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【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


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第32話 坂井の名代

 清洲が次に寄こした者は、雑掌ではなかった。


 朝の門前に現れた男は、供を四人連れていた。人数そのものは多くない。だが、先頭の男の身なりは明らかにこれまでの使いと違った。衣の質、腰の刀、歩く時に供が自然に半歩引く間合い。文を運ぶだけの者ではない。


 名を、坂井七郎左衛門と名乗った。


 坂井大膳の家中の者である。


 門番が取り次ぎに走った時、那古野の空気は一段重くなった。清洲御用、大和守家の差配、清洲の雑掌。これまで曖昧だった名の向こうから、ようやく坂井の筋が顔を出したのだ。


 信長は、広間で受けた。


 控える顔ぶれも、前より重い。平手、権六、勝三郎、新五、龍之介、又左。少し離れたところには彦右衛門が待たされている。藤吉郎は表には出さず、門と馬屋の間で供の動きを見る役にされた。


 七郎左衛門は深く頭を下げた。


「三郎様。坂井大膳が家中、七郎左衛門にございます」


「大膳殿の名代か」


 信長は、最初からそこを問うた。


 七郎左衛門の目がわずかに動く。


「名代とまでは。大膳より、清洲門前の騒ぎについて案じている旨を申し上げに参りました」


「では、大和守家の使いではないな」


「大和守家を案じてのことにございます」


「大膳殿の家中として来たのか。大和守家の御用として来たのか。そこを聞いておる」


 信長の声は荒くない。


 しかし、逃げ道は狭かった。


 七郎左衛門は、少しだけ間を置いた。


「坂井大膳の意を受けて参りました」


 広間の空気が静かに動いた。


 初めて、坂井大膳の名が表の場で出た。


 龍之介は、七郎左衛門の手を見ていた。文箱を持つ手に力が入っている。名を出すつもりで来たのか、それとも信長に引き出されたのか。完全には分からない。ただ、今の一瞬、男は迷った。


 ならば、そこに綻びがある。


 七郎左衛門は文を差し出した。


「清洲門前の荷筋、橘屋の印、寺への米と薪、ならびに勘十郎様の若衆に関わる話。これらが近頃、那古野より相次いで動いております。大膳は、尾張家中の和を乱さぬためにも、三郎様には少しお控えいただくべきではないかと案じております」


 信長は文を受け取らず、平手に目をやった。


 平手が受け、封を改める。


 七郎左衛門は続けた。


「とりわけ、勘十郎様の若衆を整えるなどという話は、兄弟の間に余計な形を作りましょう。三郎様が清洲を問われることと、勘十郎様の周りを動かすことは、別の話にございます」


 権六の目が鋭くなった。


 だが、口は開かない。


 信長は権六を見ずに言った。


「権六」


「はっ」


「お前の話らしいぞ」


「私の筋にございます」


 権六は短く答えた。


 七郎左衛門が権六へ視線を移す。


「柴田殿。あなたほどの方が、三郎様の性急な動きに付き従い、勘十郎様の周りへ口を出すとは意外にございます」


 権六は、太い声を低く保った。


「勘十郎様の御名を清洲の荷筋に使わせぬためです」


「清洲が勘十郎様の御名を使ったと?」


「先の文に、私と勘十郎様の旧縁が書かれておりました。荷印の話に、その名を入れたのは清洲です」


 七郎左衛門の表情が硬くなる。


 権六は続けた。


「私は勘十郎様を捨てたわけではございません。だからこそ、その御名を誰かの荷札のように扱われることは許せませぬ」


 広間に、重い沈黙が落ちた。


 龍之介は、権六の言葉が昨日よりさらに強くなっているのを感じた。勘十郎との筋を切らない。そのうえで信長の側に立つ。清洲がそこを揺さぶるほど、権六は自分の立ち位置をはっきりさせていく。


 七郎左衛門は、次に勝三郎を見た。


「池田殿も、三郎様のお側でこれをよしとされるのか」


 勝三郎は静かに答えた。


「よしとするかどうかではありません。清洲が曖昧な名で荷を動かし、勘十郎様の名まで文に出した。ならば、こちらも名を整える。若様の近くにいる者として、私はそれを見届けております」


「若様、若様と。三郎様の周りは、ずいぶん若い声が強くなりましたな」


 七郎左衛門の言葉には棘があった。


 勝三郎は、わずかに笑う。


「古い声ばかりなら、清洲の荷も古い印のままだったでしょう」


 又左が吹き出しかけ、慌てて口を閉じた。


 信長は面白そうに勝三郎を見たが、すぐに七郎左衛門へ向き直った。


「大膳殿は、何を案じておる」


「尾張の和にございます」


「尾張の和を案じるなら、清洲御用とはどなたの御用か、最初から明らかにすればよい。守護様か。大和守家か。大膳殿か。そこを曖昧にするから、荷も人も迷う」


 七郎左衛門は、そこで初めて声を少し硬くした。


「清洲の名は、清洲の名にございます」


「重すぎる名を一つに丸めれば、誰も責を負わぬ」


 信長は穏やかに言った。


「それでは、いずれ清洲の名そのものが軽くなる」


 七郎左衛門は黙った。


 言い返せないのではない。


 言い返せば、大膳の名をさらに表へ出さざるを得ないからだ。


 信長は、その沈黙を見ていた。


 平手が文を読み終えた。


 信長へ差し出す前に、表情をわずかに曇らせる。


「若」


「読め」


 信長が促すと、平手は声を整えて文面を読み上げた。


 清洲門前の商人宿、寺、飯屋へ那古野が関わりを深めていること。


 橘屋の印替えは商いの筋を越えること。


 勘十郎周辺の若衆を整える話は、家中の和を乱しかねないこと。


 柴田権六は旧縁を重んじ、軽々に三郎の使いとならぬこと。


 山本龍之介という流れ者が、尾張の筋を乱しているという風聞があること。


 最後の一文で、広間の視線が龍之介へ集まった。


 龍之介は頭を下げたまま、心の中で息を整えた。


 ついに来た。


 清洲は、龍之介を名指しではないが、流れ者として文に入れてきた。尾張の筋を乱す者。そう扱えば、信長の周りの動きすべてを「得体の知れぬ男の知恵」として切り捨てられる。


 七郎左衛門が言った。


「三郎様。家中のこと、清洲門前のこと、勘十郎様のこと。いずれも尾張の筋に関わります。そこへ、素性定かならぬ流れ者の言葉が深く入るのは、いかがなものかと」


 又左が一歩出かけた。


 信長が視線だけで止める。


 新五も動かない。


 勝三郎は龍之介を見ている。


 権六は腕を組み、黙っていた。


 信長は龍之介へ言った。


「龍之介」


「はい」


「何か言うか」


 龍之介は頭を上げた。


 ここで怒れば、相手の思う壺だ。


 ここで黙りすぎれば、流れ者のままになる。


 龍之介は、七郎左衛門へ向き直った。


「私は尾張の筋を多くは存じませぬ」


 七郎左衛門の目がわずかに細くなる。


「ならば」


「ですので、尾張の名を決めることはいたしませぬ。ただ、荷がどこで止まり、誰がその名を使い、誰が責を負わぬまま人を動かすかは見ます」


 龍之介は声を荒げなかった。


「流れ者だからこそ、見えるものもございます。私は、清洲の名も、那古野の名も、勘十郎様の名も、軽く使われることを恐れます」


「恐れる?」


「はい」


 龍之介は頷いた。


「名が軽く使われれば、その名の下で弱い者が潰れます。橘屋の番頭、小平という寺の下働き、飯屋の弥吉。彼らは大きな名に逆らえませぬ。だからこそ、どなたの御用かを問うております」


 七郎左衛門は、しばらく龍之介を見ていた。


「流れ者にしては、よく喋る」


「喋るのは得意ではありませぬ」


「では、何が得意だ」


 挑発だった。


 龍之介の胸の奥で、呂布の武が熱を持つ。


 ここで一歩踏み出せば、七郎左衛門の供は息を呑むだろう。身体の大きさ、間合い、力の気配。それだけで相手に圧をかけることはできる。


 だが、信長に言われている。


 見せすぎるな。


 化け物の噂を増やすな。


 龍之介は、ただ静かに手を下げた。


「壊れそうなところを見ることです」


 七郎左衛門の目がわずかに揺れた。


「壊れそうなところ?」


「はい。橋も、荷も、人の腹も。力をかけすぎれば折れます。今の清洲門前は、折れかけております」


 信長の口元が少しだけ動いた。


 七郎左衛門は返事をしなかった。


 龍之介はそれ以上喋らない。


 ここで語りすぎれば、また流れ者が前に出た形になる。


 信長は文を手に取り、七郎左衛門へ言った。


「大膳殿は、流れ者を案じているのか」


「尾張の筋を案じておられます」


「ならば、大膳殿に伝えよ。龍之介は、わしが置いている。責はわしが持つ」


 広間が静まった。


 龍之介は、思わず信長を見そうになったが、こらえた。


 信長は続ける。


「権六も、勝三郎も、新五も、藤吉郎も、彦右衛門も、又左も、わしが使っている。誰かが勝手に清洲門前を荒らしているのではない」


 七郎左衛門の顔が硬くなる。


 信長は、そこで笑った。


「それでなお問いがあるなら、わしへ持ってこい」


 若い。


 危うい。


 だが、逃げない。


 龍之介は、その背中を見ながら、自分の胸の奥にある熱が静かに鎮まっていくのを感じた。


 七郎左衛門は、すぐに引き下がらなかった。


「三郎様。大膳は、争いを望んでおりませぬ」


「わしも望んでおらぬ」


「ならば、清洲門前から手を引かれるのがよろしい」


「古い印を使う者がいなくなり、清洲御用の名が明らかになれば、手を引ける」


「それを決めるのは清洲にございます」


「だから清洲に問うておる」


 会話は静かだった。


 だが、刃を合わせているのと同じだった。


 七郎左衛門は、そこで話題を変えた。


「勘十郎様の若衆の件も、清洲としては案じております。弟君が独自に若者を集めれば、三郎様との間に誤解が生まれましょう」


 権六が口を開いた。


「勘十郎様が家中の若い者に礼と武芸を教える場を持つ。それがなぜ誤解になる」


「若者が集まれば、旗になります」


「旗にする者がいればな」


 権六の声は重かった。


「我らは、旗にさせぬために形を整えようとしております」


 七郎左衛門は権六を見る。


「柴田殿は、どちらに立つのか」


「織田の家中に立つ」


 権六は即答した。


「若様の側に立ち、勘十郎様の名も守る。清洲がそれを割ろうとするなら、私は清洲の手を見ます」


 七郎左衛門は、今度こそ言葉に詰まった。


 権六の返答は、信長だけに忠を置くものではない。だからこそ、清洲が「勘十郎を捨てた」と責めにくい。かといって、清洲に寄るとも言っていない。


 勝三郎が静かに加えた。


「勘十郎様ご自身も、清洲の旗ではないと仰せです」


「それは、どこで」


「権六殿と私が聞きました」


 勝三郎の声は若いが、芯があった。


「清洲が勘十郎様の名を案じるなら、そのお言葉も重んじられるべきでしょう」


 七郎左衛門の顔に、わずかな苛立ちが浮かぶ。


 ここでも、清洲は押し切れない。


 勘十郎の名を使おうとすれば、勘十郎自身の言葉が立ちはだかる。


 信長は立ち上がった。


「返事は後ほど書く。今日は、大膳殿が案じておることを聞いた。こちらも案じていることを、改めて返す」


「承知しました」


 七郎左衛門は深く頭を下げた。


 引き際を悟ったのだろう。


 ただし、負けた顔ではなかった。


 清洲の名を背負う者として、次の手を持ち帰る顔だった。


 信長は最後に言った。


「大膳殿に伝えよ。尾張の和を案じるなら、曖昧な名で荷を動かす者を、まず清洲の側で改めよ。那古野は、それを手伝う用意がある」


 手伝う。


 その言葉に、七郎左衛門の目が鋭くなった。


 信長は笑っていた。


 清洲を責めるのではない。


 手伝うと言う。


 だが、それは清洲の中へ手を入れるという意味にもなる。


 七郎左衛門は何も言わず、頭を下げて広間を出た。


 使いが去った後、広間にはしばらく沈黙が残った。


 又左が最初に息を吐いた。


「斬らずに済みましたな」


「斬る場ではない」


 信長が答える。


「分かっております」


「本当か」


「……前よりは」


 勝三郎が小さく笑った。


 新五は文を見ていた。


「坂井大膳の名が、表へ出ました」


「出したのは向こうだ」


 信長は言った。


「ただし、大膳本人ではない。七郎左衛門も名代とは言わなかった。まだ距離を取っている」


 平手が頷く。


「大膳殿は、こちらの出方を見ておりますな」


「こちらも見た」


 信長は龍之介へ向いた。


「龍之介」


「はい」


「流れ者と書かれたな」


「はい」


「腹は立ったか」


「立ちました」


 信長は少し笑った。


「ならよい」


「よいのでしょうか」


「腹が立たぬなら、人ではない。腹を立てたまま、手を出さなかった。それでよい」


 又左が頷いた。


「俺なら出ておりました」


「自慢するな」


 信長が即座に返し、広間に少し笑いが起きた。


 だが、すぐに平手が表情を引き締めた。


「若。次の返書は難しくなります。坂井大膳の名が出た以上、軽く扱えば清洲との争いが深まります」


「分かっておる」


 信長は地面の線を見た。


 清洲。


 大和守家。


 坂井大膳。


 勘十郎。


 橘屋。


 寺。


 飯屋。


 線は増えすぎるほど増えていた。


「だが、線が増えた分、どこを引けば動くかも見えた」


 龍之介は信長を見る。


「どこを、でございますか」


「七郎左衛門は、大膳の名を出しながら名代とは言わなかった。つまり、大膳はまだ自分の顔を完全には出していない。そこを問う」


 新五が頷く。


「大膳殿の御意向か、大和守家の御意向か。そこを再び問うのですね」


「そうだ。ただし、今回はこちらからも一つ出す」


 信長は勝三郎へ目を向ける。


「勝三郎。清洲門前で、大膳家中の者が寺や橘屋に直接圧をかけたことを、証としてまとめろ」


「承知しました」


「彦右衛門には、荷の筋をまとめさせろ。藤吉郎には、飯屋と寺の者から聞いた顔を描かせろ」


「絵ですか」


 又左が首を傾げる。


「藤吉郎の絵で分かりますか」


 信長は少し考えた。


「分からぬかもしれぬ」


 外から藤吉郎の声がした。


「聞こえています!」


「なら、分かるように描け」


「はい!」


 広間に笑いが戻った。


 しかし、それは長く続かなかった。


 信長は、もう次を見ていた。


「大膳は、次にもっと重い名を使うか、こちらの内を突く。権六と龍之介は特に狙われる」


 権六と龍之介は、同時に頭を下げた。


 信長は言った。


「なら、先にこちらで腹を決めておけ。権六は勘十郎への筋を切らぬ。龍之介は流れ者であることを隠さぬ」


 龍之介は顔を上げた。


「隠さぬ、でございますか」


「隠せば弱みになる。お前は流れ者だ。だからこそ、荷と人の崩れどころを見る。わしがそう使っている。そう言えばよい」


 龍之介は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 流れ者。


 相手が貶めるために使った名を、信長は役に変えようとしている。


「承知しました」


「よし」


 信長は笑った。


「清洲が名で来るなら、こちらも名の置き方を変える」


 その夜、那古野ではそれぞれの役が動いた。


 平手は返書の文案を整え、新五は坂井七郎左衛門の言葉を一つずつ書き留める。勝三郎は清洲門前で見た顔の位置関係を思い出し、彦右衛門は荷の流れと古印の使われ方を紙に起こした。


 藤吉郎は、飯屋の炭の木片を使って、地面に人の顔を描いていた。


「これは誰だ」


 又左が覗き込む。


「昨日の大きい男です」


「ただの丸に太い眉ではないか」


「眉が大事です」


「全員、眉があるだろう」


「この人の眉は怖いです」


 又左は困った顔をした。


 龍之介は横から見て、思わず笑いそうになった。確かに絵としては上手くない。だが、特徴を拾おうとしているのは分かる。眉、肩、立ち方、手の大きさ。藤吉郎なりの記憶の置き方だった。


 勝三郎が近づき、絵を見て言った。


「下手だが、分からなくはない」


「褒めていますか」


「半分だけ」


「では、半分受け取ります」


 藤吉郎は真面目に頷いた。


 龍之介は、そのやり取りを見ながら、少しだけ心が軽くなった。


 清洲の圧は強くなる。


 だが、那古野の側にも、少しずつ役が増えている。


 勝三郎の目。


 新五の筋。


 権六の腹。


 彦右衛門の荷。


 藤吉郎の耳。


 又左の槍。


 平手の文。


 そして信長の決断。


 龍之介は、自分の手を見た。


 流れ者。


 それは弱みだ。


 だが、信長はそれを使うと言った。


 ならば、弱みのままではいられない。


 尾張の筋を知らぬからこそ、見える崩れどころがある。人の名に縛られすぎないからこそ、名が軽く使われた時の危うさが見える。


 その代わり、知らぬ筋を踏み抜けば、人を傷つける。


 だから、平手や新五、勝三郎、権六の目が要る。


 龍之介は清洲の方角を見た。


 坂井の名が表へ出た。


 次は、もっと重い名が動くかもしれない。


 守護代家。


 守護。


 あるいは、勘十郎の周り。


 まだ斬る時ではない。


 だが、刃の影は少しずつ近づいている。


 鍛冶場の火が、夜の土に赤く揺れていた。


第32話─了

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