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【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


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第25話 三日の返事

 橘屋から返事が来たのは、三日目の朝だった。


 使いに立ったのは、宗右衛門本人ではない。店の若い手代で、顔色は悪く、那古野の門をくぐる時から周囲を気にしていた。門番が取り次ぐと、手代は新五の前で膝をつき、懐から包んだ文を出した。


「番頭より、林様へ。先日の焼き印の件、ありがたく受けたいとのことでございます」


 新五は文を受け取ったが、すぐには開かなかった。


「宗右衛門殿は来ぬのか」


「店を離れられませぬ。清洲御用の荷が重なっておりますので」


「清洲御用か」


 新五の声は変わらない。


 だが、手代の肩が小さく震えた。


 龍之介は、その反応を見た。


 橘屋は受ける。


 ただし、受けると決めたこと自体を恐れている。


 つまり、信長の予想通りだ。橘屋は助け舟を欲しがっているが、その舟に乗るところを清洲側に見られることも怖がっている。


 手代はさらに言った。


「番頭は、できれば今日のうちに印を改めたいと。ただ、古い印をどう扱うかで、店の中だけでは決めかねると申しております」


「誰が決めさせぬ」


 新五が問うと、手代は顔を伏せた。


「私の口からは」


「言えぬか」


「申し訳ございませぬ」


 新五は文を開き、短く目を通した。


 それから龍之介へ渡す。


 文面は丁寧だった。橘屋は古い桶印が外へ流れたことを認め、新しい印を受けたいと書いている。だが最後に、こう添えられていた。


 古き印を用いる荷が、なお清洲御用として当家へ入ることあり。新しき印へ改むる儀、那古野様の御立ち会いあらば、当家も筋を通しやすく候。


 龍之介は、文から顔を上げた。


「立ち会いを求めています」


「助けを求めている形だな」


 新五が言う。


「同時に、こちらを橘屋へ引き出す形でもあります」


「分かっている」


 新五は文を畳んだ。


「若へ上げる」


 手代は頭を伏せたまま、安堵したように息を吐いた。その息の中に、逃げ道を見つけた者の弱さがあった。


 信長は文を読むと、すぐに笑った。


 庭には平手様、権六、新五、龍之介、又左、彦右衛門、藤吉郎、孫七、源太が集められている。与吉は焼き印を布に包み、持ち出せるようにしていた。


「大膳の思った通りに動いているな」


 信長はそう言った。


 平手様が眉を寄せる。


「若。まだ坂井大膳と決めるには早うございます」


「分かっておる。だが、向こうは橘屋を餌にしたい。橘屋が那古野へ助けを求める形にすれば、こちらは門前へ出ざるを得ぬ。そこで清洲御用の名を使い、こちらを咎めるつもりだろう」


「ならば、行かぬ方が」


「行く」


 信長は即答した。


「餌だと分かって食わねば、釣り針の形は見えぬ」


 又左が槍を握り直す。


「今度は私も中へ」


「駄目だ」


「若」


「橘屋の帳場に槍を入れるな。お前は外で、孫七と源太を見る。門前の人目の中で崩れぬことが今日の役だ」


 又左は不満そうだったが、前より早く頭を下げた。


「承知しました」


 信長は新五へ向く。


「新五。お前が立ち会え。林の名で行け。ただし、清洲御用の名に呑まれるな」


「はい」


「龍之介は横で見る。言うべき時だけ言え。今日は、相手がどの名を出すかを拾う」


「承知しました」


「彦右衛門は古い印と荷を見る。橘屋が古い桶を本当に捨てたがっているのか、それとも捨てるふりをしているのか、荷の扱いで見ろ」


「承知しました」


「藤吉郎」


「はい」


「飯屋だけを見るな」


「飯屋へ来る者を見ます」


「よし」


 藤吉郎は少し得意げに胸を張った。


 信長は与吉から焼き印の包みを受け取り、新五へ渡した。小さな包みだが、場の空気は槍一本を渡す時より重い。


「今日、橘屋がこれを受ければ、古い印は騙りになる。受けぬなら、古い印を使う者に縛られていると見る」


 信長は声を落とした。


「だが、受けた後こそ気をつけろ。向こうは受けさせた上で、こちらを清洲門前へ引き込むつもりかもしれぬ」


 龍之介は頭を下げた。


「心得ます」


「心得るだけでは足りぬ。橘屋を助ける顔をしながら、橘屋に引きずられるな」


「はい」


 信長は清洲の方角へ目を向けた。


「清洲は名で人を縛る。なら、こちらは筋でほどく」


 清洲門前に入ると、昨日よりも空気が重かった。


 橘屋の返事は、すでにどこかへ漏れているのだろう。飯屋の前には見慣れぬ男が増え、寺の使いらしき者が通りを何度も行き来している。商人たちは普段通りを装っていたが、那古野の一行が近づくと会話の間がわずかに空いた。


 孫七は布に包んだ筒を抱えていた。


 源太がその斜め前に立ち、又左はさらに外側で槍を持つ。派手に構えてはいないが、あえて見える位置にいる。その立ち姿だけで、門前の小者たちは道を少し広く空けた。


 藤吉郎は飯屋の前を見ている。


「今日は、飯を食べる人より、水を飲む人が多いです」


 新五が問う。


「なぜ気にする」


「待つ時は水を飲みます。飯を食べると動きが鈍ります」


 彦右衛門が低く言った。


「戦場前の足軽と同じだな」


「飯は大事ですが、食べる刻も大事です」


「お前の飯話も、たまには役に立つ」


「いつも立っています」


 藤吉郎は真顔で返したが、新五に目で制されて黙った。


 橘屋の店先では、宗右衛門が待っていた。


 今日は奥へ逃げていない。


 その顔には覚悟がある。だが、覚悟だけではなく、追い詰められた者の疲れもあった。


 新五は宗右衛門の前へ進み、礼をした。


「返事、確かに受け取った」


「ありがとうございます」


 宗右衛門は深く頭を下げた。


「当家としては、新しい印を受け、古い桶印を荷から外したく存じます。ただ……」


「清洲御用の荷がある、か」


「はい」


 宗右衛門は声を落とした。


「古い印が押された荷が、今朝も入りました。当家のものではないと申したい。しかし、清洲御用の名で入ってきております」


 新五は表情を変えずに問うた。


「どの清洲御用だ」


 宗右衛門は答えられなかった。


 その沈黙だけで十分だった。


 清洲という名は便利すぎる。守護の名、守護代の名、坂井大膳の名、その下の雑掌たちの名。それらを曖昧に混ぜれば、誰も責を負わずに荷を動かせる。


 龍之介は帳場の奥を見た。


 古い印が押された桶が三つ置かれている。その横に、鉄荷らしき包みが二つ。さらに炭俵もある。橘屋は荷を扱う宿だが、今日はわざと見える場所に置いてあるように見えた。


 彦右衛門が小声で言う。


「古い印の桶だが、桶そのものは新しい。古い桶ではない」


「印だけ古い?」


「そうだ。古い印を使って、新しい桶に押している」


 龍之介は頷いた。


 つまり、古い桶が流れたという橘屋の言い訳は崩れた。誰かが古い印を今も持ち、新しい桶に押している。


 新五もそれを聞き、宗右衛門へ向いた。


「宗右衛門殿。古い桶が外へ流れたのではなく、古い印そのものが外で使われているようだ」


 宗右衛門の顔が青ざめた。


「やはり、そう見えますか」


「そちらも気づいていたな」


「……はい」


 宗右衛門は観念したように頷いた。


「当家の古い印は、二月ほど前に一つ紛失しております。盗まれたのか、持ち出されたのかは分かりませぬ。ただ、清洲御用の荷にその印が使われ始めてから、言い出せなくなりました」


「なぜ」


「誰の御用か、誰もはっきり言わぬからです」


 宗右衛門の声は苦かった。


「守護様方の御蔵と聞く日もあれば、大和守様方の急ぎと聞く日もある。坂井様の名を出す者もおります。しかし、文は残らぬ。荷だけが来る。断れば、橘屋は清洲に逆らったことになります」


 守護様方。


 大和守様方。


 坂井様。


 名がいくつも出た。


 龍之介は、清洲の構造がまた一段見えた気がした。


 名を重ねることで、責任が消える。誰の命か分からぬまま、商人宿は従わされる。従わなければ、清洲に背いたことにされる。


 新五は包みを開いた。


 与吉の作った新しい焼き印が、帳場の光を受けて鈍く光る。


「ならば、今日から橘屋の印はこれに改めればよい。古い印の荷は、橘屋のものではないと言える」


 宗右衛門の喉が動いた。


 受け取りたい。


 だが、受け取れば清洲御用を名乗る者に逆らうことになる。


 その時、店の奥から男が現れた。


 昨日、受け取るなと口を出した男ではない。だが、似た空気をまとっている。身なりは商人風で、腰に刀はない。けれど、歩き方に命じる側の癖があった。


「宗右衛門。その印を受けるなら、清洲御用の荷は橘屋を通らなくなる」


 男は静かに言った。


 宗右衛門の顔が強張る。


 新五が問う。


「そちらは」


「清洲御蔵方の使いだ」


 また曖昧な名だった。


 新五は一歩も退かない。


「守護様方か。大和守様方か」


 男は目を細めた。


「清洲御蔵方と言った」


「清洲には名が多い。こちらも、どなたの御蔵か分からねば返答できぬ」


 男の顔に怒りが浮かぶ。


「那古野の若造が、清洲の名を選ぶのか」


「選ぶのではない。荷の筋を問うている」


 新五の声は静かだった。


 だが、帳場の空気が張り詰めた。


 龍之介は周囲を見る。


 奥の男が出た瞬間、飯屋の前の二人が動いた。一人は通りの端へ、一人は清洲門の方へ。昨日と同じだ。だが、今日は藤吉郎がそれを見ている。


 藤吉郎は口を挟まない。


 目だけを動かしている。


 成長している。


 宗右衛門は、焼き印を見つめていた。


 新五が言う。


「宗右衛門殿。決めるのは橘屋だ」


 男が遮ろうとした。


「宗右衛門」


 しかし、その前に龍之介が口を開いた。


「宗右衛門殿。古い印が使われ続ければ、橘屋は清洲御用の名で何を運ばされたか分からぬままになります。今日受け取れば、少なくとも明日からは、古い印の荷を橘屋のものではないと言える」


 男が龍之介を睨む。


「流れ者が商いに口を出すか」


「商いではなく、荷の命の話です」


「命?」


「鉄も炭も、戦で人を殺し、人を守ります。誰の荷か分からぬまま運べば、いつか橘屋の名で誰かが死にます」


 宗右衛門の顔が変わった。


 商人にとって、名は命だ。


 荷の中身だけではなく、誰の名で通るか。それが商いを守りもすれば、壊しもする。


 宗右衛門は震える手で、新しい焼き印へ手を伸ばした。


 男が怒鳴る。


「宗右衛門!」


 その声で、外の空気が動いた。


 通りの向こうにいた男の一人が、走り出そうとする。


 又左が一歩出た。


 だが、槍は振らない。


 源太が孫七の前で半歩動き、布包みの筒が見える位置に出た。火は入っていない。ただ、そこに筒があるというだけで、走り出そうとした男の足が止まった。


 帳場の中では、新五が男を見据えていた。


「今、橘屋殿が決めようとしている。清洲御蔵方を名乗るそちらが止めるなら、どなたの名で止めるのか、ここで言っていただきたい」


 男は答えない。


 答えられない。


 宗右衛門は、新しい焼き印を受け取った。


 その瞬間、橘屋の帳場にいた者たちの空気が変わった。


 新五は深く頷いた。


「確かに」


 宗右衛門は焼き印を抱えるように持ち、声を絞り出した。


「本日より、橘屋の荷印はこれに改めます。古い印の荷は、当家のものではございませぬ」


 言った。


 言ってしまった。


 男の顔が怒りで歪む。


 龍之介の腹の奥で、熱が動いた。


 ここで刃が出るかもしれない。


 だが、出なかった。


 男は宗右衛門を睨みつけ、低く言った。


「後悔するぞ」


 宗右衛門は答えない。


 新五が静かに返した。


「その言葉も、聞きました」


 男は一瞬だけ新五を見て、奥へ消えた。


 追わない。


 ここで追えば、橘屋を戦場にしてしまう。


 龍之介は息を吐いた。


 今日は、印が押された。


 槍ではなく、言葉と鉄で。


 橘屋を出る頃、宗右衛門は龍之介たちを裏口へ案内した。


「表では見られます」


「裏でも見られております」


 新五が返すと、宗右衛門は苦く笑った。


「でしょうな」


 裏口の手前で、宗右衛門は小さな帳面を差し出した。


「これは、古い印の荷が入った日の控えです。すべてではありません。ですが、残しておいたものです」


 新五はすぐには受け取らなかった。


「なぜ渡す」


「橘屋が生き残るためです」


 宗右衛門は答えた。


「清洲御用の名で何を運ばされたか分からぬままでは、いずれ当家は誰かの罪を背負わされます。今日、那古野様に印を改めていただいた。ならば、古い印の荷は当家ではないと示したい」


 龍之介は帳面を見た。


 日付。


 荷の数。


 炭、鉄、桶、灰、古道具。


 そして、ところどころに小さな印がある。


 守護様方。


 大和守様方。


 坂井様方。


 はっきり書いてはいないが、宗右衛門なりに区別しようとした跡がある。


 新五は帳面を受け取った。


「預かる。ただし、橘屋殿がこちらへ寝返ったとは言わぬ」


「それで結構です」


「こちらも、橘屋殿を守りきれるとは約束できぬ」


「承知しております」


 宗右衛門は深く頭を下げた。


「それでも、古い印に殺されるよりはましです」


 重い言葉だった。


 龍之介は、その商人の背を見た。


 宗右衛門は強い男ではない。


 だが、弱いだけでもない。


 追い詰められ、逃げ道を見つけ、そこへ手を伸ばした。それだけでも、この乱世では大きな決断なのだろう。


 藤吉郎が小声で言った。


「番頭殿、腹を決めましたね」


「飯の話か」


「違います。今のは、飯を抜いてでも逃げる顔ではありませんでした」


 龍之介は少し笑った。


 新五も、ほんのわずかに口元を緩めた。


 那古野へ戻ると、信長は帳面を見てしばらく黙った。


 平手様も、権六も、与吉も、身を乗り出すようにしている。


 帳面には、はっきりした名前は少ない。しかし、荷の日付と種類、印の違い、届け先の癖が残っている。藤吉郎が地面に描いていた印と照らせば、いくつかの線が見えた。


 炭は灰小屋。


 鉄は橘屋。


 灰と古道具は寺の裏。


 そして、ある日付から、坂井様方と読める印が増えている。だが、すべてが坂井筋ではない。守護様方と見える印も、大和守様方と見える印も混じっている。


 信長は帳面を閉じた。


「面白い」


 平手様が低く言う。


「若。これは火種どころではありませぬ」


「分かっておる」


「守護様方の名まで見えます。扱いを誤れば、那古野が清洲の権威そのものに刃を向けた形になります」


「だから、まだ出さぬ」


 信長の声は落ち着いていた。


「これは刀ではない。鞘だ。抜く時までしまっておく」


 龍之介は、その言葉に頷いた。


 帳面は証になる。


 だが、出す場所を間違えれば、こちらが清洲へ喧嘩を売った形になる。守護の名を軽く扱えば、信長自身の立場も危うくなる。


 新五が静かに言った。


「橘屋は、新しい印を受けました。古い印の荷は、今後橘屋のものではないと言えます」


「なら、古い印を使う者は焦る」


 信長は笑った。


「次は、その焦りを見る」


 又左が問う。


「清洲から来ますか」


「来る」


 信長は即答した。


「橘屋を叩くか、宗右衛門を脅すか、古い印の荷を急いで消すか。いずれにせよ、動く」


 藤吉郎が手を挙げた。


「飯屋も動きます」


「なぜ」


「清洲門前で人が急ぐ時、飯屋は儲かるか、急に人が減ります」


 信長は笑った。


「では飯屋も見ろ」


「はい」


「食うな」


「……はい」


 場に笑いが生まれたが、すぐに空気は引き締まった。


 信長は龍之介へ向く。


「龍之介。今日はよく見た」


「私は、ほとんど何も」


「何もせずに見る日もある。今日はそれでよい」


 信長は帳面を指で叩いた。


「清洲は、名で荷を動かしていた。こちらは、印でその名を分けた。次は、名の方が動く」


「はい」


「守護様方、大和守様方、坂井様方。どの名が先に怒るかを見る」


 龍之介の背筋が冷えた。


 清洲の名が動く。


 それは、荷や炭や鉄とは違う。


 政治が動くということだ。


 信長は若い。


 まだ大殿の子であり、家督を継いだ当主ではない。その信長が清洲門前の荷印へ手を入れたと見られれば、敵は必ずそこを突く。


 信長はそれを分かっている。


 分かっていて進む。


「若様」


「何だ」


「清洲から正式な使いが来るかもしれませぬ」


「来させる」


 信長は笑った。


「陰で荷をいじる者を追うより、表の使いを出させた方が顔が見える」


 平手様が深く息を吐いた。


「若、これは大殿にも」


「知らせる」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 大殿、織田信秀。


 末森。


 そこへ話が上がる。


 清洲門前の荷印問題は、那古野の小さな騒ぎではなくなり始めていた。


 その夜、龍之介は庭で木槍を握っていた。


 又左が向かいに立っている。


 今日は稽古というより、互いの息を整えるためだった。


「今日は斬る場ではなかったな」


 又左が言った。


「はい」


「だが、斬るより疲れた」


「私もです」


 又左は笑った。


「帳場で人を斬るわけにはいかぬ。だが、あの清洲御用の男を見ていると、槍で突いた方が早いと思った」


「私も思いました」


「お前もか」


「はい」


 又左は少し驚き、それから笑った。


「なら安心した」


「安心ですか」


「お前は何でも冷たく見ているように見える時がある。腹が立つなら、人だ」


 龍之介は言葉を失った。


 又左の言葉は荒い。


 だが、時々まっすぐ胸に刺さる。


 郭嘉の知は、冷たく道を見る。


 呂布の武は、熱く前へ出る。


 その間で、山本龍之介という人間がどこにいるのか。


 今日の帳場で、龍之介は怒った。


 宗右衛門を縛る名の曖昧さに。


 清洲御用という言葉で責を逃がすやり方に。


 そして、その怒りを槍にしなかった。


 それでよかったのだと思いたかった。


 又左が木槍を構える。


「一本だけだ」


「はい」


「今日は前へ出すぎぬ」


「私も、速く動きすぎませぬ」


 二人は向かい合った。


 遠くの鍛冶場では、橘屋へ渡った焼き印と同じ形の控えが火のそばに置かれている。蔵では宗右衛門の帳面が平手様の手で写され、新五は藤吉郎に飯屋の見方を教えていた。彦右衛門は荷印の違いを源太と孫七へ説明している。


 那古野は、また一段変わった。


 荷を守るだけではない。


 名を見始めた。


 印を変えた。


 帳面を得た。


 そして、清洲から正式な顔が出てくるのを待つ。


 又左の木槍が来る。


 龍之介は受けた。


 強く弾きすぎず、弱く流しすぎず、相手の力を感じながら半歩ずらす。


 乾いた音が夜に響いた。


 まだ斬る時ではない。


 今は、名が動くのを待つ時だ。


 だが、その時が来れば、槍も必要になる。


 龍之介は木槍を握り直した。


 清洲の影は、もう門前だけに留まらない。


 次に動くのは、名を持つ者たちだ。


第25話─了

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