第38話 戻った値
米の値は、翌朝には戻っていた。
あまりにも早かった。
弥吉のいる飯屋の握り飯は、前の日より少し大きくなった。寺へ回る米も、勘十郎の館へ入る米も、銭に対する量が元に近づいた。升屋の者は、昨夜のうちに「相場が落ち着いた」と言い、飯屋の主人もほっとした顔を見せたという。
普通なら、喜ぶべきことだった。
だが、藤吉郎は那古野へ戻るなり、首を横に振った。
「戻り方が変です」
信長は庭で、昨日拾った米札を見ていた。
升屋。
北蔵。
坂に似た傷。
それは小さな札に過ぎない。だが、炭、鉄、米をつなぐ匂いを持っていた。
「どう変だ」
信長が問うと、藤吉郎は木片を並べた。
「飯屋の握り飯が戻りました。寺の米も戻りました。勘十郎様の館の米も戻りました。でも、升屋の外で買う小者向けの米だけ、少し高いままです」
「つまり、見られたところだけ戻したか」
「はい」
藤吉郎は頷いた。
「それに、戻るのが早すぎます。米の値は、昨日急に上がって、今日急に戻りました。飯屋の主人も、首をひねっていました」
平手が静かに言った。
「相場ではなく、人の声で動いたということですな」
信長は口元だけで笑った。
「大膳が値を戻したか」
龍之介は、米札を見つめたまま頷いた。
「証を薄めに来たのだと思います。値が戻れば、こちらが騒ぎすぎたように見せられます」
「だが、戻したことも手の跡だ」
信長は米札を指で叩いた。
「上げた値は刃。戻した値は鞘か。抜いた刃を鞘に収めても、抜いたことは消えぬ」
又左が腕を組んだ。
「値が戻ったなら、飯場は助かるのでは」
「助かる」
信長は即座に答えた。
「だが、助かったと喜んで終われば、次も同じように揺らされる」
勝三郎が頷いた。
「値を上げられ、戻され、また上げられる。相手の手で腹を揺らされます」
権六が低く言う。
「では、升屋を締め上げますか」
「締めぬ」
信長は昨日と同じ答えを返した。
「升屋を締めれば、米屋は清洲へ逃げる。米も逃げる。こちらは、別の米の目を持つ」
平手が信長を見た。
「津島、熱田ですな」
「そうだ」
信長は、庭の土に線を引いた。
清洲。
那古野。
津島。
熱田。
線を引くと、清洲門前の小さな騒ぎが、尾張の商いの道へ広がって見えた。
「清洲門前の米だけが揺れたのか。津島や熱田でも同じように揺れたのか。そこを見れば、相場か手かが分かる」
龍之介は頷いた。
米の値が戻ったことは、終わりではない。
むしろ、清洲がこちらの目を気にしている証だった。
信長は新五へ向いた。
「津島筋の商人で、今、那古野に来ている者はいるか」
「湊屋甚右衛門が、塩と米の話で来ております。大きな問屋ではありませんが、津島と熱田の両方に顔が利く男です」
「呼べ」
信長は短く命じた。
「ただし、買いつけの話として呼べ。清洲の名は先に出すな」
「承知しました」
藤吉郎が小さく手を上げた。
「湊屋にも飯屋はありますか」
「お前はまず、飯から離れろ」
又左が呆れる。
信長は少し笑った。
「飯屋もあるだろう。だが今日は、握り飯ではなく米俵を見る日だ」
「はい」
「食うな」
「米はそのままでは食べません」
「屁理屈を言うな」
「はい」
場に小さな笑いが起きた。
だが、すぐに空気は締まった。
清洲の手は、値を戻して消えたように見える。
だからこそ、今のうちに道を見なければならない。
湊屋甚右衛門は、昼前に那古野へ来た。
四十を少し越えた商人で、よく日に焼けた顔をしている。着物は派手ではないが、帯の締め方に乱れがない。米だけでなく、塩、干物、縄、樽など、道を通る品を広く扱う者の顔だった。
甚右衛門は信長の前で深く頭を下げた。
「若様にお呼びいただけるとは、身に余ることでございます」
「堅い挨拶はよい。米の話を聞きたい」
「米でございますか」
甚右衛門は顔を上げた。
「清洲門前の米値が揺れた」
信長は、最初から清洲の名を出さなかった。
ただ、米値と言った。
甚右衛門は少し考え、慎重に答える。
「この時期、米は動きます。ですが、ここ数日の大きな相場の揺れは、津島では聞いておりませぬ。熱田筋でも、少し高い安いはありましょうが、急に上がって急に戻るほどでは」
龍之介は、その言葉を聞いて胸の中で頷いた。
やはり、広い相場ではない。
清洲門前だけの揺れだ。
信長は尋ねる。
「清洲門前では、勘十郎の館、飯屋、寺へ回る米だけが少し高くなった」
甚右衛門の目が動いた。
商人の目だ。
何かを察したが、すぐには口にしない。
「それは、妙にございます」
「なぜ」
「本当に相場なら、売り先を選びませぬ。米は米です。上がる時は広く上がり、下がる時も広く下がる。売り先によって少し変えることはありますが、そこまで狙って変わるなら、相場ではなく、人の手です」
平手が静かに問う。
「その人の手は、どこから見えますか」
甚右衛門は、慎重に言葉を選んだ。
「米俵の縄、蔵の出入り、買い札、馬方の顔。商いは帳面だけでは動きませぬ。実際に俵を担ぐ者がいて、蔵を開ける者がいて、売り先を選ぶ者がいる」
彦右衛門が頷いた。
「荷は縄に顔が出る」
甚右衛門は、彦右衛門を見て少し笑った。
「その通りでございます。荷を知る方の言葉ですな」
信長は甚右衛門へ米札を見せた。
「これは升屋の北蔵の札だ。坂に似た傷がある」
甚右衛門は札を手に取らず、少し顔を近づけて見た。
触らない。
その慎重さが、商人としての勘を示していた。
「升屋の札に似ておりますな。ただ、この傷は……」
「知っているか」
「似たものは見たことがございます。清洲門前で、直接名を出さぬ荷に使われることがあるとか。坂井様の名と決めつけるほどではございませぬが、皆、見れば少し身構えます」
坂井様の名。
甚右衛門は、そこでようやく言った。
信長の目が細くなる。
「身構える印か」
「はい。名ではなく、匂いでございます。名を書けば責が残る。傷なら、知る者だけが分かる」
龍之介は、その言葉を胸に刻んだ。
名ではなく、匂い。
まさに清洲が使ってきた手だ。
清洲御用。
古印。
坂に似た傷。
誰かの名をはっきり出さず、知る者だけが従う印を置く。
信長は、楽しげではなく、鋭く笑った。
「甚右衛門。津島と熱田で、升屋の米と似た縄の俵が流れていないか見られるか」
甚右衛門は少し目を伏せた。
「見られます。ただ、若様の御用として大きく見れば、清洲へすぐ伝わりましょう」
「大きく見るな」
信長は即座に言った。
「塩と縄の買いつけついでに見ろ。米俵の縄がどこから来たか。馬方がどこで休んだか。飯屋の握り飯が急に大きくなったり小さくなったりしていないか。そこだけでよい」
藤吉郎の顔が輝く。
「握り飯も見るのですね」
「お前は嬉しそうにするな」
「すみません」
甚右衛門は藤吉郎を見て、少しだけ笑った。
「握り飯は、米の値がよく出ます。小僧の目も侮れませぬ」
藤吉郎は胸を張りかけたが、新五に見られて背を戻した。
甚右衛門は続ける。
「ただし、津島も熱田も、清洲の顔を見ぬわけではございませぬ。商人は風を見るものです。若様が何を見ようとしておられるのか、知りたがる者も出ましょう」
「出ればよい」
信長は答えた。
「ただし、こちらが米を買い占めると思わせるな。わしは米を奪いたいのではない。米の道を見たい」
甚右衛門は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
甚右衛門が下がった後、信長はしばらく黙っていた。
庭には、先ほどまでの米札と木片が残っている。
藤吉郎は、津島と熱田の位置を土に描こうとして、なぜか飯屋を先に描きかけた。新五が足で半分消す。
「まず道を描け」
「飯屋は道の目印になります」
「後だ」
「はい」
龍之介は、そのやり取りを聞きながら、頭の中で道を組み立てていた。
清洲門前。
升屋。
勘十郎の館。
寺。
飯屋。
そこから津島、熱田へ。
米は、城だけで動くものではない。商人、馬方、舟、蔵、飯屋、寺、武家の下働き。無数の手を通る。そのどこかに、清洲の傷が残る。
信長が言う。
「米の値は戻った。だが、戻した者がいる」
平手が頷く。
「戻した以上、見られていることには気づいたのでしょう」
「なら、次は隠れる」
勝三郎が言った。
「米札を残さず、口で動かす。あるいは、別の問屋を使う」
「だから、津島と熱田を見る」
信長は答えた。
「清洲門前だけを見れば、相手は門前から消える。広い道を見れば、消えた先が見える」
龍之介は、ここで信長が戦場を広げたのだと感じた。
ただし、兵を出すわけではない。
米の道を見る目を広げるのだ。
信長は龍之介を見た。
「お前、どう見る」
「清洲は、一度値を戻した以上、すぐ同じ手は使いにくいと思います」
「続けろ」
「次は、値ではなく量を揺らすかもしれませぬ。米は同じ値だが、質を落とす。俵の口を替える。良い米に悪い米を混ぜる。あるいは、飯屋へ入る米だけ少し湿らせる」
藤吉郎が顔をしかめた。
「湿った米は嫌です」
「飯が悪くなる」
「はい」
彦右衛門が頷く。
「米俵の底を見れば、湿りは分かる。蔵の床も見たいところだ」
新五が言う。
「升屋だけではなく、飯屋と寺の米櫃も見ます」
信長は満足げに頷いた。
「よし。値だけではなく、量と質を見る。飯の大きさ、米の湿り、俵の縄、札の傷。全部だ」
又左が苦笑した。
「槍より細かい戦ですな」
「槍で米は戻らぬ」
信長が返すと、又左は黙った。
龍之介は少しだけ笑った。
だが、笑いながらも胸の奥は重かった。
清洲は値を上げ、戻した。
次は質を落とすかもしれない。
飯がまずくなれば、人は不満を持つ。腹は満ちても、心が荒れる。小さな場ほど、そういう不満は効く。
人は飯で立つ。
だが、悪い飯でも揺れる。
その日の夕方、弥吉の飯屋から小さな報せが来た。
米の値は戻った。
だが、炊いた飯が少し匂うという。
弥吉が最初に気づき、藤吉郎へ伝えた。藤吉郎は飯を食べて確かめようとして、新五に止められ、代わりに飯粒を少し布に包んで持ち帰った。
「食べていません」
藤吉郎は胸を張った。
「食べかけたか」
信長が問う。
「少し」
「正直でよい」
「でも食べていません」
「それでよい」
飯粒は、与吉ではなく、飯場の女衆が見た。
米を研ぐ者の目である。
「少し古米が混じっておりますな」
女衆の一人が言った。
「悪い米ではないですが、新しい米に混ぜるなら、よく研がねば匂いが出ます」
平手が目を細める。
「値ではなく、質を揺らしたか」
龍之介は、胸の奥が冷えるのを感じた。
予想したことが、もう始まっていた。
信長は、楽しげに笑わなかった。
「大膳め、戻すと同時に混ぜたか」
勝三郎が言う。
「値は戻った。だが、飯の質は落ちた。責められれば、米は同じ値だと言える」
「嫌な手だ」
又左が低く言った。
藤吉郎は飯粒を見つめている。
その顔は、いつもの食い意地とは違った。
怒っていた。
「弥吉たちは、匂う飯を食べることになります」
「そうだな」
信長は頷いた。
「だが、すぐ米を入れ替えるな。まず、どの俵から来たかを見る」
藤吉郎は顔を上げる。
「食べさせたままにするのですか」
「悪い米ではない。だが、混ぜられた理由を見なければ、次もやられる」
信長の声は厳しい。
「ただし、飯屋へは研ぎ方を教えろ。匂いを減らす。食える飯にする」
藤吉郎は、少しだけ表情を戻した。
「はい」
龍之介は頷いた。
ここでも同じだ。
ただ助けるのではない。
ただ責めるのでもない。
食えるようにしながら、道を見る。
清洲の手を見失わず、人を腹から守る。
夜、那古野の飯場では、米を研ぐ音が続いていた。
藤吉郎は、飯場の女衆に混じって米の匂いを嗅ごうとして叱られていた。
「顔を近づけすぎるな」
新五が言う。
「匂いを見ています」
「鼻で見ろ。顔ごと入れるな」
「はい」
龍之介は、その様子を少し離れて見ていた。
飯の大きさ。
米の値。
俵の縄。
米の匂い。
戦場からは遠い。
だが、人の腹に近い。
清洲はそこを狙っている。
信長は、そのさらに奥の道を見ようとしている。
津島、熱田。
米と商いの道。
そこへ視野を広げることで、清洲門前の小さな傷が、尾張全体の流れの中で見えてくる。
龍之介は手を開いた。
今日も誰も斬っていない。
だが、飯の匂いに隠れた刃を見た。
米の値を戻して証を薄め、古米を混ぜて不満を残す。
清洲の手は、ますます細く、いやらしくなっている。
それでも、跡はある。
匂い。
縄。
札。
飯粒。
人の顔。
藤吉郎の鼻まで使うことになるとは思わなかったが、それもまた目なのだろう。
龍之介は、清洲の方角を見た。
まだ斬る時ではない。
しかし、米の中に隠れた刃は、確かにこちらの腹へ届き始めている。
それを抜かせず、折らず、人を立たせる。
次に見るべきは、米の来た道。
津島と熱田へ続く、広い商いの道だった。
第38話─了




