第27話 耳の帰り道
藤吉郎は、朝からいつもより静かだった。
飯を前にしても、すぐには手を伸ばさない。椀を見て、握り飯を見て、それから門の方へ目をやる。昨夜の井戸で聞いた言葉が、まだ耳に残っているのだろう。
那古野の小僧に見られるぞ。
あの大きな影は、藤吉郎を知っていた。藤吉郎だけではない。那古野が井戸端や飯屋、薪拾いの小僧たちから声を拾っていることを、清洲側は見始めている。
耳を増やせば、敵も耳を探す。
当たり前のことだった。
だが、当たり前のことほど、実際に人の顔が浮かぶと重くなる。
信長は朝の庭で、藤吉郎を呼んだ。
「藤吉郎」
「はい」
「昨日の小平とは、どのくらい話した」
「少しだけです。寺で下働きをしていて、清洲門前の男に何度か使われたと言っていました。文の中身は知らないそうです」
「家は」
「寺に寝泊まりしています。親はおりませぬ。寺の雑用をして、飯をもらっていると」
信長は顎に手を当てた。
庭には、平手、新五、龍之介、又左、彦右衛門、源太、孫七がいる。与吉は鍛冶場にいるが、話は後で伝えられるだろう。
「その小平を、こちらへ引き取ればどう見える」
平手が静かに答えた。
「那古野が寺の下働きを奪った形になります。清洲門前の寺なら、話が広がりましょう」
「そうだ」
信長は頷いた。
「では、放ればどうなる」
新五が答える。
「口を塞がれます。脅されるか、別の寺へ移されるか、姿を消すか」
藤吉郎の顔が青くなった。
龍之介はその横顔を見た。
自分が握り飯を渡した相手が、次に狙われるかもしれない。そう考えたのだろう。
信長は、藤吉郎から目を逸らさずに言った。
「なら、奪わず、放らずだ」
「どうされますか」
龍之介が問うと、信長は庭の土に枝で線を引いた。
寺裏の井戸。
飯屋。
橘屋。
灰小屋。
清洲門前。
線が繋がると、那古野から見てきた影の道が、土の上に浮かび上がった。
「耳を一人で使うな。小僧一人、下働き一人、薪拾い一人に背負わせるから折れる。今後、耳は帰り道まで見る」
信長は藤吉郎へ視線を戻した。
「お前もだ。聞いて終わりではない。帰れるか。次の日も飯が食えるか。そこまで見ろ」
藤吉郎は、真剣な顔で頷いた。
「はい」
「返事だけ早いな」
「今のは本気です」
「いつも本気であれ」
又左が横で少し笑ったが、藤吉郎は笑わなかった。
信長は新五へ向いた。
「新五。小平に直接手を出すな。寺の者として残す。ただし、寺に米と薪を回せ」
「那古野から、と分かる形でございますか」
「いや。橘屋からだ」
その場の空気が動いた。
信長は続ける。
「橘屋は新しい印を受けた。清洲門前で困っている。なら、寺へ米と薪を回し、古い印の荷ではなく新しい印の荷として通させる。橘屋がまともな荷を動かせると見せる」
平手が目を細めた。
「橘屋を守ると同時に、小平の寺も守る形ですな」
「そうだ。寺が腹を空かせれば、小平のような者は簡単に使われる。飯を握られているからだ」
藤吉郎が小さく言った。
「飯は武器になります」
「分かったか」
「はい」
信長は少しだけ笑った。
「その米と薪の荷を見る者が、必ず出る。橘屋が那古野とつながったかどうか、確かめに来るはずだ」
龍之介は、信長の意図を理解した。
小平を餌にするのではない。
小平がいる寺へ、食うものと薪を通す。その荷に橘屋の新しい印を使わせる。清洲門前で古い印を使っていた者たちは、それを見過ごせない。橘屋が本当に印を改めたか、寺が那古野寄りになったか、小平が何を話したかを確かめに来る。
見るべきは、そこだ。
「若様。小平殿には何か伝えますか」
「伝えすぎるな」
信長は答えた。
「小平は武士ではない。持てる重さだけ持たせろ。寺に米と薪が来る。昨夜のことは忘れた顔をしていろ。それだけでよい」
藤吉郎が唇を噛んだ。
「怖がると思います」
「怖がらせておけ」
信長の声は冷たく聞こえた。
だが、その後に続いた言葉は違った。
「怖がらぬ小僧は死ぬ。怖がって、言われたことだけ守ればよい。余計な手柄は取らせるな」
藤吉郎は深く頭を下げた。
「はい」
龍之介はそのやり取りを見ていた。
信長は小平を駒として見ている。
だが、ただの駒として捨てる気はない。
持てる重さを量っている。
それが、この乱世で人を使うということなのだろう。
橘屋から寺へ向かう米と薪の荷は、昼前に清洲門前を出た。
橘屋の新しい印が押されている。
与吉が作った橘の葉の印だ。
焼き跡はまだ新しく、荷札の木肌に黒く残っている。古い丸印とははっきり違う。誰が見ても、橘屋が印を改めたと分かる。
荷を運ぶのは橘屋の手代と、寺へ出入りする馬方だった。
那古野の者は、表には立たない。
新五、龍之介、藤吉郎、彦右衛門は少し離れて道を見る。又左はさらに外側で待機し、源太と孫七は那古野に残された。信長の判断だった。
清洲門前に筒を何度も見せれば、相手の目が筒へ寄りすぎる。今日は筒ではなく、新しい印の荷を見せる日だった。
藤吉郎は不満そうだった。
「孫七殿と源太殿がいないと、少し寂しいですね」
「寂しいで済むならいい」
新五が答える。
「筒は目立つ。今日は印を見る日だ」
「はい」
藤吉郎は返事をしたが、視線は荷札に向いている。
橘屋の手代は緊張していた。
新しい印を押した荷を初めて清洲門前から出すのだ。昨日まで古い印の荷を見逃していた者たちが、どう動くか分からない。宗右衛門は店に残ったが、手代へ何度も同じ言葉を言い聞かせたらしい。
寺への米と薪。
橘屋の正式な荷。
古い印とは関わりなし。
それだけを繰り返せ。
荷が寺裏の井戸に近づくと、藤吉郎の顔が硬くなった。
昨夜、小平が文を取った場所だ。
井戸の周りには誰もいないように見える。だが、龍之介には、見られている感じがあった。
飯屋の軒下。
寺の土塀の陰。
井戸から少し離れた木の下。
人の視線は、正面からだけ来るわけではない。
荷が寺の裏門へ入る。
寺の年寄りの僧が出てきて、橘屋の手代へ礼を言った。小平は見えない。出さない方がいい。龍之介はそう思った。
しかし、荷を下ろし始めた時、土塀の向こうで小さな顔が覗いた。
小平だ。
藤吉郎が一歩出かける。
新五が袖を掴む。
「行くな」
「でも」
「今行けば、小平が目立つ」
藤吉郎は歯を食いしばって止まった。
小平はすぐに顔を引っ込めた。
その直後、寺の門前に一人の男が現れた。
背が高い。
肩が広い。
昨夜、井戸で小平から文を奪った大きな影に似ている。昼の光の中で見ても、ただの下働きには見えない。
男は寺へ入らず、荷を見た。
新しい印を見る。
橘屋の手代を見る。
僧を見る。
最後に、離れて立つ藤吉郎へ視線を向けた。
知っている目だった。
藤吉郎の肩がわずかに揺れる。
男は笑った。
小さな笑みだ。
だが、そこには脅しがあった。
「新五殿」
龍之介が低く言う。
「見ています」
「分かっている」
新五の声も低かった。
「今は動くな。向こうが先に何をするか見る」
男は寺の僧へ声をかけた。
「橘屋からか」
「はい。米と薪にございます」
「ずいぶん急に、橘屋は寺へ親切になったな」
僧は答えに困った。
橘屋の手代が前に出る。
「橘屋の荷にございます。寺へ納める米と薪です」
「印が変わったな」
「はい。本日より改めました」
「誰の差し金だ」
手代の顔が青くなる。
男は一歩近づいた。
「橘屋が勝手に変えたのか。那古野に言われたのか。それとも、寺が頼んだのか」
問われるたびに、僧と手代の顔が揺れる。
龍之介の中で熱が動いた。
ここで出れば早い。
だが、出れば那古野が寺の荷に手を入れたと見られる。
新五が先に動いた。
ゆっくりと道へ出る。
「橘屋が古い印を使われて迷惑していたため、印を改めただけだ」
男は新五を見た。
「林の若いのか」
「林新五郎正秀」
新五は静かに名乗った。
ここでは、姓を出す。
清洲門前で筋を通すためだ。
男は笑みを消した。
「林の者が、橘屋の印にまで口を出すとはな」
「口を出したのではない。古い印を使う者がいたから、新しい印を使えばよいと筋を示した」
「筋、筋とうるさい」
男の声が低くなった。
「清洲の荷は、清洲の名で動く。それで足りる」
「どなたの名だ」
新五が問い返す。
男の目が冷える。
この問いが効く。
清洲御用、清洲の名。そこを曖昧にして荷を動かしてきた者たちにとって、どなたの名かと問われること自体が刃になる。
「お前たち那古野は、清洲の名を選ぶつもりか」
「違う。名を騙る者を選り分けたいだけだ」
新五の声は乱れない。
龍之介は、その横顔を見た。
新五は清洲の圧を受けるたびに、強くなっている。林の家に連なることを突かれても、揺れたところを見せない。むしろ、その名を使って正面から問い返している。
男は新五を睨み、次に藤吉郎へ視線を移した。
「小僧。昨夜はよく見ていたな」
藤吉郎の顔が固まった。
新五が半歩、藤吉郎の前に出る。
龍之介も動きかけた。
だが、藤吉郎は自分で口を開いた。
「見ていました」
声は震えていた。
しかし、逃げてはいなかった。
「小平を殴るところも、見ました」
男の目が鋭くなった。
藤吉郎は続けた。
「飯を食べる手ではありませんでした」
「何?」
「あの子の肩を掴んだ手は、飯を分ける手ではありません。人を黙らせる手です」
場が静まった。
龍之介は、思わず藤吉郎を見た。
言葉は子供じみている。
だが、まっすぐだった。
男の顔に怒りが浮かぶ。
「小僧が」
男が一歩踏み出す。
龍之介は今度こそ前へ出た。
ただし、速すぎない。
信長に言われた通り、人より少し早い程度で、藤吉郎の横に立つ。
「それ以上近づけば、こちらも近づきます」
男は龍之介を見た。
「山本龍之介」
「はい」
「流れ者が、清洲門前で大きな顔をする」
「顔は大きくありませぬ。身体は少し大きいかもしれませんが」
藤吉郎が一瞬、笑いそうになった。
新五は無表情だった。
男は笑わなかった。
「人を化かす男と聞いた」
「心は読めませぬ」
「では、俺が何をすると思う」
「今は、何もしませぬ」
男の目が細くなる。
「なぜだ」
「ここで藤吉郎に手を出せば、寺の者、橘屋の手代、通りの者が見ています。小平を黙らせた手が、今度は那古野の小僧へ伸びたと残ります」
龍之介は男から目を逸らさずに言った。
「あなたは、見られていない場所で動く方が得意でしょう」
男の頬がわずかに動いた。
怒りか。
笑いか。
どちらにも見えた。
「よく見る」
「見るだけです」
「見る者は、いつか目を潰される」
「潰されぬように、帰り道まで見ます」
男は、しばらく龍之介を睨んでいた。
やがて、寺の僧へ向き直る。
「その米と薪、受け取るなら覚悟しておけ。清洲の名を軽く見る寺には、次から御用が来なくなる」
僧の顔が青くなる。
しかし、そこで橘屋の手代が震えながらも言った。
「これは橘屋の荷にございます。寺への米と薪です。清洲御用ではございませぬ」
男が手代を睨む。
手代は今にも倒れそうだったが、言い直さなかった。
男は舌打ちし、踵を返した。
「覚えておけ」
そう言い残し、清洲門前の方へ歩いていく。
追わない。
龍之介は、そう自分に言い聞かせた。
藤吉郎の肩から力が抜ける。
新五は小さく息を吐いた。
寺の奥から、小平が泣きそうな顔でこちらを見ていた。
那古野へ戻る道で、藤吉郎はずっと黙っていた。
新五もあえて話しかけない。
彦右衛門が荷の後ろを歩きながら、ぽつりと言った。
「小僧にしては、よく立った」
藤吉郎は顔を上げた。
「足は震えていました」
「震えても、立っていれば立ったうちだ」
藤吉郎は少しだけ笑った。
「彦右衛門殿も、昔は震えましたか」
「何度も震えた」
「意外です」
「震えぬ者から先に死ぬ」
その言葉に、藤吉郎は真剣に頷いた。
龍之介は、二人のやり取りを聞きながら歩いた。
清洲門前の大男。
小平を殴り、藤吉郎を脅し、橘屋の印に口を出す者。名はまだ分からない。だが、男は清洲御用の曖昧な名の下で動いている。
今日は捕らえなかった。
だが、顔を見た。
声を聞いた。
寺と橘屋の前で、男がどの名を使い、どこまで踏み込むかを見た。
そして、橘屋の手代も一歩踏みとどまった。
それは小さなことかもしれない。
だが、清洲門前で「これは橘屋の荷だ」と言えた意味は大きい。
信長は報告を聞くと、静かに笑った。
「出たな」
「はい」
新五が答える。
「昨夜、小平から文を奪った男と同じと思われます。清洲御用の名を使い、寺と橘屋へ圧をかけました」
「名は」
「まだ分かりませぬ」
「なら、名を出させる」
信長はそう言って、庭に描かれた道を見た。
藤吉郎が、寺、井戸、橘屋、飯屋、清洲門前を地面に描いている。飯屋だけ少し大きい。
新五がそこを足で消した。
「大きすぎる」
「人が集まるので」
「それでも大きすぎる」
信長は少し笑い、それから藤吉郎へ向いた。
「怖かったか」
「怖かったです」
「よく言った」
「はい」
「次から一人で見るな」
「はい」
信長は全員を見回した。
「耳を守る形を作る。藤吉郎のような小僧、小平のような下働き、薪拾い、飯屋の小者。そういう者を使うなら、必ず戻る道を決める。言う相手を決める。困った時に逃げ込む場所を決める」
平手が頷いた。
「それを若の直の命にすると、目立ちます」
「だから、橘屋と寺を使う。飯屋もだ」
信長は言った。
「飯屋で聞いたことは飯屋で終わらせぬ。寺で聞いたことは寺で潰させぬ。だが、那古野が全部抱えたようにも見せぬ」
龍之介は、その言葉に唸りそうになった。
耳を守る。
それは単に護衛をつけることではない。
逃げ込む先、話す相手、飯を得る場所、戻る道。そういう生活の線を整えることだった。
藤吉郎の飯話は、ここでもつながる。
信長は龍之介へ目を向けた。
「お前、男を追わなかったな」
「はい」
「よい。あれは追えば、清洲門前で騒ぎになった」
「ただ、名は取れませんでした」
「次は取る」
信長の目が鋭くなる。
「名を出させる場を作る。あの男が、自分で名乗らねばならぬ場だ」
又左が問う。
「どうやって」
「清洲からの表の使いが来た。次は、こちらから正式に問いを返す。橘屋の古印を使い、寺へ圧をかける者がいる。清洲御用を名乗るが、名を明かさぬ。どなたの御用か、と」
平手の顔が険しくなった。
「若。それを文にすれば、清洲へ正面から問いを投げることになります」
「そうだ」
「大殿のご返答を待ってからでも」
「待つ。ただし、文の下書きは作る」
信長は言った。
「父上の返答が来た時、すぐ動けるようにしておく。清洲が名で来るなら、こちらも名で返す」
龍之介は頷いた。
次は文だ。
炭、鉄、印、帳面、使い、井戸、寺。
そして、正式な問い返し。
戦は、いよいよ言葉と名の正面へ出ようとしている。
その夜、藤吉郎は握り飯を二つ持っていた。
一つは自分の分。
もう一つは、明日小平へ渡すつもりらしい。
新五に言ってから持っているので、信長の命には背いていない。
「飯は武器なので、許しを取りました」
藤吉郎が真面目に言うと、龍之介は思わず笑った。
「よくできました」
「子供扱いしていませんか」
「している」
「ひどい」
藤吉郎は不満そうだったが、すぐに握り飯を見下ろした。
「でも、小平は食べると思います」
「食べるだろうな」
「食べたら、明日も少しは動けます」
その言葉は、軽口ではなかった。
龍之介は藤吉郎を見た。
この少年は、飯を通じて人を見る。
それは単純で、子供っぽくて、しかし強い。
信長の乱世には、こういう目も必要なのだろう。
龍之介は清洲の方角を見た。
清洲の名を使う男。
名を言わぬ男。
小平を殴り、藤吉郎を脅し、寺へ圧をかけた大きな影。
次は、その名を表へ出させなければならない。
まだ斬る時ではない。
だが、守るための刃は、少しずつ鞘の中で重くなっている。
龍之介は手を開いた。
耳を守る。
道を守る。
飯を守る。
そうして初めて、戦場で人を立たせることができる。
那古野の夜は、静かに深く沈んでいった。
第27話─了




