第21話 灰小屋の荷印
灰小屋へ流す炭は、良い炭ばかりではなかった。
良い炭を少し、湿った炭を多く。さらに俵の底には、与吉がわざと薄く白土を擦りつけた。寺裏の蔵でついたように見せるためである。
荷札は、藤吉郎が覚えてきた木札の印をもとに作った。ただし、まったく同じにはしない。見慣れた者なら違和感に気づくかもしれないが、荷を流すだけの者なら通してしまう。そのくらいの半端な偽物だった。
信長は、その荷札を指先でつまみながら言った。
「出来が良すぎる偽物は、作った者の顔が出る。少し雑なくらいでよい」
藤吉郎は、少し不満そうに唇を尖らせた。
「私、かなり覚えておりましたのに」
「覚えているから、崩せと言っておる」
「難しいですね」
「難しいから使う」
信長は笑ったが、目は荷札から離していなかった。
庭には、新五、龍之介、藤吉郎、又左、源太、孫七、そして川辺彦右衛門がいた。昨日まで皆がただ彦右衛門と呼んでいた古参の槍足軽である。川筋や渡し場に詳しいことから、信長は荷守りの目として使うと決めた。
川辺彦右衛門は、荷縄を見て低く唸った。
「この縄のかけ方では、荷を知る者なら少し怪しみます」
「わざとだ」
信長が言う。
「本物に見えすぎれば、奥まで通るかもしれぬ。今回は奥へ入れるより、誰が違和感を拾うかを見る」
龍之介は、その言葉に頷いた。
相手の道へ荷を流す。
ただ通ればよいのではない。誰が見て、誰が止め、誰が直し、誰が次へ回すか。その反応こそが欲しい。
清洲の城そのものを叩くには早い。だが、清洲へ入る前の灰小屋なら、影の手が触れるかもしれない。
「若様」
龍之介は一歩進み出た。
「この荷が途中で捨てられる可能性もあります」
「捨てられたら、そこが相手の怖がった場所だ」
「はい」
「奪われたら、奪われた先を見る。通されたら、通された先を見る。止められたら、止めた者を見る」
信長は荷札を藤吉郎へ投げた。
藤吉郎は慌てて受け取る。
「小僧。お前は札の形を覚えろ。だが、見せびらかすな」
「はい」
「新五。全体を見る。又左は今日は前へ出すぎるな」
又左は不満を顔に出したが、昨日から何度も言われているせいか、すぐに頭を下げた。
「承知しました」
「孫七は筒を持つが、火は入れぬ。源太はその前。彦右衛門は荷を見る。龍之介は道を見る」
信長は最後に全員を見回した。
「誰も手柄を急ぐな。今日は勝つ日ではない。相手がどう負けたがっているかを見る日だ」
妙な言い方だった。
だが、龍之介には分かった。
罠は、仕掛ける者の欲を映す。
相手が何を隠したいのか。何を守りたいのか。何を捨ててもよいと思っているのか。それを見ろということだ。
龍之介は深く頭を下げた。
「承知しました」
荷は、昼前に渡し場を出た。
表向きは、湿った炭を灰小屋へ回すだけの荷である。荷を引くのは、那古野の息のかかった荷運びではなく、彦右衛門が昔から知る中年の馬方だった。名は茂助。口数は少ないが、荷の扱いは確かだという。
龍之介たちは、荷から少し離れて歩いた。
近すぎれば護衛に見える。遠すぎれば何かあった時に間に合わない。彦右衛門が荷の前後に人を散らし、新五が道の脇を見る。藤吉郎は小僧らしく、時に走り、時に草の陰へ消え、気づけば別の場所から顔を出した。
又左は、歩くたびに槍を持つ手が前へ出そうになる。
「又左殿」
龍之介が声をかけると、又左は渋い顔で答えた。
「分かっておる。前へ出ぬ」
「言う前に出そうでした」
「体が覚えておらぬだけだ」
「これから覚えればよろしいかと」
又左は鼻を鳴らしたが、言い返さなかった。
源太は孫七の斜め前を歩いている。昨日より位置取りが良い。孫七は布に包んだ筒を抱え、汗を額に滲ませていたが、足は止めていない。
道が小さな市へ近づくと、人の目が増えた。
炭を扱う者、薪を売る者、塩を担ぐ者、寺へ用を持つ女、飯屋の煙。荷と人と匂いが混じる場所では、誰が誰を見ているのか分かりにくい。
だからこそ、こういう場所は使われる。
藤吉郎が戻ってきて、新五の横へついた。
「飯屋の横に、昨日と同じ炭売りがいます」
「顔は」
「同じです。ただ、今日は炭を売る顔ではありません。待つ顔です」
「何を待っている」
「荷です。多分、うちの荷を見ています」
新五は小さく頷き、龍之介へ視線を流した。
龍之介は荷を見る。
茂助は何も気づいていないふりで馬を進めている。川辺彦右衛門も、荷縄を気にする年寄りのように歩いていた。だが、その目は炭売りの手元を見ている。
炭売りは荷を見た。
見ただけで、すぐには動かない。
代わりに飯屋の小僧へ何かを言った。
飯屋の小僧が寺の方へ走る。
藤吉郎が、悔しそうに歯を噛んだ。
「あの役、私の方がうまいです」
「競うな」
新五が短く言った。
「しかし、あの小僧は寺へ行きます」
「分かっている」
龍之介は飯屋の小僧を追いたくなる衝動を抑えた。
追えば分かりやすい。
だが、荷を見ている者がこちらを見る。
今は、荷を動かす方を見る。
炭売りは、やがて荷の近くへ来た。
「この炭、灰小屋へか」
茂助が頷く。
「そう聞いている」
「札を見せろ」
「お前は誰だ」
「灰小屋の者に頼まれている」
炭売りは当然のように手を出した。
茂助は迷ったふりをした。
その間に、彦右衛門が近づく。
「札なら、荷の横だ」
炭売りは彦右衛門を一瞥した。
その目が、ほんのわずかに変わる。
荷の素人ではないと見たのだろう。
炭売りは札を手に取り、眉をひそめた。
気づいた。
龍之介はそう感じた。
偽物だと見抜いたのか。あるいは、雑なところを怪しんだのか。炭売りはすぐには声を出さず、札を茂助へ戻す。
「灰小屋へ持っていけ。だが、そこで待てと言われるかもしれん」
「待て?」
「炭の置き場が詰まっている」
炭売りはそう言って離れた。
龍之介は、新五と目を合わせた。
通された。
だが、灰小屋で止める。
そこに誰かが来る。
荷は、狙い通り灰小屋へ向かうことになった。
灰小屋は、市から少し外れた低地にあった。
木と土で組まれた粗い小屋で、周囲には灰を捨てた跡と炭粉が広がっている。近くに小川が流れているため、火を扱うには都合がいい。ただし、逃げ道も多い。
茂助は小屋の前で荷を下ろした。
灰小屋の男が出てきたが、荷札を見ると首を傾げるだけで、中へ入れようとはしない。
「少し待て」
「どれくらいだ」
「知らん。上の者に聞く」
上の者。
灰小屋に上も下もないはずだ。
龍之介は、少し離れた木の陰からそのやり取りを見ていた。
藤吉郎が小声で言う。
「来ますね」
「ああ」
「どこからでしょう」
「たぶん、寺ではない」
「なぜです」
「寺から来るなら、市で止めればよい。灰小屋で待たせるなら、灰小屋の近くに別の道がある」
彦右衛門が、低く指を差した。
「裏手の土手を越える道があります。古い道です。今はあまり使われませぬが、清洲の手前へ抜けられる」
新五が頷いた。
「なら、そこから来る」
又左が槍を握る。
龍之介はその手を見た。
「又左殿」
「分かっておる。前へ出ぬ」
「いざという時はお願いします」
「そこは任せろ」
又左の声には、苛立ちではなく役目の重みがあった。
昨日、渡し場で我慢したことが効いている。
しばらくして、土手の向こうから二人の男が現れた。
一人は商人風。
もう一人は供のようだが、足運びが違う。荷運びではない。武家の下働きか、あるいは手の者か。
商人風の男は灰小屋の前で荷札を受け取った。
見た瞬間、顔には出さなかった。
だが、親指が札の角を二度なぞった。
違和感を確かめている。
「この荷は、どこからだ」
男が問う。
茂助は、あらかじめ決められた通りに答えた。
「渡し場だ。昨日の炭が湿っていたから、こっちへ回せと言われた」
「誰に」
「炭売りの宗兵衛だ」
宗兵衛という名は、昨日の市で聞いた炭売りの名だった。
商人風の男は目を細める。
「宗兵衛が?」
「そうだ」
「そうか」
男は札を持ったまま、少し黙った。
その沈黙が長い。
龍之介は息を詰めた。
偽物だと分かったか。
だが、分かったとしても、ここで騒ぐとは限らない。相手もこちらを見ている可能性がある。互いに、相手がどこまで知っているかを測っている。
商人風の男は、やがて灰小屋の男へ言った。
「奥へ入れろ。ただし、上の段ではなく下だ」
上の段、下。
彦右衛門が小声で言う。
「炭を分ける場所だ。上は良い炭、下は悪い炭を置く」
つまり、相手はこの荷を悪い炭として扱うつもりだ。
偽物だと気づいたのか。
それとも、本当に湿った炭だと見たのか。
藤吉郎が小さく言った。
「札は戻していません」
龍之介は目を細めた。
商人風の男は、荷札を懐に入れている。
通したが、札は取った。
なら、疑っている。
「荷を入れた後、誰かが札を見に戻るかもしれませぬ」
龍之介が言うと、新五が頷いた。
「このまま灰小屋を見る」
しかし、その直後だった。
土手の上で、鳥が一斉に飛んだ。
自然な飛び方ではない。
誰かが動いた。
源太が孫七の前に入る。
又左が低く槍を構えた。
灰小屋の裏から、別の男が二人出てきた。手には短い棒。狙いは荷ではない。
茂助だ。
口封じか、荷運びを捕らえて吐かせるつもりか。
龍之介の腹の奥で、熱が跳ねた。
今度は見るだけでは済まない。
「又左殿!」
「応!」
又左が飛び出した。
速い。
だが、龍之介も動いていた。
棒を持つ男の一人が茂助へ伸ばした腕を、龍之介は横から払った。折らない。だが、止める。男の手首を打たず、棒の根元を押さえて力を流す。
男が体勢を崩す。
源太が孫七の前から半歩出て、もう一人の男の進路を塞いだ。
前へ出すぎない。
孫七の下がる道を残している。
「止まれ!」
源太の声が響いた。
孫七は筒を抱えたまま動かない。顔は青いが、足は逃げていない。
又左は商人風の男へ向かったが、新五が叫んだ。
「又左殿、商人は殺すな!」
「分かっている!」
又左は槍の石突きで男の足元を払った。
商人風の男が転ぶ。
供の男は逃げようとした。
藤吉郎が薪束を転がす。
供の男はそれを飛び越えたが、その先に川辺彦右衛門がいた。
古参の槍が、静かに喉元へ向けられる。
「そこまでだ」
供の男は止まった。
灰小屋の周囲が騒然となる。市の者たちが遠巻きに見ている。寺の方からも人が顔を出していた。
ここで荒らしすぎれば、また道が消える。
龍之介は、押さえた男を地に叩きつけず、膝をつかせるだけに留めた。
「茂助殿、下がってください」
茂助は青い顔で頷いた。
新五が素早く商人風の男の懐を探る。
荷札がある。
それだけではない。
別の木札が二つ。
片方には、同じ炭の印。もう片方には、小さく「坂」の字に似た傷があった。
新五の顔がわずかに変わる。
龍之介も見た。
坂。
坂井大膳の坂か。
あまりにも分かりやすい。
分かりやすすぎる。
「それは、見せ札かもしれませぬ」
龍之介が言うと、新五も頷いた。
「だろうな」
又左が低く言う。
「では、罠か」
「罠でも、持っていたのは事実です」
新五は木札を手拭いに包んだ。
藤吉郎が近づき、じっと見る。
「傷の形、覚えました」
「触るな」
「触っていません」
藤吉郎は少し胸を張った。
彦右衛門が商人風の男を見下ろした。
「お前、荷の者ではないな」
男は黙る。
「炭を知らぬ者の目ではない。だが、荷を守る者の足でもない。誰に教わった」
男は答えない。
その沈黙に、龍之介は見覚えがあった。
捕らえられることを想定した者の黙り方だ。
なら、ここで締め上げても出る名は用意された名だけだろう。
新五が言った。
「連れて帰る」
龍之介は頷いた。
「ただし、灰小屋の者全員を縛れば道が切れます。商人風の男と供だけでよろしいかと」
「棒を持った男は」
「顔と名を取って、灰小屋に残します。逃げるかどうかを見る」
又左が眉をひそめた。
「逃がすのか」
「逃げれば、逃げ道が見えます」
又左は不満そうに息を吐いたが、今度は食い下がらなかった。
少しずつ、又左も変わっている。
那古野へ戻る道で、孫七はずっと黙っていた。
源太が横から言う。
「怖かったか」
「怖かった」
「俺も怖かった」
孫七が驚いて源太を見る。
「源太殿も?」
「当たり前だ。棒を持った男が近づいてきた。筒に火は入っていない。撃てない筒を抱えたお前を守るのは、思ったより怖い」
孫七は少し俯いた。
「すみません」
「謝るな。俺の役だ」
源太はそう言って、少し照れたように前を向いた。
龍之介は、その会話を聞きながら歩いた。
役は、少しずつ体に入っている。
孫七は撃たない筒の重さを知り、源太は守る怖さを知った。又左は殺さず止めることを覚え、彦右衛門は古い目で荷の違いを拾った。藤吉郎は札を覚え、新五は証を包んだ。
そして龍之介自身も、腕を折らずに男を止めた。
それだけでも、前よりは進んでいる。
那古野へ着くと、信長は庭で待っていた。
報告を聞き、木札を見る。
坂の字に似た傷を見た時、信長は笑った。
「分かりやすいな」
平手様が眉を寄せる。
「坂井大膳を指しているように見えます」
「見えすぎる」
信長は木札を指で弾いた。
「大膳がここまで雑な札を持たせるか。持たせたとすれば、こちらに見せるためだ」
「では、別の者が坂井の名を被せたと?」
新五が問う。
「それもある。あるいは、大膳が自分の名を餌にしたかもしれぬ」
信長の声には、どこか楽しげな響きがあった。
龍之介は頭を下げる。
「灰小屋は中継点でした。炭はそこで分けられ、札を見た者が動きました。ただ、清洲城中へ直接つながる証はまだありませぬ」
「十分だ」
信長は言った。
「清洲の門の前に、手があると分かった。次は、その手が誰の袖に入るかを見る」
又左が問う。
「清洲へ入りますか」
「まだだ」
信長は即答した。
「今、門を叩けば、向こうは門を閉じる。門の外で、向こうが手を出さねばならぬ状況を作る」
「どうやって」
信長は龍之介を見た。
「龍之介」
「はい」
「こちらの荷が奪われそうになった。ならば、次は奪わせる荷を作る」
龍之介は、息を呑んだ。
「奪わせる、でございますか」
「そうだ。だが、炭ではない」
信長は木札を握った。
「相手は炭を通じて鍛冶場を詰まらせようとした。ならば、こちらは鍛冶場へ入る別の物を見せる」
与吉が顔を上げた。
「鉄、でございますか」
信長は頷いた。
「少しだけな。鉄を餌にする」
部屋の空気が変わった。
炭より重い。
鉄は、槍にも火縄筒にも関わる。
餌として流すには危うい。
だが、相手が食いつけば、清洲の手はさらに深く見える。
龍之介は、胸の奥で熱と冷たさが同時に広がるのを感じた。
受ける段階は終わりつつある。
今度はこちらから、相手の欲を突く。
信長は笑った。
「清洲の影が、炭で動くのは見た。鉄なら、もっと動く」
その声に、若い危うさと鋭さが混じっていた。
龍之介は頭を下げた。
「承知しました」
次は鉄。
清洲の門は、まだ遠い。
だが、門の外にいる手は、確かにこちらへ伸びてきている。
今度はこちらが、その手の指へ餌を置く。
夜、龍之介は鍛冶場のそばに立っていた。
与吉が鉄の端材を見分けている。餌にするには惜しく、しかし失っても痛すぎない量。その線引きが難しい。
藤吉郎は木札の印を地面に描いていた。
新五はそれを見て、余計な線を消す。
彦右衛門は荷縄を結び直し、源太と孫七は黙ってその手つきを見ている。
又左は、少し離れて槍を振っていた。
那古野の中で、役が動いている。
昨日よりも複雑に。
昨日よりも外へ向かって。
龍之介は、自分の掌を見た。
男の腕を取った感触が残っている。
折らずに止めた。
だが、次もできるとは限らない。
鉄を餌にすれば、相手はより強く動く。棒ではなく、刃が出るかもしれない。荷を奪うだけでなく、人を殺しに来るかもしれない。
その時、呂布の武は黙っていないだろう。
龍之介は息を整えた。
知で武を御する。
だが、御しすぎて必要な時に振るえなければ、仲間が死ぬ。
握りすぎるな。
緩めすぎるな。
その間を探す。
鍛冶場の火が、鉄の端を赤く染めていた。
炭の道は、灰小屋まで見えた。
次は鉄の道。
その先に、清洲の誰が手を伸ばすのか。
龍之介は清洲の方角を見た。
夜の向こうで、まだ見えぬ城が沈黙している。
その沈黙の手前で、戦はもう始まっていた。
第21話─了




