第24話 新しい印
焼き印は、夜のうちに形になった。
大きなものではない。桶や荷札に押すための、小さな鉄の印である。橘屋の古い印に似せる必要はなかった。むしろ似せてはならない。古い印を勝手に使われたという形を作るなら、新しい印は誰の目にも別物と分かる方がよい。
与吉は、仕上がった鉄印を水に落とし、湯気を立てながら引き上げた。
「橘の葉を少し崩しました。前の丸印とは違います。これなら、古い桶印と見間違えることはないでしょう」
龍之介は、黒く濡れた鉄印を覗き込んだ。
橘の葉。
商人宿の名には合っている。
だが、飾りすぎていない。荷に押しても潰れにくく、木にも布にも残りやすい形だった。
「見事です」
「褒めても鉄は増えませぬ」
与吉は苦い顔をしたが、口元は少し緩んでいた。
藤吉郎が横から顔を出す。
「握り飯にも押せますか」
「押すな。食えなくなる」
「形は残ります」
「腹には残らぬ」
与吉が即座に返し、藤吉郎は真剣に頷いた。
「では、荷だけにしましょう」
「最初からそうしろ」
新五が短く言った。
龍之介はそのやり取りを聞きながら、鉄印の重さを見ていた。
これは武器ではない。
だが、清洲門前へ持っていけば、槍とは違う形で人を動かす。
橘屋が受け取れば、古い印を使う者は橘屋の名を騙る者になる。受け取らなければ、橘屋は古い印が使われ続けることを望んでいる、あるいは望まされていると見られる。
どちらに転んでも、何かが見える。
信長は庭で鉄印を受け取り、しばらく手の中で転がした。
「軽いな」
与吉が眉を寄せる。
「これでも、荷印には十分でございます」
「いや、重さの話ではない。これ一つで、橘屋の口が重くなるか軽くなるかが変わる。面白い」
平手様が渋い顔をした。
「若。商人を追い詰めすぎると、清洲へ駆け込まれます」
「駆け込ませるな。逃げ道を一つ残す」
信長は鉄印を新五へ渡した。
「新五。今日もお前が前に出ろ。林の名で筋を通す。龍之介は横に置くが、口は控えろ」
「承知しました」
「彦右衛門は荷を見る。藤吉郎は印と飯屋を見る」
「飯屋も見てよろしいのですね」
「食うなよ」
「見ます」
「食うな」
「……はい」
信長は又左へ向いた。
「又左、源太、孫七は外だ。昨日と同じく、見せるが鳴らすな。門前で筒が鳴れば、その日から話が変わる」
「承知しました」
又左の返事は、以前より早かった。
前へ出たい気持ちは見える。だが、待つことを覚え始めている。
信長は最後に龍之介を見た。
「今日は、橘屋の顔より、橘屋を見る周りの顔を見ろ」
「周り、でございますか」
「宗右衛門が受けるか受けぬかは大事だ。だが、もっと大事なのは、受けるなと言う者がどこから現れるかだ」
龍之介は息を整えた。
「承知しました」
「橘屋が魚なら、今日は針ではなく水を見る。水が揺れれば、魚より先に影が出る」
信長はそう言って笑った。
相変わらず、言い方は妙だった。
だが、意味はよく分かった。
清洲門前は、昨日よりもこちらを見ていた。
いや、昨日までは見ていないふりをしていた者たちが、今日は見ないふりをやめかけている。那古野の使いが再び来た。その事実だけで、門前の空気は薄く張った。
又左たちは通りの端に立った。
孫七の筒は布に包まれている。源太はその斜め前に位置を取り、又左はさらに外側で槍を持つ。派手に構えてはいないが、目立つ。信長の言った通り、派手に立っていた。
藤吉郎は、飯屋の方を見ながら小声で言った。
「昨日より、人が多いです」
「飯屋か」
新五が問う。
「飯屋だけではありません。飯を食べない顔がいます」
「どんな顔だ」
「待っているのに、腹が空いていない顔です」
彦右衛門が低く笑った。
「それは分かるようで、分からんな」
「飯屋の前で飯を見ない人は、だいたい別のものを見ています」
龍之介は、その言葉に頷いた。
藤吉郎の見方は、時に妙だが当たる。
飯屋の前にいる男が二人、確かにこちらを見ていた。腰に刀はないが、足の置き方が町人ではない。武家の下働きか、雑掌の使いか。
橘屋の店先には、昨日と同じ男が立っていた。こちらを見た瞬間、すぐに奥へ引っ込む。
新五は止まらず、店先へ進んだ。
「那古野より参った。番頭殿に取り次ぎを」
少し待たされて、宗右衛門が出てきた。
昨日より顔が硬い。
それでも商人らしい笑みは貼りつけている。
「これは林様。昨日に続き、わざわざ」
「昨日の件で、若様より預かり物がある」
新五は包みを差し出した。
宗右衛門はすぐには受け取らなかった。
「預かり物、でございますか」
「橘屋の古い桶印が勝手に使われたなら、そちらも困るであろう。若様は、印を改める助けとして、新しい焼き印を用意された」
宗右衛門の笑みが、ほんのわずかに崩れた。
やはり効いた。
龍之介は、宗右衛門ではなく周囲を見た。
店の奥。
帳場の横。
通りの向こう。
飯屋の前。
動いた者がいる。
昨日の雑掌ではない。だが、同じように文を扱う者の立ち方をしている男が、橘屋の奥からこちらを見ていた。
宗右衛門は声を低くした。
「ありがたいお心遣いにございます。ただ、当家の印は当家で」
「もちろん、無理に受け取れとは言わぬ」
新五は静かに言った。
「ただ、古い印がこの先も使われれば、那古野はそれを橘屋のものか、橘屋の名を騙るものか、判断せねばならぬ。新しい印を使うなら話は早い」
宗右衛門の喉が動いた。
「それは、つまり」
「橘屋殿を疑わぬための印だ」
新五の声は柔らかい。
だが、刃が入っていた。
宗右衛門は答えられない。
その時、奥から昨日とは違う男が出てきた。
年は三十代半ば。衣は商人風だが、帯の締め方が武家屋敷の者に近い。目だけは笑っていない。
「宗右衛門。何を迷う」
男は宗右衛門に言った後、新五へ向いた。
「那古野様は、橘屋の印にまで口を出されるのか」
新五は表情を変えない。
「口を出すのではない。こちらの荷に橘屋の古印が使われたので、筋を通している」
「古い桶がどこへ流れたかまで、橘屋に責を負わせると?」
「責ではない。迷惑であろうから、助け舟を持ってきた」
「助け舟」
男は鼻で笑った。
「ずいぶん重い助け舟だ」
龍之介は、その男の声を聞きながら周囲を見続けた。
通りの向こうの男が、一歩動いた。
飯屋の前の二人も、互いに目を合わせた。
この男が出ることは、彼らにとって予定通りなのか。
それとも、出てしまったのか。
宗右衛門の顔を見る限り、後者に近い。
出てほしくなかった者が出てきた顔だ。
新五が問う。
「そちらは」
「清洲の御用を扱う者だ。名乗るほどではない」
「昨日も、似たようなことを言われた」
「清洲には、御用が多いのでな」
男はそう言って、龍之介を見た。
「山本龍之介殿。人の心を読むなら、橘屋が困っていることもお分かりでしょう」
「心は読めませぬ」
「では、何が見える」
「宗右衛門殿は、この印を受け取りたい。しかし、そちらは受け取らせたくない。そう見えます」
宗右衛門の顔から血の気が引いた。
男の目が冷える。
言いすぎたか。
だが、ここで濁せば、相手の圧だけが残る。
龍之介は続けた。
「間違っていれば、お詫びします」
「面白いことを言う」
男は笑ったが、声は硬かった。
「橘屋が何を受け取るかは、橘屋が決める。那古野が口を出すことではない」
「では、橘屋殿が決めればよろしい」
龍之介は宗右衛門へ目を向けた。
宗右衛門は追い詰められていた。
受け取れば清洲の御用筋を怒らせる。拒めば那古野に疑われる。どちらも商人宿には重い。
新五が静かに包みを帳場の前へ置いた。
「今、答えなくてもよい」
宗右衛門が顔を上げる。
「若様は、橘屋殿を責めに来たのではない。古い印を勝手に使う者がいるなら、橘屋殿も困るはずだと見ておられる。三日のうちに返事をいただきたい。受けるなら受ける。受けぬなら受けぬ。その返事だけでよい」
逃げ道を残した。
龍之介は、内心で頷いた。
ここで即答を迫れば、橘屋は清洲へ縋るしかなくなる。三日という時間を置けば、宗右衛門は考える。誰かに相談する。その相談先が見えるかもしれない。
男は包みを睨んだ。
「勝手なことを」
「勝手なことをされたのは、こちらの荷だ」
新五が返した。
声は荒くない。
だが、場の空気が締まった。
又左が外で動きかけた気配がしたが、源太が小さく何かを言ったらしく、槍の音はしなかった。又左も踏みとどまったのだろう。
男は新五を睨んだ後、宗右衛門へ向いた。
「受け取るな」
はっきりと言った。
その一言で、場が決まった。
橘屋の判断ではなく、この男の命で拒ませようとしている。
宗右衛門は顔を伏せた。
新五は包みを置いたまま、男へ頭を下げた。
「今の言葉、聞きました」
男の顔が変わった。
「何を」
「橘屋殿ではなく、そちらが受け取るなと申された。ならば、この印を拒むのは橘屋殿の判断ではなく、清洲御用を名乗る方の御意向と見ます」
龍之介は、ここで新五が踏み込んだことに気づいた。
静かな踏み込みだ。
槍ではないが、深い。
男は言葉を失った。
宗右衛門も息を呑む。
新五はそれ以上言わず、包みをもう一度手に取った。
「三日後、返事を聞きに参る。橘屋殿自身の返事を」
そう言って、踵を返した。
龍之介たちも続く。
背中に視線が突き刺さる。
だが、誰も止めなかった。
外へ出ると、又左が低く言った。
「斬らずに済んだな」
「済ませました」
新五の声は、いつもより少し硬かった。
源太が孫七の前に立ったまま、通りの向こうを見ている。
「飯屋の前の二人、動きました」
源太が言うと、藤吉郎がすぐに続けた。
「片方は寺の方。もう片方は清洲の門の方です」
「追うな」
新五が言った。
「分かっています」
藤吉郎は少し不満そうだったが、足は動かさなかった。
龍之介は通りの奥を見た。
橘屋の中では、宗右衛門がまだ動けずにいる。奥から出た男は怒りを隠さず、帳場の者へ何かを命じていた。
今日の目的は果たした。
橘屋がどう動くかを見るだけではない。
橘屋に命じる者が出た。
清洲御用を名乗る者が、受け取るなと口にした。
これで、古い印を使う者の背後に、橘屋だけではない手があると示せる。
帰り道、彦右衛門が低く言った。
「新五殿は、よく待った」
新五は少しだけ視線を向けた。
「待ったように見えましたか」
「槍なら、あそこは突いていた」
「私は槍ではありません」
「だから効いた」
短い会話だった。
龍之介は、新五の横顔を見た。
この若者は、林の名を背負いながら信長の側にいる。その立場が厄介であるほど、こういう場では使える。新五自身も、それを分かり始めているようだった。
藤吉郎が小声で龍之介へ言った。
「宗右衛門殿、かわいそうでしたね」
「そうだな」
「でも、あの人が何か持ってきそうです」
「なぜそう思う」
「受け取りたい顔をしていました。受け取れなかった人は、別のものを渡したくなります」
龍之介は思わず藤吉郎を見た。
子供のような言い方だが、鋭い。
「そうなるといいな」
「飯なら私が受け取ります」
「それは違う」
藤吉郎は残念そうだった。
那古野へ戻ると、信長は報告を聞いてしばらく笑わなかった。
新五が一部始終を話す。
宗右衛門の迷い。
清洲御用を名乗る男の横槍。
受け取るなという命令。
三日の猶予。
飯屋前の二人が、寺と清洲門へ分かれたこと。
すべてを聞き終えてから、信長はようやく口元を上げた。
「出たな」
「はい」
新五が答える。
「橘屋ではなく、橘屋へ口を出す者が」
平手様が静かに言った。
「清洲御用という言い方が厄介です。守護様の御用か、守護代家の御用か、坂井大膳の筋か、曖昧にできます」
「だから使いやすい」
信長は言った。
「清洲は名が多い。守護、守護代、大膳、その下の雑掌、商人宿。名が多いほど、責を散らせる」
龍之介は頷いた。
「しかし、今日の男は焦りました。新五殿が包みを置いた時、宗右衛門殿より先に口を出した」
「つまり、橘屋に任せられなかった」
「はい」
信長は満足そうだった。
「三日後までに、宗右衛門はどこかへ相談する。相談先を見ろ」
「橘屋を見張りますか」
又左が問う。
「見張るな。露骨な見張りは相手に餌をやるようなものだ」
信長は藤吉郎へ目を向けた。
「小僧」
「はい」
「飯屋を見るな。飯屋へ来る者を見る」
「飯屋へ行ってよろしいのですね」
「食うな」
「見るだけです」
「新五」
「はい」
「小僧が食わぬように見ろ」
「そこも私の役ですか」
「大事な役だ」
新五は小さく息を吐いた。
場に少し笑いが生まれる。
信長は彦右衛門へ向いた。
「彦右衛門。橘屋へ出入りする荷を、昔の目で見ろ。新しい荷ではない。古い荷、いつもの荷の変わり目を見る」
「承知しました」
「又左は、源太と孫七を続けろ。清洲門前でも崩れなかった。次は、人が騒いだ時でも崩れぬようにする」
「はっ」
信長は最後に龍之介を見た。
「龍之介。今日、お前は控えめだったな」
「若様の仰せでしたので」
「よい。だが、言う時は言った」
「出すぎましたか」
「いや。宗右衛門の顔を見て言ったのだろう。ならよい」
信長は鉄印の包みを見た。
新五が持ち帰ったそれは、まだ橘屋に渡っていない。
だが、渡らなかったことで、見えたものがある。
「三日後、橘屋が受けるかどうか。その前に誰が動くか。そこが次の目だ」
平手様が言った。
「若。清洲との火種が濃くなります」
「もう燃えている。ただ、煙を隠していただけだ」
信長の声は低かった。
「ならば、こちらも煙を見ていると知らせる」
龍之介は、その横顔を見た。
若い。
危うい。
だが、進み方が見えている。
清洲の門前で、刀は抜かれなかった。だが、確かに一太刀入った。
それは新五の言葉であり、焼き印の包みであり、宗右衛門の迷いだった。
その夜、清洲の一角で坂井大膳は報せを聞いていた。
那古野が橘屋へ新しい印を持ち込んだ。
橘屋の古印が勝手に使われているなら困るだろう、と。
清洲御用を名乗る者が、受け取るなと口を出した。
新五郎がそれを聞いた。
山本龍之介もいた。
大膳は目を閉じ、しばらく何も言わなかった。
控えていた男が不安げに頭を下げる。
「いかがいたしましょう」
「下手に触るなと言ったはずだ」
大膳の声は静かだった。
だが、冷たい。
「申し訳ございませぬ」
「橘屋は商人だ。脅せば従う。だが、脅したところを見られれば、商人ではなく脅した者の顔が残る」
大膳は目を開いた。
「織田三郎の側にいる者どもは、思ったより面倒だな」
「山本龍之介でございますか」
「それだけではない。林の若いのが、よく待つ。前田の若造も、まだ荒いが少し待つようになった。小僧は目が利く。古参の足軽まで荷の目に使い始めた」
大膳は、指で膝を叩いた。
「急ぎすぎれば、こちらの手が見える。だが、放れば那古野は門前まで目を置く」
「では」
「橘屋を切る」
控えの男が顔を上げた。
「潰すのでございますか」
「違う。こちらから離すのだ。橘屋が勝手にやったことにする。必要なら、橘屋が那古野へ泣きつくように仕向ける」
「それでは、那古野に利するのでは」
「利させる」
大膳は薄く笑った。
「利を得たと思わせれば、三郎はさらに前へ出る。前へ出れば、清洲の門に近づく。門に近づけば、守護代様の名で叩ける」
部屋の空気が冷えた。
大膳は続けた。
「橘屋へ伝えよ。三日の返事は、受けてもよい。ただし、受けるなら、那古野に助けを求める形にしろ」
「橘屋を餌に」
「餌にも盾にもなる」
坂井大膳は、清洲の闇の中で静かに笑った。
「織田三郎が門前に目を置くなら、その目を門の中へ誘えばよい」
同じ夜、那古野では与吉が焼き印をもう一度火にかざしていた。
「戻ってきたのに、また行くことになりそうですな」
龍之介は頷いた。
「たぶん、向こうは受けます」
「なぜです」
「受けた方が、こちらを中へ誘えるからです」
与吉は眉を寄せた。
「それは危ないのでは」
「はい」
龍之介は、鍛冶場の火を見た。
印は、ただの印ではなくなった。
橘屋が受け取れば、助け舟になる。同時に、清洲の門前へ那古野を引き寄せる綱にもなる。
信長は、それでも進むだろう。
龍之介も、止めるつもりはなかった。
ただし、進むなら見なければならない。
門前の先。
清洲の名の重なり。
守護、守護代、坂井大膳。
そして、その名を使って動く無数の手。
龍之介は手を開いた。
今日は斬らなかった。
走りもしなかった。
だが、戦は確かに進んだ。
火の前で、焼き印の橘が赤く光っている。
その印が、清洲の門前に押される日は近い。
龍之介は静かに息を吐いた。
まだ斬る時ではない。
今は、印を押す時だ。
第24話─了




