之介は考えた。
ただ護衛をつければいいわけではない。
馬方が次も運べると思わなければ、米の道は続かない。
「新五殿。今日だけ運ばせても、次が止まります」
「分かっている」
「休み場を一つ、那古野側で用意できませんか。飼葉と水だけでも」
新五は少し考えた。
「すぐには難しいが、小さな寺か馬屋を借りれば」
藤吉郎が顔を上げた。
「寺なら、小平の寺の近くに古い馬留めがあります。使っていないけど、水はあります」
「なぜ知っている」
「小平が紙を運ぶ時、そこで休んだと言っていました」
新五は一瞬だけ目を閉じた。
「報告しろ」
「今しました」
「遅い」
「すみません」
龍之介は小さく笑いそうになったが、すぐに表情を戻した。
寺の古い馬留め。
水がある。
そこに飼葉を少し置ければ、清洲門前の休み場を一つ使えなくされても、替えができる。
又左が言った。
「那古野から飼葉を運ぶなら、俺が出す」
「又左殿が飼葉を?」
藤吉郎が驚く。
「俺が背負うとは言っていない」
「そうですよね」
「少し残念そうにするな」
源太が静かに言った。
「私が運びます」
孫七も続く。
「私も」
又左が二人を見る。
「お前らは筒と槍の稽古だ」
龍之介は首を横に振った。
「今日は、それも稽古です」
又左が眉を上げた。
「飼葉運びがか」
「荷を守るには、荷を動かす足を守る。足を守るには、馬の腹も守る。そういう稽古です」
孫七は、少しだけ目を丸くした。
源太は真剣に頷いた。
又左はしばらく黙り、やがて笑った。
「なら、やるか」
馬方たちは、そのやり取りを見ていた。
恐れの中に、少しだけ別の色が混じる。
那古野は、今日の荷だけを押し通そうとしているのではない。
次の道を作ろうとしている。
それが伝わり始めたのだろう。
馬方の一人が深く頭を下げた。
「運びます」
もう一人も続いた。
「ただ、次の休み場が本当にあるなら」
「作る」
龍之介は答えた。
「今日中に、水と飼葉を置きます」
新五が頷いた。
「那古野の名で置くのではない。寺の馬留めとして整える。湊屋にも話を通す」
彦右衛門が荷縄を締め直した。
「縄はこのままでよい。結び直せば、途中でいじられたと言われる」
荷は動き出した。
ゆっくりと。
だが、確かに。
那古野へ湊屋の本物の米が入った時、信長は庭で待っていた。
荷は無事だった。
ただし、遅れた。
馬方が脅された。
清洲門前の休み場と飼葉を握られかけた。
寺の古い馬留めを使う案が出た。
信長は報告を最後まで聞き、短く笑った。
「やはり足へ来たか」
平手が静かに言う。
「米そのものではなく、運ぶ者を揺らす。次は船頭にも来ましょう」
「来るだろうな」
信長は頷いた。
「なら、馬方だけでは足りぬ。船頭、荷担ぎ、馬屋、休み場。全部を見る」
藤吉郎が小さく手を上げた。
「馬にも飯が要ります」
「分かった」
「飼葉です」
「分かっておる」
「人の飯と馬の飯を別々に」
「分かっている」
信長は少しだけ笑った。
だが、すぐに真顔になる。
「寺の馬留めは使えるか」
新五が答える。
「水はあります。屋根は少し傷んでいますが、荷を一時置く程度なら。飼葉を置くなら、近くの農家と話が要ります」
平手が続ける。
「若の名で急に置けば目立ちます。寺と橘屋、湊屋を通し、小さな休み場として整えるのがよろしいでしょう」
「よし」
信長は決めた。
「寺には紙仕事だけでなく、馬留めの手入れも小さく出す。橘屋は荷札と道具。湊屋は飼葉と塩荷の休み。那古野は表に出すぎぬ」
龍之介は、その組み立てに息を呑んだ。
小平の寺。
橘屋。
湊屋。
清洲の圧を受けた場所を、そのまま逃げ道と休み場へ変えていく。
これはただの対抗策ではない。
道を作っている。
信長はさらに言った。
「馬方に、那古野から直接銭をばらまくな。銭で釣れば清洲と同じだ。休み場、水、飼葉、荷を傷めぬ筋。それを用意する」
勝三郎が頷く。
「運ぶ者が、次も通れると思える道ですな」
「そうだ」
信長は龍之介を見る。
「龍之介。お前、よく荷より先に足を見た」
「藤吉郎と彦右衛門殿が見てくれました」
「それでよい。お前一人で見た顔をするな」
「はい」
藤吉郎は少し得意げにしたが、新五に見られて背筋を戻した。
信長は又左へ向いた。
「又左。源太と孫七に飼葉運びをさせる件」
「はい」
「やれ」
又左は少し驚き、それから頭を下げた。
「よろしいので」
「槍や筒だけ持てば戦になるわけではない。荷を動かす足を守ることも、戦の前だ。二人に見せろ」
「承知しました」
孫七は、布に包んだ筒を抱えたまま、真剣に頷いた。
源太も同じだった。
その日の夕方、寺の古い馬留めへ飼葉が運ばれた。
大きな荷ではない。
見せびらかすほどでもない。
だが、水桶が洗われ、屋根の破れに簡単な板が当てられ、飼葉が二束置かれた。橘屋の手代が縄を持ち、湊屋の者が塩樽の荷を休ませるふりで道を確かめる。
小平もいた。
紙仕事の合間に、水桶を洗っている。
藤吉郎はそれを見て、ほっとしたような顔をした。
「小平、馬の水もできますね」
「役が増えたな」
龍之介が言うと、藤吉郎は頷いた。
「はい。でも、重すぎない役です」
それは大事だった。
小平は武士ではない。
大きな秘密を持たせてはいけない。
だが、水桶を洗うことはできる。
馬留めを掃くことはできる。
紙を運び、馬の水を見る。
それだけで、寺にいる理由がまた一つ増える。
湊屋の馬方が、水桶を見て静かに頭を下げた。
「ここが使えるなら、次も通れます」
龍之介は頷いた。
「無理はしないでください。清洲門前で止められたら、まずここへ逃げる。荷を捨てず、人を捨てず」
馬方は驚いたように顔を上げた。
「逃げてもよろしいので」
「荷も人も戻ってこなければ、次がありません」
藤吉郎が横から言う。
「耳と同じです」
馬方には意味が分からなかったようだが、龍之介は少し笑った。
「そうだな」
新五が淡々と補う。
「荷を守るとは、荷だけを守ることではない。運ぶ者が戻ることだ」
馬方は深く頭を下げた。
清洲の脅しに対して、那古野は別の脅しで返していない。
逃げ場を作っている。
その差が、少しずつ人に伝わっていく。
清洲では、その報せが夜には坂井大膳のもとへ届いた。
那古野は湊屋の本物米を受けた。
馬方は脅されたが、荷を通した。
寺の古い馬留めが整えられ、水と飼葉が置かれた。
小平という寺の下働きまで使われている。
大膳は、しばらく黙った。
控えの男が、恐る恐る言う。
「馬方をさらに締めますか」
「締めれば、馬方はあの馬留めへ逃げる」
「では、寺を」
「寺を叩けば、清洲が水桶を怖がったように見える」
大膳は薄く笑った。
「三郎は、逃げ道を作るのが早いな」
「厄介にございます」
「厄介だ」
大膳は、しかし楽しげでもあった。
「なら、次は船だ。馬に休み場を作るなら、川や湊にも休み場が要る。そこを揺らす」
「熱田筋でございますか」
「熱田、津島、そしてその間の小さな渡しだ。米は馬だけで動くのではない」
控えの男が頭を下げる。
大膳は目を細めた。
「道を作る者には、水の道を見せてやれ」
清洲の影は、陸の足から、水の道へ向かおうとしていた。
那古野の夜、龍之介は馬留めから戻ってきた馬方の草鞋を見ていた。
泥がついている。
清洲門前の白土ではない。
寺裏の湿った土だ。
その土が、今日作った逃げ道の証だった。
藤吉郎は隣で、馬の飼葉の量を指で数えている。
「馬一頭で、思ったより食べます」
「人より多いな」
「はい。馬の飯は大変です」
「そうだな」
「でも、馬が食べないと米が来ません」
龍之介は頷いた。
藤吉郎の飯の世界が、人から馬へ広がっている。
それは少しおかしく、しかし正しい。
飯は人だけのものではない。
馬が食い、馬方が食い、荷担ぎが食い、船頭が食う。
その腹がつながって、米が動く。
龍之介は手を開いた。
今日は、誰も斬っていない。
だが、清洲が運ぶ足を止めようとした。
こちらは、足を叩かず、足が戻る場所を作った。
それは小さな勝ちかもしれない。
だが、清洲はすぐに別の道を見るだろう。
馬の次は船。
陸の次は水。
津島と熱田へ続く商いの道には、川と湊がある。
水の道を握られれば、米はまた止まる。
龍之介は清洲の方角ではなく、まだ見ぬ湊の方角を見た。
まだ斬る時ではない。
だが、戦場は土の道から水の上へ広がり始めている。
米俵を動かす足を守った次は、舟を動かす手を見なければならない。
那古野の夜は、馬の息と飼葉の匂いを残しながら更けていった。
第40話─了




