第30話 弟の名
権六と勝三郎が勘十郎のもとへ向かったのは、清洲への返書を出した翌朝だった。
空は薄く曇っている。雨はまだ落ちていないが、湿った風が道の草を撫でていた。
権六はいつものように大きく、重い。歩くだけで道の土が少し沈むように見える。勝三郎はその隣で、無駄なく歩いた。若いが、ただ若いだけではない。信長の近くで育った者らしく、人の動きや顔色を拾う目を持っている。
龍之介は那古野に残された。
信長の命だ。
流れ者が勘十郎の前へ出れば、話が余計に歪む。清洲は必ず「信長のそばの得体の知れぬ男が弟君の周りへ口を出した」と言うだろう。だから、権六と勝三郎が行く。
権六は勘十郎への旧縁を持つ男として。
勝三郎は信長の近くにいる者として。
二つの筋をそろえて、先に言葉を置く。
信長は、出立前の二人に短く言った。
「勘十郎を説き伏せるな」
権六が眉を動かす。
「では」
「清洲に名を使わせぬ、と言え。わしがそう考えていると伝えろ。勘十郎がどう受け取るかは、勘十郎の腹だ」
勝三郎が頷いた。
「若様からの命令ではなく、清洲に名を使わせぬための筋として伝えるのですね」
「そうだ」
信長は権六を見た。
「権六。お前はわしのためだけに行くな。勘十郎のためにも行け」
権六は深く頭を下げた。
「承知しました」
その背を見送りながら、龍之介は胸の奥が重くなるのを感じていた。
兄弟。
家中。
旧縁。
清洲。
どれも荷札のように簡単には付け替えられない。権六が信長側へ立つ理由を言葉にしたからといって、すべてが解けるわけではない。むしろ、その言葉が本物かどうかを、勘十郎側の者たちは見るだろう。
信長も、それを分かっている。
だから、説き伏せるなと言った。
勘十郎を従わせるためではなく、名を使わせぬために行け、と。
その頃、龍之介は藤吉郎とともに寺へ回す紙仕事を整えていた。
寺へ米と薪を入れた後、小平を残す理由を作るためである。写経の紙を運び、古い紙を揃え、墨を擦る手伝いをする。小平がいなければ困る、というほど大きな役ではない。だが、小平がいれば助かる。寺が彼を追い出す理由を一つ減らせる。
平手が考えた形を、龍之介たちが実際の荷に落とし込んでいた。
藤吉郎は紙束を抱えながら、少し不安そうな顔をしている。
「小平、残れるでしょうか」
「残れる理由は作った」
「理由があれば、人は残れますか」
「必ずではない。だが、理由がなければ押し出されやすい」
藤吉郎は紙束を見下ろした。
「飯だけでは足りないのですね」
「飯は必要だ。けれど、飯を食べる場所と、そこにいてよい理由も要る」
「難しいです」
「難しいな」
龍之介は素直に頷いた。
清洲門前の大男は、小平を直接殺しはしなかった。寺に圧をかけ、居場所を奪おうとした。人は飯だけで生きているわけではない。居場所を失えば、誰かの手先になるか、道端へ落ちる。
それを防ぐには、守る側も居場所を作らねばならない。
ただ助けるだけでは足りない。
藤吉郎がぽつりと言った。
「私も、昔は飯をくれるところへ寄っていました」
龍之介は横を見た。
藤吉郎は、いつもの軽い顔をしていない。
「飯をもらえる場所は覚えます。でも、邪魔だと言われる場所も覚えます。小平も、たぶん同じです」
「そうか」
「だから、寺で邪魔ではない役があれば、少しは残りやすいと思います」
龍之介は頷いた。
「その通りだ」
藤吉郎は少しだけ笑った。
「飯の話が役に立ちました」
「今回はかなりな」
「今回は、ですか」
「かなり、だ」
藤吉郎は不満そうにしたが、すぐに紙束を抱え直した。
寺へ着くと、年寄りの僧は深々と頭を下げた。
顔には疲れがある。清洲門前の男に圧をかけられたのだろう。寺もまた、清洲の名に逆らえるほど強くない。
龍之介は責めなかった。
信長も言っていた。
寺も怖いのだ。
僧は、紙束を見て目を瞬いた。
「これは」
「写経用の紙仕事です。橘屋を通して、那古野から手配しました。古い紙を揃え、墨と一緒に管理する者が必要でしょう」
僧はすぐに意図を悟ったようだった。
奥に控えていた小平が、小さく顔を上げる。
藤吉郎は、走り出しそうになってから止まった。
新五はいない。
だが、言われたことは覚えている。
一人で飛び出すな。
龍之介は、小平へ直接ではなく僧へ向けて言った。
「小平殿は、手が早いと聞きました。寺の者として、この紙仕事を手伝ってもらえれば助かります」
小平の目が揺れた。
僧はしばらく黙っていた。
その沈黙は短くなかった。
受ければ、那古野と橘屋からの仕事を受けることになる。清洲御用の男に睨まれた寺としては、怖いはずだ。
だが、米と薪はすでに入っている。
紙仕事も入る。
寺にとって、断りにくい理由もある。
僧は、やがて小さく頷いた。
「小平は、字は読めませぬ」
「紙を揃えるだけでもよいのです」
「墨をこぼすやもしれませぬ」
「こぼさぬ仕事から始めればよろしいかと」
僧は小平へ目を向けた。
「小平。やれるか」
小平は喉を鳴らし、何度も頷いた。
「やります。やります」
その声は震えていた。
藤吉郎は、懐へ手を入れかけて止めた。
握り飯を出そうとしたのだろう。
だが、ここで出せば小平が目立つ。
龍之介は小さく頷いた。
よく止まった。
藤吉郎は悔しそうに手を戻した。
その時、寺の門の外で草履の音がした。
龍之介の身体が反応する。
だが、すぐには動かない。
門の向こうに立ったのは、昨日の大男ではなかった。橘屋の手代だ。顔色は悪いが、荷札を胸に抱えている。
「橘屋より、追加の紙箱にございます」
僧の顔が少しだけ緩んだ。
橘屋も動いている。
宗右衛門は、ただ那古野に頼るだけではなく、自分の店の荷として寺へ仕事を通そうとしていた。
龍之介は、寺、橘屋、小平、藤吉郎の間に細い線が一本通ったのを感じた。
弱い。
細い。
だが、線は線だ。
一方、権六と勝三郎は、勘十郎のいる館へ入っていた。
そこは那古野ほど荒々しくはなく、清洲ほど重くもない。だが、空気には別の緊張があった。若き信長の弟を中心に、家中の思惑が集まる場所である。
勘十郎は、まだ若い。
顔立ちは信長に似ているところもあるが、目の動きは違う。信長の目が外へ外へと伸びるのに対し、勘十郎の目は周囲の顔を確かめるように動く。自分がどう見られているかを気にしている目だった。
その近くには、幾人かの家臣がいた。
中には、権六を見る目に警戒を滲ませる者もいる。
当然だ。
権六は、勘十郎側との縁を持ちながら、今は信長の側に立っているように見える。裏切ったと見たい者もいるだろう。利用できると見たい者もいるだろう。
権六は、深く頭を下げた。
「勘十郎様」
「権六。今日は兄上の使いか」
勘十郎の声には、棘があった。
権六は逃げなかった。
「若様の命もございます。されど、私自身の筋でもございます」
「筋?」
「はい」
権六は顔を上げた。
「清洲が、私と勘十郎様との旧き縁を文に出しました。若様の動きに巻き込まれるな、と」
勘十郎の眉が動く。
近くの家臣たちも、互いに視線を交わした。
勝三郎は少し後ろに控え、何も言わずに見ていた。
権六は続ける。
「私は、勘十郎様との縁を捨てたわけではございませぬ」
その言葉に、勘十郎の目が細くなる。
「では、なぜ兄上の側にいる」
「清洲が勘十郎様の御名を旗にするのを防ぐためにございます」
部屋が静まった。
権六の声は低いが、揺れていない。
「若様は、清洲の荷筋を見ておられます。炭、鉄、橘屋、寺、古い印。その中で、清洲は私と勘十郎様の縁まで使おうとしました。ここで私が揺れれば、勘十郎様の名が清洲の道具になります」
勘十郎は黙っていた。
権六はさらに頭を下げた。
「私は、それを許したくありませぬ。ゆえに、今は若様の側に立ちます。勘十郎様を捨てるためではございませぬ。勘十郎様の名を、清洲に勝手に使わせぬためでございます」
しばらく、誰も喋らなかった。
勝三郎は、勘十郎の顔を見ていた。
勘十郎は怒っている。
それは当然だ。
兄の側に立つと言われて、穏やかに頷けるほど、まだ腹は決まっていない。だが、その怒りの奥に、別のものもある。
不安だ。
自分の名が清洲に使われる。
その言葉は、勘十郎にも届いていた。
「兄上は、私をどうするつもりだ」
勘十郎が問うた。
権六はすぐには答えなかった。
代わりに、勝三郎が一歩前へ出た。
「若様は、勘十郎様を清洲の荷筋や商人宿の騒ぎに巻き込ませぬ、と申されております」
「勝三郎」
勘十郎は勝三郎を見た。
「お前も兄上の側か」
「はい」
勝三郎は迷わず答えた。
「ですが、勘十郎様を軽んじるためではございませぬ。若様の側にいるからこそ、若様がどこを見ておられるかを知っております」
「兄上は、私を疑っているのではないのか」
「疑う者は周りにいるでしょう。清洲にも、那古野にも、こちらにも。ですが、若様は今、勘十郎様の名を清洲に使わせぬことを先に見ておられます」
勘十郎は、唇を噛んだ。
近くの家臣の一人が口を挟みかける。
「されど、三郎様が清洲と争えば」
権六がその男を見た。
「争いを避けるために、清洲の名を曖昧にしたままにするのか。そうすれば、次に使われるのは勘十郎様の名だ」
男は黙った。
権六の声には、荒さより重さがあった。
勘十郎は、長く黙った後、低く言った。
「兄上に伝えよ」
「はい」
「私は、清洲の旗ではない」
権六の目がわずかに動いた。
勘十郎は続けた。
「だが、兄上の駒でもない」
「そのまま、お伝えします」
権六は深く頭を下げた。
勝三郎も頭を下げる。
勘十郎の言葉は、友好的ではない。
だが、清洲の旗ではないと言った。
それだけで、今日ここへ来た意味はあった。
那古野へ権六と勝三郎が戻った時、日は傾き始めていた。
信長は庭で待っていた。
権六が報告する。
勘十郎が怒っていたこと。
周囲に警戒する者がいること。
それでも「私は清洲の旗ではない。だが、兄上の駒でもない」と言ったこと。
信長は、それを聞いて笑わなかった。
「そう言ったか」
「はい」
「勘十郎らしい」
声には、少しだけ苦みがあった。
勝三郎が言う。
「悪い返事ではありませぬ」
「分かっておる」
信長は空を見た。
「清洲の旗ではない。なら、十分だ」
権六は深く頭を下げた。
「若様。勘十郎様の周りには、清洲の言葉を待つ者もおります」
「だろうな」
「急ぎすぎれば、勘十郎様は反発されます」
「分かっておる」
信長は権六を見る。
「お前は、これからも勘十郎への筋を持て。わしの側にいるからといって、その筋を切るな」
権六は目を見開いた。
「よろしいので」
「切れば、清洲が拾う。持っていれば、こちらも見える」
信長は言った。
「ただし、隠すな。何かあれば言え」
「はっ」
勝三郎が小さく頷いた。
龍之介は、そのやり取りを見て胸を撫で下ろした。
勘十郎との道は切れなかった。
信長は、権六にその道を持たせたまま使う。
危うい。
だが、清洲に取られるよりはいい。
その時、藤吉郎が戻ってきた。
寺の紙仕事が通ったこと。
小平が寺に残れそうなこと。
橘屋の手代も踏みとどまっていること。
報告を聞いた信長は、ようやく少し笑った。
「今日は、二つ道が残ったな」
「二つ?」
藤吉郎が首を傾げる。
「小平の寺への道と、勘十郎への道だ」
「どちらも飯が要りますね」
信長は声を出して笑った。
「そうだな。どちらも飯が要る」
平手も少しだけ表情を緩めた。
だが、龍之介は油断しなかった。
道が残ったということは、その道を狙う者もいるということだ。
清洲は、必ず次の手を打つ。
その夜、清洲では坂井大膳が二つの報せを聞いていた。
一つは、橘屋の新印が寺へ通ったこと。
一つは、勘十郎が「清洲の旗ではない」と口にしたこと。
大膳は、しばらく目を閉じていた。
控える男が恐る恐る問う。
「いかがいたしましょう」
「権六を揺らすのは、しばらく難しい」
大膳は静かに言った。
「勘十郎様も、思ったより早く言葉を置かれた。三郎め、先に打ったな」
「では」
「道を変える」
大膳は目を開く。
「勘十郎様を直接動かすのではない。周りを動かす。兄上の駒ではないと言われたなら、その言葉を使えばよい」
「と、申しますと」
「勘十郎様は、兄上の駒ではない。ならば、勘十郎様にも独自の顔が必要だ。そう囁け」
控えの男が頭を下げる。
大膳はさらに言った。
「それと、小平という寺の小僧。今は触るな」
「よろしいので」
「触れば、三郎の側が守る。なら、別の耳を探せ。守られた耳ではなく、守られていない耳だ」
清洲の闇は、また別の道へ伸び始めた。
那古野の夜。
龍之介は、庭に座っていた。
藤吉郎が近くで紙束を数えている。小平の寺へ回す仕事の控えだ。勝三郎は信長と何か話しており、権六は一人で槍を磨いている。
勘十郎の言葉が、龍之介の中で何度も響いていた。
清洲の旗ではない。
兄上の駒でもない。
それは反発であり、同時に踏みとどまりでもある。
信長は、その反発を許した。
許した上で、道を残した。
人を無理に曲げれば折れる。
折れた名は、敵に拾われる。
なら、曲がりきらない道を残すしかない。
小平も同じだ。
寺から引き抜けば目立つ。放れば消される。だから、寺に残る理由を作った。
勘十郎も同じなのかもしれない。
信長の側へ無理に引けば反発する。放れば清洲に使われる。なら、自分の名を持ったまま、清洲の旗ではないと言わせる。
難しい。
だが、今日二つの道は残った。
龍之介は手を開いた。
斬らずに残した道。
言葉で残した道。
飯と紙で残した道。
その先がどうなるかは分からない。
だが、橋を落とすより、ずっと繊細な戦だった。
清洲の影は、まだ消えない。
むしろ、形を変えてくるだろう。
守られた耳ではなく、守られていない耳。
勘十郎本人ではなく、その周り。
次に狙われるのは、そこだ。
龍之介は清洲の方角を見た。
まだ斬る時ではない。
だが、守るために見るべきものは、さらに増えた。
那古野の夜は、重く静かに更けていった。
第30話─了




