第23話 橘屋の帳場
清洲門前へ目を置く。
信長はそう言ったが、目を置くとは、ただ物陰から眺めることではない。そこにいる者の息遣いを知り、荷がどこで止まり、誰の声で動き、どの名が出た時に人の背筋が伸びるのかを見なければならない。
橘屋へ向かう前、信長は龍之介たちを集めた。
庭ではなく、蔵の脇だった。鉄荷の残りと、桶の焼き印を写した板が置かれている。与吉は鉄の束をもう一度見分け、彦右衛門は荷縄を結び直していた。新五は黙って周囲を見、藤吉郎は地面に描いた焼き印を見つめている。
「今日は盗みに行くのではない」
信長は言った。
「叩きにも行かぬ。橘屋へ、筋を通しに行く」
又左が不満そうに眉を動かした。
「筋、でございますか」
「そうだ。那古野の荷に、橘屋の印がついた桶を持つ者が手を出した。ならば、こちらは橘屋へ尋ねることができる」
平手様が頷く。
「責めるのではなく、問いただす形にするのですな」
「そうだ。責めれば門が閉じる。尋ねれば、相手は返事をせねばならぬ」
信長は板に写された焼き印を指で叩いた。
「この印を、橘屋が本物だと言うか。知らぬと言うか。盗まれたと言うか。そこを見る」
龍之介は、信長の意図を理解した。
橘屋をすぐ敵と決めるのではない。橘屋の返答を見る。返答に誰の影が差すかを見る。門前の商人宿が、清洲城中のどの名を恐れ、どの名を使い、どの名を避けるのかを見極める。
「若様。こちらの人数は」
「多すぎれば威圧になる。少なすぎれば舐められる」
信長は順に名を呼んだ。
「新五、龍之介、彦右衛門、藤吉郎。茂助も連れていけ。又左は外で待て。源太と孫七もだ」
「私は中へ入らぬのですか」
又左が渋い顔をする。
「お前が帳場へ入れば、帳場ではなく喧嘩場になる」
「そこまでは」
「なる」
信長が即座に言い、藤吉郎が口元を押さえた。
又左は藤吉郎を睨んだが、信長の前なので黙った。
「又左の役は外だ。門前で何かが動いた時、派手に動きすぎぬように派手に立っていろ」
「難しい役でございますな」
「お前にはちょうどよい」
又左は不満そうなまま頭を下げたが、その顔には少しだけ誇りもあった。
信長は次に孫七を見た。
「孫七。今日は筒を持つが、布を解くな。見せるだけでよい」
「はい」
「源太。孫七を守る。だが、清洲門前では一歩の出すぎが刃になる」
「承知しました」
源太の返事は硬い。昨日までより、言葉に重みが出ていた。
信長は最後に龍之介へ向いた。
「お前は速く動くな」
龍之介は頭を下げた。
「心得ます」
「心得るだけでは足りぬ。今日は遅く動け。人より少し早い程度でよい」
「……承知しました」
「人の目は、戦場の槍より面倒だ。清洲門前で化け物の噂を増やすな」
その言葉は痛かった。
だが、正しい。
龍之介は、自分の身体がどれほど目立つかを忘れかける時がある。敵を追う時、仲間を守る時、呂布の武は自然に前へ出る。しかし、清洲門前ではそれが噂になり、噂は信長の首にも絡みつく。
信長は、少しだけ声を落とした。
「ただし、仲間が死ぬ時は別だ」
「はい」
「その時は迷うな」
龍之介は深く頭を下げた。
清洲門前は、那古野の周りとは空気が違った。
道が太い。
人の数も多い。
荷が重い。
そして何より、名が多い。
守護様のお使い。
大和守様方の荷。
坂井様へ急ぐ文。
清洲城へ入る者たちの口から、そうした言葉が自然に出る。誰もがその名の重さを知っており、知らぬ顔をしながら道を譲る。
藤吉郎は、いつものように軽く走り出そうとして、新五に袖を掴まれた。
「走るな」
「門前では走らない方がよいですか」
「よい悪いではない。目立つ」
「小僧は走るものです」
「賢い小僧は、時と場所を選ぶ」
藤吉郎はむっとしたが、足を緩めた。
龍之介は、清洲城の方角を見た。
城そのものは、まだ遠い。だが門前の空気はすでに城の一部だった。商人宿、馬留め、鍛冶道具を扱う店、寺の使い、武家の下働き。誰かが誰かを待ち、誰かが誰かの名を借りて通り、誰かが見ていないふりで見ている。
橘屋は、清洲門前の通りから少し奥へ入った場所にあった。
大きすぎる宿ではない。だが、荷を置く土間が広く、裏には小さな鍛冶場らしい煙も見える。鉄荷と鍛冶道具を扱う商人宿としては、十分な構えだった。
店先に立つ男が、こちらの荷を見る。
新五が一歩前へ出た。
「那古野より来た。橘屋の番頭殿に話がある」
店先の男は、那古野という言葉にわずかに反応した。
「どのようなご用件で」
「昨日、こちらの印に似た桶を持つ者が、那古野の鉄荷に手を出した。勘違いならば、筋を通して確かめたい」
新五の声は穏やかだった。
だが、退かない声でもあった。
男は奥へ引っ込み、しばらくして番頭らしき男が出てきた。年は四十前後。商人らしく柔らかい顔を作っているが、目だけが動く。
「これはこれは、那古野様より。橘屋の宗右衛門にございます」
宗右衛門は頭を下げた。
新五も礼を返す。
「林新五郎正秀。若様の使いとして参った」
ここで、新五はあえて名乗った。
林の名。
信長の近くの若者ではなく、林家筋の者として筋を通しに来た形だ。
宗右衛門の目がわずかに変わる。
軽くは扱えないと判断したのだろう。
龍之介は、名の力を見た。
槍でもない。筒でもない。だが、この場では新五の名乗りが道を開く。
「若様とは、三郎様で」
「そうだ」
新五は短く返した。
宗右衛門は、さらに丁寧に頭を下げる。
「それは、それは。して、当家の印に似た桶と仰せで」
藤吉郎が板を出そうとしたが、新五が目で制した。
龍之介が代わりに板を差し出す。
宗右衛門は焼き印の写しを見た。
その瞬間、顔にはほとんど出なかった。
だが、呼吸が浅くなった。
知っている。
龍之介はそう見た。
「似ておりますな」
宗右衛門は言った。
「当家の古い桶に使っていた印に似ております。ただ、近頃はこの形をあまり使っておりませぬ」
「古い桶なら、外へ出ることもあるか」
「ええ。壊れたものを下働きへ払うこともございます。どこかへ流れたのやもしれません」
答えとしては用意されている。
新五は顔色を変えない。
「ならば、こちらも勘違いかもしれぬ。ただ、那古野の荷へ手を出した者が、その印の桶を持っていた。橘屋殿の名が勝手に使われているなら、そちらにも迷惑であろう」
宗右衛門の目が一瞬だけ龍之介へ向いた。
新五ではなく、龍之介を見る。
流れ者の噂は、ここまで届いているらしい。
「そちらが、山本龍之介殿で」
宗右衛門が言った。
龍之介は頭を下げた。
「はい」
「戦場で若様をお救いしたと聞いております」
「若様の御判断あってのことにございます」
「ご謙遜を。門前でも、その名は聞こえております。人の心まで読むとか」
藤吉郎の目が動いた。
新五は黙っている。
龍之介は、ここで怒る必要はないと思った。
「心は読めませぬ。荷の置き方、縄のかけ方、足の向きは見ることがあります」
「それだけでも恐ろしい」
「恐ろしいなら、私も気をつけます」
宗右衛門は、少しだけ笑った。
だが、その笑いは柔らかくない。
探っている。
こちらがどこまで見たかを、言葉で量っている。
その時、奥から別の男が出てきた。
商人ではない。
身なりは地味だが、立ち方が違う。武家の屋敷に出入りする者の足だ。宗右衛門がわずかに身を引いたことで、その男がこの場でただの下働きではないことが分かった。
「宗右衛門。客か」
「はい。那古野より」
男の目が新五、龍之介、彦右衛門、藤吉郎を順に見た。
最後に、外で待つ又左の槍と、布に包まれた孫七の筒にも目が行く。
「那古野の若様は、ずいぶん物々しい使いを寄こされる」
男が言った。
新五は静かに返す。
「荷に手が伸びたので、荷を守る者を連れてきただけにございます」
「その荷とは、鉄か」
まだこちらは言っていない。
宗右衛門の顔が固まる。
男はしまったという顔をしなかった。
むしろ、わざと言ったように見える。
龍之介は、その男の手を見る。
指先に墨。
文を扱う者か。
腰の動きは武辺者ではないが、場慣れしている。
清洲の城中へ出入りする吏僚か、坂井大膳の周辺で使われる者か。
男は龍之介へ視線を止めた。
「山本殿。鉄の荷は、大事に扱われた方がよろしい。清洲門前では、行き先を間違えた荷がよく迷う」
「迷う荷が多いのですか」
「荷も人も、名札がなければ迷うものです」
言葉は商人風の冗談のようだった。
だが、意味は違う。
名札。
荷札。
誰の荷か。
誰の人か。
そこを問うている。
龍之介は頭を下げた。
「ならば、当方も荷札には気をつけます」
「それがよろしい」
男はそれだけ言って、奥へ戻ろうとした。
新五が声をかける。
「お名前を伺っても」
男は振り返った。
「名乗るほどの者ではありません。清洲の雑掌にございます」
「どちらの」
「清洲には、いくつも御用がございますので」
男は笑い、奥へ消えた。
新五の目が冷えた。
宗右衛門は、男が消えてからようやく息を整えた。
「失礼を。あの者は出入りの者でして」
「橘屋殿の者ではないのか」
「ええ。城中より御用を受けることがありまして、時折」
城中。
宗右衛門はそう言った。
守護か。
守護代か。
坂井大膳か。
そのどれかは口にしない。
龍之介は、橘屋がただの敵ではないことを感じた。
商人宿は、道そのものだ。
通す者を選べるほど強くはない。しかし、通る者を全く知らないほど弱くもない。清洲の名の下で荷を扱い、武家の顔色を見て、那古野の使いにも頭を下げる。
だからこそ、使われる。
橘屋を出る時、宗右衛門は小さな包みを差し出した。
「若様へ。桶印の件、当家でも調べます。これは詫びではございませぬが、鍛冶場で使える砥石にございます」
新五は受け取らなかった。
「詫びではないなら、今は受け取れぬ」
宗右衛門の顔に、ほんのわずかな焦りが出た。
龍之介は、それを見逃さなかった。
贈り物。
受け取れば、橘屋と那古野の間に小さな借りができる。詫びではないと言いながら、荷の話を柔らかくするための包みだ。
新五は続けた。
「ただし、橘屋殿が本当に迷惑を受けているなら、後日、正式に話を聞く。その時は筋を通して受けることもあろう」
宗右衛門は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
外へ出ると、又左がすぐに寄ってきた。
「何かあったか」
「帳場で槍を振るほどのことはありませんでした」
龍之介が言うと、又左は不満そうにした。
「それはよかったのか」
「よかったです」
藤吉郎が小声で言う。
「砥石、受け取らないのですね」
「欲しかったのか」
「砥石は食べられませんが、与吉殿が喜ぶかと」
新五が答えた。
「今受け取れば、口を柔らかくされる。欲しければ、後で正面から買う」
「なるほど。飯もただでもらうと、後で怖い時があります」
「分かっているなら、普段から気をつけろ」
藤吉郎は目を逸らした。
又左が笑いかけた時、通りの向こうで人が動いた。
さきほど奥へ消えた清洲の雑掌らしき男が、別の男と話している。相手は武家の下働き風で、袖の端に小さな印が見えた。
丸に横線。
坂の字ではない。
しかし、龍之介にはその印より、二人の立ち位置が気になった。
雑掌は、相手より半歩下がっている。
つまり、あちらが上だ。
男は短く何かを告げ、清洲城の方へ消えた。
藤吉郎が小声で言った。
「追いますか」
「追わない」
新五が即答した。
「ここで追えば、見ていたことが分かる」
龍之介は頷いた。
「ですが、顔は覚えました」
「私もです」
藤吉郎が胸を張る。
「袖の印も」
「描けるか」
「飯粒より簡単です」
「その例えは分からん」
又左が呆れる。
孫七は、ずっと布包みの筒を抱えていた。清洲門前の人目の中で筒を持つことは、昨日の灰小屋より重かったはずだ。それでも、足は震えていない。
源太も、今日は前へ出すぎなかった。
龍之介は、その二人を見て小さく頷いた。
役は、門前でも崩れなかった。
那古野へ戻ると、信長はすぐに報告を聞いた。
橘屋の宗右衛門。
古い桶印という返答。
砥石の包み。
清洲の雑掌を名乗る男。
鉄荷の話をこちらが言う前に口にしたこと。
袖の印を持つ別の男。
すべてを聞いた後、信長はしばらく黙った。
平手様が口を開く。
「橘屋は、完全に敵とは言えませぬな」
「敵ではないが、清洲の息がかかっている」
信長は答えた。
「宗右衛門は商人だ。強い方、近い方、怖い方へ頭を下げる。あれ自体を斬っても仕方ない」
又左が腕を組む。
「奥から出てきた雑掌は」
「そちらが本筋だろう」
信長は龍之介を見た。
「鉄の荷と言ったのだな」
「はい。こちらが鉄とは言う前に」
「なら、灰小屋の男か、井戸の桶の男か、どこかから話が上がっている」
新五が頷く。
「それも早い。清洲門前に、こちらの荷の話を受ける者がいるのは確かです」
藤吉郎が地面に袖の印を描いた。
丸に横線。
信長はそれをじっと見た。
「この印は、坂井ではないな」
「はい」
龍之介は答えた。
「坂井大膳の名は見えすぎます。むしろ、別の筋もあるかもしれませぬ」
「守護代家の周りか。あるいは、守護様の名を使う者か」
平手様の顔が険しくなる。
「若。斯波様の名は軽く扱われませぬよう」
「分かっておる。だから、まだ名は出さぬ」
信長は楽しげに笑った。
「だが、清洲は一枚ではない。守護がいて、守護代がいて、大膳がいて、その下で商人宿や雑掌が動く。なら、どこかに割れ目がある」
龍之介は、その言葉に胸が熱くなるのを感じた。
清洲に誰がいるか。
それが、ようやく形として見えてきた。
名目の上にいる守護。
実務を握る守護代家。
その中で動く坂井大膳。
門前で荷を洗う橘屋。
そして、どこに属するか曖昧な雑掌たち。
清洲は、ただの敵城ではない。
名と実がずれた場所だ。
信長は、そのずれを見ようとしている。
「龍之介」
「はい」
「次は、橘屋を斬らずに使う」
「使う、でございますか」
「宗右衛門は怖がっている。怖がる者は、道を持っている。あれに逃げ道を与えれば、何かを持ってくる」
平手様が静かに言った。
「若。商人を追い詰めすぎれば、清洲へ泣きつきます」
「だから追い詰めぬ。助け舟を出す」
信長の目が鋭くなる。
「橘屋の古い桶印が勝手に使われた。迷惑であろう。ならば、那古野は橘屋に、印を改める手間を助けると言ってやる」
与吉が顔を上げる。
「焼き印を新しくするのですか」
「そうだ。鍛冶場で作れるか」
「作れます」
「なら、小さく一つ作れ。橘屋が受け取るかどうかを見る」
龍之介は、信長の意図に気づいた。
焼き印を新しくする。
それは助け舟であり、同時に踏み絵だ。
橘屋が本当に印を勝手に使われて迷惑しているなら、新しい印を欲しがる。清洲側の手先として古い印を使わせたいなら、受け取りを渋る。受け取れば、以後古い印を使う者は橘屋の名を騙る者として扱える。
信長は、にやりと笑った。
「向こうが印を使うなら、こちらは印を変えさせる」
藤吉郎が感心したように言った。
「握り飯の形を変えたら、盗んだ人が分かるみたいなものですね」
「お前の例えは腹が減る」
又左が言うと、場に笑いが生まれた。
信長は笑ったまま、すぐに声を低くした。
「清洲の門はまだ叩かぬ。だが、門前の札と印は、こちらが触る」
龍之介は頭を下げた。
「承知しました」
「次は、橘屋へ助け舟を出す。その舟に誰が穴を開けるかを見る」
信長の言葉に、那古野の者たちは頷いた。
清洲門前の戦は、刀を抜かずに始まっていた。
夜、龍之介は鍛冶場の火を見ていた。
与吉が小さな焼き印の鉄を選んでいる。橘屋へ差し出すためのものだ。敵か味方か分からない商人宿へ、こちらから助け舟を出す。考えれば考えるほど、危うい。
だが、ただ責めるよりは道が残る。
ただ斬るより、相手の背後が見える。
龍之介は自分の手を開いた。
今日、清洲門前で速くは動かなかった。
帳場で怒らなかった。
宗右衛門の包みも受け取らなかった。
けれど、奥から出てきた雑掌の一言で、清洲の門前に確かな手があると分かった。
少しずつ、近づいている。
炭から灰小屋へ。
鉄から橘屋へ。
橘屋から清洲の雑掌へ。
その先に、守護代家があり、坂井大膳の影があり、さらに守護の名まで絡む。
戦場で橋を読むより、ずっと複雑だった。
橋なら、落ちる場所は一つだ。
だが人の道は、いくつにも分かれる。
間違えれば、信長の名を傷つける。勘十郎や末森へ飛び火することもある。清洲との火種が早く燃え上がれば、尾張そのものが割れるかもしれない。
それでも、進まなければならない。
信長は、もう清洲の影を見た。
見た以上、放っておく男ではない。
鍛冶場の火が、焼き印になる鉄を赤く染めていく。
龍之介はその赤を見つめながら、静かに息を整えた。
まだ斬る時ではない。
今は、印を変える時だ。
荷の印。
人の印。
清洲の門前に刻まれた見えない印。
それを一つずつ見分けていく。
那古野の夜は、火と鉄の匂いの中で更けていった。
第23話─了




