第29話 誰の御用か
清洲から返書が届いたのは、勝三郎が那古野に留まった翌日の昼だった。
使いは山口主計ではなかった。
来たのは、年かさの雑掌と若い足軽が二人。武威を見せるほどの人数ではないが、軽く扱えるほどでもない。文箱は立派で、紐の結びも整っている。清洲の門前で急いで書いた文ではなく、城中で形を整えた文だと分かった。
信長は広間で受けた。
平手、権六、新五、龍之介、勝三郎、又左が控える。藤吉郎は外回りで、橘屋と飯屋の様子を見に行かされていた。彦右衛門は蔵の近くで、清洲の使いが連れてきた荷や馬の具合を見ている。
雑掌は深く頭を下げた。
「清洲より、三郎様へご返答にございます」
「受けよう」
信長は短く答えた。
文は平手が受け取り、封を改めてから信長へ渡した。
信長は文を開き、目を通した。
表情は変わらない。
だが、読み進めるほどに広間の空気が細く張っていくのが分かった。
信長は最後まで読み、文を平手へ渡す。
「読め」
平手が静かに頷き、声に出した。
清洲御用と称された荷については、大和守家の差配にて動かされたものである。
橘屋の古印については、商人宿の不始末であり、大和守家としては関知しない。
那古野が橘屋へ新印を与え、荷印の改めに関わったことは、清洲門前の商いへ過分に踏み込むものと見なす。
今後、清洲門前の荷へ那古野の者が詮議を加えることを控えられたい。
そして、最後に一文があった。
なお、柴田権六殿におかれては、勘十郎様との旧き御縁も深きこと。家中の和を重んじ、若き方々の性急なる動きに巻き込まれぬよう願うものなり。
読み終えた時、広間は静まり返っていた。
又左が怒りで息を荒くした。
勝三郎の目が細くなる。
新五は表情を変えないが、手の置き方が少し硬くなっている。
龍之介は、文の最後の一文が狙いだと感じた。
清洲御用の正体を一部だけ明かし、大和守家の差配だとした。
守護の名は出さない。
坂井大膳の名も出さない。
そのうえで、権六を揺さぶる。
信長の側に立つ権六を、勘十郎との縁で引き戻そうとしている。いや、引き戻すというより、家中に疑いを置こうとしている。
権六は黙っていた。
太い腕を組み、文を見ている。
怒りはある。
だが、怒鳴らない。
信長は、ゆっくりと口を開いた。
「大和守家の差配、と来たか」
平手が文を畳みながら答える。
「守護様の御用とは書いておりませぬ」
「ああ」
信長は笑った。
「それで、橘屋の古印は商人宿の不始末。大和守家は知らぬ。だが、大和守家の差配の荷ではある。ずいぶん都合がよい」
雑掌の顔が硬くなった。
「三郎様。そのような」
「文に書いてあることを読んでおるだけだ」
信長は雑掌へ目を向けた。
「清洲は、大和守家の差配だと言う。ならば、古印を使った者は大和守家の差配の下にいたのか。それとも橘屋が勝手に古印を押した荷を、大和守家の荷として通したのか。どちらだ」
雑掌は答えに詰まった。
文を運ぶ役であり、答える役ではないのだろう。
信長はそれ以上責めず、権六へ目を向けた。
「権六」
「はっ」
「お前の名も入っているぞ」
「見ました」
「どう見る」
権六は少し間を置いた。
その間、誰も口を挟まない。
権六は文へ視線を落としたまま、低い声で言った。
「勘十郎様との縁を、清洲に使われました」
信長は頷いた。
「腹は立つか」
「立ちます」
「では、清洲へ怒鳴り込むか」
「それは、相手の思う壺にございます」
権六は顔を上げた。
「私は、勘十郎様を捨てたわけではございませぬ。されど、清洲に勘十郎様の名や私の旧縁を使われることは、なおさら許せませぬ」
広間の空気が変わった。
権六は続ける。
「若様の側に立つことが、勘十郎様を捨てることだと言われれば、私は違うと申します。勘十郎様を清洲の旗にされぬためにも、今は若様の側で清洲の手を見る。それが私の立つ場所にございます」
信長は権六を見た。
しばらく何も言わなかった。
やがて、短く笑う。
「よし」
それだけだった。
だが、その一言で広間の緊張が少しほどけた。
勝三郎が静かに言う。
「清洲は、権六殿が怒るか、黙るか、揺れるかを見たかったのでしょう」
「だろうな」
信長は文をもう一度手に取る。
「だが、権六は言った。これでよい」
龍之介は、その場に立ちながら思った。
今の権六の言葉は、家中に必要だ。
勘十郎を捨てて信長へ乗り換えたのではない。勘十郎を清洲の旗にされないため、信長側に立つ。その筋があるなら、勝家の立ち位置はただの裏切りではなくなる。
そして、清洲がそこを突いてきたことで、逆に権六が自分の立場を言葉にする場が生まれた。
信長は、清洲の揺さぶりをその場で一つ潰したのだ。
清洲の雑掌は、文への返答を待っていた。
信長は、しばらく文を眺めた後、平手へ渡した。
「返書を書く」
「今すぐでございますか」
「使いを待たせておけ」
平手は頷き、筆を用意させた。
信長は歩きながら言葉を出す。
「大和守家の差配であること、確かに承った。ならば、古印の荷が大和守家の差配の下で動いたのか、橘屋の不始末により大和守家の名が汚されたのか、そこを改めて問う」
平手が筆を走らせる。
信長は続けた。
「橘屋が新印を用いることは、商人宿の不始末を正すためであり、清洲の名を傷つけるものではない。むしろ古印を用いる者が今後もあれば、大和守家の名を騙る者として、共に改めるべきである」
新五が小さく頷いた。
これは攻めている。
だが、表向きは清洲の名を守るためと言っている。大和守家の名を出したなら、その名を騙られたままにしてよいのかと返す形だ。
信長は少しだけ権六へ目を向けた。
「最後に、権六のことだ」
権六が背筋を伸ばす。
「柴田権六は、勘十郎への旧縁を忘れたわけではない。ゆえにこそ、勘十郎の御名が清洲の荷筋や商人宿の騒ぎに用いられることを憂う。家中の和を重んじるならば、勘十郎の御名を軽々しく文中に出されぬよう願う、と書け」
平手の筆が止まった。
「若」
「強すぎるか」
「いえ」
平手はゆっくりと首を横に振った。
「必要でしょう。清洲が権六殿の旧縁を文に出した以上、こちらも筋を返さねばなりませぬ」
権六は深く頭を下げた。
「若様、かたじけのうございます」
「礼を言うな。お前が揺れれば、こちらが困る」
「はっ」
信長は笑った。
勝三郎が、権六を見て少しだけ目を緩めた。
又左は何か言いたそうだったが、言葉にできずに唇を引き結んでいる。
龍之介は、今の返書がただの文ではないことを感じていた。
清洲は権六を揺さぶった。
信長は、その揺さぶりを逆に文へ刻んだ。
権六が信長側に立つ理由を、清洲への返書の中で明らかにする。それは家中に対しても、清洲に対しても、権六自身に対しても意味を持つ。
これで清洲は、権六の名を軽く使いにくくなる。
使えば、勘十郎の名を清洲の荷筋に巻き込むことになるからだ。
返書を待つ間、清洲の雑掌は別室に置かれた。
茶は出したが、帳面も印も見せない。
その間、信長は龍之介たちを庭へ移した。
「清洲は、大和守家の差配だと言った」
信長は庭に線を引く。
清洲城。
大和守家。
橘屋。
灰小屋。
寺裏の井戸。
「これで、守護様の名は一度引いた。だが、大和守家の名が出た。次に出るのは、誰だ」
勝三郎が答えた。
「坂井大膳でしょう」
「どう出る」
「表には出ませぬ。大和守家の差配とした以上、大膳本人が出れば、古印の荷との距離が近くなりすぎます。まずは家人か、別の奉行筋を使うかと」
新五が続ける。
「あるいは、橘屋や寺へ圧を強める」
「そうだ」
信長は頷いた。
「権六の名も使ってきた。なら、次は勘十郎の周りへも何か置くかもしれぬ」
その言葉で、権六の顔が険しくなった。
「末森、あるいは勘十郎様の近辺へ、噂を置くと」
「そう見るべきだ」
龍之介は、清洲の手を頭の中で辿った。
清洲御用。
橘屋。
古印。
寺。
藤吉郎の耳。
権六と勘十郎の縁。
相手は荷だけでなく、人の関係を荷札のように使っている。
誰の名で動くのか。
誰の縁を使うのか。
そこを曖昧にしながら、こちらの足元を削る。
「若様」
「何だ、龍之介」
「勘十郎様の周りに、先に言葉を置くべきかと存じます」
権六が龍之介を見る。
信長も目を細めた。
「どんな言葉だ」
「清洲が勘十郎様の名を使うかもしれぬ、と先に疑わせるのではなく、若様が勘十郎様の名を軽く扱わせぬと考えている、と伝える形です」
信長は黙った。
龍之介は続けた。
「疑いを先に置けば、向こうは警戒します。ですが、若様が勘十郎様を清洲の荷筋や商人宿の騒ぎに巻き込ませぬつもりだと伝われば、少なくとも清洲の噂が入り込む隙は少し狭まります」
権六が低く言った。
「それを、私からも言えます」
信長は権六を見る。
「お前が言うか」
「はい。勘十郎様への筋を捨てぬまま、若様の側に立つ。その言葉を、家中にも勘十郎様の周りにも置くべきかと」
勝三郎が頷いた。
「よいと思います。清洲に先に言われるより、こちらから言った方が傷は浅い」
平手も静かに言った。
「ただし、勘十郎様を刺激しすぎぬよう、言葉は選ばねばなりませぬ」
「爺、任せる」
「承知しました」
信長は、庭に引いた線を見下ろした。
「清洲は、名と縁を使う。なら、こちらも名と縁を整える。権六、勝三郎、新五、龍之介」
呼ばれた四人が顔を上げる。
「それぞれ、見る場所が違う。権六は勘十郎への筋。勝三郎はわしの近くの腹。新五は林の筋と清洲門前。龍之介は、道と荷と人の崩れどころ」
信長は、短く笑った。
「忙しくなるぞ」
誰も否定しなかった。
藤吉郎が戻ってきたのは、返書を書き終える少し前だった。
握り飯は一つ減っていた。
小平へ渡したのだろう。
だが、顔が明るくない。
「どうした」
新五が問うと、藤吉郎は声を落とした。
「小平が、寺を出されるかもしれません」
庭の空気が変わる。
「誰が言った」
「寺の下働きの年長です。清洲御用の男が寺へ来た後、厄介を抱えるなという話になっているそうです」
龍之介は拳を握りかけた。
清洲は動きが早い。
小平を直接消すのではなく、寺から追い出させる。そうすれば、清洲が手を下したことにはならない。寺が厄介払いをした形になる。
信長は、藤吉郎へ問うた。
「小平は何と言った」
「何も。握り飯は食べました。でも、明日もここにいるか分からないと」
藤吉郎の声には怒りがあった。
信長はしばらく黙ってから、言った。
「寺を責めるな」
「若様」
「寺も怖い。清洲御用の男に睨まれれば、寺も飯を失う。小平を追い出そうとするのは弱さだが、理由はある」
藤吉郎は唇を噛んだ。
龍之介は信長の顔を見る。
冷たい。
だが、冷たく切り捨てる顔ではない。
「橘屋から寺へ米と薪を回した。次は、寺が小平を抱える理由を作る」
信長は平手へ向いた。
「寺に写経の紙仕事を出せ。小平の手を使う形にする。飯だけではなく、役を与える。小平がいなくなれば、その仕事が止まるようにしておけ」
平手が頷いた。
「寺が小平を置く理由になりますな」
「そうだ」
藤吉郎の顔に、少しだけ光が戻る。
「小平にも役を」
「重すぎぬ役だ」
信長は釘を刺す。
「文を運ばせるな。清洲を探らせるな。紙を運び、飯を食い、生きていればよい」
藤吉郎は深く頭を下げた。
「はい」
龍之介は、信長の言葉を胸に刻んだ。
人を守るには、ただ隠すだけでは足りない。
その場にいる理由を作る。
飯を得る理由。
役を持つ理由。
追い出されない理由。
耳の帰り道は、そうして作るのだ。
清洲への返書は、その日の夕刻に使いへ渡された。
雑掌は文を受け取り、顔色を変えずに頭を下げた。だが、権六に関する一文を読まされていたのか、帰り際に権六を見る目が少し揺れていた。
権六は動かない。
信長の後ろで、ただ静かに立っていた。
その姿だけでも、返答になっていた。
使いが去った後、勝三郎がぽつりと言った。
「清洲は次に、勘十郎様の方へ噂を置くでしょう」
「分かっている」
信長は答えた。
「だが、こちらも先に言葉を置く」
「誰が行きますか」
信長は権六を見た。
「権六。お前が行け」
「はっ」
「ただし、一人では行かせぬ。勝三郎も行け」
勝三郎が軽く目を見開いた。
「私もでございますか」
「お前は、わしの近くの者として見る。権六が勘十郎を捨てたわけではないと、お前の目でも見てこい」
勝三郎は深く頭を下げた。
「承知しました」
龍之介は、自分が呼ばれないことを理解していた。
ここに流れ者が行けば、話が歪む。
権六と勝三郎。
勘十郎への筋と、信長の近くの目。
その二人で行くのがよい。
信長は龍之介へ向いた。
「お前は、小平の寺の筋を見ろ。藤吉郎を一人で動かすな」
「承知しました」
藤吉郎はすぐに言った。
「一人では動きません」
「今、言われる前に言ったな」
信長が言うと、藤吉郎は少し胸を張った。
「覚えました」
「なら、守れ」
「はい」
信長は清洲の方角へ目を向けた。
「清洲は名を使った。次は縁を使う。なら、こちらは縁を先に結び直す」
夕暮れの光が、庭の土に長く伸びていた。
線の上に、清洲、那古野、末森、勘十郎のいる方角が重なって見える。
荷の道から始まったものが、家中の縁へ広がっている。
いよいよ、ただの諜報では済まなくなってきた。
夜、龍之介は鍛冶場の前に立っていた。
与吉が火を落とし、炭をならしている。今日の火は、いつもより赤く見えた。
藤吉郎は、少し離れたところで小さな紙束を見ている。小平の寺へ回す写経の紙仕事だ。まだ何も始まっていない。ただの紙束に過ぎない。
だが、その紙束が小平の居場所になるかもしれない。
飯。
役。
帰り道。
信長は、それを繋げようとしている。
龍之介は、自分の手を見た。
今日は槍を振っていない。
だが、戦った。
清洲の文を読み、権六の言葉を聞き、小平の居場所を作る策を考えた。
戦場で敵を裂くよりも、ずっと息が詰まる。
それでも、この息苦しさの先に、戦場で立てる兵がいるのだろう。
権六は、勘十郎を捨てていない。
信長は、それを許したうえで使う。
勝三郎は、その腹を見に行く。
藤吉郎は、小平へ握り飯を渡す。
新五は、林の名で清洲へ問い続ける。
そして龍之介は、その道の崩れどころを見る。
清洲は次に、どこを突くのか。
勘十郎か。
小平か。
橘屋か。
それとも、信長自身か。
龍之介は清洲の方角を見た。
まだ斬る時ではない。
だが、刃を抜く前に整えるべきものが多すぎる。
武に呑まれれば、早く終わる。
知に呑まれれば、人を置き去りにする。
その間を歩くしかない。
鍛冶場の火が、最後に小さく爆ぜた。
清洲への返書は、もう道の上にある。
次に返ってくるのは、文か、噂か、刃か。
龍之介は静かに息を吐いた。
第29話─了




