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【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


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第36話 余り飯の行方

 勘十郎の若衆の場は、少しずつ形を持ち始めていた。


 竹若が礼の始めと終わりを告げ、弥八郎が木太刀や稽古道具を並べる。権六は武芸の形を見て、勝三郎は若衆の顔を見る。勘十郎は上座から、その場が自分のものになっていくのを、まだ戸惑いながらも受け止めていた。


 祝いの太刀は、開かれぬまま座敷の奥にある。


 包みの前には、贈主返答待ちの札が置かれていた。


 清洲は、その札を嫌がっているはずだと龍之介は思っていた。名のない祝いを名のないまま置いておく。その曖昧さこそ清洲の手だったが、札を置かれたことで、曖昧さは問いに変わった。


 ただ、問いに変わったからといって、火種が消えるわけではない。


 太刀を開けたい者は、まだいる。


 役を欲しがる者もいる。


 そして、場の中に入れなかった者たちもいた。


 それを最初に拾ったのは、やはり藤吉郎だった。


 朝の庭で、藤吉郎は信長の前に座り、いつになく真面目な顔で言った。


「勘十郎様の館で、飯の数が合いません」


 信長は少し眉を上げた。


「飯か」


「はい。若衆の人数より、握り飯が多く消えています」


 又左が呆れたように言う。


「お前、とうとう他人の飯まで数え始めたのか」


「必要なので」


 藤吉郎は真顔のままだった。


 新五が横から補う。


「館の飯場に出入りする者を、藤吉郎に見せました。若衆は二十人ほど。手伝いを入れても、握り飯の消え方が多いようです」


 平手が静かに目を細めた。


「見物に来た者へ流れているか」


「たぶん」


 藤吉郎は頷いた。


「稽古場に入れない若い人たちが、飯場の裏に来ています。全部が悪い人ではありません。ただ、清洲門前で見た顔も少し混じっています」


 信長は笑わなかった。


「場の外か」


 龍之介は、その言葉に胸の奥が冷えるのを感じた。


 坂井大膳が狙うなら、そこだ。


 勘十郎の場は少しずつ固まり始めている。竹若も弥八郎も、役を得て場の内側に置かれた。なら、清洲は内側を無理に崩すより、外側に溜まった者を使う。


 入れなかった者。


 飯だけ欲しい者。


 役を得た者を妬む者。


 そういう者たちは、声をかけられれば動きやすい。


「若様」


 龍之介は口を開いた。


「飯を盗んだ者を責めるだけでは、清洲へ流れます」


「分かっておる」


 信長は短く答えた。


「腹を空かせた者を叩けば、叩かれぬ場所へ逃げる。そこへ清洲が飯を出す」


 藤吉郎が小さく頷いた。


 それを一番よく分かっている顔だった。


 信長は藤吉郎へ向く。


「今日も見ろ。だが、食うな」


「見ます」


「飯を持ち出すな」


「……はい」


「今、間があったな」


「持って行った方がいい場合もあります」


 藤吉郎は正直に言った。


 信長は少しだけ口元を緩めた。


「持って行くなら新五に言え。勝手に使うな」


「はい」


 信長は次に龍之介へ視線を移す。


「龍之介、お前も行け。ただし、勘十郎の場の中へは入るな。外を見る」


「承知しました」


「場の外にいる者を、敵と決めるな。だが、清洲の手が入っていると思って見ろ」


「はい」


 信長は最後に言った。


「飯が余る場所には、人が集まる。飯が足りぬ場所にも、人が集まる。どちらも見ろ」


 勘十郎の館では、その日も稽古が始まっていた。


 竹若の声は、昨日より少し落ち着いている。


「これより、稽古を始めます」


 声が庭に通ると、若衆たちが姿勢を正した。


 弥八郎は木太刀を並べている。前の日に比べると動きが速い。勝三郎に言われたことを、腹の中でまだ噛みしめているのだろう。道具を並べる役を下働きだと思うか、場を支える役だと思うか。その答えは、まだ出ていないように見えた。


 勘十郎は上座に座り、若衆の動きを見ていた。


 太刀の包みは、奥に置かれている。


 贈主返答待ちの札もそのままだ。


 権六は勘十郎の少し脇に控え、勝三郎は庭の端から若者の顔を見ている。


 龍之介は、さらに外側にいた。


 館の塀近く、飯場へ向かう道の陰である。新五と藤吉郎も一緒だった。稽古の場そのものではなく、そこへ入れない者の動きを見るためだ。


 飯場の裏には、確かに若い者が何人かいた。


 年は十五、六から二十前後。小者、半端な若衆、誰かの供、荷運びの手伝い。身分も役も揃っていない。場の中へ入るほどではなく、完全に追い払われるほどでもない者たちだった。


 藤吉郎が小声で言う。


「昨日より増えています」


「飯があると知ったからか」


 龍之介が問うと、藤吉郎は首を横に振った。


「飯だけではありません。稽古場を見たいのです。竹若殿が声を出す。弥八郎殿が道具を並べる。そういうのを見て、自分も何かしたい顔になっています」


 新五が低く言った。


「それを清洲が拾う」


「はい」


 飯場の端で、一人の若者が俯いていた。


 細い体つきで、頬がこけている。だが、目だけはぎらぎらしていた。名を佐吉というらしい。飯場の下働きを手伝うこともあるが、正式に館へ仕えているわけではない。稽古場へ入りたいが、まだ誰にも認められていない者だった。


 佐吉は、握り飯の籠を見ている。


 そして、その先にある稽古場を見ている。


 どちらも欲しいのだ。


 龍之介はそう思った。


 腹を満たしたい。


 場にも入りたい。


 その二つを同時に持つ者は、使われやすい。


 その時、飯場の向こうに男が一人現れた。


 清洲門前で見た大男ではない。刀見でもない。商人風でもない。だが、足の運びが軽すぎる。飯場に用がある者の歩き方ではなかった。


 男は佐吉の横に立ち、何かを言った。


 声は聞こえない。


 佐吉は首を振る。


 男は懐から小さな包みを見せた。握り飯ではない。干し飯か、干し魚か。いずれにせよ、腹を空かせた者には十分な誘いだった。


 藤吉郎の手が動いた。


 新五が止める。


「まだだ」


 藤吉郎は唇を噛んだ。


 佐吉は、包みを見て、やがて受け取った。


 男は稽古場の方を顎で示す。


 佐吉の顔が強張る。


 龍之介は、そこで動きたくなる身体を抑えた。


 今止めれば、佐吉は清洲の男に使われた者で終わる。何をさせるつもりだったのか分からないまま、道が切れる。


 見る。


 今は見る。


 佐吉は飯場を離れ、薪の陰を通って稽古場の裏へ向かった。


 稽古場では、木太刀の打ち込みが始まっていた。


 竹若が声を出し、弥八郎が木太刀を配る。若衆は二人一組で向かい合い、権六の合図を待つ。まだぎこちないが、昨日よりは少し形になっている。


 佐吉は、庭の端に置かれた予備の木太刀へ近づいた。


 誰も見ていないと思ったのだろう。


 だが、勝三郎は見ていた。


 龍之介も、外から見ている。


 佐吉は木太刀を一本取り、薪小屋の方へ隠した。


 そして、何食わぬ顔で飯場の方へ戻ろうとした。


 その直後、弥八郎が声を上げた。


「木太刀が一本足りませぬ」


 場がざわめく。


 竹若が振り返った。


「さっき並べた数は」


「揃っていた」


 弥八郎の顔が青くなる。


 自分の役だ。


 道具の数を任されたばかりで、いきなり木太刀が消えた。若衆の何人かが笑いかけ、すぐに顔を引き締める。清洲の太刀とは違う。これは場の足元の失態だ。


 弥八郎が責められれば、せっかく場の内側に置いた役が崩れる。


 竹若の顔も動いた。


 昨日までなら、弥八郎を責めていたかもしれない。


 だが、竹若は一度息を吸った。


「稽古を止めます」


 声は少し震えていたが、庭に通った。


「木太刀の数を改めます。勝手に動くな」


 勘十郎が竹若を見る。


 竹若は頭を下げた。


「場を乱さぬためにございます」


 勘十郎は頷いた。


「よい」


 弥八郎が驚いたように竹若を見た。


 竹若はそちらを見ない。


 ただ、終わりではなく止めを告げる役として、庭の空気を押さえていた。


 龍之介は、少しだけ胸の奥が熱くなるのを感じた。


 役が効いている。


 竹若が、場を壊す側ではなく、場を止める側へ半歩移った。


 勝三郎はその間に、外側へ視線を流した。


 龍之介は頷き、佐吉の後を追う。


 走りすぎない。


 人より少し早く、しかし逃げ道を塞ぐように。


 佐吉は薪小屋の裏へ戻り、隠した木太刀をさらに奥へ押し込もうとしていた。


「佐吉」


 龍之介が名を呼ぶと、佐吉の肩が跳ねた。


 逃げようとする。


 龍之介は前に出ず、横へ動いた。


 逃げる先を塞ぐだけ。


 佐吉は足を止めた。


「殴られたくなければ、木太刀を出せ」


 新五が後ろから静かに言った。


 藤吉郎は、佐吉の手元ではなく顔を見ている。


 佐吉は震えていた。


 怖さだけではない。


 恥と怒りと空腹が混じった顔だった。


「俺は、何も」


「隠した木太刀を出せば、話はそこからだ」


 龍之介は声を荒げなかった。


 佐吉はしばらく唇を噛み、やがて薪の奥から木太刀を出した。


 藤吉郎が小声で言う。


「誰に言われた」


 佐吉は黙る。


 新五が一歩近づいた。


「言わねば、弥八郎が責められる。道具を任された者が、最初の日から木太刀をなくしたことになる」


 その言葉に、佐吉の顔が揺れた。


 弥八郎を困らせるつもりはあったのかもしれない。


 だが、実際に誰かを潰す重さまでは、考えていなかったのだろう。


「……飯をくれると」


 佐吉は小さく言った。


「それと」


「それと」


「木太刀がなくなれば、弥八郎が外される。そうしたら、俺にも役が回るかもしれないと」


 藤吉郎が息を呑んだ。


 龍之介は佐吉を見る。


 清洲の手は、やはりそこを突いていた。


 飯。


 役。


 妬み。


 小さな欲が、場を壊す道具に変えられている。


「誰だ」


 新五が問う。


 佐吉は首を振った。


「名は知らない。清洲門前の方で見た男だ。大きくはなかった。笑っていた。俺みたいな者でも、役は欲しいだろうって」


 龍之介は眉を寄せた。


 大男ではない。


 刀見でもない。


 清洲は、使う者を変えている。


「佐吉。お前は役が欲しいのか」


 龍之介が問うと、佐吉は顔を歪めた。


「欲しい」


 正直な声だった。


「飯も欲しい」


「そうか」


「悪いか」


「悪くはない」


 佐吉は驚いたように顔を上げる。


 龍之介は続けた。


「だが、人の役を壊して奪えば、次はお前の役も誰かに壊される」


 佐吉は黙った。


 藤吉郎が懐に手を入れかけ、新五に見られて止めた。


 龍之介はそれに気づき、少しだけ頷く。


 ここで握り飯を出せば、盗めば飯が出る形になる。


 それは違う。


 龍之介は木太刀を手に取り、佐吉へ言った。


「来い。自分で返せ」


「俺が?」


「そうだ。隠した者が返す」


「殴られる」


「殴らせぬ。ただし、逃がしもせぬ」


 佐吉は震えながら、頷いた。


 稽古場に戻ると、場はまだ止まっていた。


 竹若が声を出して若衆を座らせ、弥八郎は青い顔で道具の前に立っている。勘十郎は黙って待っていた。


 龍之介は庭の端で止まった。


 中へ入るのは佐吉だ。


 佐吉は木太刀を抱え、震えながら進んだ。


 若衆の視線が集まる。


 勘十郎の前まで来ると、佐吉は膝をついた。


「私が、隠しました」


 庭がざわめく。


 弥八郎の顔が変わった。


 竹若が何か言いかけ、口を閉じる。


 勘十郎は佐吉を見下ろした。


「なぜだ」


「飯をくれると。弥八郎殿が外れれば、俺にも役が回るかもしれないと」


 佐吉の声は震えていた。


「役が欲しかったか」


「欲しかったです」


「飯もか」


「はい」


 勘十郎は、しばらく黙った。


 怒鳴れば簡単だ。


 叩き出せば、場は締まるように見える。


 だが、それをすれば佐吉は清洲へ流れるだろう。あるいは別の場を壊す者になる。


 権六も勝三郎も、口を出さなかった。


 これは勘十郎の場だ。


 勘十郎が裁かねばならない。


 勘十郎は、やがて言った。


「今日は稽古には入れぬ」


 佐吉は顔を伏せた。


「三日、飯場で椀を洗え。弥八郎の道具並べも手伝え。木太刀の数を声に出して数えろ」


 佐吉が顔を上げる。


「それは」


「罰だ」


 勘十郎は言った。


「ただし、逃げずに三日やれば、場の端で見ることは許す。さらに続けたければ、弥八郎に頼め」


 弥八郎が驚いた。


「私に、ですか」


「道具の役は、お前の役だ。佐吉を使うかどうかは、お前が見ろ」


 弥八郎は口を開きかけ、閉じた。


 目が揺れている。


 自分を陥れようとした相手を、下につけられたのだ。腹が立つだろう。だが、同時に、自分の役が本物になった瞬間でもあった。


 竹若が静かに言った。


「稽古を再開してよろしいでしょうか」


 勘十郎は頷いた。


「告げよ」


 竹若は深く息を吸った。


「木太刀の数、改め終わりました。稽古を再開します」


 声は、朝よりも落ち着いていた。


 場が動き出す。


 佐吉は飯場の方へ下がり、弥八郎は木太刀を並べ直す。竹若は声を出し、若衆は再び立った。


 龍之介は庭の外から、その光景を見ていた。


 勘十郎が裁いた。


 信長ではない。


 権六でもない。


 勝三郎でもない。


 勘十郎自身が、佐吉を叩き出さず、場の中の端へ置いた。


 弟の場は、また少しだけ弟のものになった。


 那古野へ戻ると、信長は報告を聞いて、しばらく何も言わなかった。


 龍之介、新五、藤吉郎、勝三郎、権六が庭に控えている。平手は少し離れた場所で文を読んでいたが、耳はこちらへ向いていた。


 信長は、やがて口元を上げた。


「勘十郎が佐吉を裁いたか」


「はい」


 勝三郎が答える。


「叩き出さず、三日の飯場働きと道具並べの手伝いを命じました」


「よい」


 信長は短く言った。


「かなりよい」


 権六の表情が少し緩む。


「勘十郎様は、場を壊さずに済ませられました」


「それができたなら、上出来だ」


 信長は藤吉郎へ向いた。


「お前、握り飯を出さなかったな」


「出しそうになりました」


「出さなかった」


「はい」


「よい」


 藤吉郎は、ほっとしたように息を吐いた。


「でも、佐吉は腹が空いていました」


「だろうな」


「飯場で椀を洗えば、飯は食べられますか」


「食べられるようにしてやれ。ただし、盗んだ褒美ではなく、働いた飯としてだ」


 藤吉郎は大きく頷いた。


「はい」


 信長は次に龍之介を見た。


「お前も、よく中へ踏み込みすぎなかった」


「踏み込みかけました」


「踏み込まなかった」


「はい」


「ならよい」


 信長は庭に線を引いた。


「清洲は、場の外を狙った。佐吉を使い、弥八郎を落とし、竹若の声を揺らし、勘十郎の場を乱そうとした」


 線の外に、小さな丸を描く。


「こちらは、佐吉を外へ捨てなかった。場の端に置いた。これで、外の者も少しは見るようになる」


 平手が静かに頷いた。


「ただし、飯が要りますな」


「そこだ」


 信長は言った。


「場の外にいる者を全員抱えることはできぬ。だが、飯がなければ清洲が飯を出す。飯だけ出せば、ただ群がる。なら、飯と役を一緒に置く」


 藤吉郎の目が輝いた。


「飯と役」


「そうだ。働いた飯だ。見物だけで食わせるな。だが、働く場を作れ」


 龍之介は、その言葉に大きく頷いた。


 場を守るには、場の中だけを固めても足りない。


 外の者にも、端の役を作る。


 飯場、道具、掃除、薪、紙、荷。


 それらは地味だ。


 だが、そこに居場所がなければ、清洲の飯が勝つ。


 信長は勝三郎へ向いた。


「勘十郎の場で、端役を作れ。飯場、道具、庭掃き、薪運び。若衆ではない者にも、小さな役を置く」


「承知しました」


「ただし、大きくするな。小さく、見えるようにだ」


「はい」


 権六が続けた。


「勘十郎様にも、その形をお伝えします」


「勘十郎が自分で決めたようにせよ」


「承知しました」


 信長は笑った。


「弟の場は、弟に作らせる。こちらは、崩れぬよう道を置く」


 龍之介は、その言葉を胸に刻んだ。


 信長は、勘十郎の場を奪わない。


 だが、清洲にも渡さない。


 その間に、細い道を何本も通していく。


 その夜、清洲では坂井大膳が佐吉の件を聞いていた。


 木太刀は隠された。


 稽古は止まった。


 だが、弥八郎は落ちなかった。


 竹若も乱れなかった。


 佐吉は叩き出されず、飯場と道具の端役に置かれた。


 大膳は、目を閉じて聞いていた。


「外の者を、端に入れたか」


「はい」


「三郎ではないな」


「勘十郎様のご裁きだと」


 大膳は、ゆっくり目を開いた。


「弟君も、育つか」


 控えの男は答えられなかった。


 大膳は怒っていない。


 むしろ、面白がっているようにも見えた。


「場の中を崩せば、端に役を作る。端を突けば、端も場に入れる。三郎の周りの者どもは、よく回る」


「では、次は」


「飯だ」


 大膳は短く言った。


「役を増やせば飯が要る。飯場を広げれば米が要る。小さな場でも、人が増えれば腹が増える。そこを見ろ」


「米を止めますか」


「すぐ止めるな。値を上げろ。少しずつだ」


 控えの男が頭を下げる。


 大膳は、鞘のまま置かれた太刀のことを思うように、指で膝を叩いた。


「場は飯で動く。なら、飯の値で場を揺らせる」


 清洲の影は、若者の欲から、今度は米の値へと伸び始めた。


 那古野の夜。


 龍之介は、飯場の近くで藤吉郎と並んで座っていた。


 藤吉郎は、握り飯を一つ手に持っている。


「これは自分の分です」


「聞いていない」


「勝手に配らないよう、先に言いました」


「よろしい」


 藤吉郎は半分に割って食べた。


 残り半分をじっと見ている。


「佐吉にも、働いた飯が出るんですね」


「出るようにする」


「よかった」


「だが、盗めばもらえると思わせてはいけない」


「はい。働いた飯です」


 藤吉郎は残りの半分を口へ入れた。


 龍之介は飯場の火を見る。


 清洲は、飯を使う。


 こちらも飯を使う。


 だが、同じ飯でも意味が違う。


 清洲の飯は、人を外へ引く。


 那古野の飯は、人を場へ戻す。


 そうでなければならない。


 遠くで、又左が源太と孫七に待つ稽古をさせている。勝三郎は権六と話し、平手は小さな端役をどう整えるか考えている。新五は、藤吉郎が勝手に飯を配らないよう、さりげなく見ていた。


 少しずつ、那古野の中に仕組みができていく。


 だが、仕組みができれば飯が要る。


 飯が要れば、米の道が要る。


 米の道を清洲が狙わないはずがない。


 龍之介は清洲の方角を見た。


 まだ斬る時ではない。


 だが、次の刃は米の中に隠れているかもしれない。


 腹を満たせば、人は立つ。


 腹を握られれば、人は動かされる。


 龍之介は静かに息を吐いた。


 鞘のままの太刀よりも、握り飯一つの方が、人を深く斬ることもある。


 那古野の灯は、飯場の火に照らされながら、夜の中で揺れていた。


第36話─了

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