第34話 鞘のままの太刀
勘十郎の館に置かれた祝いの太刀は、開かれぬまま一夜を越した。
返したわけではない。
受けたわけでもない。
誰からの祝いかを問うため、包みを解かずに置いた。それだけのことだったが、清洲門前ではすでに尾がついていた。
勘十郎様は清洲の祝いを拒んだ。
いや、兄上の顔色を見て開けられなかった。
権六が止めた。
勝三郎が睨んだ。
太刀は見事なものらしい。
開けもしないのは、かえって失礼ではないか。
噂は、太刀そのものより早く走った。
藤吉郎が飯屋から拾ってきた話を聞き、信長は少しも笑わなかった。
「今度は、開けさせに来るな」
信長が言うと、平手が頷いた。
「祝いの品は、受けるか返すかだけではございませぬ。中身を改めた時点で、受けたと見なす者もおります」
龍之介は、その言葉に引っかかった。
「見るだけでも、でございますか」
「贈られた太刀を開き、疵の有無を改め、これは確かに見事なものだと場の者が認めれば、後から『受けていない』とは言いにくくなる」
平手は静かに答えた。
「まして若衆の前なら、なおさらです」
龍之介は、勘十郎の館を思い浮かべた。
若い者たちが集まり、太刀が置かれている。そこへ清洲から誰かが来て、「開けて中を改めよ」と言う。竹若のような者が「見るだけなら」と押す。勘十郎がそこで開ければ、誰の祝いか曖昧なまま、清洲御用の太刀が場の中心に据えられる。
受けていないと言っても、見たではないか、と言われる。
龍之介の胸の奥が冷えた。
信長は龍之介へ目を向ける。
「お前なら、どう見る」
「太刀そのものではなく、開ける者を見ます」
「ほう」
「誰が包みを解けと言うか。誰が疵を改めると言うか。誰が『見るだけならよい』と言うか。その者が、太刀を勘十郎様の場へ入れる役になります」
信長は満足げに頷いた。
「なら、それを伝えろ」
龍之介は一瞬、顔を上げた。
「私が行くのでございますか」
「行かぬ」
信長は即座に言った。
「お前が行けば、流れ者がまた弟の場に口を出したと言われる」
「では」
「藤吉郎」
呼ばれた藤吉郎が、ぴしりと背を伸ばした。
「はい」
「走るな」
「まだ何もしておりません」
「顔が走った」
「……はい」
信長は、藤吉郎へ向けて言った。
「勘十郎の館へ行け。だが、太刀の場へ飛び込むな。権六か勝三郎にだけ伝えろ。『太刀は、包みを解いた者の名も残す』とな」
藤吉郎は少し考えた。
「太刀は、抜いた者の名も残す」
「そうだ」
「誰が開けろと言ったか、見るのですね」
「分かっているなら、余計なことは言うな」
「はい」
新五が横から言った。
「私も行きます」
「行け。藤吉郎を一人にするな」
信長は短く命じた。
龍之介は藤吉郎へ視線を向ける。
「館の中で飯をもらっても、食べすぎるな」
「そこもですか」
「全部食べると、次も欲しくなるのだろう」
藤吉郎は目を丸くした後、少しだけ笑った。
「自分で言ったことを返されました」
「返すために覚えておいた」
「では、半分にします」
「もらう前提で話すな」
新五が淡々と言い、藤吉郎は慌てて口を閉じた。
勘十郎の館では、朝から若衆が集められていた。
礼法と武芸の稽古初めは、まだ形になったばかりである。座る位置、立つ順、太刀を置く場所、弓を持つ者の控え方。どれもぎこちない。だが、若い者たちの顔には、昨日までとは違う高揚があった。
自分たちの場ができる。
勘十郎のもとに、若い者が集まる。
そのこと自体が、彼らの胸を少し膨らませていた。
だからこそ、清洲からの祝い太刀は危うい。
それは、場が認められた証に見える。
勘十郎は上座に座り、鞘のまま置かれた太刀の包みを見ていた。包みは昨日と同じ場所にある。清洲御用と書かれた札も、そのままだ。
権六と勝三郎は脇に控えている。
そこへ、清洲から刀見を名乗る男が来た。
年は四十ほど。髪には白いものが混じり、腰には古びた刀を差している。武士にも見えるが、鍛冶や刀剣の扱いにも慣れている者の手だった。供は一人だけ。大げさな使者ではない。
だからこそ、入りやすい。
「勘十郎様。昨日の太刀、いまだ包みを解かれておらぬと聞き及びました」
男は丁寧に頭を下げた。
「祝いの品とて、疵があっては失礼にございます。拝見し、疵なきことだけ改めさせていただきたく」
竹若がすぐに顔を上げた。
「疵を見るだけなら、よいのではありませぬか」
周囲の若者たちも、ざわめいた。
太刀を見たい。
それは素直な欲だった。
勘十郎も、一瞬だけ太刀へ目を向ける。
権六は動かない。
勝三郎は、刀見の男の足元を見ていた。男の草鞋には、清洲門前の白土ではなく、鍛冶宿の裏にある赤茶けた土がついている。橘屋ではない。鍛冶宿の方から来た者だ。
清洲御用。
刀見。
疵改め。
言葉はすべて穏やかだ。
だが、太刀を開けるための道具が揃っている。
竹若がさらに言った。
「勘十郎様。受けるかどうかは、見てからでも遅くはありますまい。中身を知らずに問い続けるのも、相手に失礼かと」
勘十郎の眉がわずかに動いた。
その時、廊下の向こうで小さな足音が止まった。
藤吉郎だった。
隣には新五がいる。
藤吉郎は飛び込まない。信長に言われた通り、場の外で止まり、新五の袖を引いた。新五が勝三郎へ視線を送る。勝三郎は少しだけ身を引き、廊下の方へ近づいた。
藤吉郎は、声を潜めて言った。
「龍之介殿からです。太刀は、抜いた者の名も残す、と」
勝三郎の目が細くなる。
「それだけか」
「誰が開けろと言うかを見る、と」
「分かった」
勝三郎は場へ戻った。
権六へ短く耳打ちする。
権六の顔は動かなかった。
だが、太刀を見る目が少し変わった。
刀見の男は、まだ穏やかな顔で待っている。
「疵を改めるだけにございます。太刀を受ける受けぬは、その後でよろしいでしょう」
竹若が頷く。
「それならば、確かに」
権六が低く言った。
「竹若。お前が開けるのか」
竹若は驚いた。
「いえ、私は」
「見るだけならよいと言った。なら、誰が開ける」
竹若は言葉に詰まった。
刀見の男が助けるように言う。
「私が改めましょう」
勝三郎が静かに問う。
「どなたの命で」
「清洲御用にございます」
「誰の御用か」
男は一瞬だけ黙った。
また同じ問いだ。
だが、この問いこそが清洲の曖昧な手を止める。
「祝いの太刀に、そこまで名を問われるのですか」
男は苦笑した。
勝三郎は笑わない。
「祝いだからこそ問うのです。疵を改めた者の名も、開けろと言った者の名も、場に残ります」
勘十郎が顔を上げた。
その言葉が、届いた。
太刀は物ではない。
場に残る名だ。
勘十郎は、刀見の男へ言った。
「誰からの祝いか、まだ返事は来ておらぬ」
「清洲よりの祝いにございます」
「清洲の誰だ」
男は答えられなかった。
竹若が焦れたように言う。
「勘十郎様。そこまで問えば、清洲へ失礼では」
「名を言えぬ祝いを開ける方が、失礼ではないのか」
勘十郎の声が、昨日より強かった。
若者たちが黙る。
勘十郎は太刀の包みを見た。
「これは、まだ誰の太刀でもない。誰からの祝いか分からぬなら、私の太刀でもない。ならば、誰も開けるな」
刀見の男の表情が、初めて硬くなった。
「疵があれば、後で困りましょう」
「困るなら、贈った者が名を出して困ればよい」
権六が深く頭を下げた。
「もっともにございます」
勝三郎も続いた。
「この場の筋として、正しいかと」
竹若は口を閉じた。
不満は消えていない。
だが、勘十郎が自分の言葉で止めた以上、これ以上押せば清洲の側に見える。
刀見の男は、ゆっくりと頭を下げた。
「承知しました。清洲へ、そう伝えます」
その声には、穏やかさの奥に苛立ちが混じっていた。
勘十郎は言った。
「伝えよ。名が明らかになれば、礼は考える。名がなければ、鞘のまま置く」
その場で、祝い太刀はまた動かなかった。
だが、昨日とは違う。
昨日は迷いの中で置いた。
今日は、言葉で置いた。
藤吉郎と新五は、館を出た後もしばらく黙っていた。
藤吉郎は、何度も後ろを振り返りたそうにしていたが、新五に目で止められて前を向く。
「食べ物は出ませんでした」
藤吉郎がぽつりと言った。
「そこを報告するのか」
「緊張している時、食べ物が出るかどうかは大事です」
「今日は出なくてよかった」
「はい。出ていたら、竹若殿が食べたかもしれません」
新五は少しだけ目を向けた。
「見ていたのか」
「竹若殿は、太刀を見たがっていました。飯が出ていたら、たぶん最初に手を伸ばします」
「なぜ」
「欲しいものが前にある時、手の早い人は飯にも早いです」
新五はしばらく黙り、それから言った。
「あとで龍之介に伝えろ」
「はい」
藤吉郎は少しだけ胸を張った。
清洲門前の飯屋から始まった藤吉郎の目は、少しずつ別の場にも移り始めている。
食べるか。
手を出すか。
待てるか。
それは、ただの食い意地ではなくなっていた。
那古野へ報告が届くと、信長はしばらく何も言わなかった。
広間には、平手、龍之介、又左、彦右衛門がいた。権六と勝三郎は勘十郎の館に残り、場が乱れないよう見ている。
新五が報告する。
刀見を名乗る男が来たこと。
疵改めだけだと言ったこと。
竹若が見るだけならよいと押したこと。
勘十郎が「誰の太刀でもないなら、誰も開けるな」と止めたこと。
信長は、最後に少しだけ笑った。
「勘十郎が言ったか」
「はい」
「誰の太刀でもない、か」
信長は庭の方を見た。
その顔には、兄としての満足と、武将としての警戒が同時に浮かんでいた。
「よい言葉だ」
平手も頷いた。
「勘十郎様ご自身の言葉になっておりますな」
「そこが大事だ」
信長は龍之介へ向いた。
「お前の言葉も届いた」
「藤吉郎と新五殿が運んでくれたからです」
「そうだな」
信長は藤吉郎を見た。
「走らなかったか」
「走りませんでした」
「顔は」
新五が即座に言う。
「少し走っていました」
「少しだけです」
「少しならよい」
信長が言うと、藤吉郎は嬉しそうにした。
龍之介は、少しだけ胸を撫で下ろした。
太刀は開かれなかった。
だが、竹若は押した。
刀見の男も来た。
つまり、清洲はまだ諦めていない。
信長も同じことを見ていた。
「次は、竹若だ」
信長の声が低くなる。
「太刀を開けたがった若者。あれを責めるな。責めれば清洲へ寄る」
平手が頷いた。
「では、どうされます」
「竹若にも役を置く」
龍之介は顔を上げた。
「役、でございますか」
「欲しがる者に何も与えなければ、清洲が与える。なら、こちらから小さな役を置く。ただし、太刀には触らせぬ」
又左が腕を組む。
「難しいですな。ああいう者は、目立つ役を欲しがるでしょう」
「だから、少し目立つが、清洲に近づきすぎぬ役にする」
信長は少し考えた。
「若衆の場で、礼の始めと終わりを告げる役はどうだ」
平手が目を細める。
「声を出す役ですな。目立ちはしますが、太刀や荷には触れませぬ」
「そうだ。竹若が声を出せば、場が締まる。だが、その声で妙なことを言えばすぐ分かる」
龍之介は、信長の意図を理解した。
竹若を排除しない。
だが、自由に動かさない。
場の中に役を与え、皆の前で声を出させる。そうすれば、清洲の言葉をこっそり運びにくくなる。目立ちたい欲も少し満たされる。
藤吉郎が小さく言った。
「飯屋の弥吉と似ていますね」
「何がだ」
「外で知らない客に呼ばれるより、店の内側で椀を洗う。竹若殿も、外で清洲の声を拾うより、場の中で声を出す」
信長は笑った。
「飯屋と若衆を並べるか」
「似ています」
平手が静かに頷く。
「案外、同じかもしれませぬ」
藤吉郎は得意そうにした。
又左は首をひねっていた。
「飯屋と武芸の場が同じとは思えぬが」
「人が集まる場所は、どこも腹と顔があります」
藤吉郎の言葉に、龍之介は思わず笑った。
だが、的外れではない。
人が集まる場所には、欲が生まれる。
飯屋でも、若衆の場でも。
夕方、権六と勝三郎が戻った。
勘十郎は、竹若の処分をしなかった。
ただ、次から礼の始めと終わりを竹若に告げさせると言ったらしい。
それを聞いた信長は、驚いたように眉を上げた。
「勘十郎が自分でそう言ったのか」
権六が頷く。
「はい。竹若が目立ちたがっていることを、勘十郎様も見ておられました」
勝三郎が続ける。
「太刀に触らせるのではなく、声を出させる。そう言われました」
信長は少し黙り、それから小さく笑った。
「やるではないか」
その声には、はっきりと嬉しさが混じっていた。
平手が静かに言う。
「若が言わずとも、勘十郎様が近い形を選ばれた。これは大きいですな」
「大きい」
信長は頷いた。
「これなら、わしの駒ではない」
その言葉に、権六も勝三郎も頭を下げた。
龍之介は、胸の奥で何かが緩むのを感じた。
勘十郎はただ揺れるだけではない。
自分で見て、自分で選び始めている。
まだ危うい。
竹若も清洲も消えていない。
祝い太刀も鞘のままだ。
だが、勘十郎の場が、少しだけ勘十郎自身のものになった。
信長は、清洲の方角へ目を向ける。
「大膳は嫌がるだろうな」
「はい」
勝三郎が答える。
「名を出さぬ太刀は開かれず、竹若も外へ弾かれず、場の中に置かれました」
「清洲が使いにくくなった」
「その分、別の者を探すでしょう」
「だろうな」
信長は笑った。
「なら、こちらも見る目を増やす」
藤吉郎が反応した。
「飯屋もですか」
「飯屋もだ」
「はい」
「ただし、食うな」
「半分だけなら」
「食うな」
「はい」
広間に笑いが起きた。
しかし、その笑いは、すぐに次の緊張の中へ消えていく。
清洲は止まらない。
太刀が開かれなかったなら、別の鞘を探す。
その夜、清洲では坂井大膳が黙って報せを聞いていた。
刀見は失敗した。
勘十郎は太刀を開けず、誰からの祝いかを問う姿勢を崩さなかった。
竹若は処分されず、若衆の場で声を出す役を与えられた。
大膳は、長く沈黙した。
「竹若を外へ弾かなかったか」
「はい」
「三郎ではないな。勘十郎様か」
「そのようです」
大膳は目を細めた。
「面白い。弟君も少しずつ問いを覚えられた」
控えの男は頭を下げたまま黙っている。
大膳は、指で膝を叩いた。
「太刀は、まだ鞘のままか」
「はい」
「なら、鞘のまま腐らせる。名は出すな。太刀を宙に置いたまま、若衆の間で言わせろ。あれほどの太刀を眠らせるのは惜しい、と」
「竹若を使いますか」
「急がせるな。役を与えられた者は、しばらく己の役に酔う。そこへすぐ手を出すと疑われる」
「では」
「別の若者だ」
大膳は静かに言った。
「太刀を欲しがる者は、一人ではない」
清洲の影は、また別の若い顔を探し始めた。
那古野の夜。
龍之介は、庭で鞘に入ったままの木刀を見ていた。
勝三郎が横に立つ。
「抜かない太刀も、場を動かすな」
「はい」
「抜けば分かりやすい。抜かぬまま置かれる方が、人の腹を探る」
龍之介は頷いた。
祝いの太刀は、まだ誰のものでもない。
だからこそ、欲しがる者が出る。
開けたい者が出る。
清洲はそこへ言葉を置く。
信長側は、開けるなと押さえつけるだけでは足りない。欲しがる者に役を置き、場の内側へ留める必要がある。
飯屋の弥吉。
寺の小平。
若衆の竹若。
それぞれ違う身分で、違う場所にいる。
だが、使われ方は似ていた。
腹が空いている者。
居場所が欲しい者。
目立ちたい者。
清洲は、そういう隙間へ手を伸ばす。
龍之介は手を開いた。
呂布の武では、こういう隙間は斬れない。
郭嘉の知では、隙間を見つけすぎて人を駒にしてしまう。
その間で、どう守るか。
遠くで藤吉郎が、新五に何か叱られている声がした。たぶん、飯屋の話をしながら本当に腹を鳴らしたのだろう。
龍之介は少し笑った。
小さな笑いだったが、必要なものだった。
清洲の影は濃い。
だが、那古野にも灯はある。
その灯が消えぬように、道を見続けなければならない。
鞘のままの太刀は、まだ勘十郎の館にある。
誰の名も乗らぬまま。
誰かの欲を誘いながら。
龍之介は、清洲の方角を見た。
まだ斬る時ではない。
だが、鞘の中の刃は、確かに近くなっていた。
第34話─了




