第28話 大殿の返書
末森から返書が届いたのは、藤吉郎が小平へ握り飯を渡しに行く前だった。
使いに立ったのは、若い武者である。背は高くないが、身のこなしに無駄がなく、那古野の門をくぐる時も周囲をよく見ていた。供は二人だけ。大仰な使者ではない。だが、門番が顔を見るなり姿勢を正したところで、ただの使いではないと分かった。
「池田勝三郎様にございます」
門番の声が、庭へ届いた。
龍之介はその名に反応した。
池田勝三郎。
池田恒興。
信長の近くにいるはずの名だ。
龍之介の胸の奥で、知っている流れの断片が静かに動く。しかし、顔には出さなかった。信長に何度も言われている。知っている名を聞いた時、目を変えるな、と。
勝三郎は広間へ通されると、信長に深く頭を下げた。
「若様。大殿より返書にございます」
「勝三郎、遅かったな」
信長の声は軽い。
だが、二人の距離は近かった。
又左や新五とは違う。家臣というより、幼い頃から近くにいた者同士の空気がある。勝三郎も、それを崩さぬ程度に顔を上げた。
「末森で平手殿の文を改められた後、大殿が何度かお尋ねになりました。清洲御用とは何ぞ、と」
広間にいた者たちの背筋が伸びる。
平手、権六、新五、龍之介、又左、彦右衛門が控えている。藤吉郎は入口近くにいたが、勝三郎が来た瞬間から興味津々の顔をしていた。
信長は返書を受け取り、すぐには開かずに勝三郎を見た。
「父上は怒っていたか」
「怒っておられるというより、面白がっておられるようにも見えました。ただし、清洲の名を軽く扱うな、と」
「爺と同じことを言う」
平手が軽く頭を下げる。
「大殿のお考え、もっともにございます」
信長は笑って返書を開いた。
そこには、短いが重い言葉が並んでいた。
清洲御用の名を騙る者があるなら、捨て置くべからず。
ただし、守護の名を軽々しく騒がせるな。
橘屋の帳面と印の写しは、那古野で保ち、必要に応じて末森へ改めて送れ。
清洲へは、問うべき名を問え。
誰の御用か。
誰が荷を命じたか。
誰が橘屋へ圧をかけたか。
それを文で問い返し、返答を待て。
信長は最後まで読むと、返書を平手へ渡した。
「父上は止めておらぬ」
平手は文面に目を通し、深く頷いた。
「止めてはおられませぬ。ただ、騒ぎ方を誤るなということです」
「分かっておる」
信長は勝三郎へ視線を戻した。
「父上は他に何か言ったか」
勝三郎は少し迷った後、答えた。
「三郎は、清洲を突くなら先に家中の腹を見ろ、と」
その言葉で、権六の顔がわずかに動いた。
龍之介も意味を悟った。
家中の腹。
それは清洲だけではない。那古野の内側、末森との筋、そして勘十郎のことも含むはずだ。
信長は黙った。
勝三郎は続ける。
「清洲は、必ず若様の足元を見ます。若様が清洲を問えば、若様の家中も問われます。誰が若様の側にいるのか。誰が勘十郎様をどう見ているのか。そこを突かれる、と」
広間が静まった。
権六は腕を組んだまま、目だけを伏せている。
又左は少し居心地悪そうに槍を握り直した。
藤吉郎は、珍しく飯のことを忘れた顔をしていた。
信長は、権六へ目を向けた。
「権六」
「はっ」
「清洲は、お前の名を使うかもしれぬ」
「承知しております」
権六の声は低かった。
「私は、勘十郎様との縁を捨てたわけではございませぬ」
言った。
龍之介は、その言葉に息を呑んだ。
逃げずに言ったのだ。
権六は続ける。
「されど、今この尾張で、若様の動きを止めれば、清洲に腹を裂かれます。勘十郎様を思うならなおさら、清洲の旗にされぬ道を探さねばならぬと見ております」
信長は、じっと権六を見た。
「わしの側に立つのは、勘十郎を捨てることではないと」
「はい」
「では、清洲がそう言ってきたらどうする」
「言わせます」
権六は即答した。
「その上で、私は若様の前で同じことを申します。勘十郎様を清洲の旗にさせぬため、今は若様の側に立つ、と」
信長は少し笑った。
楽しげではない。
どこか、苦みのある笑みだった。
「重いな」
「軽くは申せませぬ」
平手が静かに頷く。
「権六殿のその言葉は、家中にも必要になりましょう」
勝三郎は権六を見ていた。
その目には、試すような色がある。信長の近くに昔からいる者として、権六が本当に信長の側に立つのかを量っているのだろう。
信長は勝三郎へ言った。
「勝三郎。お前はどう見る」
「権六殿は、腹を決めておられるように見えます」
「そうか」
「ただし、清洲は腹を決めた者より、腹を決めきれぬ者を探すでしょう」
勝三郎の言葉に、龍之介は目を細めた。
この若者は、ただの近習ではない。
信長に近いがゆえに、家中の空気をよく見ている。
勝三郎は続けた。
「若様の周りに、新しい者が増えています。龍之介殿、新五殿、藤吉郎、孫七、源太。そこへ古参の彦右衛門殿まで動き始めた。清洲から見れば、若様の側が形を変え始めたように見えるはずです」
「実際、変えておる」
信長は悪びれずに言った。
「ならば、変わることを嫌う者を探されます」
勝三郎はそう言い、龍之介へ目を向けた。
「山本龍之介殿」
「はい」
「あなたが来てから、若様の周りは騒がしい」
「申し訳ございませぬ」
「謝ってほしいわけではありません。若様が騒がしいのは昔からです」
又左が思わず笑いかけ、信長に睨まれて口を閉じた。
勝三郎は淡々と続ける。
「ただ、今の騒がしさは前と違う。槍だけではなく、飯屋、寺、橘屋、荷印、清洲御用。若様が見ている場所が増えた。ならば、若様の近くにいる者も増えた目に耐えねばなりません」
龍之介は、深く頭を下げた。
「心得ます」
「心得るだけでは足りぬ、と若様は言うでしょう」
信長が笑った。
「よく分かっておる」
勝三郎は少しだけ表情を緩めた。
この二人の距離感は、やはり他と違う。
信長の無茶を昔から知っている者の言い方だ。
だからこそ、勝三郎の登場は大きい。
又左のような荒い武、 新五のような静かな筋、藤吉郎のような軽い耳とも違う。信長の内側に昔からいる目が、龍之介を見始めたのだ。
清洲へ返す文は、平手と新五が中心となって整えた。
信長は口を出す。
勝三郎は横で聞き、必要な時だけ短く言う。
龍之介は、文の内容よりも、言葉の選び方を見ていた。
清洲御用と称する荷について、橘屋の古印が用いられていたこと。
橘屋は新印へ改め、古印の荷を自家のものではないと申し出たこと。
那古野の荷にも手が伸びたため、清洲の名を守るためにも、どなたの御用か明らかにされたいこと。
守護様の御用であれば、その旨を。
大和守様方の御用であれば、その旨を。
坂井様方の差配であれば、その旨を。
いずれでもないなら、清洲の名を騙る者として、共に調べるべきこと。
文は、責めていない。
だが、逃がさない。
誰の名か。
そこだけを静かに問うている。
平手は筆を置くと、信長へ文を差し出した。
「この形なら、清洲の名を立てつつ問い返せます」
信長は読み、勝三郎へ渡した。
「どうだ」
勝三郎は短く目を通し、頷いた。
「清洲は嫌がります」
「それでよい」
「ただ、守護様の名を出された時、こちらも退きづらくなります」
平手が頷く。
「それが怖いところです」
信長は文をもう一度見た。
「守護様の名を出すなら、清洲が自分で出せばよい。こちらからは問うだけだ」
龍之介は、その言葉を胸に刻んだ。
問うだけ。
だが、その問いが刃になる。
清洲御用という曖昧な霧を、名で切り分ける。誰の御用かと問われれば、向こうは誰かの名を出すか、出せずに曖昧なまま怒るしかない。
どちらにせよ、顔が出る。
藤吉郎が地面に描いた飯屋の絵を見ながら、小声で言った。
「名をつけると、逃げにくくなるんですね」
新五が言う。
「お前も、飯と書いた場所を大きく描きすぎるからすぐ分かる」
「飯屋は大事です」
「今は文の話だ」
信長が笑う。
「いや、藤吉郎の言う通りだ。名をつければ逃げにくい。だから清洲は、清洲御用とだけ言う」
藤吉郎は少し得意げな顔をした。
勝三郎がその藤吉郎を見て、龍之介へ小声で言った。
「あの小僧も、若様が拾ったのか」
「はい」
「変わった者ばかり増える」
「私も含めてでしょうか」
「もちろん」
勝三郎は即答した。
龍之介は苦笑するしかなかった。
文を届ける使者には、勝三郎が立つことになった。
信長が決めた。
「清洲へ返す文だ。軽い者では足りぬ。だが重すぎても喧嘩になる。勝三郎、お前が行け」
「承知しました」
勝三郎はすぐに頭を下げた。
又左が少し不満そうにしたが、今回は何も言わなかった。槍ではなく、言葉を運ぶ場だと分かっているのだろう。
新五も同行する。
これは林の筋を添えるためだ。
龍之介も行くかと問われたが、信長は首を横に振った。
「龍之介は行かぬ」
「よろしいので」
「お前が行けば、清洲は流れ者を見たがる。今日は文を見せる日だ。お前は那古野に残って、耳を守る形を詰めろ」
龍之介は深く頭を下げた。
「承知しました」
勝三郎が、龍之介を横目で見た。
「置いていかれるのは不満か」
「少し」
「正直だな」
「顔に出る前に申しました」
勝三郎は少し笑った。
「なら、少しは見どころがある」
龍之介は返答に困った。
信長は面白そうに見ている。
この勝三郎という男は、信長に近いだけあって遠慮が少ない。だが、無礼ではない。相手を試し、距離を測り、その上で必要なら懐へ入る。
龍之介にとって、また一人、厄介で頼もしい者が増えたことになる。
勝三郎と新五が清洲へ向かった後、那古野では耳を守る形を詰めた。
平手は、表に出せる仕組みを考える。
飯屋、寺、橘屋、薪拾い、馬屋。
そこから上がる話を、いきなり信長へ通すのではなく、新五か彦右衛門を経て、必要なら平手へ上げる。藤吉郎のような小僧が一人で背負わないよう、聞いた話を誰に渡すかを決める。
彦右衛門は、荷の帰り道を見る役にされた。
小僧や下働きが話を持ってきた時、その後ろに誰がついていないか、荷守りの目で見る。古い足軽の目は、ここで効く。
藤吉郎は、自分の役が増えたことに不安そうだった。
「私は、誰かから聞いたら、まず新五様か彦右衛門殿へ言う。勝手に動かない。飯を使う時も言う」
「そうだ」
龍之介が頷く。
「でも、急ぎなら」
「急ぎでも、誰かに言え」
「言う相手がいなければ」
「その時は、逃げろ」
藤吉郎が目を丸くした。
「逃げてよいのですか」
「逃げてよい。耳は、聞いた後に帰ってくるから耳だ。帰ってこない耳は、次を聞けない」
藤吉郎は、その言葉を何度か口の中で繰り返した。
「帰ってこない耳は、次を聞けない」
「そうだ」
「覚えます」
珍しく、藤吉郎は飯に例えなかった。
それだけ、昨夜のことが残っているのだろう。
龍之介は少しだけ安心した。
怖さが残っているなら、まだ無茶は減らせる。
夕暮れ前、勝三郎と新五が戻った。
清洲は文を受け取った。
だが、すぐには返答しなかったという。
代わりに、清洲の門前で坂井大膳の家人らしき者が姿を見せた。勝三郎の話では、名乗りはしなかったが、新五の顔を見てすぐ奥へ引いたらしい。
「大膳本人ではない」
勝三郎は信長へ報告した。
「ただ、大膳の筋に話は届きました」
信長は満足げに頷いた。
「よい」
「清洲の門番たちは、若様が守護様の名を問うたと聞いて、少し騒いでいました」
「騒げばよい」
平手が渋い顔をする。
「若」
「分かっておる。騒ぎすぎれば、こちらも困る。だが、静かなまま清洲御用を使われるよりはましだ」
勝三郎は続けた。
「それと、帰りに橘屋の前を通りました。宗右衛門は表に出ておりませぬ。代わりに、店先で新しい印の荷札を見せていました」
「見せていた?」
「はい。見えるように置いておりました」
龍之介は、それを聞いて小さく息を吐いた。
宗右衛門も動いた。
ただ怯えているだけではない。新しい印を使うと、門前へ示し始めたのだ。
信長は笑った。
「商人は弱い。だが、弱い者ほど生きるための手を持つ」
新五が頷く。
「橘屋は、こちらに完全についたわけではありません。ですが、古い印からは離れ始めています」
「それで十分だ」
信長は、清洲の方角へ目を向けた。
「次は、向こうが誰の名で返すかだ」
その声に、広間の空気が締まった。
守護様か。
守護代家か。
坂井大膳か。
あるいは、曖昧な清洲御用のまま押し通すか。
返答次第で、次の道が変わる。
そして、そこから先は荷印や帳場だけでは済まない。
清洲そのものが動き出す。
夜、龍之介は庭に出た。
勝三郎が、槍を持たずに立っていた。
「稽古はせぬのですか」
龍之介が問うと、勝三郎は笑った。
「今日は見る日だ」
「私をですか」
「若様が拾った流れ者をな」
「どう見えますか」
「大きな火種」
勝三郎は即答した。
龍之介は苦笑した。
「それは困ります」
「だが、火は使い方次第で飯も炊ける」
「藤吉郎のようなことを言いますね」
「飯は大事だろう」
勝三郎は、どこか楽しそうだった。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて勝三郎は、声を少し落とした。
「若様は昔から早い。人が見てから動くところを、見ながら動く。だから周りが置いていかれることがある」
「はい」
「お前が来てから、その速さに道がついたように見える」
「道、ですか」
「荷の道、飯の道、耳の道。若様が面白がるのも分かる。だが、道が増えれば迷う者も増える」
龍之介は何も言えなかった。
勝三郎は続ける。
「若様の近くにいるなら、勝たせるだけでは足りぬ。迷う者が出た時、どこへ戻すかも考えろ」
その言葉は、今日の耳の話と同じだった。
帰り道。
人にも、荷にも、情報にも、心にも帰り道が要る。
龍之介は深く頭を下げた。
「覚えます」
「覚えるだけでは足りぬ、と若様なら言うな」
「はい」
「なら、やれ」
勝三郎は笑い、庭の奥へ歩いていった。
龍之介は、清洲の方角を見た。
正式な文は出た。
勝三郎が加わり、権六の腹も少し見えた。
藤吉郎の耳を守る形も動き始めた。
橘屋は新しい印を門前に示した。
清洲は、次にどの名で返してくるのか。
まだ斬る時ではない。
だが、名を問う刃は、すでに鞘から少し抜けている。
龍之介は静かに息を吐いた。
那古野の夜は、次の返答を待ちながら深く沈んでいった。
第28話─了




