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【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


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第26話 清洲の使い

 清洲から使いが来たのは、橘屋の帳面を写し終える前だった。


 朝の那古野は、いつもより静かに張っていた。蔵の奥では平手様が帳面を読み、日付と荷の種類を別の紙へ移している。新五はその横で、橘屋の印、古い桶印、坂の字に似た傷、清洲門前の鍛冶宿の焼き印を並べていた。


 藤吉郎は最初こそ熱心に覗き込んでいたが、字が続くと眠そうな顔になり、しかし印だけは目で追っていた。


「文字は眠くなりますけど、印は起きていますね」


 そう言った途端、新五に睨まれて口を閉じた。


 龍之介は、帳面の横に置かれた焼き印の控えを見ていた。


 橘屋は新しい印を受けた。


 古い印の荷は、橘屋のものではないと口にした。


 それだけなら、小さな商いの筋の話に見える。


 だが、その古い印の荷には、清洲御用という曖昧な名が乗っていた。守護様方、大和守様方、坂井様方。帳面には、はっきりした名こそ少ないが、荷がどの名を借りて動いたか、その癖が残っている。


 信長はそれを「鞘」と言った。


 抜く時までしまっておくものだ、と。


 その鞘に、早くも清洲の手が伸びてきた。


 門番が駆け込んできた。


「若様。清洲より使いにございます」


 部屋の空気が変わった。


 平手様は筆を置き、新五は帳面を閉じる。藤吉郎は眠そうな顔を消し、龍之介は息を整えた。


 信長は、庭先で馬の鞍を見ていた。


 報せを聞くと、笑った。


「来たか」


 早すぎるとも、遅すぎるとも言わない。


 ただ、待っていたものが来たという顔だった。


 清洲から来た使いは、三人だった。


 先頭に立つのは、三十半ばほどの武家の使者である。名を山口主計と名乗った。衣は乱れていない。礼も崩れていない。しかし、那古野の庭へ入る足取りに、相手を下に見る癖がある。


 後ろには、文を抱えた雑掌風の男と、護衛の足軽が一人。


 大人数ではない。


 だが、軽い使いでもない。


 信長は広間で受けた。


 平手様、権六、新五、龍之介が控え、少し離れた場所に又左が立つ。彦右衛門は呼ばれていない。荷の話になるなら後で呼べるよう、蔵の近くに待たせている。藤吉郎は外に回された。飯屋ではなく、今日は門と馬屋の間を見る役だった。


 山口主計は深く頭を下げた。


「三郎様に申し上げます。清洲御用の荷へ、那古野の者が無用の詮議を加えたとのこと。さらに橘屋へ新しき印を押しつけ、古き印を用いた荷を騙りと申したと聞き及びます」


 信長は黙って聞いていた。


 主計は続ける。


「清洲御用の荷は、清洲の御威光に関わるもの。若き方々の思いつきで止め、調べ、商人宿を騒がせることは、いかがなものかと」


 若き方々。


 その言葉で、新五の目がわずかに細くなった。


 龍之介は主計の足元を見た。


 袴の裾に、白い土が少しついている。灰小屋の白土に似ているが、断じるには早い。草鞋の紐は新しい。急ぎの道ではなく、整えて出てきた使いだ。つまり、これは清洲の誰かが考えて出した正式な圧である。


 信長は、ようやく口を開いた。


「清洲御用とは、どなたの御用だ」


 主計の表情がわずかに止まった。


「清洲よりの御用にございます」


「清洲には、名が多い」


 信長は穏やかに言った。


「守護様の御用か。大和守様方の御用か。坂井殿の御用か。あるいは、そのほかか」


 広間の空気が固まる。


 平手様が目を伏せた。


 この問いは危うい。


 しかし、避けては通れない。


 主計は口元を引き締めた。


「清洲の名を疑われるので」


「疑っておらぬ。名を騙る者がいるなら、清洲の名が傷つくと言っている」


 信長の声は軽くない。


「橘屋の古い印が勝手に使われ、鉄や炭が動いた。那古野の荷にも手が伸びた。ならば、清洲の名を守るためにも、どなたの御用か明らかにするのが筋であろう」


 主計はすぐには返せなかった。


 責めに来たはずが、清洲の名を守る話に返されたのだ。


 新五が静かに口を開いた。


「橘屋殿は、新しい印を受け取りました。今後、古い印の荷は橘屋の荷ではないと申しております。これは橘屋が清洲御用に背くためではなく、誰かが清洲の名を騙ることを防ぐためです」


 主計は新五を見た。


「林殿。そなたも、三郎様とともに清洲の荷へ手を入れるおつもりか」


「私は、荷の筋を見ただけにございます」


「林の家は、清洲との筋もある」


 その一言で、空気がさらに重くなった。


 新五の背中に、林家の名を刺す言葉だった。


 信長の側にいる若者としてではなく、林の家に連なる者として揺さぶりをかけている。


 新五は、少しだけ頭を下げた。


「だからこそ、筋を乱したくありませぬ」


 静かな返しだった。


 龍之介は、新五の横顔を見た。


 揺れなかった。


 いや、揺れたのかもしれない。


 だが、表に出さなかった。


 主計は、今度は龍之介へ視線を移した。


「山本龍之介殿」


「はい」


「そなたは流れ者と聞く。尾張の家々の筋を、どこまでご存じか」


「多くは存じませぬ」


 龍之介は正直に答えた。


「ならば、なぜ清洲御用に口を出す」


「私は清洲御用に口を出したのではありません。荷の置き方、縄の違い、印の違いを見ただけにございます」


「それが口出しだ」


「そう見えたなら、私の振る舞いが悪うございました」


 龍之介は頭を下げた。


 ここで張り合えば、流れ者が清洲に歯向かった形になる。


 それは避ける。


 だが、退ききるわけにもいかない。


 龍之介は顔を上げた。


「ただ、荷が詰まれば、兵の腹も鍛冶場の火も詰まります。誰の御用であれ、荷の名が曖昧なまま人が動けば、いずれ誰かが責を背負わされます」


 主計の眉が動いた。


「責、か」


「はい。橘屋殿は、それを恐れていました」


 主計は黙った。


 その沈黙で、龍之介は一つ見た。


 この使いは、橘屋が帳面を渡したことまでは知らない。


 もし知っていれば、そこへ踏み込んでくるはずだ。


 つまり、橘屋の帳面はまだ清洲側に漏れていない。


 あるいは、漏れたとしてもこの主計には知らされていない。


 信長も同じことを感じたのだろう。


 口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。


 主計は、雑掌に文を出させた。


「清洲よりの申し入れにございます。橘屋の件について、那古野側が持ち帰った荷札、桶印の写し、捕らえた者があれば、清洲へ引き渡されたい。清洲御用の名が騙られたというなら、清洲で調べるのが筋にございます」


 平手様の顔が険しくなる。


 当然の要求に見える。


 だが、渡せば証が消える。


 捕らえた者も、清洲へ渡れば口を閉じるか、別の名を言わされるだろう。


 信長は文を受け取らず、平手様に目で促した。平手様が文を受け取り、広げる。信長はその中身を横目で見てから言った。


「清洲で調べる。それは筋だ」


 主計の顔に、わずかな安堵が出た。


 だが、信長は続けた。


「ならば、こちらも筋を通す。那古野の荷に手が伸びた以上、父上にも上げねばならぬ」


 主計の顔が変わった。


「大殿へ」


「そうだ。父上の荷筋にも関わるかもしれぬ話だ。清洲の名が騙られたのなら、父上も心配されるだろう」


 平手様が静かに頷いた。


「既に、末森へは一報を出しております」


 これは本当だった。


 前夜、信長は帳面の写しの一部と、橘屋の印の件を末森へ送っていた。詳しい中身までは送っていない。だが、大殿が知らぬまま清洲へ証を渡すような形にはしなかった。


 主計は、明らかに動揺した。


 清洲からの圧は、那古野だけを相手にするつもりだったのだろう。だが、信秀の名が入れば話は重くなる。織田信秀はまだ尾張で大きな重石だった。


「それは、清洲と末森の話に広げるおつもりか」


「広げたのは、清洲御用の名を騙った者だ」


 信長は返した。


「わしは、清洲の名を守る筋を問うているだけだ」


 主計は歯を食いしばった。


 龍之介は、その顔を見た。


 怒りではない。


 困惑だ。


 つまり、この使いはここまで想定していなかった。


 背後で指示した者は別にいる。


 坂井大膳か。


 それとも、清洲御用という曖昧な名を使う別の誰かか。


 主計は、しばらく沈黙した後、声を整えた。


「では、清洲としては、大殿のご返答も待つと」


「そうしてくれ」


 信長はあっさりと言った。


「ただし、橘屋へ圧をかけることはやめよ。橘屋は古い印を使われて迷惑しているだけだ。商人宿を締め上げれば、名を騙った者ではなく、締め上げた者の顔が残る」


 主計の目が鋭くなった。


「脅しと受け取ってよろしいか」


「忠告だ」


 信長は笑った。


「清洲の名を守るためのな」


 広間の空気が、さらに重くなった。


 平手様は動かない。


 権六も黙っている。


 又左の手がわずかに槍へ動いたが、すぐに止まった。外で待つことを覚えた又左は、広間でも一度待った。


 主計は立ち上がり、深く頭を下げた。


「本日の件、清洲へ持ち帰ります」


「そうしてくれ」


 信長は軽く頷いた。


「それと、山口殿」


「はい」


「次に清洲御用と言う時は、どなたの御用か添えてくれ。清洲の名は重い。重い名は、軽く使うものではない」


 主計は返事をしなかった。


 ただ、もう一度頭を下げ、広間を出ていった。


 使いが去った後、広間の空気は一気に緩まなかった。


 むしろ、重さが残った。


 信長はしばらく黙っていた。


 それから、平手様へ言う。


「爺。今の文、写しを取れ。末森へ追って送る」


「承知しました」


「清洲へは、証をすぐ渡さぬ。父上の返答を待つ形にする」


 権六が低く言った。


「若。清洲は怒ります」


「怒らせるために来たのだろう。なら、怒る場所をこちらが選ぶ」


 信長は主計が座っていた場所を見た。


「あの使いは、坂井大膳そのものではない」


「使われた者ですか」


 龍之介が問うと、信長は頷いた。


「たぶんな。言葉は整っていたが、父上の名を出した時に動揺した。大膳なら、そこまで読んでいる」


「では、別の筋が急いだのでしょうか」


「あるいは、大膳があえて浅い者を出した」


 新五が静かに言った。


「こちらの反応を見るために」


「それもある」


 信長は面白そうに笑った。


「清洲の中も一枚ではない。守護様方の名、守護代家の名、坂井大膳の名、その下で勝手に動く者。どこが焦っているかを見ろ」


 龍之介は頷いた。


 清洲から正式な使いが来た。


 だが、それで相手が一つの顔になったわけではない。むしろ、使いの反応によって、清洲の内側に温度差があることが見えた。


 平手様が筆を走らせながら言った。


「若。大殿の返答次第では、こちらの動きも制されます」


「それでよい」


 信長は即答した。


「父上が止めるなら、その理由を見る。進めと言うなら、その筋で進む。どちらにせよ、清洲の名を騙る者を放るよりはましだ」


 龍之介は、信長の横顔を見た。


 若いが、父の名を邪魔とは見ていない。


 使うべき重石として見ている。


 信秀がいる今だからできる動きがある。そのことを、信長は分かっている。


「龍之介」


「はい」


「お前、主計の裾を見ていたな」


「白土がついておりました。灰小屋の土に似ていますが、断じるには足りませぬ」


「よい。断じるな」


 信長は頷いた。


「だが覚えておけ。清洲の使いが、灰小屋筋に触れているかもしれぬ。それだけで十分だ」


「はい」


「藤吉郎を呼べ」


 新五がすぐに動いた。


 しばらくして、藤吉郎が走りかけてから、慌てて歩いて入ってきた。


「呼ばれました」


「走りかけたな」


 信長が言うと、藤吉郎は目を逸らした。


「歩きました」


「顔が走っていた」


「新五様と同じことを言いますね」


「師がよいのだろう」


 新五が無表情で藤吉郎を見た。


 信長は笑いを消し、すぐに言った。


「清洲の使いは、帰りにどこへ寄ると思う」


 藤吉郎は少し考えた。


「すぐ清洲へ戻る顔ではありませんでした」


「なぜ」


「帰りの馬が、少し休めるように見えました。急ぎなら、門前で水だけ飲ませます。でも、あの使いの従者は馬の腹を気にしていました。どこかで止まります」


「どこだ」


「橘屋には寄りにくいです。那古野から出た足で橘屋へ寄れば、見られた時に困ります。飯屋か、寺か、灰小屋の近くの井戸か」


 龍之介は、藤吉郎の言葉に息を呑んだ。


 馬を見る。


 従者を見る。


 帰りの道を見る。


 この少年は、確かに伸びている。


 信長は満足そうに頷いた。


「新五。藤吉郎を連れて、使いの帰り道を見ろ。ただし追うな。寄った場所だけ拾え」


「承知しました」


「藤吉郎」


「はい」


「飯を食うな」


「寄った場所だけ拾います」


「よし」


 藤吉郎は少し悔しそうだったが、今度は黙って頭を下げた。


 夕暮れ前、新五と藤吉郎が戻った。


 清洲の使いは、那古野を出た後、真っ直ぐ清洲へは戻らなかった。門前へ向かう途中、寺裏の井戸に寄り、そこで別の雑掌風の男と短く話したという。


 橘屋ではない。


 灰小屋でもない。


 寺裏の井戸。


 炭、鉄、印、荷札。


 それらをつないできた場所の一つだった。


 新五は、地面に簡単な道を書いた。


「使いは井戸で止まりました。相手の男は、清洲門前から来たようです。話は短く、文の受け渡しは見えませんでした。ただ、主計の従者が馬の鞍を直すふりをして、何かを井戸の石の下へ入れています」


「取ったか」


 信長が問うと、新五は首を横に振った。


「取りませぬ。置いたことだけ見ました」


「よい」


 信長は笑った。


「それは、誰かが取りに来る」


 藤吉郎が言った。


「たぶん夜です。昼に取るなら、使いと話した男がその場で取ればいいので」


「なら、夜を見る」


 又左が身を乗り出した。


「今度は私も」


「お前は目立つ」


 信長は即答しかけ、少し考えた。


「いや、今夜は使う」


 又左の顔が明るくなる。


「本当にでございますか」


「ただし、遠くで立て。近くへ寄るな。何かあった時だけ動け」


「承知しました」


 信長は龍之介へ向いた。


「龍之介。お前も行く。だが、今日は井戸の石を見るな。石を取りに来る手を見る」


「はい」


「清洲からの使いは、表の顔だ。石の下に置いたものを取りに来る者が、裏の顔だ」


 龍之介は頷いた。


 清洲の使いは帰った。


 だが、その帰り道で、また影を置いた。


 正式な文。


 井戸の石の下に隠された何か。


 表と裏が、同じ日に動いている。


 清洲は一枚ではない。


 そして信長は、その両方を見ようとしている。


 夜、龍之介は寺裏の井戸が見える木陰にいた。


 新五は反対側。


 藤吉郎はさらに低い草の陰に潜っている。


 又左は少し離れた道の曲がりに立ち、彦右衛門は荷守りの老人のように別の場所で腰を下ろしている。孫七と源太は連れてきていない。今日は筒を見せる場ではない。


 夜の井戸は、昼よりも小さく見えた。


 だが、龍之介には、その周りにいくつもの道が重なっているように見えた。


 橘屋。


 灰小屋。


 清洲門前。


 寺裏。


 そして那古野。


 しばらく何も起きなかった。


 風が草を揺らし、遠くで犬が吠えた。


 龍之介は、自分の呼吸を細くする。


 焦るな。


 見ろ。


 やがて、人影が一つ現れた。


 小柄だ。


 武家の者ではない。


 寺の下働きか、飯屋の小僧か。


 人影は井戸へ近づき、水を汲むふりをした。桶を下ろし、縄を引き、途中で手を止める。そして、井戸の縁の石へ指を伸ばした。


 石の下から何かを取る。


 その瞬間、藤吉郎が動きかけた。


 新五が小さく舌打ちする。


 龍之介はまだ動かない。


 小柄な人影は、取ったものを懐へ入れ、立ち上がった。


 その時、井戸の反対側から別の影が出た。


 大きい。


 小柄な者を見張っていたらしい。


 大きな影は、小柄な者の肩を掴んだ。


「遅い」


 低い声。


 小柄な者が震える。


 龍之介の中で熱が跳ねた。


 ここで動けば、二人とも取れる。


 だが、まだだ。


 大きな影が、小柄な者の懐から何かを奪った。


「次からは迷うな。那古野の小僧に見られるぞ」


 藤吉郎の息が、草の陰で止まったのが分かった。


 相手は、藤吉郎の存在を知っている。


 つまり、こちらの小さな耳も見られている。


 大きな影は小柄な者を突き飛ばし、清洲門前へ向かう道へ歩き出した。


 信長の言葉が胸に響く。


 石を見るな。


 取りに来る手を見ろ。


 手は見えた。


 だが、手だけで終わらせてよいのか。


 新五が木陰から目を向けてくる。


 追うか。


 龍之介は首を横に振った。


 今は追わない。


 大きな影の行き先は清洲門前だ。なら、道は生きている。ここで捕らえれば、藤吉郎を見ている相手がどこまで知っているか分からないまま終わる。


 小柄な者は、地面に座り込んでいた。


 藤吉郎が、草の陰から出ようとする。


 新五が止めるより早く、龍之介は小さく手を振った。


 行け。


 藤吉郎は静かに近づいた。


 小柄な者は逃げようとしたが、藤吉郎が握り飯を差し出した。


 何をしている。


 龍之介は一瞬そう思ったが、すぐに分かった。


 小柄な者は泣いていた。


 責めれば逃げる。


 握り飯なら、止まる。


 藤吉郎は何かを囁いた。


 小柄な者は、握り飯を見て、震える手を伸ばした。


 那古野へ戻った時、藤吉郎は小柄な者の名を伝えた。


 寺の下働きで、名は小平。


 清洲門前の男に使われ、井戸の石の下の文を取らされていた。中身は知らない。知ろうとすれば殴られる。今夜の大きな影は、橘屋の奥に出入りしていた男とは別人だが、清洲門前の鍛冶宿に近い者だという。


 信長は、黙って聞いていた。


 藤吉郎が言い終えると、信長は問うた。


「握り飯をやったのか」


「はい」


「なぜ」


「泣いていたので」


 藤吉郎は少し不安そうに答えた。


「逃げると思いました。怒るより、飯の方が止まると思いました」


 信長はしばらく藤吉郎を見ていた。


 それから笑った。


「よい」


 藤吉郎の顔が明るくなる。


「ただし、次から握り飯を持ち出す時は新五に言え」


「そこもですか」


「飯は武器になる。勝手に使うな」


 藤吉郎は目を丸くした。


「飯が武器」


「お前が一番分かっているだろう」


 藤吉郎は真剣に頷いた。


「はい」


 信長は龍之介へ向く。


「追わなかったな」


「はい」


「なぜ」


「相手は、藤吉郎を知っていました。こちらの耳を見ている者です。捕らえるより、どこまで見られているかを知る方が先かと」


「よい」


 信長は頷いた。


「清洲から表の使いが来た日に、裏では井戸の石が動いた。これで分かった。清洲の中には、表で責める者と、裏で道を消す者がいる」


 平手様が低く言う。


「若。いよいよ危ううございます」


「ああ」


 信長は笑わなかった。


「次は、こちらの耳が狙われる」


 その言葉で、広間が静まった。


 藤吉郎が、初めて顔を強張らせた。


 新五も、わずかに目を伏せる。


 龍之介の胸が冷える。


 清洲は、こちらの小さな耳に気づいた。


 藤吉郎のような者、薪拾い、寺の下働き、飯屋の小僧。そういう細い線が狙われる。


 信長は言った。


「耳を増やすだけでは足りぬ。耳を守る仕組みが要る」


 龍之介は深く頷いた。


 炭、鉄、印、帳面、正式な使い。


 そして今度は、耳を守る話になった。


 戦は広がっている。


 だが、進んでいる。


 夜更け、龍之介は庭に出た。


 藤吉郎が少し離れた場所で、握り飯の残りを見つめている。食べるでもなく、捨てるでもなく、ただ手の中で転がしていた。


「怖かったか」


 龍之介が声をかけると、藤吉郎は肩を震わせた。


「少し」


「少しだけか」


「かなり」


 藤吉郎は正直に言い直した。


「私のことを、あの男は知っていました。那古野の小僧に見られるぞ、と」


「そうだな」


「見ているつもりが、見られていました」


 龍之介は隣に座った。


「それが分かったのは、大きい」


「でも、怖いです」


「怖いままでいい」


 藤吉郎は、孫七に言った言葉と同じだと気づいたのか、少し笑った。


「龍之介殿は、皆に同じことを言いますね」


「本当のことだからな」


「怖いまま、見る」


「そうだ。ただし、一人で見すぎるな」


 藤吉郎は握り飯を半分に割った。


「では、これは明日から新五様に言ってから使います」


「飯をか」


「武器らしいので」


 龍之介は少し笑った。


 藤吉郎も笑った。


 だが、その笑いにはまだ震えが残っている。


 清洲は、藤吉郎を見た。


 那古野の耳を見た。


 なら、次はそこへ手が来る。


 龍之介は清洲の方角を見た。


 正式な使い。


 井戸の石。


 小平という下働き。


 藤吉郎を知る大きな影。


 表と裏が、同時に動き始めている。


 まだ斬る時ではない。


 だが、守るべきものが増えた。


 荷ではない。


 印でもない。


 耳だ。


 人だ。


 龍之介は手を開き、夜気を吸った。


 知だけでは、人は守れない。


 武だけでも、守れない。


 その間に、自分の意志を置く。


 那古野の夜は静かだった。


 しかし、その静けさの中で、清洲との戦はまた一段深くなっていた。


第26話─了

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