第39話 米の顔
飯の匂いは、翌朝になっても残っていた。
弥吉の飯屋から持ち帰った飯粒は、悪く腐っていたわけではない。食えぬ米でもない。だが、新しい米に古い米が混じり、研ぎ方を誤れば、炊いた時にわずかな匂いが立つ。
そのわずかさが厄介だった。
大声で責めれば、飯屋は困る。
黙っていれば、飯を食う者の不満が溜まる。
清洲は、そういうところを突いてきた。
信長は、飯場で米を研ぐ女衆の手元を見た後、庭に戻って言った。
「値を戻し、米を混ぜた。なら次は、米の出どころを見る」
庭には、平手、新五、龍之介、藤吉郎、彦右衛門、勝三郎がいた。権六は勘十郎の館へ出ている。若衆の飯場にも同じような米が入っていないか、見に行かせていた。
藤吉郎は、布に包んだ飯粒を見つめている。
「食べる人は、少し変だなと思っても、だいたい食べます」
「腹が減っていればな」
信長が言うと、藤吉郎は頷いた。
「はい。だから、言わないまま不満だけ残ります」
「それが狙いだ」
信長は庭の土に線を引いた。
清洲門前。
升屋。
飯屋。
寺。
勘十郎の館。
そして少し離して、津島、熱田。
「米の値が戻ったなら、今度は米の顔を見る」
藤吉郎が首を傾げた。
「米の顔ですか」
「お前、飯には顔があると言ったな」
「言いました」
「なら、米にも顔があるだろう」
藤吉郎は真剣に考え込んだ。
「あります。たぶん、あります」
「たぶんか」
「飯になれば分かります」
新五が即座に言う。
「食うな」
「まだ言っていません」
「顔が言っている」
信長は少し笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「同じ銭、同じ量で、米を買う。清洲門前の升屋。津島筋。熱田筋。それぞれから小さく買え。買った米は混ぜるな。俵、縄、札、米粒、匂い、炊き上がり。全部比べる」
平手が頷いた。
「試し買いですな」
「そうだ。ただし、那古野の大口買いには見せるな。飯屋、寺、飯場、別々の名で買う」
龍之介は、信長の意図を理解した。
米を大量に買えば、清洲に警戒される。
だが、小さく分けて買えば、道ごとの顔が見える。
どこで値が変わるのか。
どこで古米が混じるのか。
どこで俵が詰め替えられるのか。
米そのものを比べることで、清洲の手がどこに入るかを割り出すのだ。
彦右衛門が低く言った。
「札は替えられます。縄も替えられます。ですが、俵の底と米の粉は嘘をつきにくい」
「見られるか」
信長が問うと、彦右衛門は頭を下げた。
「見ます」
「藤吉郎」
「はい」
「飯の大きさと匂いを見る。だが、勝手に食うな」
「はい」
「龍之介」
「はい」
「買った米だけを見るな。買いに来た者を見る。米屋が誰を警戒し、誰に値を変え、誰を奥へ通すか。そこだ」
「承知しました」
信長は最後に、勝三郎へ目を向けた。
「勝三郎。勘十郎の飯場にも同じ目を置け。弟の場へ、悪い飯を入れさせるな。ただし、わしの米で動いているようには見せるな」
「承知しました」
信長は土に引いた線を見下ろした。
「米は俵の中だけにあるのではない。道の上にある。今日は、その道を見る」
試し買いは、その日のうちに始まった。
升屋へは、飯屋の主人の名で少量を買わせた。
津島筋は、湊屋甚右衛門に頼み、塩の荷に紛れさせて小さな米俵を一つ入れさせた。
熱田筋は、熱田の湊に顔を持つ馬方を通じて、別の米を買わせた。
どれも大きな荷ではない。
だからこそ、細工がしやすい。
そして、細工すれば跡も残る。
龍之介と新五、彦右衛門、藤吉郎は、清洲門前の道端に立ち、米俵が動くのを見ていた。
升屋から出た俵は、早かった。
店の裏から出され、飯屋へ向かう。縄は新しく、俵の底は少し古い。昨日と同じように、詰め替えの気配があった。
彦右衛門が目を細める。
「上だけ替えています。底に古い粉が残っている」
「古米か」
龍之介が問うと、彦右衛門は頷いた。
「混じっていますな。悪すぎる米ではありませんが、飯屋に出すなら匂いが出る」
藤吉郎は顔をしかめた。
「握り飯が小さくなくても、匂えば客が減ります」
新五が言う。
「客が減れば、飯屋は外の安い米を見る」
「そこへ清洲の米が入る」
龍之介が続けると、新五は静かに頷いた。
やはり、値だけではない。
飯屋そのものを清洲の米筋へ寄せようとしている。
次に来たのは、湊屋の荷だった。
塩樽の後ろに、小さな米俵が一つ積まれている。俵には津島筋を示す札があり、湊屋の印も押されていた。
だが、彦右衛門はそれを見た瞬間、眉を寄せた。
「これは、妙です」
龍之介も近づきすぎずに見た。
湊屋の印はある。
だが、縄の結びが違う。
前に甚右衛門が持ち込んだ荷は、縄の余りを短く折り込む癖があった。これは違う。縄の端が外へ少し長く出ている。清洲門前の荷で見た結び方に近い。
藤吉郎が小声で言った。
「塩の匂いが弱いです」
「米に塩の匂いがつくのか」
「同じ荷で来たなら、少しはつきます。でも、この米俵だけ、道が違う気がします」
新五は馬方を呼び止めた。
「その米は、湊屋からか」
馬方は顔を強張らせた。
「そう聞いております」
「どこで積んだ」
「津島からの荷に、途中で」
「どこだ」
馬方は黙った。
その沈黙で十分だった。
途中で積まれた。
津島から直接来た米ではない。
湊屋の名を借りた米だ。
龍之介は、胸の奥が冷えるのを感じた。
清洲は早い。
こちらが津島筋を見ようとした途端、津島の名を汚すような米を混ぜてきた。もしこれをそのまま見れば、津島筋の米も悪いと判断してしまう。
代わりの道そのものを疑わせる手だった。
新五は馬方を責めなかった。
「この米は、那古野で改める。塩樽はそのまま通せ」
馬方はほっとした顔をした。
彦右衛門が米俵の底を見て、低く言った。
「底が湿っています。古米どころか、蔵の床が悪い。津島の乾いた蔵ではない」
藤吉郎が頷く。
「飯にすると、たぶん匂います」
「食わなくても分かるか」
新五が問うと、藤吉郎は真面目に答えた。
「今日は分かります」
新五は少しだけ目を細めたが、何も言わなかった。
夕方、湊屋甚右衛門が那古野へ呼ばれた。
彼は米俵を見るなり、顔を険しくした。
「これは、うちの縄ではございませぬ」
信長は座ったまま、米俵を見た。
「印は湊屋だ」
「印は真似られます。ですが、縄は違います。うちは塩荷と一緒に米を出す時、縄の端を内へ噛ませます。塩樽に引っかからぬようにするためです。この縄は外へ出ております」
彦右衛門が頷いた。
「同じ見立てです」
甚右衛門はさらに俵の底へ目を向けた。
「底が湿っております。津島の蔵でこうはなりませぬ。これは清洲門前か、その近くの低い蔵で置かれた米でしょう」
平手が静かに問う。
「湊屋の名を使い、悪い米を紛れ込ませたと」
「そう見えます」
甚右衛門は悔しそうに答えた。
「若様。これは、湊屋にとっても捨て置けぬ話にございます」
信長の目がわずかに光った。
「怒るか」
「怒ります」
「なら、怒り方を選べ」
甚右衛門は黙った。
信長は続ける。
「清洲へ怒鳴り込めば、湊屋が騒いだことになる。那古野に泣きつけば、湊屋が那古野についたことになる。どちらも相手の思う壺だ」
「では、どうすれば」
「本物を出せ」
信長は言った。
「明日、湊屋の本物の米を、小さく那古野へ入れろ。塩樽と同じ荷でな。縄もいつもの結びにしろ。こちらはそれを見て、今日の米と違うと知る。お前は、騒がずに名を守る」
甚右衛門は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
龍之介は、そのやり取りを見ていた。
信長は、湊屋を清洲へぶつけない。
だが、泣き寝入りもさせない。
本物の荷を出させる。
偽物に対して、本物の道を置く。
それは橘屋の新しい印の時と似ていた。だが、今度は米の道である。
信長は藤吉郎へ向いた。
「明日の湊屋の米、飯にして見ろ」
藤吉郎の目が輝いた。
「食べてよいのですか」
「少しだ」
「少し」
「少しだぞ」
「はい」
新五が横から言った。
「私が見ます」
「頼む」
信長は笑った。
熱田筋の米は、夜前に届いた。
こちらは乾いていた。
俵の縄も違う。清洲門前の結びではない。米粒はやや小さいが、匂いは悪くない。飯場の女衆が少し炊くと、香りは素直だった。
藤吉郎は、許された一口だけを食べた。
目を閉じる。
場に妙な緊張が生まれた。
又左が呆れたように言う。
「飯を食っているだけだろう」
「静かに」
藤吉郎は真剣だった。
やがて、目を開ける。
「これは、普通においしいです」
信長が笑った。
「普通か」
「はい。ものすごくうまいわけではありません。でも、嫌な匂いがありません。握り飯にしても、文句は出にくいと思います」
飯場の女衆も頷いた。
「この米なら、普通に炊けます」
平手が言う。
「つまり、津島と熱田の道そのものが悪いわけではない」
「悪く見せようとする手が入った」
龍之介は答えた。
信長は庭の線を見下ろした。
升屋の米。
偽の湊屋米。
熱田筋の米。
これで少し見えた。
清洲は、米の値を揺らし、値を戻し、古米を混ぜ、さらに津島筋の名を汚そうとした。
つまり、代わりの米道を作られることを恐れている。
信長は笑った。
「大膳は、津島と熱田を嫌がっている」
勝三郎が頷く。
「若様が清洲門前の外を見ることを恐れているのでしょう」
「なら、見る」
信長は即答した。
「ただし、買い占めぬ。奪わぬ。小さく道を作る。飯場、寺、飯屋、勘十郎の館。それぞれが一つの米屋に握られぬようにする」
龍之介は、深く頷いた。
米を一つの道に頼れば、その道を握られる。
なら、細い道を複数作る。
清洲の力で一度に締められないように。
それは兵站の考えでもあり、商いの考えでもある。
信長は甚右衛門へ向いた。
「湊屋。明日は本物を見せろ。その後は、熱田筋とも繋ぐ。清洲門前の米屋を潰すのではない。だが、握らせぬ」
「承知しました」
甚右衛門の声は、先ほどより力があった。
商人は、道を失うことを嫌う。
だが、自分の名を汚されることも嫌う。
信長は、その怒りを真正面から清洲へぶつけず、道を作る力へ変えようとしていた。
その夜、清洲では坂井大膳が偽の湊屋米の件を聞いていた。
湊屋の名を借りた米は見抜かれた。
熱田筋の米は、那古野へ届いた。
信長は、升屋を責めず、湊屋を怒鳴らせず、代わりの米道を小さく作ろうとしている。
大膳は、長く黙っていた。
控えの男が顔を伏せる。
「申し訳ございませぬ」
「謝るな」
大膳の声は静かだった。
「見抜かれるのが早いだけだ」
「では」
「升屋をしばらく静かにさせろ。米で押しすぎるな。津島と熱田に目を向けられた以上、下手に動けば商人どもが騒ぐ」
「はい」
「次は、米ではない」
控えの男が顔を上げた。
大膳は、薄く笑った。
「米を運ぶ者だ。馬方、船頭、荷担ぎ。米そのものが駄目なら、道を歩く足を揺らせ」
清洲の影は、米俵から、その米を運ぶ者たちへ移ろうとしていた。
那古野の夜、龍之介は米俵の前に座っていた。
升屋の米。
偽の湊屋米。
熱田筋の米。
三つを並べると、それぞれ顔が違う。
縄の端。
俵の底。
米の匂い。
炊いた時の飯の柔らかさ。
現代にいた頃なら、ただ「米」と呼んでいたものが、今はまったく別の道を背負って見えた。
藤吉郎は隣で、少しだけ残った熱田筋の飯を見つめている。
「食うなよ」
龍之介が言うと、藤吉郎はびくりとした。
「見ていただけです」
「顔が食っていた」
「皆それを言います」
「分かりやすいからだ」
藤吉郎は残念そうに飯から目を逸らした。
龍之介は少し笑い、それから清洲の方角を見た。
米の値。
米の質。
偽の米道。
ここまで見えた。
だが、清洲は止まらない。
米を動かすには、人が要る。
馬方。
船頭。
荷担ぎ。
その足を揺らされれば、米道はまた細る。
龍之介は手を開いた。
まだ斬る時ではない。
だが、戦場は確かに広がっている。
清洲門前から、津島、熱田へ。
米俵から、運ぶ者の足へ。
次に守るべきものは、荷そのものではなく、その荷を運ぶ人間かもしれない。
飯場の火が、低く赤く揺れていた。
那古野の夜は、米の匂いを抱いたまま更けていった。
第39話─了




