表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/49

第39話 米の顔

 飯の匂いは、翌朝になっても残っていた。


 弥吉の飯屋から持ち帰った飯粒は、悪く腐っていたわけではない。食えぬ米でもない。だが、新しい米に古い米が混じり、研ぎ方を誤れば、炊いた時にわずかな匂いが立つ。


 そのわずかさが厄介だった。


 大声で責めれば、飯屋は困る。


 黙っていれば、飯を食う者の不満が溜まる。


 清洲は、そういうところを突いてきた。


 信長は、飯場で米を研ぐ女衆の手元を見た後、庭に戻って言った。


「値を戻し、米を混ぜた。なら次は、米の出どころを見る」


 庭には、平手、新五、龍之介、藤吉郎、彦右衛門、勝三郎がいた。権六は勘十郎の館へ出ている。若衆の飯場にも同じような米が入っていないか、見に行かせていた。


 藤吉郎は、布に包んだ飯粒を見つめている。


「食べる人は、少し変だなと思っても、だいたい食べます」


「腹が減っていればな」


 信長が言うと、藤吉郎は頷いた。


「はい。だから、言わないまま不満だけ残ります」


「それが狙いだ」


 信長は庭の土に線を引いた。


 清洲門前。


 升屋。


 飯屋。


 寺。


 勘十郎の館。


 そして少し離して、津島、熱田。


「米の値が戻ったなら、今度は米の顔を見る」


 藤吉郎が首を傾げた。


「米の顔ですか」


「お前、飯には顔があると言ったな」


「言いました」


「なら、米にも顔があるだろう」


 藤吉郎は真剣に考え込んだ。


「あります。たぶん、あります」


「たぶんか」


「飯になれば分かります」


 新五が即座に言う。


「食うな」


「まだ言っていません」


「顔が言っている」


 信長は少し笑ったが、すぐに表情を引き締めた。


「同じ銭、同じ量で、米を買う。清洲門前の升屋。津島筋。熱田筋。それぞれから小さく買え。買った米は混ぜるな。俵、縄、札、米粒、匂い、炊き上がり。全部比べる」


 平手が頷いた。


「試し買いですな」


「そうだ。ただし、那古野の大口買いには見せるな。飯屋、寺、飯場、別々の名で買う」


 龍之介は、信長の意図を理解した。


 米を大量に買えば、清洲に警戒される。


 だが、小さく分けて買えば、道ごとの顔が見える。


 どこで値が変わるのか。


 どこで古米が混じるのか。


 どこで俵が詰め替えられるのか。


 米そのものを比べることで、清洲の手がどこに入るかを割り出すのだ。


 彦右衛門が低く言った。


「札は替えられます。縄も替えられます。ですが、俵の底と米の粉は嘘をつきにくい」


「見られるか」


 信長が問うと、彦右衛門は頭を下げた。


「見ます」


「藤吉郎」


「はい」


「飯の大きさと匂いを見る。だが、勝手に食うな」


「はい」


「龍之介」


「はい」


「買った米だけを見るな。買いに来た者を見る。米屋が誰を警戒し、誰に値を変え、誰を奥へ通すか。そこだ」


「承知しました」


 信長は最後に、勝三郎へ目を向けた。


「勝三郎。勘十郎の飯場にも同じ目を置け。弟の場へ、悪い飯を入れさせるな。ただし、わしの米で動いているようには見せるな」


「承知しました」


 信長は土に引いた線を見下ろした。


「米は俵の中だけにあるのではない。道の上にある。今日は、その道を見る」


 試し買いは、その日のうちに始まった。


 升屋へは、飯屋の主人の名で少量を買わせた。


 津島筋は、湊屋甚右衛門に頼み、塩の荷に紛れさせて小さな米俵を一つ入れさせた。


 熱田筋は、熱田の湊に顔を持つ馬方を通じて、別の米を買わせた。


 どれも大きな荷ではない。


 だからこそ、細工がしやすい。


 そして、細工すれば跡も残る。


 龍之介と新五、彦右衛門、藤吉郎は、清洲門前の道端に立ち、米俵が動くのを見ていた。


 升屋から出た俵は、早かった。


 店の裏から出され、飯屋へ向かう。縄は新しく、俵の底は少し古い。昨日と同じように、詰め替えの気配があった。


 彦右衛門が目を細める。


「上だけ替えています。底に古い粉が残っている」


「古米か」


 龍之介が問うと、彦右衛門は頷いた。


「混じっていますな。悪すぎる米ではありませんが、飯屋に出すなら匂いが出る」


 藤吉郎は顔をしかめた。


「握り飯が小さくなくても、匂えば客が減ります」


 新五が言う。


「客が減れば、飯屋は外の安い米を見る」


「そこへ清洲の米が入る」


 龍之介が続けると、新五は静かに頷いた。


 やはり、値だけではない。


 飯屋そのものを清洲の米筋へ寄せようとしている。


 次に来たのは、湊屋の荷だった。


 塩樽の後ろに、小さな米俵が一つ積まれている。俵には津島筋を示す札があり、湊屋の印も押されていた。


 だが、彦右衛門はそれを見た瞬間、眉を寄せた。


「これは、妙です」


 龍之介も近づきすぎずに見た。


 湊屋の印はある。


 だが、縄の結びが違う。


 前に甚右衛門が持ち込んだ荷は、縄の余りを短く折り込む癖があった。これは違う。縄の端が外へ少し長く出ている。清洲門前の荷で見た結び方に近い。


 藤吉郎が小声で言った。


「塩の匂いが弱いです」


「米に塩の匂いがつくのか」


「同じ荷で来たなら、少しはつきます。でも、この米俵だけ、道が違う気がします」


 新五は馬方を呼び止めた。


「その米は、湊屋からか」


 馬方は顔を強張らせた。


「そう聞いております」


「どこで積んだ」


「津島からの荷に、途中で」


「どこだ」


 馬方は黙った。


 その沈黙で十分だった。


 途中で積まれた。


 津島から直接来た米ではない。


 湊屋の名を借りた米だ。


 龍之介は、胸の奥が冷えるのを感じた。


 清洲は早い。


 こちらが津島筋を見ようとした途端、津島の名を汚すような米を混ぜてきた。もしこれをそのまま見れば、津島筋の米も悪いと判断してしまう。


 代わりの道そのものを疑わせる手だった。


 新五は馬方を責めなかった。


「この米は、那古野で改める。塩樽はそのまま通せ」


 馬方はほっとした顔をした。


 彦右衛門が米俵の底を見て、低く言った。


「底が湿っています。古米どころか、蔵の床が悪い。津島の乾いた蔵ではない」


 藤吉郎が頷く。


「飯にすると、たぶん匂います」


「食わなくても分かるか」


 新五が問うと、藤吉郎は真面目に答えた。


「今日は分かります」


 新五は少しだけ目を細めたが、何も言わなかった。


 夕方、湊屋甚右衛門が那古野へ呼ばれた。


 彼は米俵を見るなり、顔を険しくした。


「これは、うちの縄ではございませぬ」


 信長は座ったまま、米俵を見た。


「印は湊屋だ」


「印は真似られます。ですが、縄は違います。うちは塩荷と一緒に米を出す時、縄の端を内へ噛ませます。塩樽に引っかからぬようにするためです。この縄は外へ出ております」


 彦右衛門が頷いた。


「同じ見立てです」


 甚右衛門はさらに俵の底へ目を向けた。


「底が湿っております。津島の蔵でこうはなりませぬ。これは清洲門前か、その近くの低い蔵で置かれた米でしょう」


 平手が静かに問う。


「湊屋の名を使い、悪い米を紛れ込ませたと」


「そう見えます」


 甚右衛門は悔しそうに答えた。


「若様。これは、湊屋にとっても捨て置けぬ話にございます」


 信長の目がわずかに光った。


「怒るか」


「怒ります」


「なら、怒り方を選べ」


 甚右衛門は黙った。


 信長は続ける。


「清洲へ怒鳴り込めば、湊屋が騒いだことになる。那古野に泣きつけば、湊屋が那古野についたことになる。どちらも相手の思う壺だ」


「では、どうすれば」


「本物を出せ」


 信長は言った。


「明日、湊屋の本物の米を、小さく那古野へ入れろ。塩樽と同じ荷でな。縄もいつもの結びにしろ。こちらはそれを見て、今日の米と違うと知る。お前は、騒がずに名を守る」


 甚右衛門は、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 龍之介は、そのやり取りを見ていた。


 信長は、湊屋を清洲へぶつけない。


 だが、泣き寝入りもさせない。


 本物の荷を出させる。


 偽物に対して、本物の道を置く。


 それは橘屋の新しい印の時と似ていた。だが、今度は米の道である。


 信長は藤吉郎へ向いた。


「明日の湊屋の米、飯にして見ろ」


 藤吉郎の目が輝いた。


「食べてよいのですか」


「少しだ」


「少し」


「少しだぞ」


「はい」


 新五が横から言った。


「私が見ます」


「頼む」


 信長は笑った。


 熱田筋の米は、夜前に届いた。


 こちらは乾いていた。


 俵の縄も違う。清洲門前の結びではない。米粒はやや小さいが、匂いは悪くない。飯場の女衆が少し炊くと、香りは素直だった。


 藤吉郎は、許された一口だけを食べた。


 目を閉じる。


 場に妙な緊張が生まれた。


 又左が呆れたように言う。


「飯を食っているだけだろう」


「静かに」


 藤吉郎は真剣だった。


 やがて、目を開ける。


「これは、普通においしいです」


 信長が笑った。


「普通か」


「はい。ものすごくうまいわけではありません。でも、嫌な匂いがありません。握り飯にしても、文句は出にくいと思います」


 飯場の女衆も頷いた。


「この米なら、普通に炊けます」


 平手が言う。


「つまり、津島と熱田の道そのものが悪いわけではない」


「悪く見せようとする手が入った」


 龍之介は答えた。


 信長は庭の線を見下ろした。


 升屋の米。


 偽の湊屋米。


 熱田筋の米。


 これで少し見えた。


 清洲は、米の値を揺らし、値を戻し、古米を混ぜ、さらに津島筋の名を汚そうとした。


 つまり、代わりの米道を作られることを恐れている。


 信長は笑った。


「大膳は、津島と熱田を嫌がっている」


 勝三郎が頷く。


「若様が清洲門前の外を見ることを恐れているのでしょう」


「なら、見る」


 信長は即答した。


「ただし、買い占めぬ。奪わぬ。小さく道を作る。飯場、寺、飯屋、勘十郎の館。それぞれが一つの米屋に握られぬようにする」


 龍之介は、深く頷いた。


 米を一つの道に頼れば、その道を握られる。


 なら、細い道を複数作る。


 清洲の力で一度に締められないように。


 それは兵站の考えでもあり、商いの考えでもある。


 信長は甚右衛門へ向いた。


「湊屋。明日は本物を見せろ。その後は、熱田筋とも繋ぐ。清洲門前の米屋を潰すのではない。だが、握らせぬ」


「承知しました」


 甚右衛門の声は、先ほどより力があった。


 商人は、道を失うことを嫌う。


 だが、自分の名を汚されることも嫌う。


 信長は、その怒りを真正面から清洲へぶつけず、道を作る力へ変えようとしていた。


 その夜、清洲では坂井大膳が偽の湊屋米の件を聞いていた。


 湊屋の名を借りた米は見抜かれた。


 熱田筋の米は、那古野へ届いた。


 信長は、升屋を責めず、湊屋を怒鳴らせず、代わりの米道を小さく作ろうとしている。


 大膳は、長く黙っていた。


 控えの男が顔を伏せる。


「申し訳ございませぬ」


「謝るな」


 大膳の声は静かだった。


「見抜かれるのが早いだけだ」


「では」


「升屋をしばらく静かにさせろ。米で押しすぎるな。津島と熱田に目を向けられた以上、下手に動けば商人どもが騒ぐ」


「はい」


「次は、米ではない」


 控えの男が顔を上げた。


 大膳は、薄く笑った。


「米を運ぶ者だ。馬方、船頭、荷担ぎ。米そのものが駄目なら、道を歩く足を揺らせ」


 清洲の影は、米俵から、その米を運ぶ者たちへ移ろうとしていた。


 那古野の夜、龍之介は米俵の前に座っていた。


 升屋の米。


 偽の湊屋米。


 熱田筋の米。


 三つを並べると、それぞれ顔が違う。


 縄の端。


 俵の底。


 米の匂い。


 炊いた時の飯の柔らかさ。


 現代にいた頃なら、ただ「米」と呼んでいたものが、今はまったく別の道を背負って見えた。


 藤吉郎は隣で、少しだけ残った熱田筋の飯を見つめている。


「食うなよ」


 龍之介が言うと、藤吉郎はびくりとした。


「見ていただけです」


「顔が食っていた」


「皆それを言います」


「分かりやすいからだ」


 藤吉郎は残念そうに飯から目を逸らした。


 龍之介は少し笑い、それから清洲の方角を見た。


 米の値。


 米の質。


 偽の米道。


 ここまで見えた。


 だが、清洲は止まらない。


 米を動かすには、人が要る。


 馬方。


 船頭。


 荷担ぎ。


 その足を揺らされれば、米道はまた細る。


 龍之介は手を開いた。


 まだ斬る時ではない。


 だが、戦場は確かに広がっている。


 清洲門前から、津島、熱田へ。


 米俵から、運ぶ者の足へ。


 次に守るべきものは、荷そのものではなく、その荷を運ぶ人間かもしれない。


 飯場の火が、低く赤く揺れていた。


 那古野の夜は、米の匂いを抱いたまま更けていった。


第39話─了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ