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【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


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第31話 守られぬ耳

 天文二十年の秋は、湿った風を残したまま深まっていった。


 那古野では、小平の寺へ紙仕事が回り始めた。


 橘屋の新しい印が押された荷札が寺の裏門を通り、米と薪、それに写経用の紙束が運ばれる。小平はまだ怯えていたが、寺の中にいる理由を得た。紙を揃え、墨を運び、僧に呼ばれれば小走りで向かう。大きな役ではない。だが、そこにいてよい理由があるだけで、人の足元は少し固くなる。


 藤吉郎は、その様子を見てから戻ってきた。


「小平、紙を抱えていました」


 庭で報告を聞いた信長は、軽く頷いた。


「飯は食っていたか」


「食べていました。前より遅かったですが」


「遅いならよい。食えぬよりましだ」


 藤吉郎は真面目な顔で頷いた。


 少し前なら、ここで飯の量や味の話を続けただろう。だが、今は違った。小平の飯が、ただの飯ではなく、寺に残るための息だと分かり始めている。


 龍之介はその変化を見ていた。


 子供は変わるのが早い。


 ただし、早く変わる分、折れるのも早い。だからこそ、信長は藤吉郎を一人で走らせない形を作り始めた。


 飯屋、寺、橘屋、薪拾い、馬屋。


 そこから上がる声は、藤吉郎だけが抱えない。新五、彦右衛門、平手のいずれかへ渡す。急ぎなら逃げて戻る。握り飯を使う時も、誰かに言う。


 耳の帰り道は、まだ粗い。


 だが、形は見えた。


 だから清洲は、そこを避けた。


 最初に崩れたのは、飯屋の下働きだった。


 名は弥吉。


 藤吉郎より少し年上で、清洲門前の飯屋で水を運び、椀を洗い、客の残した飯粒を集めていた小僧である。藤吉郎が何度か声をかけ、飯屋へ来る者の顔を聞いたことがあった。


 しかし、弥吉は藤吉郎の仲間ではなかった。


 小平のように寺で守られているわけでもない。橘屋の荷に関わるわけでもない。ただ飯屋で働き、客の噂を耳にし、腹を空かせている小僧だ。


 その弥吉が、清洲門前で妙な話を広げ始めた。


 勘十郎様は、兄上の駒ではない。


 そう言われたらしい。


 その言葉自体は、勘十郎が実際に口にしたものだった。だが、弥吉が運んだ話は、そこに少し違う尾をつけていた。


 勘十郎様にも、独自の顔が要る。


 兄上ばかりが清洲へ文を出し、荷を問い、商人を動かすのはおかしい。


 弟君にも、弟君の若衆が必要だ。


 飯屋の客が冗談めかして言った。


 弥吉はそれを拾い、別の客へ話した。


 別の客は、さらに言葉を足した。


 気づけば、勘十郎の周りへ届く頃には、こう変わっていた。


 勘十郎様も、兄上に負けぬ家中を整えるべきだ。


 清洲は、守られている耳ではなく、守られていない耳を使ったのだ。


 その話を持ち帰ったのは藤吉郎だった。


 だが、今回は藤吉郎一人ではない。飯屋の手代が橘屋へ話し、橘屋の手代が新五へ伝え、新五が藤吉郎を連れて戻ってきた。耳の帰り道を作った効果が、初めて見えた形だった。


 信長は報告を聞き、しばらく黙っていた。


 庭には平手、権六、勝三郎、新五、龍之介、藤吉郎がいる。又左は少し離れた場所で源太と孫七に槍と筒の立ち位置を教えていたが、こちらの空気が変わったのを感じて手を止めた。


「なるほどな」


 信長は、地面に枝で二本の線を引いた。


 一つは那古野から清洲門前へ。


 もう一つは勘十郎の館へ。


「小平は守った。寺も橘屋も見ている。だから、飯屋の弥吉を使った。勘十郎本人ではなく、周りへ言葉を撒いた」


 権六の顔が硬くなる。


「私が行った翌日に」


「だからだ」


 信長は答えた。


「勘十郎は清洲の旗ではないと言った。なら、清洲はその言葉をひっくり返さず、横へ曲げた。兄の駒ではないなら、弟にも独自の顔が要る。そう囁く」


 勝三郎が腕を組んだ。


「嫌な手ですね」


「うまい手だ」


 信長の声は冷静だった。


「清洲の旗になれとは言っていない。勘十郎様らしく立て、と言っている。聞こえはよい」


 龍之介は、胸の中で冷たいものが動くのを感じた。


 まさにそうだ。


 清洲の言葉は、勘十郎の自尊心を直接くすぐる。兄に従えと言われたくない若者にとって、「独自の顔を持て」という言葉は甘い。そこへ家臣たちの不満が乗れば、小さな火はすぐ大きくなる。


 権六が低く言った。


「潰しに行きますか」


「何をだ」


「その噂を」


「噂を潰せば、勘十郎が潰されたと思う」


 信長は即座に返した。


 権六は口を閉じた。


 平手が静かに言う。


「では、勘十郎様の顔を、こちらから用意する必要があります」


 信長は平手を見た。


「爺もそう見るか」


「清洲に作られるよりは、こちらで筋を通した方がよろしいでしょう。勘十郎様を立てつつ、清洲の旗にはさせぬ形です」


 勝三郎が続けた。


「若様が与える形では、かえって反発されます。勘十郎様が自分で選んだように見える場が要ります」


 新五も頷く。


「清洲門前の荷や印からは離した方がよいでしょう。商人宿や御用筋に関われば、また清洲に絡め取られます」


 藤吉郎が、おずおずと手を上げた。


「飯の場はどうでしょう」


 全員が藤吉郎を見る。


 藤吉郎は少し怯んだが、続けた。


「戦の飯ではなく、稽古の後の飯です。若様の筒持ちや槍の稽古みたいに、勘十郎様の周りでも、若い人たちに飯を出して稽古する場を作れば、独自の顔っぽく見えます。でも、清洲の荷とは関係ありません」


 又左が遠くから言った。


「飯のために稽古するように聞こえるぞ」


「稽古のために飯を出すのです」


 藤吉郎は真剣だった。


 平手が目を細める。


「悪くありません。勘十郎様の若い衆に、小さな武芸稽古と礼法の場を作る。名目は家中の若手を整えるため。清洲の商人や荷筋を通さず、那古野と対立する形にもせずに済む」


 権六が腕を組んだ。


「私が持ちかければ、兄上から押しつけられたようには見えにくいか」


 勝三郎が答える。


「ただ、権六殿だけでは重い。勘十郎様の側の者にも発案させる形がよいでしょう」


 龍之介は、その言葉で一つ思いついた。


「勘十郎様が兄上の駒ではないと仰ったなら、駒ではなく、家中を支える弟君としての役を作るのはどうでしょう」


 信長が目を向ける。


「続けろ」


「若様が清洲の荷筋を見る一方で、勘十郎様は家中の若い者の礼と武芸を整える。兄弟で別の役を持つ形です。清洲の荷や商人には触れず、尾張の内を乱さぬための役にします」


 権六が小さく頷いた。


「勘十郎様は、ただ従うより、その方が受けやすいかもしれませぬ」


 平手も続ける。


「ただし、軍勢を作るように見せてはなりませぬ。あくまで若年の礼法、武芸、家中の作法。大きくしすぎぬことです」


 信長は黙っていた。


 その沈黙は長かったが、迷っているというより、形を見ている沈黙だった。


 やがて、信長は枝を地面へ落とした。


「よい。清洲が独自の顔を囁くなら、こちらは顔を置く。ただし、清洲へ向く顔ではない。家中へ向く顔だ」


 権六は深く頭を下げた。


「私から、勘十郎様の近くへ話を置きます」


「勝三郎も行け」


 信長は言った。


「勘十郎がわしの駒ではないなら、勝三郎もわしの口ではなく、昔からの目として見てこい」


「承知しました」


 信長は藤吉郎へ視線を移す。


「弥吉はどうする」


 藤吉郎の顔が固まった。


 飯屋の弥吉。


 噂を運んだ小僧。


 だが、彼も使われただけだろう。


「怒れば逃げます」


 藤吉郎は言った。


「放れば、また使われます」


「では」


「飯屋の主人に、弥吉を客前だけに出さないよう話せませんか。水運びや椀洗いだけではなく、帳場の横で薪を割るとか、見える場所で仕事をさせる。知らない客に呼ばれて外へ出にくくなれば、使われにくいです」


 信長は少し笑った。


「お前、飯屋の中のことになるとよく見えるな」


「飯屋ですので」


「よし。新五、藤吉郎と行け。弥吉を責めるな。飯屋の主人へ、弥吉を外の声から少し離せと伝えろ。理由は、清洲門前が騒がしいからでよい」


「承知しました」


 藤吉郎はほっとした顔をした。


 また一つ、耳の帰り道を作ることになる。


 勘十郎の館では、すでに噂が届いていた。


 兄上の駒ではない。


 その言葉を、勘十郎自身が言ったことは事実だ。だからこそ、周りの者はそれを扱いやすかった。


 館の若い家臣たちは、声を潜めて話していた。


「勘十郎様にも、若い衆をまとめる場が必要ではないか」


「三郎様の周りばかりが騒がしい」


「権六殿も勝三郎殿も来た。あれは、こちらを見に来たのだ」


 言葉はまだ小さい。


 だが、確かに熱を持ち始めている。


 そこへ権六と勝三郎が再び訪れた。


 勘十郎は、前回よりも少し警戒した顔で二人を迎えた。


「また来たのか」


 権六は深く頭を下げた。


「はい。先日の勘十郎様のお言葉を、若様へ伝えました」


「兄上は何と言った」


「清洲の旗ではないなら、十分だと」


 勘十郎の目が揺れた。


「それだけか」


「はい」


「駒ではないと言ったことは」


「若様は、何も責められませぬでした」


 勘十郎は黙った。


 その沈黙には、拍子抜けに近いものが混じっていた。反発を返されると思っていたのかもしれない。だが、信長は受けただけだった。


 勝三郎が一歩前へ出る。


「勘十郎様。清洲門前で、勘十郎様にも独自の顔が必要だという話が出ております」


 勘十郎の近くにいた若い家臣が、ぴくりと反応した。


 勝三郎はそれを見逃さなかった。


「その言葉自体は、悪くありませぬ。勘十郎様には、勘十郎様の立場がございます。ただし、その顔を清洲に作られれば、清洲の旗になります」


 勘十郎は眉をひそめた。


「では、どうしろと言う」


 権六が答える。


「家中の若い者を整える場を、勘十郎様のもとに作ってはいかがでしょう」


「若い者を?」


「はい。礼法と武芸。無用に外へ向かう場ではなく、家中の内を整える場です。勘十郎様が、兄上と争うためではなく、織田の家中を支える弟君として顔を持つ」


 勘十郎の表情が変わった。


 悪くない。


 そう思ったのが見えた。


 だが、すぐには頷かない。周りの目がある。簡単に乗れば、兄に用意された場へ入ったように見えるからだ。


 勝三郎は言った。


「若様からの命ではございませぬ。権六殿が、勘十郎様の名を清洲に使わせぬため、筋として申し上げているのです」


 勘十郎は権六を見る。


「権六の考えか」


「はい」


 権六は迷わず答えた。


「私の考えにございます」


 嘘ではない。


 信長の前で話し合った形ではあるが、権六自身もそう見ると決めてここに来た。


 勘十郎はしばらく黙り、やがて言った。


「兄上のためではないな」


「勘十郎様のためであり、織田家中のためにございます」


「大きく言う」


「小さく言えば、清洲に先を越されます」


 権六の返しに、勘十郎は少しだけ笑った。


 初めて、表情が緩んだ。


「よい。考える」


 権六は深く頭を下げる。


「それで十分にございます」


 だが、部屋の隅にいた若い家臣の一人が、不満そうに視線を落とした。


 勝三郎はそれを見た。


 名はまだ分からない。


 だが、清洲の言葉を待っていた顔だった。


 一方、藤吉郎と新五は飯屋へ向かっていた。


 弥吉は、裏手で椀を洗っていた。噂を運んだことがもう伝わっているのか、顔色が悪い。


 藤吉郎はすぐには近づかなかった。


 新五が飯屋の主人へ話を通す。


「清洲門前が騒がしい。小僧が客に呼ばれて外へ出るのは危うい。しばらくは店の内側の仕事をさせた方がよい」


 飯屋の主人は、最初は嫌な顔をした。


「人手が足りませぬ。水運びも外の呼び込みも、小僧の仕事で」


「清洲の者に小僧を使われれば、店の名も巻き込まれる」


 新五がそう言うと、主人は黙った。


 そこへ藤吉郎が言った。


「弥吉は椀洗いが早いです。あと、客の残した飯を無駄にしません」


「それは褒めているのか」


 主人が呆れる。


「褒めています。だから、裏で使えば役に立ちます。外で知らない人に呼ばれるより、店の中にいた方がいいです」


 弥吉は椀を洗う手を止めた。


 怒られると思っていたのだろう。


 藤吉郎は弥吉へ向いた。


「聞いた話は、誰にでも言わない方がいい。飯がもらえても、後で怖くなる」


 弥吉は唇を噛んだ。


「お前だって、聞いて回っているだろ」


「だから、怒られた」


 藤吉郎は真面目に答えた。


「一人で聞くなって。帰り道を決めろって」


 弥吉は、少しだけ目を丸くした。


 新五は主人へ言った。


「しばらく弥吉は店の内側へ。代わりに、薪の運びは橘屋から回すよう話を通す」


 主人は損得を考えた顔をした。


 やがて頷く。


「薪が回るなら、外の水運びを減らしてもよい」


 それで決まった。


 弥吉は飯屋から消されない。


 だが、清洲の客に簡単に呼ばれる場所からは外れた。


 藤吉郎は小さく息を吐いた。


 弥吉がぼそりと言う。


「俺、悪いことをしたのか」


「した」


 藤吉郎は正直に答えた。


 弥吉の顔が曇る前に、続ける。


「でも、使われただけでもある。次から、聞いた話は店の主人か、橘屋の手代か、私に言え。知らない人に飯をもらっても、すぐ話すな」


「飯をもらったら?」


「半分だけ食べて、半分持って帰れ」


「なぜ」


「全部食べると、次も欲しくなる」


 弥吉は、しばらく考えた。


「お前、変なことを言うな」


「よく言われる」


 藤吉郎は少しだけ笑った。


 その日の夕方、那古野に二つの報せが戻った。


 一つは、勘十郎が若衆の礼法と武芸の場を「考える」と言ったこと。


 もう一つは、弥吉が飯屋の内側へ下がったこと。


 信長はそれを聞き、庭の地図を見た。


「二つとも、道を折らずに曲げたか」


 平手が頷く。


「清洲に作られる前に、こちらで形を置けました」


 権六は言った。


「勘十郎様は、まだ納得されたわけではありません」


「それでよい」


 信長は答える。


「すぐ納得するなら、逆に危うい」


 勝三郎が続けた。


「ただ、勘十郎様の周りに一人、清洲の言葉を待っているような若い者がいました」


「名は」


「まだ」


「調べろ。だが、騒ぐな」


「承知しました」


 藤吉郎も報告した。


「弥吉は飯屋の内側へ下がります。薪は橘屋から回します。主人は損をしないなら従う顔でした」


 信長は笑った。


「商いは、それでよい。損をしないなら動く」


「弥吉は、次から話す相手を決めます」


「守られていない耳が、一つ減ったな」


 龍之介は、その言葉に頷いた。


 完全ではない。


 小平も弥吉も、まだ危うい。


 勘十郎の周りにも、清洲の言葉を待つ者がいる。


 だが、清洲が置いた言葉を、ただ消そうとはしなかった。


 折らずに、曲げた。


 その結果、道は少し残った。


 信長は清洲の方角を見た。


「向こうは次に、名のある者を出す」


「名のある者、でございますか」


 新五が問う。


「使いでも雑掌でもない。清洲御用を曖昧にする段階は、少し剥がれた。大和守家の差配と言った以上、次は大和守家に近い者か、坂井の名に近い者が出る」


 平手の顔が険しくなる。


「いよいよ、清洲の中枢へ近づきますな」


「近づかせたのは向こうだ」


 信長はそう言って、笑った。


 だが、その笑いは軽くない。


 清洲の影は、名を持ち始めている。


 名を持った影は、ただの噂より重い。


 そのぶん、斬る時は血が出る。


 夜、龍之介は一人で庭に立っていた。


 空には雲が厚く、月は見えない。


 勘十郎の道。


 小平の寺。


 弥吉の飯屋。


 橘屋の印。


 どれも細い。


 だが、切れずに残った。


 龍之介は、自分の手を見た。


 今日も斬らなかった。


 だが、もし清洲が次に名のある者を出してくるなら、ただ見るだけでは済まない場も来るだろう。


 名のある者は、名を盾にする。


 その盾をどう外すか。


 武で裂けば早い。


 知で追い詰めれば冷たい。


 その間で、人の道を残すことができるのか。


 遠くで藤吉郎の声がした。


 弥吉の話を新五にしているらしい。飯を全部食うな、半分残せという妙な教えを、得意げに語っている。新五はたぶん呆れているだろう。


 龍之介は少し笑った。


 飯の半分。


 紙束。


 若衆の稽古。


 どれも小さい。


 だが、こういう小さなものが、人を清洲の手から少しだけ遠ざける。


 清洲は次に、もっと重い名を持ってくる。


 その時、こちらの小さな道が耐えられるか。


 龍之介は清洲の方角を見た。


 まだ斬る時ではない。


 しかし、名を持つ者が出てくるなら、刃を鞘に入れたままでは済まないかもしれない。


 夜の風が、湿った土の匂いを運んできた。


 那古野の灯は、まだ消えていなかった。


第31話─了

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