第37話 米値の揺れ
米の値は、刀より静かに人を動かす。
それを龍之介が思い知ったのは、佐吉が飯場へ入ってから三日も経たぬ朝だった。
勘十郎の館へ運ばれる米の量が、同じ銭では少し減った。飯場の者が最初に気づき、藤吉郎がそれを拾い、新五へ伝えた。弥吉のいる飯屋でも、握り飯が少し小さくなっているという。
はじめは、ただの値上がりに見えた。
だが、藤吉郎は首を横に振った。
「米が高いだけではありません。売る相手を見て値を変えています」
那古野の庭で、藤吉郎は小さな木片を並べながら説明した。
勘十郎の館へ入る米。
飯屋へ入る米。
橘屋の手代が寺へ回す米。
那古野の飯場へ入る米。
それぞれの木片を少しずつずらしていく。
「勘十郎様の館と、飯屋と、寺へ行く分が高くなっています。でも、那古野へ直接来る分は、まだそこまで変わっていません」
信長は腕を組み、木片を見下ろしていた。
庭には平手、権六、勝三郎、新五、龍之介、藤吉郎、彦右衛門がいる。又左は少し離れたところで源太と孫七を見ていたが、話が米に及ぶと耳を向けていた。
「つまり、わしの飯場を締めるのではなく、勘十郎の場と周りを締めている」
信長が言うと、藤吉郎は頷いた。
「はい。あと、飯屋です。飯屋の握り飯が小さくなると、弥吉のような小僧が外の飯に釣られやすくなります」
平手が静かに言った。
「米を直接止めず、値を上げる。責められれば、相場だと言える」
「大膳らしいな」
信長の声は低かった。
龍之介は、藤吉郎が並べた木片を見ていた。
飯場。
寺。
飯屋。
勘十郎の館。
清洲は、そこを一つずつ強く叩くのではなく、少しずつ重くしている。米の値が上がれば、飯は小さくなる。飯が小さくなれば、人は外の飯を見る。外の飯を出した者が、次の言葉を渡す。
太刀を開けさせるより、ずっと静かな手だった。
権六が低く言った。
「勘十郎様の館へ、こちらから米を入れますか」
信長はすぐには答えなかった。
その沈黙で、権六も自分の言葉の危うさに気づいたようだった。
龍之介が口を開く。
「ただ米を入れれば、勘十郎様の場が若様の米で動いていると言われます」
「そうだ」
信長は頷いた。
「弟の場を助けるつもりで、弟の顔を潰すことになる」
勝三郎が続けた。
「かといって、放れば清洲の米に人が寄ります」
「だから、米そのものではなく、米の道を見る」
信長はそう言い、藤吉郎の木片を一つ摘まんだ。
「どの米問屋が値を上げた」
藤吉郎はすぐに答えた。
「門前の米屋、升屋です。あと、飯屋に卸している小さな米商いが二つ。どちらも升屋の米を混ぜています」
新五が補う。
「升屋は清洲門前の米を扱う商人です。表向きはただの米商いですが、清洲御用の荷も受けています」
彦右衛門が腕を組んだ。
「米の俵は、縄と俵の底を見れば出どころが少し分かります。升屋の米は、俵の口の縛りが浅い。早く詰め替えるためです」
信長は笑った。
「また縄か」
「荷は縄に顔が出ます」
彦右衛門は淡々と言った。
龍之介は、その言葉に頷いた。
米も荷だ。
炭も鉄も太刀も米も、すべて道を通る。道を通るものには、必ず誰かの手が残る。
信長は新五へ向いた。
「升屋を責めるな」
「はい」
「だが、米の道を見ろ。どこから買い、誰へ売り、どこで値を変えているか。橘屋にも聞け。寺と飯屋にもだ」
「承知しました」
信長は藤吉郎へ目を向けた。
「お前は飯の大きさを見ろ」
「得意です」
「食うな」
「見れば分かります」
「本当か」
「半分くらいは」
「食うな」
「はい」
少し笑いが起きた。
だが、すぐに信長の声が場を締め直す。
「米を握られれば、人を握られる。だが、こちらが米をばらまけば、それもまた人を握ることになる。そこを間違えるな」
龍之介は、深く頭を下げた。
清洲と同じことをしてはならない。
飯で釣るのではない。
働いた飯、場を支える飯、帰り道を残す飯。
それを保つために、米の道を見なければならない。
升屋は、清洲門前の通りから少し横へ入った場所にあった。
大店というほどではないが、裏に米俵を置く蔵があり、出入りする馬方も多い。門前の飯屋、小さな寺、武家の下働きへ米を流すには十分な構えだった。
新五、龍之介、藤吉郎、彦右衛門は、すぐには店へ入らなかった。
まずは周りを見た。
升屋の表には、いつも通りを装った商人が立っている。だが、裏口には清洲の雑掌風の男が一人出入りしていた。米商いに用がある者にも見えるが、荷を見ている目ではない。人を見ている目だった。
藤吉郎が小声で言った。
「米俵より、人を見ています」
「分かるのか」
龍之介が問うと、藤吉郎は頷いた。
「米屋の人は、俵の口と重さを先に見ます。あの人は、誰が買いに来るかを見ています」
彦右衛門も低く言う。
「米の人間ではないな」
新五は少しだけ頷いた。
「では、まず表から入る」
藤吉郎が動きかける。
新五が袖を掴んだ。
「お前は外だ」
「飯の大きさは中に入らないと」
「今日は米屋だ。飯屋ではない」
「米は飯になります」
「外で見ろ」
藤吉郎は渋々下がった。
龍之介は新五と彦右衛門に続いて升屋へ入った。
店主は、升屋久兵衛と名乗った。
丸い顔の男だが、目は細く動く。人の懐具合と立場を測る商人の目だった。
「那古野様より、米のお話で」
久兵衛は丁寧に頭を下げた。
新五は静かに答える。
「近頃、勘十郎様の館、飯屋、寺へ回る米の値が少し揺れていると聞いた」
「相場にございます」
久兵衛は即答した。
「秋は米の動きが多うございます。清洲御用の買いも入り、どうしても値が」
「清洲御用」
新五はその言葉を拾った。
久兵衛の顔が一瞬だけ固まる。
言い慣れた言葉を、問い返されることに慣れていない顔だった。
「どなたの御用か」
「それは、清洲よりの」
「守護様方か。大和守様方か。坂井様方か」
久兵衛は、わずかに目を泳がせた。
同じ問い。
清洲門前で何度も繰り返してきた問いだ。
久兵衛は笑みを作る。
「米商いの身では、上の細かいことまでは」
「では、誰が買った」
「それは、帳面を」
「見せてもらえるか」
新五の声は柔らかいが、退かない。
久兵衛は困った顔を作った。
「商いの帳面は、そう簡単には」
そこで彦右衛門が店の隅に積まれた米俵を見た。
「その俵、昨日詰め替えたな」
久兵衛の顔が変わった。
「何を」
「縄が新しい。だが俵の底は古い。上の口だけ開けて詰め直している」
彦右衛門は淡々と言った。
「清洲御用の米として買ったものを、別の米に混ぜて売ったか」
久兵衛の額に汗が浮かんだ。
新五がすぐに言う。
「責めているのではない。清洲御用の米が混じるなら、どこへ出たかを知りたい。那古野の飯場へは入っていない。勘十郎様の館と飯屋、寺へは入っている。なぜだ」
久兵衛は黙った。
龍之介は、その沈黙を見た。
商人の沈黙だ。
完全に敵ではない。
だが、何かを隠している。
恐れているのは那古野ではなく、清洲の方だろう。
「久兵衛殿」
龍之介は静かに口を開いた。
「米の値を変えるのは商いです。ですが、誰かの名を使って売り先を揺らせば、米屋の名も荷札になります」
久兵衛の目が龍之介へ向く。
「荷札?」
「はい。後で誰かが、升屋が勝手に値を上げたと言えば、責は升屋に残ります。清洲御用の名で米を動かした者は、名を残さずに済む」
久兵衛の顔から血の気が引いた。
その恐れは、橘屋の宗右衛門にもあった。
誰の荷か分からぬまま動かし、最後に商人だけが責を負わされる恐れ。
久兵衛は、少しだけ声を落とした。
「帳面は、見せられませぬ」
新五が目を細める。
久兵衛は続けた。
「ですが、米の札なら……間違って混じることもありましょう」
そう言って、店の奥へ目を向けた。
帳面そのものは出さない。
だが、米俵につける札なら落とせる。
商人としての逃げ道を残した形だった。
新五は頷いた。
「では、米札を見つけたら拾う」
久兵衛は深く頭を下げた。
それ以上は言わなかった。
升屋を出た後、裏手に回ると、藤吉郎が木片を握って待っていた。
「ありました」
新五が眉を上げる。
「何が」
「米札です。裏の水桶の近くに落ちていました」
「落ちていたのか」
「落ちていました」
藤吉郎は真面目な顔で差し出した。
おそらく、久兵衛が誰かに落とさせたのだろう。
札には、清洲御用とは書かれていない。
代わりに、小さく「升」、その横に「北蔵」とある。さらに、別の細い傷で「坂」に似た印がついていた。
彦右衛門がそれを見て唸る。
「升屋の北蔵。坂に似た傷は、前にも見たな」
龍之介は頷いた。
炭の木札にも、似た傷があった。
坂井の名そのものではない。
だが、坂井筋を匂わせる印。
見せ札かもしれない。
それでも、米の道にも同じ傷が出た。
清洲の手は、炭、鉄、米へつながっている。
新五は札を懐へ入れた。
「これだけでは証にならない」
「はい」
龍之介は答えた。
「ですが、米にも同じ匂いがあると分かりました」
藤吉郎が飯屋の方を見た。
「次は飯屋ですか」
「食うな」
新五が先に言った。
「まだ何も」
「顔が食っている」
「……はい」
飯屋へ向かう途中、弥吉が裏で椀を洗っているのが見えた。外の客に呼ばれない場所へ下げられたはずだったが、今日は裏口に見慣れない男が立っている。
男は弥吉へ何かを言い、小さな握り飯を見せた。
藤吉郎の顔が変わる。
龍之介は足を止めた。
また飯だ。
値を上げ、握り飯を小さくし、そのうえで別の握り飯を見せる。
空腹の者には、それだけで十分な刃になる。
新五は低く言った。
「藤吉郎」
「はい」
「今度はお前が行け。ただし、飯を渡すな。弥吉を店の中へ戻せ」
「はい」
藤吉郎は走らなかった。
少し早足で、だが小僧らしく自然に裏口へ近づいた。
「弥吉」
声をかけられた弥吉は、はっとした顔で振り向く。
見慣れない男は、藤吉郎を見て笑った。
「何だ、小僧同士か」
藤吉郎は男ではなく、弥吉を見た。
「椀が残っている」
「でも」
「店の中の仕事だろう。外の飯をもらうと、主人に叱られる」
弥吉の顔が揺れる。
男は口を挟んだ。
「腹が空いているなら、食えばよい。飯を食って何が悪い」
藤吉郎は男を見た。
「悪くありません。でも、どこの飯か分からないものを食べると、後で返せと言われます」
男の目が細くなる。
「生意気な小僧だ」
「よく言われます」
藤吉郎はそう言って、弥吉の持っていた椀を一つ取った。
「戻ろう。椀が乾く」
弥吉は迷った。
握り飯を見た。
藤吉郎を見た。
そして、椀を持ち直して店の中へ戻った。
男は舌打ちし、握り飯を懐へしまう。
龍之介は動かなかった。
新五も動かない。
今ここで捕らえても、ただの飯を持った男だ。だが顔は見た。声も聞いた。清洲は米の値だけでなく、外の飯も使っている。
藤吉郎は戻ってきて、ほっとした顔をした。
「飯を渡しませんでした」
「よくやった」
龍之介が言うと、藤吉郎は少しだけ胸を張った。
「でも、弥吉は腹が空いています」
「なら、店の中で働いた飯を食えるようにする」
「はい」
その返事は、以前よりずっと重かった。
那古野へ戻ると、信長は米札を見てすぐに表情を引き締めた。
庭に集められた者たちの前で、札は小さな板の上に置かれた。
升屋。
北蔵。
坂に似た傷。
平手が目を細める。
「炭の札にも似た傷がございましたな」
新五が頷いた。
「はい。ただし、これだけでは坂井筋の証にはなりませぬ」
「証にはならぬが、道にはなる」
信長は言った。
「炭、鉄、米。すべてに同じ匂いがある。大膳は、まだ自分の名を出さぬ。だが、手は出している」
権六が低く問う。
「米を押さえますか」
「押さえぬ」
信長は即答した。
「米屋を締めれば、米が止まる。米が止まれば、飯場が揺れる。こちらが米を奪ったようにも見える」
勝三郎が言う。
「では、別の米筋を探しますか」
「探す」
信長は頷いた。
「ただし、清洲門前だけで探すな。津島、熱田の商い筋にも目を向ける」
その言葉で、場の空気が変わった。
清洲門前の小さな荷筋から、尾張の大きな商いへ話が広がったのだ。
平手が慎重に言った。
「若。津島、熱田を動かすには、大殿の筋も要ります」
「分かっておる。すぐ動かすのではない。まず、話を聞く。米がどこで余り、どこで詰まり、誰が買い占めているかを見る」
龍之介は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
ついに、外へ広がる。
飯屋や寺の小さな飯から、津島、熱田の商い筋へ。
信長は、清洲の米圧をただ受けるつもりはない。米の道そのものを見に行くつもりだ。
藤吉郎が小さく手を上げた。
「津島や熱田にも飯屋はありますか」
又左が呆れた。
「そこからか」
信長は笑った。
「ある。山ほどあるだろうな」
「見ます」
「食うな」
「はい」
信長は笑いを消し、龍之介へ向いた。
「龍之介」
「はい」
「米の道を見る。お前の目が要る。ただし、商いの筋はわしらだけでは読めぬ。平手、新五、彦右衛門、藤吉郎、それぞれ使う」
「承知しました」
「米は戦だ。だが、今は戦場ではない。値で人が動く。腹で人が揺れる。そこを見ろ」
龍之介は深く頭を下げた。
清洲の次の刃は、米の中にあった。
ならば、こちらも米の道を見なければならない。
その夜、清洲では坂井大膳が静かに報せを聞いていた。
升屋の米札が拾われた。
飯屋の弥吉は外の握り飯を受け取らなかった。
那古野では、津島と熱田の商い筋へ目を向ける話が出たらしい。
大膳は、しばらく目を閉じた。
「早いな」
控えの男は頭を下げる。
「申し訳ございませぬ」
「責めてはおらぬ。三郎は米を見るか」
「そのようです」
「なら、こちらも動き方を変える」
大膳は目を開いた。
「米を止めすぎるな。値を上げすぎれば、津島や熱田の商人が匂いを嗅ぐ。あれらは清洲の中だけでは収まらぬ」
「では」
「一度、値を戻せ」
控えの男が驚いた顔を上げる。
「戻すのでございますか」
「そうだ。相場だったと言わせる。那古野が騒いだ途端に値が戻れば、三郎は証を失う。だが、米屋は一度こちらの声で動いた。次も動く」
大膳は薄く笑った。
「米は止めるだけが手ではない。戻しても手になる」
清洲の影は、米の値を上げるだけでなく、今度は戻すことで道を消そうとしていた。
那古野の夜、龍之介は飯場の火を見ていた。
藤吉郎は隣で握り飯の大きさを手で示している。
「これが昨日の大きさです。今日の弥吉の飯は、これくらいでした」
「よく覚えているな」
「飯ですから」
龍之介は少し笑った。
だが、すぐに表情を戻した。
飯の大きさ。
米札の傷。
升屋の北蔵。
津島、熱田の商い筋。
小さな握り飯から、尾張の大きな道が見え始めている。
戦場で槍を振るうより、ずっと複雑だ。
だが、これも戦なのだろう。
腹を握れば、人は動く。
腹を守れば、人は帰ってこられる。
信長は、その道を見ようとしている。
龍之介は手を開いた。
今日は誰も斬っていない。
だが、米の値に隠れた刃を見た。
清洲は次に、値を戻すかもしれない。
証を薄めるために。
それでも、一度動いた米の道は、完全には消えない。縄の跡、札の傷、飯の大きさ、人の顔。そこには必ず何かが残る。
龍之介は、清洲の方角を見た。
まだ斬る時ではない。
だが、次に見るべき道は決まった。
津島。
熱田。
米と商いの道。
清洲門前の影は、尾張の広い道へつながり始めていた。
第37話─了




