第22話 鉄を食う影
鉄は、炭より重い。
ただ重いだけではない。炭は燃えて消えるが、鉄は槍になり、鎧の継ぎになり、馬具になり、火縄筒の口にも関わる。鍛冶場へ入る鉄の流れを押さえられれば、那古野の戦支度そのものが痩せる。
だからこそ、餌にするには危うかった。
与吉は、鍛冶場の隅に並べた鉄の端材を見下ろしながら、渋い顔をしていた。
「若様も、思い切ったことをなさる」
龍之介はその横に立っていた。
「惜しいですか」
「惜しくない鉄などありません。曲がったものでも、欠けたものでも、叩き直せば何かになる。だが、何もかも抱えていては、敵の手は見えぬのでしょう」
与吉はそう言って、端材の中から数本を選び出した。
「これは餌にできます。質は悪くないが、失っても鍛冶場が止まるほどではない。逆に、見る者が見れば欲しくなる」
「よすぎず、悪すぎず」
「そうです。悪すぎれば食いつかぬ。よすぎれば、こちらが本気で痛む」
与吉は鉄を束ね、縄をかけた。
その縄のかけ方にも、仕掛けがある。荷を知る者なら、那古野の荷縄とは少し違うと気づく。だが、遠目には普通の鉄荷に見える。
彦右衛門が横から手を出し、縄を一本だけずらした。
「これで、灰小屋を通った荷に見える。白土を擦るなら底だけではなく、縄の結び目にも少しだ」
与吉は目を細めた。
「荷守りの目は細かいな」
「昔、荷を奪う者は、荷そのものより縄を見ると教えられました」
「奪う者に教わったのですか」
「奪われぬためにだ」
彦右衛門が淡々と返すと、藤吉郎が感心したように頷いた。
「縄にも顔があるのですね」
「飯にも顔があると言うお前なら分かるだろう」
「飯の顔は分かります」
「そこは威張るところではない」
新五が短く言うと、藤吉郎は口を閉じた。だが、目は荷縄と鉄の束を行ったり来たりしている。
信長は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
若い顔に、楽しげな色がある。けれど、遊んでいる目ではない。
「鉄を食う影は、炭を食う影より深く噛む」
信長が言った。
「鉄に食いつく者は、鍛冶場の腹を見ている。炭だけなら火を止める。鉄なら、武具を止める。そこまで考える者が、清洲の門前にいる」
平手様が静かに口を開いた。
「若。坂井大膳の名を軽くお出しになりませぬよう」
「分かっておる。大膳の名は、見えすぎる」
「ならば」
「見えすぎるものの裏を見る」
信長は龍之介へ視線を向けた。
「龍之介」
「はい」
「前回は炭を見た。今度は鉄だ。相手は、鉄を奪うか、止めるか、値を釣るか、あるいは誰かに見せるか。どれを選ぶと思う」
龍之介は鉄の束を見た。
奪えば分かりやすい。止めれば荷が詰まる。値を釣れば商人の顔になる。誰かに見せれば、背後の武家へ話が行く。
清洲の門前には商人宿があるはずだ。そこから清洲城へ出入りする者がいる。守護・斯波義統の名を背にした者、守護代・織田信友に近い者、そして坂井大膳のような実務を握る者たちの手先。誰が直接動くかは、まだ分からない。
「鉄そのものは、すぐ奪わないと思います」
「なぜ」
「鉄は重く、扱いが目立ちます。奪えば騒ぎになります。それより、まず止める。値をつける。あるいは荷主を確かめる。その場に、清洲へ通じる者が顔を出すはずです」
信長は頷いた。
「では、止めさせる」
「はい。通させるのではなく、止めさせます」
「よい」
信長は鉄の束を指した。
「この荷は、灰小屋へ向かう途中で行き先が揺れる。灰小屋へ入れるか、清洲門前へ回すか。相手が決めたくなるようにしておけ」
藤吉郎が首を傾げる。
「荷が迷子になるのですか」
「迷子に見せる」
信長が答える。
「迷子の荷を助ける顔をして、誰が手を出すかを見る」
藤吉郎は目を輝かせた。
「迷子の握り飯なら、私が助けます」
「食うだけだろう」
「無駄にはしません」
又左が笑い、与吉まで少し口元を緩めた。
だが、龍之介の胸は軽くならなかった。
鉄を餌にする。
それは、相手の欲を釣るだけではない。相手の刃も釣るということだ。
信長は、それを分かっている。
「又左」
「はっ」
「今日は行け。ただし、槍を振るう前に一度待て」
「一度でよろしいのですか」
「二度待てるなら二度でもよい」
「……一度は必ず」
「それでよい」
信長は源太と孫七にも目を向けた。
「孫七。筒は持つ。火は入れぬ。源太、お前は孫七の前を空けすぎるな。守るために離れすぎれば、守りではない」
「はい」
二人の返事は揃っていた。
昨日より、少しだけ声が強い。
鉄荷は、炭俵に紛れさせて出された。
表向きは、鍛冶場から灰小屋へ回す直し鉄である。量は多くない。だが、見る者が見れば使える鉄だと分かる。荷を引く茂助の顔には緊張があったが、昨日の灰小屋で一度怖さを知ったせいか、足取りは逆に落ち着いていた。
道は前回と同じではない。
同じ道を通れば、こちらの意図が読まれる。灰小屋へ向かう途中で一度小さな市へ入り、そこから寺裏ではなく、清洲門前へつながる古い荷道へ寄せる。彦右衛門が選んだ道だった。
「この道は、昔はよく使われました」
彦右衛門が歩きながら言う。
「今は表の道へ荷が寄り、こちらは少し寂れています。だが、清洲へ入る手前で荷を休ませるには都合がいい」
「人目は少ないのですか」
龍之介が問うと、彦右衛門は首を横に振った。
「少なくはない。ただ、見ている者の顔ぶれが違います。表の商人ではなく、裏の荷持ち、寺の使い、城へ入れぬ小者たち。そういう者が多い」
新五が低く言った。
「手先を置くには向いている」
「そうだ」
藤吉郎は、道端の石を見ながら歩いている。
「この辺、飯屋は少ないですね」
「飯から離れろ」
「人の流れを見ています」
「なら、そう言え」
藤吉郎は少し肩をすくめた。
「でも、飯屋が少ないと長く待てません。荷を止めるなら、近くに水か飯が要ります」
龍之介は足を止めかけた。
なるほど。
人が待つには、食うものか飲むものがいる。荷だけを見ていては、人の待ち場を見落とす。
「藤吉郎。近くに水場は」
「古い井戸があると聞きました。薪拾いの小僧が言っていました」
新五が目を細める。
「いつ聞いた」
「昨日です」
「報告しろ」
「今しました」
「遅い」
「すみません」
叱られながらも、藤吉郎の目はすでに井戸の方角を探していた。
龍之介は、その小さな背を見て思った。
藤吉郎は軽い。けれど、軽いからこそ見えるものがある。飯と水と道。戦場の地図には出ないものを、この少年は拾う。
やがて道の脇に、古い井戸が見えた。
井戸のそばには、荷を下ろした跡がある。草が倒れ、土が踏み固められ、炭粉ではなく鉄の錆に似た赤茶の粉がわずかに落ちていた。
彦右衛門が膝をつく。
「鉄荷がここで休んでいる」
龍之介は井戸の縁に触れた。
水は使われている。古いが、枯れてはいない。
つまり、この場所はまだ生きている。
清洲へ入る前の、裏の待ち場。
「ここで止められる可能性が高いです」
龍之介が言うと、新五も頷いた。
「荷を休める名目なら不自然ではない」
又左が周囲を見た。
「敵はどこから来る」
「敵とは限りませぬ」
「では、手先は」
「井戸を使う顔で来るはずです」
龍之介が答えた時、藤吉郎が小さく手を上げた。
「来ます」
全員の視線が動いた。
道の向こうから、桶を二つ担いだ男が歩いてくる。水汲みの格好だ。だが、桶の揺れが軽い。空に近い桶を、重いように担いでいる。
水を汲みに来た顔ではない。
男は茂助の荷を見て、足をわずかに緩めた。
「鉄か」
何気ない声だった。
茂助は、決めていた通りに答える。
「直し鉄だ。灰小屋へ回す」
「灰小屋へ鉄?」
「そう聞いている」
男は首を傾げる。
「灰小屋へ行くなら、この先ではない。道を間違えている」
来た。
龍之介は呼吸を整えた。
迷子の荷を助ける顔。
男は桶を置き、茂助へ近づく。
「清洲門前の鍛冶宿へ回す荷ではないのか。その札なら、そちらだろう」
札。
まだ見せていないのに、男は札の話をした。
新五の目が鋭くなる。
龍之介は声を出さない。
茂助はあえて困った顔をした。
「俺は荷を預かっただけだ。札なら横にある」
男は札へ手を伸ばす。
その手つきは、水汲みではない。
荷札を扱い慣れている。
男は札を見て、一瞬だけ眉を寄せた。やはり違和感には気づいたらしい。だが、すぐに表情を戻す。
「やはり、鍛冶宿へ回す荷だ。ここで待て。案内を呼ぶ」
男はそう言い、井戸の向こうへ歩き出そうとした。
新五が小さく呟く。
「泳がせるか」
「はい」
龍之介は頷いた。
だが、その時、道の反対側で動きがあった。
別の男が二人、荷の後ろへ回ろうとしている。狙いは鉄荷ではない。茂助と孫七の間を切る動きだ。
昨日の灰小屋で見た動きと似ている。
荷を調べる者。
人を押さえる者。
役が分かれている。
「源太」
龍之介が低く呼ぶ。
「はい」
「孫七の前。半歩だけ」
源太はすぐに動いた。
前へ出すぎず、孫七の下がる道を残しながら、後ろへ回ろうとした男の進路を塞ぐ。
又左は、槍を握ったまま待っている。
一度待つ。
信長に言われたことを守っている。
男の一人が舌打ちした。
その瞬間、桶を持っていた男が走った。
案内を呼ぶのではない。
逃げる。
龍之介の中で、呂布の武が跳ねた。
追えば、捕まえられる。
だが、男は逃げ道へ誘っているかもしれない。
それでも、ここで逃がせば井戸の待ち場が消える。
龍之介は一歩踏み出した。
新五が叫ぶ。
「龍之介!」
「追います。ただし、斬りませぬ!」
言い終える前に、身体は動いていた。
速い。
速すぎる。
桶の男が振り返った時、龍之介はすでに三歩後ろにいた。男の顔が恐怖に歪む。懐へ手が伸びる。小刀か、札か、毒か。
龍之介は腕を取った。
折るな。
殺すな。
だが、止めろ。
手首ではなく、肘の上を押さえ、膝裏へ足を入れて重心を抜く。男の身体が崩れ、地面へ落ちる寸前で襟を掴んで頭を打たせないようにした。
その動きに、男自身が一番驚いていた。
「動くな」
龍之介の声は低かった。
「動けば、次は止められぬ」
男は震えた。
遠くで又左の声が響く。
「こっちも止めた!」
見ると、又左は二人の男を槍の石突きで牽制し、源太が孫七を守っている。孫七は筒を抱え、顔を青くしながらも足を踏ん張っていた。
藤吉郎は、転がった桶を拾っていた。
いや、桶そのものではない。桶の底を見ている。
「龍之介殿!」
「何だ!」
「桶の底に印があります!」
龍之介は押さえた男を新五へ渡し、桶を見た。
底の外側に、薄く焼き印がある。
坂の字ではない。
丸の中に、三本の線。
荷札の炭印とも違う。
彦右衛門が顔をしかめた。
「清洲門前の鍛冶宿で使う印だ。鉄を一時預かる時に見る」
新五が桶の男の顔を見た。
「水汲みではなく、鍛冶宿の使いか」
男は黙る。
龍之介は、桶の印を見つめた。
つながった。
炭は灰小屋。
鉄は清洲門前の鍛冶宿。
相手は、荷によって中継先を変えている。
清洲城中へ直接入れる前に、門前の宿や小屋で洗う。そこで札を替え、荷を分け、誰の荷か分からなくする。
「新五殿」
「分かっている」
新五は男を縛らせず、まず周囲を見た。
人の目が集まり始めている。
ここで全員を捕らえれば、清洲門前の鍛冶宿まで話が届く。それでも、桶の印は十分な手がかりだった。
又左が近づいてきた。
「どうする」
龍之介は息を整えた。
走ったせいではない。
武がまだ熱を持っている。
「桶の男だけ連れます。後ろへ回った二人は、名と顔を取って逃がします」
「また逃がすのか」
「逃げれば、鍛冶宿へ戻るかもしれませぬ」
又左は歯を噛んだが、やがて頷いた。
「分かった」
その言葉は、以前より早かった。
又左も、少しずつ待つことを覚えている。
那古野へ戻る途中、孫七がぽつりと言った。
「私は、今日も撃てませんでした」
源太がすぐに返す。
「撃つ日ではなかった」
「でも、筒を持っているだけで、狙われます」
「だから俺が前にいる」
源太の声は、昨日より落ち着いていた。
孫七は黙り、それから小さく頷いた。
「はい」
龍之介は、その会話を背中で聞いた。
筒は鳴っていない。
だが、役は育っている。
鳴らない筒を守る意味。撃たずに場を動かす意味。相手に筒を意識させる意味。
それは、戦場で音が鳴る前の戦だった。
那古野へ着くと、信長はすぐに桶の印を見た。
彦右衛門が説明する。
「清洲門前の鍛冶宿で使う印です。城中の印ではありませんが、清洲へ入る鉄荷は一度あそこへ寄ることが多い」
信長の目が鋭くなった。
「名は」
「橘屋。表向きは鍛冶道具と鉄荷を扱う商人宿です」
平手様が顔を曇らせる。
「橘屋は、清洲の守護代家にも出入りがあるはずです」
守護代家。
織田信友の側。
そして、その実務を握る坂井大膳。
信長は笑った。
「ようやく門前まで来たな」
龍之介は頭を下げる。
「ただし、城中へつながる証はまだありませぬ」
「門前まで来れば、次は門を見る」
信長は桶の焼き印を指でなぞった。
「炭は灰小屋。鉄は橘屋。どちらも清洲の門前で止まる。ならば、門前を押さえれば、城へ入る手が見える」
新五が静かに言った。
「若。ここから先は、清洲に近すぎます」
「分かっておる」
「向こうも、こちらが見ていると気づきます」
「気づかせる」
信長の言葉に、部屋が静まった。
「向こうがこちらを見ていることは、もう分かっている。ならば、こちらも門前を見ていると知らせる。だが、どこまで見ているかは知らせぬ」
龍之介は、信長の横顔を見た。
危うい。
しかし、強い。
受け身で影を追う段階から、相手へ圧を返す段階へ移ろうとしている。
信長は又左へ目を向けた。
「又左。よく待った」
又左は驚いたように顔を上げた。
「はっ」
「一度は待てたな」
「一度だけでございます」
「一度待てれば、次は二度待てる」
又左は少し照れくさそうに頭を下げた。
信長は源太と孫七にも言う。
「源太、位置が良かった。孫七、逃げなかった。それでよい」
二人の顔に、緊張と誇りが混じった。
信長は最後に龍之介を見る。
「お前は、追ったな」
「申し訳ございませぬ」
「責めてはおらぬ。必要だった」
信長は、少しだけ目を細めた。
「だが、速すぎる。見る者が見れば、人ではないと思うぞ」
龍之介の背筋が冷えた。
「心得ます」
「隠しすぎても使えぬ。見せすぎても化け物になる。難しいな」
「はい」
「なら、難しいまま使う」
信長は笑った。
そして、桶の焼き印へ視線を戻す。
「次は橘屋だ。清洲の門前に、こちらの目を置く」
その一言で、那古野の空気が一段変わった。
灰小屋ではない。
渡し場でもない。
清洲の門前。
いよいよ、敵の城の息がかかる場所へ近づくのだ。
夜、龍之介は庭で息を整えていた。
走った時の身体の軽さが、まだ残っている。
あのまま力を抜かなければ、桶の男の腕は折れていた。頭も地面へ叩きつけていたかもしれない。止められたのは成長なのか、それともただ運が良かったのか。
答えは出ない。
藤吉郎は桶の焼き印を地面に描いている。新五がそれを見て、線の角度を直す。彦右衛門は、橘屋の位置を思い出しながら、地面に清洲門前の道を書いていた。
源太と孫七は、又左の前で立ち位置を復習している。
与吉は鉄荷の残りを見分け、平手様は信長の言葉を家中にどう通すか考えている。
那古野の中で、すべてが清洲へ向かい始めていた。
龍之介は手を開いた。
今日は追った。
だが、斬らなかった。
次は、追うだけでは済まないかもしれない。
清洲門前の橘屋。
そこには、商人の顔をした者もいれば、武家の手先もいるだろう。守護代家の影、坂井大膳の名、そして名を隠して動く別の者もいるかもしれない。
橋はまだ遠い。
だが、道は見え始めた。
炭の道。
鉄の道。
人の道。
その道の先に、清洲がある。
龍之介は、夜の空を見上げた。
まだ斬る時ではない。
だが、刃を抜く日は近づいている。
その日までに、武を御し、知を冷たくしすぎず、人を見失わぬようにしなければならない。
鍛冶場の火が、低く赤く揺れていた。
第22話─了




