第35話 場の外の欲
祝いの太刀は、開かれぬまま勘十郎の館に残った。
ただし、置かれているだけではなかった。
その太刀は、若衆の目を集めた。包みの上にある清洲御用の札は、誰の名も示していない。けれど、名がないからこそ、見る者の胸に勝手な名を浮かばせる。
守護様からかもしれない。
大和守様方からかもしれない。
坂井大膳からかもしれない。
あるいは、清洲そのものが勘十郎様を認めた証かもしれない。
名がないものほど、人は都合よく名を乗せる。
龍之介は、その危うさを考えていた。
那古野の庭では、朝から藤吉郎が飯屋の話をしている。弥吉は店の外へ出る仕事を減らされ、今は裏で椀を洗い、薪を割っているらしい。小平は寺で紙仕事を続けている。小さな耳の帰り道は、細いながらも形になりつつあった。
だが、清洲は耳だけを狙うわけではない。
欲しがる心を狙う。
居場所が欲しい者、目立ちたい者、誰かに認められたい者。そういう隙間に、清洲は名のない荷を置く。
勘十郎の館にある太刀も、その一つだった。
信長は、藤吉郎の報告を聞きながら、庭の土に短い線を引いた。
「竹若は、昨日から声を出す役だったな」
「はい」
藤吉郎が答える。
「礼の始めと終わりを告げる役だと聞きました」
「うまくやっているか」
「まだ見ていません」
「なら見ろ。飯屋だけ見るな」
「はい」
藤吉郎は素直に頷いた。
信長は龍之介へ顔を向ける。
「竹若を外へ弾かなかったのはよい。だが、あれ一人で済むと思うか」
「済まないと思います」
「なぜだ」
「太刀を欲しがる者は、一人ではないからです」
信長は、わずかに笑った。
「大膳も同じことを考えていそうだな」
龍之介は頭を下げた。
「清洲は次に、竹若ではない若者を使うかもしれませぬ。竹若殿が役を得たことで、別の者が焦ることもあります」
「目立つ場が一つできれば、そこに立てぬ者が生まれる」
信長は枝を折った。
「よし。今日は勘十郎の館を見ろ。ただし、勘十郎の場へ踏み込むな。勝三郎と権六に任せる。お前は外の動きと、戻ってくる者の顔を見る」
「承知しました」
「藤吉郎」
「はい」
「お前も行け。竹若と、竹若ではない者を見る。飯が出ても食うな」
「半分でも」
「食うな」
「はい」
新五が横から言った。
「私も行きます。藤吉郎を一人にすると、顔だけでなく足も走ります」
「行け」
信長は短く命じた。
龍之介は、清洲の方角ではなく、勘十郎の館の方角を見た。
弟の場。
そこへ龍之介が入りすぎれば、兄の影になる。
けれど、見なければ清洲の影が入る。
その間合いを誤れば、太刀より先に人の腹が裂ける。
勘十郎の館では、若衆の稽古が始まっていた。
前日よりも人数は増えている。噂を聞いて覗きに来た者もいるのだろう。庭には木太刀が並べられ、端には礼法を見るための座が設けられている。上座には勘十郎が座り、その少し脇に権六と勝三郎が控えていた。
太刀の包みは、座敷の奥に置かれている。
昨日と同じように、清洲御用の札がついていた。
ただ、包みの前には新しい小さな札が添えられていた。
贈主返答待ち。
短い言葉だった。
勘十郎が書かせたのだという。
誰の祝いか分からぬまま開けない。その意思を、包みの前に置いた。返してはいない。受けてもいない。だが、問いは残している。
龍之介は遠目にそれを見て、胸の中で頷いた。
これは強い。
太刀がただ宙に浮いているのではない。問いとして置かれている。
問いに札がつけば、噂も少し形を変える。開けないのは臆したからではなく、返答を待っているからだと言える。
竹若は、若衆の前に立っていた。
緊張している。
だが、昨日の不満だけの顔ではない。礼の始めを告げるため、声を整えている。人前で声を出す役を与えられたことで、背筋に妙な力が入っていた。
「これより、稽古を始めます」
竹若の声は少し上ずった。
若衆の何人かが笑いかける。
勘十郎が軽く目を向けると、笑いは消えた。
竹若は顔を赤くしたが、踏みとどまった。
権六が小さく頷く。
勝三郎は、竹若ではなく、その周囲を見ていた。
龍之介も同じ場所を見る。
若衆の中に、一人だけ、竹若を強く見ている若者がいた。
細身で、目が速い。
名は、日比野弥八郎と呼ばれていた。家は大きくない。竹若と同じように、勘十郎の場で自分の位置を得たい若者だろう。
弥八郎は、竹若が声を出すたびに唇を動かしていた。
笑っているのではない。
羨んでいる。
藤吉郎が隣で小さく言った。
「竹若殿を見ています」
「見たいのは竹若か、竹若の役か」
龍之介が問うと、藤吉郎は少し考えた。
「役です。たぶん、声を出すところが欲しい顔です」
「分かるのか」
「飯屋で、客の前に出たい小僧と同じ顔です」
新五が低く言った。
「また飯屋か」
「似ているのです」
藤吉郎は真剣だった。
稽古はぎこちなく進んだ。
木太刀の打ち込み、礼の作法、座へ下がる順。勘十郎は時々口を挟み、権六が武芸の形を直し、勝三郎が若衆の顔を拾っていく。清洲の者は表には出ていない。だが、誰かの言葉がすでに若衆の腹に入っている気配はある。
太刀の包みは、静かに座敷の奥にあった。
贈主返答待ち。
その札があるせいで、誰も簡単には触れない。
それでも、目は集まる。
弥八郎の目も、何度も太刀へ向いた。
昼前、稽古が一段落した時だった。
竹若が終わりの礼を告げようとしたところで、弥八郎が一歩前に出た。
「勘十郎様」
場の空気が止まる。
竹若の顔がわずかに強張った。
弥八郎は頭を下げ、よく通る声で言った。
「本日の稽古初め、まことにめでたきことにございます。されど、祝いの太刀を座敷の奥に置いたままでは、若衆の目も落ち着きませぬ。せめて、稽古の終わりに太刀の前で礼をしてはいかがでしょう」
言葉は丁寧だった。
開けろとは言っていない。
触れとも言っていない。
ただ、太刀の前で礼をしようと言っただけだ。
だが、それをすれば、太刀は場の中心になる。
誰の名もない太刀へ、若衆が礼をすることになる。
龍之介は、胸の奥で冷たい線が走るのを感じた。
うまい手だ。
清洲が教えたのか、弥八郎自身が考えたのかは分からない。だが、開けさせられないなら、礼をさせる。受けさせられないなら、場の中心に置かせる。
勘十郎の目が太刀へ動いた。
若衆の中にも、頷きかけた者がいる。
竹若は黙っていた。
昨日の竹若なら、同じように賛成したかもしれない。太刀を見たい気持ちは、まだ消えていないはずだ。
だが、今の竹若は終わりを告げる役を持っている。
その役が、彼を半歩だけ踏みとどまらせた。
「弥八郎」
竹若が言った。
声はまだ少し震えている。
「今日の終わりは、木太刀へ礼でよい」
弥八郎の顔が変わった。
「なぜだ。祝いの太刀があるのに」
「誰の祝いか、まだ返事が来ていない」
「礼をするだけだ」
「礼をすれば、場の太刀になる」
竹若は、そこまで言って一度言葉を切った。
自分でも驚いたようだった。
だが、続けた。
「勘十郎様が、誰の太刀でもないなら開けぬと仰った。なら、誰の祝いか分かるまで、礼もいらぬ」
場が静まった。
弥八郎は、竹若を睨んだ。
「昨日まで、見たいと言っていたのはお前だ」
「言った」
竹若は認めた。
「だが、昨日それで恥をかいた。今日は同じことを言わぬ」
若衆の何人かが息を呑んだ。
龍之介は、竹若を見る目を改めた。
役を与えられたことで、竹若はただ囲われただけではない。昨日の自分の失敗を、場の中で言葉にした。それは小さなことではない。
弥八郎は、なおも引かなかった。
「それでは、清洲に失礼だ」
勘十郎が口を開いた。
「清洲の誰にだ」
弥八郎は固まった。
また同じ問い。
だが、勘十郎の声には昨日より力があった。
「誰に失礼なのか、言えるか」
「清洲御用と」
「だから、誰だ」
弥八郎は答えられなかった。
勘十郎は立ち上がった。
若衆が一斉に姿勢を正す。
「本日の終わりは、木太刀へ礼。祝いの太刀は、贈主の返答があるまで場へ出さぬ」
そして竹若へ目を向ける。
「竹若。告げよ」
竹若は、深く息を吸った。
「本日の稽古、これにて終わります。木太刀へ礼」
若衆は木太刀へ向かって礼をした。
太刀の包みは、奥に置かれたまま。
誰も、その前で礼をしなかった。
稽古の後、弥八郎は一人で庭の端へ出た。
龍之介は近づかなかった。
新五も藤吉郎を止める。
ここで那古野の者が弥八郎へ話しかければ、勘十郎の場へ外から手を入れた形になる。
代わりに、勝三郎が動いた。
勝三郎は勘十郎の場に入ることを許されている。信長の近くの者ではあるが、今日は見届け役としてそこにいる。
弥八郎は、勝三郎が近づくと身構えた。
「責めに来られたのですか」
「責めるなら権六殿が来る」
「では」
「見に来た」
勝三郎は、弥八郎の横に立った。
「お前は、太刀が欲しいのか。役が欲しいのか」
弥八郎は唇を噛んだ。
「私は、勘十郎様のためを思って」
「それだけか」
「……竹若ばかり、目立つのは面白くありません」
正直な言葉だった。
勝三郎は頷いた。
「それを言えたなら、まだよい」
「馬鹿にしておられるのですか」
「していない。目立ちたいと思うのは悪ではない。ただ、誰の名もない太刀へ若衆を礼させれば、お前の目立ち方は清洲の手になる」
弥八郎は何も言えなかった。
勝三郎は続ける。
「勘十郎様の場で目立ちたいなら、太刀ではなく稽古で目立て」
「稽古で」
「お前は足が速い。木太刀の取り回しも悪くない。次から、稽古道具の並べを見ろ。早く並べ、早く片づける。場の始まりと終わりを支える役だ」
弥八郎は顔を上げた。
「それは、下働きでは」
「下働きと思うなら、清洲の太刀に礼しておけ」
勝三郎の声が少しだけ厳しくなる。
「場を支える者は、見ている者には分かる。分からぬ者にだけ目立ちたいなら、清洲へ行け」
弥八郎は、拳を握った。
怒っている。
だが、すぐに背を向けて走り去りはしなかった。
「考えます」
「それでよい」
勝三郎は、それ以上言わなかった。
龍之介は遠くから、そのやり取りを見ていた。
弥八郎も排除しない。
竹若と同じように、場の内側へ置く。
ただし、竹若とは違う役で。
清洲が欲を使うなら、こちらは欲の置き場を作る。
簡単ではない。
だが、斬るよりはよほど場が残る。
那古野へ戻ると、報告を聞いた信長は声を出して笑った。
「竹若が止めたか」
「はい」
勝三郎が答える。
「昨日の自分を認めたうえで、今日は止めました」
「やるではないか」
信長は満足げだった。
権六も少しだけ表情を緩めている。
「勘十郎様も、太刀を場へ出されませぬでした」
「よい」
信長は頷いた。
「場が少しずつ、勘十郎のものになっている」
平手が静かに言う。
「ただ、弥八郎という若者も出ましたな」
「出た。次は別の者も出る」
信長はすぐに笑みを消した。
「太刀を欲しがる者は一人ではない。大膳はそれを見ている」
龍之介は報告を補った。
「弥八郎殿は、太刀そのものより、役を欲しがっているように見えました」
「なら役を置け」
「勝三郎殿が、稽古道具の並べと片づけを見る役を示されました」
「よい」
信長は勝三郎を見た。
「お前、うまくやったな」
「責めても清洲へ寄るだけです」
「分かっているではないか」
「若様を見て育ちましたので」
信長は笑った。
又左が横で腕を組む。
「しかし、太刀を欲しがる者が次々出るなら、いっそ太刀を清洲へ返せばよいのでは」
平手が首を横に振った。
「返せば、清洲の祝いを無下にしたと言われましょう」
「では、受けぬまま置き続けるのですか」
龍之介が答えた。
「置き続けることで、誰が欲しがるかが見えます」
又左は顔をしかめる。
「餌のようだな」
「はい。ですが、餌にしているのは清洲です。こちらは、食いつかぬよう場を守っております」
又左は納得しきれない顔だったが、反論はしなかった。
信長は、太刀の話をまとめるように言った。
「勘十郎の太刀は、まだ動かすな。贈主返答待ちのまま置け。だが、太刀の周りで動いた者は記せ。竹若、弥八郎、その次もだ」
「承知しました」
勝三郎が頭を下げる。
信長は藤吉郎へ目を向けた。
「お前は、竹若と弥八郎の飯を見るな」
「飯を見ないのですか」
「直接見るな。見すぎれば相手に分かる」
「では」
「勘十郎の館へ入る飯の量を見る。若衆が増えれば飯も増える。飯が増えたのに人が増えていなければ、どこかへ余りが流れている」
藤吉郎の目が輝いた。
「飯の流れですね」
「食うなよ」
「見ます」
「食うな」
「……はい」
龍之介は、そのやり取りを聞きながら思った。
信長は、また飯を戦の目に変えた。
若衆の数。
稽古の場。
外から入る者。
それらは飯の量に出る。
戦場の兵糧ほど大きな話ではない。だが、人が集まる場所では、飯が嘘をつきにくい。
小さな内側の戦は、こういうところに出る。
その夜、清洲では坂井大膳が報せを聞いて、珍しく短く笑った。
「弥八郎も囲われたか」
控えの男が頭を下げる。
「はい。稽古道具を並べる役を示されたようです」
「太刀に礼をさせる手は潰えたな」
「次はいかがいたしましょう」
大膳は目を細めた。
「太刀を欲しがる者は、まだいる。だが、同じ手を重ねれば、三郎の側に読まれる」
「では」
「太刀から離れる」
控えの男が顔を上げた。
大膳は静かに続ける。
「勘十郎様の場が、少しずつ整っている。なら、その場へ必要なものをこちらから与えようとするのはもう危うい。次は、場の外だ」
「場の外」
「稽古に来られぬ者、役を得られぬ者、飯だけ食いに来て追い返された者。そういう者を拾え」
控えの男は、深く頭を下げた。
大膳は、鞘のまま置かれた太刀を思うように、指で膝を叩いた。
「場の中を固めるなら、外に不満が溜まる。三郎が道を作るなら、こちらは道から外れた者を見る」
清洲の影は、太刀から離れ、今度は場の外側へ伸びていった。
那古野の夜は、湿った風が吹いていた。
龍之介は庭に座り、木刀の鞘を見ている。
抜かない太刀。
開けない包み。
触れない祝い。
それらが、これほど人を動かすとは、現代にいた頃の自分なら思わなかっただろう。
刀は武器だ。
だが、武器である前に名が乗る。
誰から贈られたか。
誰が開けたか。
誰が礼をしたか。
誰が欲しがったか。
それだけで、人の立ち位置が変わる。
龍之介は手を開いた。
呂布の武は、抜かれた刃に反応する。
郭嘉の知は、抜かれる前の手を見る。
だが、今必要なのは、そのどちらかだけではない。
欲しがった者を斬らず、場の中に置く。
目立ちたい者へ役を与え、清洲へ流れぬようにする。
それは、勝つための策であると同時に、人を残すための策だった。
遠くで藤吉郎が、飯の数をどう数えるか新五に相談している。新五は面倒そうにしながらも、聞いている。又左は源太と孫七に、待つ稽古をさせていた。彦右衛門は荷縄を見ながら、若い者に結び方を教えている。
少しずつ、那古野の中に役が増えていく。
清洲は、その外を狙うだろう。
場に入れなかった者。
役を得られなかった者。
飯だけ欲しい者。
次の手は、そこへ伸びる。
龍之介は清洲の方角を見た。
まだ斬る時ではない。
だが、鞘のままの太刀が動かぬ間にも、人の欲は動く。
その欲を見失えば、刃は誰かの手で勝手に抜かれる。
那古野の灯は、まだ消えていなかった。
第35話─了




