第33話 祝いの太刀
清洲へ返書を出してから、二日が過ぎた。
返事はまだ来ない。
だが、何も起きていないわけではなかった。
橘屋は新しい印の荷札を使い始め、寺へは米と薪と紙仕事が細く続いている。飯屋の弥吉は店の外へ出る仕事を減らされ、裏で椀を洗い、薪を割るようになった。藤吉郎はその様子を見て、戻るたびに「今日は飯を全部食べていました」「今日は半分残していました」と報告した。
信長はそれを笑わずに聞いた。
飯をどう食うか。
それすら、この数日では人の足元を見る目になっていた。
一方で、勘十郎の側にも動きが出た。
権六と勝三郎が置いた言葉は、すぐ大きな形にはならなかった。勘十郎は「考える」と言っただけで、快く乗ったわけではない。だが、勘十郎の館では、若い者を集めて礼法と武芸を見る小さな場を作る話が進み始めていた。
信長は、それを聞いても口を出しすぎなかった。
「こちらから作ったように見せるな」
そう言っただけである。
龍之介は、その言葉の意味を考えていた。
勘十郎は、清洲の旗ではないと言った。
兄の駒でもないとも言った。
ならば、その言葉を守るには、信長が押しつけた形にしてはならない。勘十郎が自分の顔として持てる形にしなければ、清洲は必ず「兄に作られた役だ」と囁くだろう。
その日の朝、権六と勝三郎が再び勘十郎の館へ向かうことになった。
表向きは、若衆の稽古初めを見届けるためである。龍之介は呼ばれなかった。信長がそう決めた。
「お前が行けば、流れ者が弟の場に口を出したと言われる」
「承知しております」
「不満か」
「少し」
「正直でよい」
信長はそう言って笑った。
「だが、今日はお前の目より、権六の腹と勝三郎の目が要る」
龍之介は頭を下げた。
その判断は正しい。
勘十郎の周りに、山本龍之介という名はまだ重すぎる。信長の側に現れた得体の知れぬ男が弟の場に顔を出せば、清洲はそこへ必ず食いつく。
それでも、龍之介は出立前の権六に一つだけ言った。
「権六殿。贈り物には、物だけでなく名が乗ります」
権六は眉を動かした。
「祝いの品が来ると見るか」
「はい。清洲が勘十郎様に独自の顔を持たせたいなら、何かを贈るはずです。太刀、具足、酒、あるいは若衆への飯。どれでも、受ければ誰かの名を受けることになります」
勝三郎が横で頷いた。
「あり得るな」
権六は少し考え、低く言った。
「受けぬ方がよいか」
「相手の名が分かるなら、受け方を選べます。名が曖昧なら、荷と同じです」
龍之介は言葉を選んだ。
「清洲御用の祝いは、危ういかと」
権六は、深く頷いた。
「覚えておく」
勝三郎が龍之介を見た。
「行かない者の方が、よく見えることもあるか」
「見えているかは分かりませぬ。ただ、嫌な匂いがします」
「十分だ」
勝三郎はそう言い、権六とともに館へ向かった。
勘十郎の館では、十数人ほどの若者が集められていた。
皆、まだ大きな役を持つ者ではない。家中の端にいる若い者、勘十郎の近くに出入りする者、武芸に自信のある者、礼法を身につけたい者。顔ぶれは雑多だったが、その雑多さがかえって自然だった。
勘十郎は上座に座っていた。
昨日までの迷いが消えたわけではない。だが、何もしなければ周囲に押し流されることは、彼自身も感じていたのだろう。顔には、若い緊張と意地が同居していた。
権六と勝三郎が入ると、場の空気が少し締まった。
勘十郎は、権六へ目を向ける。
「来たか」
「はい」
「兄上の見張りか」
いきなりの言葉だった。
周囲の若者たちが息を呑む。
権六は一礼し、正面から答えた。
「違います。勘十郎様の場が、清洲に使われぬよう見に参りました」
勘十郎は、少しだけ目を細めた。
「言うようになったな、権六」
「言わねば、清洲に先に言われます」
勘十郎は黙った。
勝三郎が静かに言う。
「若様からは、口を出しすぎるなと言われております。今日は、勘十郎様がどう立たれるかを見に参りました」
「兄上は、私をどう見ている」
「清洲の旗ではない、と」
勝三郎は短く答えた。
勘十郎の表情がわずかに動く。
その言葉は、彼自身が言ったものだ。兄がそれをどう受け取ったのか、気にしていたのだろう。
「駒ではないとも言った」
「はい。それもお伝えしました」
「兄上は」
「何も責められませぬでした」
勘十郎は、しばらく黙った。
その沈黙の奥で、意地と安堵がぶつかっているように見えた。
やがて、勘十郎は若者たちへ向いた。
「今日は、形だけでもよい。礼と太刀筋を見る。兄上と争うためではない。清洲に担がれるためでもない。織田の家中に、弟の顔がないと言われぬためだ」
権六は頭を下げた。
勝三郎も目を伏せる。
悪くない始まりだった。
少なくとも、勘十郎自身の言葉になっている。
そこへ、門の方から声が上がった。
使いが来た、という声だった。
館の者が取り次ぎに走る。やがて、ひと包みの長い荷と、小さな酒樽が運び込まれてきた。
太刀だ。
そして、祝いの酒。
包みの上には、清洲御用とだけ書かれた札がついていた。
権六の目が鋭くなる。
勝三郎も、顔色を変えずに荷札を見た。
来た。
龍之介の嫌な匂いは、当たっていた。
館の若者たちがざわめいた。
「清洲から祝いか」
「勘十郎様の場を認めたのでは」
「これは受けるべきでは」
声が揺れる。
勘十郎の顔も動いた。
祝いの品を贈られること自体は悪くない。むしろ、独自の顔を持つ場としては、清洲から認められたように見える。若者たちはそれを誇らしく感じるかもしれない。
だが、札には清洲御用としかない。
誰の祝いかがない。
守護か。
守護代か。
坂井大膳か。
誰も名を出していない。
それなのに、太刀と酒だけが場へ入ろうとしている。
権六が一歩前へ出た。
「勘十郎様。お待ちを」
勘十郎の眉が動く。
「また止めるのか」
「止めるのではございませぬ。誰からの祝いかを問うべきです」
若者の一人が口を挟んだ。
「清洲御用とある。十分ではないか」
権六はその若者を見た。
勝三郎が、その顔を覚えた。
先日、不満を見せていた若者だ。名は竹若と呼ばれているらしい。家柄は大きくないが、勘十郎の近くで自分の位置を得たい顔をしている。
権六は低く言った。
「清洲御用だけでは足りぬ」
「なぜです」
「受けた後で、誰の恩か分からぬからだ」
場が静まる。
権六は太刀の包みを見た。
「太刀を受ければ、その太刀の名が勘十郎様の場へ残る。酒を受ければ、その酒を誰が祝いに出したかが残る。誰の名か分からぬまま受ければ、後で誰の恩にもできる」
勘十郎の目が太刀へ向いた。
若者たちも黙った。
勝三郎が静かに続ける。
「もし守護様の御祝いなら、守護様の名で受けるべきです。大和守様方の御祝いなら、その名で礼を返すべきです。坂井様方の御祝いなら、それも明らかにすべきでしょう」
竹若が反発する。
「清洲を疑うのか」
勝三郎は即座に返した。
「疑わぬために名を問うのです」
その言葉は、信長が何度も使ってきた理屈だった。
清洲の名を守るために、誰の名かを問う。
ここでも同じだった。
勘十郎は、じっと太刀を見ていた。
若い目が揺れている。
受けたい気持ちはある。
自分の場が認められたように見えるからだ。
だが、受ければ何かを背負わされる。
そのことも、もう分かり始めている。
勘十郎は、やがて言った。
「竹若」
「はっ」
「お前は、これを受けたいか」
「清洲からの御祝いなら、受けるべきかと」
「誰の祝いでもか」
竹若は一瞬詰まった。
「清洲御用とあります」
「それは、誰だ」
勘十郎の声が少し強くなった。
竹若は答えられない。
勘十郎は太刀の包みに視線を戻し、館の者へ言った。
「この祝いは、まだ受けぬ」
若者たちがざわめいた。
勘十郎は続ける。
「返すのではない。置く。ただし、包みは開けぬ。誰からの祝いかを問え。守護様か、大和守様方か、坂井様方か。名を明らかにしてから受ける」
権六は、深く頭を下げた。
勝三郎も、わずかに目を緩めた。
勘十郎は清洲の旗ではない。
兄の駒でもない。
その言葉を、初めて自分の行動で示した瞬間だった。
その報せは、昼過ぎに那古野へ届いた。
勘十郎は清洲御用の太刀と酒を開けず、贈り主の名を問うた。
信長は、報告を聞いてしばらく黙っていた。
広間には平手、新五、龍之介、又左、藤吉郎、彦右衛門がいる。権六と勝三郎はまだ戻っていない。
信長はやがて、短く笑った。
「やるではないか」
その声には、兄としての感情が少し混じっていた。
龍之介はそう感じた。
信長はすぐに表情を戻したが、完全には隠れていない。
平手も、それを見て静かに目を伏せた。
「勘十郎様ご自身が問われたなら、大きいですな」
「大きい」
信長は頷いた。
「わしが言わせたのではない。権六が押しつけたのでもない。勘十郎が、自分で問うた」
藤吉郎が首を傾げる。
「受けないのに、勝ちなのですか」
「受けないから勝ちの時もある」
信長が答える。
「太刀は斬るためのものだが、開けずに置けば、贈った者の名を斬ることもできる」
藤吉郎は分かったような、分からないような顔をした。
「握り飯を食べずに、誰の飯か聞くみたいなものですか」
「少し違うが、近い」
「近いのですね」
藤吉郎は真剣に頷いた。
龍之介は、清洲の方角を思った。
清洲は、勘十郎に独自の顔を持てと囁いた。
その顔に祝いの太刀を乗せようとした。
しかし、勘十郎は受けなかった。
返しもしなかった。
誰の名かを問うた。
これは、清洲にとって厄介な返しだ。
名を出せば、贈り主が表へ出る。
名を出さなければ、祝いが宙に浮く。
信長は、龍之介へ目を向けた。
「お前の言った通り、祝いが来たな」
「来ない方がよかったのですが」
「来た方が見える」
「はい」
信長は少しだけ笑った。
「嫌な匂いも、役に立つ」
龍之介は頭を下げた。
だが、胸の奥には別の不安があった。
清洲は一度失敗した。
なら次は、もっと柔らかい手か、もっと強い手を使う。
勘十郎の周りには、竹若のように受けたがる者もいる。太刀を開けなかったことを不満に思う者もいるだろう。
そこへ清洲が次の言葉を置けば、火はまだ残る。
夕方、権六と勝三郎が戻った。
二人の顔には疲れがあったが、悪い疲れではなかった。
権六は信長の前に座り、勘十郎の言葉を一つずつ伝えた。
清洲御用の祝いは受けぬ。
返しもせぬ。
誰からの祝いかを問う。
名が明らかになれば、礼の仕方を考える。
信長は、それを最後まで聞き、頷いた。
「よい」
権六は深く頭を下げた。
「勘十郎様は、迷われておりました。されど、最後はご自身で決められました」
「それでよい」
勝三郎が続ける。
「ただ、竹若という若い者が、受けるべきだと声を上げました」
「誰だ」
「勘十郎様の近くに出入りする若者です。家は大きくありませんが、場を得たがっている顔でした」
信長の目が細くなる。
「清洲の耳か」
「まだ断じられません。ただ、清洲の言葉を待っている顔でした」
龍之介は頷いた。
待っている顔。
それは勝三郎らしい見方だった。
証はない。
だが、顔は見た。
信長は平手へ言った。
「竹若の筋を調べろ。騒ぐな。誰と飯を食い、誰と稽古し、誰の使いと会うかを見る」
「承知しました」
藤吉郎が反応した。
「飯を見るのですか」
「お前はすぐ行くな」
信長が釘を刺す。
「はい」
「行くなら新五と行け。勝手に竹若へ近づくな」
「はい」
藤吉郎は二度頷いた。
少しは学んでいる。
信長は権六へ目を戻した。
「権六。勘十郎は、お前の言葉を聞いたか」
「はい。ただ、完全に納得されたわけではありませぬ」
「それでよい。納得されすぎる方が怖い」
権六は少し笑った。
「若様と同じことを、勝三郎殿も申しておりました」
勝三郎は肩をすくめる。
「若様の近くにいると、嫌でも覚えます」
信長は楽しそうに笑った。
それから、広間の空気を締め直すように言った。
「清洲は、次に竹若のような者を使う。勘十郎本人ではなく、周りだ。太刀が駄目なら、言葉を置く。酒が駄目なら、稽古道具を置く。名を明かせぬ祝いの代わりに、名を明かさぬ友を置く」
龍之介は、その言葉の意味を噛みしめた。
名を明かさぬ友。
つまり、勘十郎の場に、清洲の考えを持つ者を紛れ込ませるということだ。
信長は続けた。
「こちらも、勘十郎の場を奪うな。だが、見ろ。あれは弟の場だ。清洲の場にさせるな」
「承知しました」
権六と勝三郎が同時に頭を下げた。
その夜、清洲では坂井大膳が祝いの太刀の報せを聞いていた。
勘十郎は、太刀を開けなかった。
返しもしなかった。
誰からの祝いかを問うた。
大膳は、しばらく笑わなかった。
控えの男が恐る恐る言う。
「いかがいたしましょう。名を出しますか」
「出せば、こちらの手だと残る」
「では、引きますか」
「引けば、勘十郎様の場で清洲の祝いが宙に浮く。三郎が喜ぶ」
大膳は、指で膝を叩いた。
「勘十郎様は、思ったより早く問いを覚えられた。権六と勝三郎が効いたな」
「竹若は」
「急がせるな」
大膳は低く言った。
「若い者は、急がせると折れる。自分で不満を育てたと思わせよ」
「はい」
「太刀は、しばらく宙に置け。誰の祝いかは曖昧なままでよい。その曖昧さが、勘十郎様の周りを揉む」
控えの男が頭を下げる。
大膳は目を細めた。
「三郎は名を問う。ならば、名を出さぬまま人を揺らせばよい」
清洲の夜は、また静かに沈んだ。
那古野では、龍之介が庭で木槍を握っていた。
相手は又左ではなく、勝三郎だった。
勝三郎は槍ではなく木刀を持っている。動きは派手ではないが、間合いの取り方がうまい。近づきすぎず、離れすぎず、龍之介の力を見ようとしている。
「強いな」
勝三郎が言った。
「まだ打っておりませぬ」
「打つ前に分かる」
龍之介は少し困った。
「そういうものですか」
「若様の周りにいると、打つ前に分からねば困る」
勝三郎は笑った。
その目は、昼間のことをまだ考えている。
「勘十郎様は、今日は踏みとどまられた」
「はい」
「だが、あの場にいた若い者たちは別だ。太刀を受けたかった者もいる。清洲に認められたと感じた者もいる」
「竹若殿ですか」
「それだけではない。顔を見ていたが、何人かは同じ目をしていた」
龍之介は木槍を下ろした。
「では、若衆の場は危ういですね」
「危うい。だが、作らなければもっと危うい」
勝三郎の言葉は短いが、的確だった。
場を作れば、清洲が手を入れる。
場を作らなければ、清洲が別の場を作る。
どちらにしても危ういなら、こちらが見える場所に場を置く方がましだ。
龍之介は、清洲のやり方を考えた。
名を出さぬ祝い。
受けたい者。
受けぬことで生まれる不満。
そこへ「兄に遠慮した」「権六に止められた」「信長の顔色を見た」という噂が入れば、勘十郎の周りはまた揺れる。
守るべきものは増えていく。
荷。
耳。
飯屋。
寺。
橘屋。
権六の筋。
勘十郎の場。
そして今度は、若衆の心。
龍之介は木槍を握り直した。
「斬る相手が見えませぬ」
思わずそう言うと、勝三郎は静かに答えた。
「だから厄介だ。見えた時には、もう誰かの腹に入っている」
龍之介は頷いた。
知で見なければならない。
だが、知だけで追えば、人を疑いすぎる。
武で断てば早い。
だが、断てば勘十郎の場そのものが壊れる。
信長が言ったように、ここは弟の場だ。清洲の場にしてはならないが、那古野の場にしてもならない。
龍之介は空を見上げた。
雲の切れ間から、細い月が覗いていた。
まだ斬る時ではない。
だが、祝いの太刀は鞘の中で、誰のものとも決まらぬまま置かれている。
あの太刀が抜かれる前に、名を明らかにしなければならない。
那古野の夜は静かだった。
だが、勘十郎の館に置かれた包みの中で、清洲の刃はまだ眠っていた。
第33話─了




