第18話 選ばれなかった者
筒持ちに選ばれる。
それは、名誉なのか。
危険なのか。
那古野の若い者たちの間で、その見方は割れ始めていた。
孫七は、最初の一人として火縄筒を触った。
飯も出た。
家の畑にも手が回った。
又左が槍で守ると言った。
若様が畑まで見に来た。
それを聞けば、羨む者が出る。
同時に、怖がる者も出る。
筒は鳴る。
鳴らぬ時もある。
火薬を扱う。
失敗すれば、敵より先に己の手を焼く。
龍之介は、朝の庭で孫七の構えを見ながら、その割れ目を感じていた。
孫七は、昨日より少しだけ筒に慣れている。
だが、まだぎこちない。
それでよい。
慣れすぎるよりいい。
与吉が横で言う。
「肩に力が入りすぎだ」
「はい」
「筒を抱え込むな。重さを腰へ落とせ」
「はい」
孫七は何度も頷く。
又左は斜め前で槍を構えていた。
槍の穂先が、孫七の射線を邪魔しない位置。
敵が来れば前へ出られる位置。
孫七が下がる道を残す位置。
それを何度も試している。
「俺はもっと前でよいのではないか」
又左が言うと、龍之介は首を振った。
「前へ出すぎると、孫七殿が撃てませぬ」
「だが、近ければ守れる」
「近すぎる守りは、逃げ道を塞ぎます」
又左は不満げに唸った。
「難しいな」
「はい」
「戦場でこんな細かいことを考えていられるか」
「だから、今考えます」
又左は黙った。
少しして、にやりと笑う。
「それはそうだ」
藤吉郎が後ろで聞いていた。
「又左様が考えている」
「おい」
「珍しいので」
「あとで走れ」
「最近、走る用が増えております」
新五が横から言った。
「口を減らせば減る」
「それは難しいです」
庭の空気が少し緩む。
だが、その緩みの外側に、硬い目があった。
若い足軽が一人、離れた場所から稽古を見ている。
名は源太。
腕は悪くない。
槍もそこそこ使える。
ただ、気が強く、目立ちたがるところがあった。
筒持ち候補には入らなかった。
理由は簡単だ。
怖がらなかったからだ。
火縄筒を前にしても笑い、撃てば敵が逃げると軽く言った。
龍之介は、それを危ういと思った。
与吉も同じだった。
だから、孫七が先に選ばれた。
源太は、それを納得していない顔だった。
昼前、門の近くで小さな騒ぎが起きた。
今度は百姓ではない。
城内の若い者たちだった。
源太が、別の足軽に詰め寄っている。
「孫七ばかり特別扱いか」
その声が、龍之介の耳に届いた。
新五がすぐに動いた。
藤吉郎も行きかけたが、新五に袖を掴まれる。
「お前は後ろ」
「見えません」
「見えすぎるから後ろだ」
藤吉郎は不満そうだったが従った。
龍之介も一歩遅れて近づく。
源太は龍之介を見ると、顔をさらに険しくした。
「龍之介様に嫌われれば、筒には触れぬそうですな」
直球だった。
周囲の若い者たちが息を呑む。
龍之介は、怒らなかった。
怒れば、また相手の思う壺だ。
「誰がそう言いました」
「皆、言っております」
「皆では分かりませぬ」
源太は唇を歪めた。
「俺は火を怖がらぬ。音にも驚かぬ。なのに、怖がっている孫七が選ばれた。おかしいでしょう」
龍之介は源太の目を見た。
怒り。
悔しさ。
恥。
そして、どこかで聞かされた言葉。
お前は嫌われた。
流れ者に外された。
孫七ばかり得をしている。
そういう小石を置かれた顔だった。
「源太殿」
「はい」
「筒を怖がらぬのは、良いこととは限りませぬ」
「臆病者がよいと?」
「臆病と慎重は違います」
源太は鼻で笑った。
「言葉遊びですな」
その瞬間、又左の声が飛んだ。
「言葉遊びではない」
又左が木槍を肩に担いで来た。
源太の顔が少し変わる。
又左は荒い。
だが、若い者たちにはよく効く。
「俺も最初は、筒の音など気にせぬと思っていた。だが、実際に鳴れば馬も人も止まる。怖がらぬ者は、味方が怖がることも見落とす」
源太は悔しそうに言った。
「それでも、私は役に立てます」
「なら、役を選べ」
又左が言う。
「筒を撃つ者だけが役ではない」
龍之介は、又左を見た。
今の言葉は大きい。
源太も少し戸惑った。
「どういう意味です」
龍之介が引き取った。
「筒持ちは一人では戦えませぬ。筒を運ぶ者、火縄を守る者、玉袋を間違えぬよう見る者、撃った後に下がる道を空ける者、前で槍を構える者。どれも要ります」
源太の目が揺れた。
今まで、筒を撃つ者だけが選ばれたように見えていたのだろう。
信長の声が後ろからした。
「面白いな」
一同が振り返る。
信長がいつの間にか来ていた。
平手様と権六もいる。
信長は源太へ目を向けた。
「お前は、筒を撃ちたいのか。それとも役に立ちたいのか」
源太は答えに詰まった。
すぐに「役に立ちたい」と言えば格好がつく。
だが、彼の顔には、目立ちたいという気持ちもはっきりある。
信長は待った。
源太はやがて、歯を食いしばって言った。
「撃ちたい気持ちもあります」
周囲が静まった。
源太は続けた。
「ですが、役に立ちたいです」
信長は笑った。
「よい。格好だけつける者よりましだ」
源太は目を見開いた。
信長は龍之介へ向く。
「龍之介。源太はどう使う」
また来た。
龍之介は、源太を見る。
怖がらない。
気が強い。
目立ちたがる。
だが、身体は動く。
槍も使える。
筒を持たせるには危うい。
しかし、筒持ちを守るには使えるかもしれない。
「源太殿は、筒持ちの前を守る槍に」
又左が眉を上げる。
「俺の下か」
「はい」
龍之介は頷いた。
「筒を撃つ者を守る槍です。ただ前へ出るだけではなく、筒の邪魔をせず、敵を近づけず、撃った後の下がる道を空ける。これは難しい役です」
源太は息を呑んだ。
信長が問う。
「源太。できるか」
「やります」
「撃つより目立たぬぞ」
「それでも、やります」
信長は又左を見た。
「又左。面倒を見ろ」
「はっ」
「ただし、前へ出すぎる癖まで教えるな」
「若、それは」
「お前の悪い癖だ」
周囲に小さな笑いが起きた。
源太の顔からも、少しだけ力が抜ける。
藤吉郎が小声で言った。
「撃つ者、守る者、運ぶ者。飯を持つ者も要りますね」
信長が即座に返す。
「お前は飯を食う者だろう」
「運ぶこともできます」
「食わずに運べるか」
藤吉郎は少し考えた。
「半分なら」
又左が笑った。
場の緊張がほどける。
しかし、龍之介は源太の顔を見続けていた。
不満は消えていない。
だが、向きが変わった。
外された者から、別の役を与えられた者へ。
これで完全ではない。
けれど、放置するよりはいい。
その日の午後、信長は小さな稽古組を作った。
名はまだない。
だが、中身は決まった。
孫七は筒を扱う。
源太は前の槍。
又左は槍の指導。
与吉は筒と火縄を見る。
藤吉郎は玉袋、火縄袋、飯と水の置き場を覚える。
新五は全体の出入りと、不満の声を拾う。
龍之介は、詰まりを見る。
平手様がそれを聞いて、深く息を吐いた。
「若。これは小さな組でございますな」
「そうだ」
「名をつければ、また欲しがる者が出ます」
「だから名はまだつけぬ」
信長は笑った。
「だが、形は作る」
権六が腕を組む。
「筒一つに、ずいぶん人をつけますな」
「筒だけを見れば多い。戦場で鳴らすことを見れば、少ない」
龍之介が答えると、権六は鼻を鳴らした。
「お前に聞いたのではない」
「申し訳ございませぬ」
「だが、外れてはおらぬ」
信長が笑う。
「権六も、少しずつ龍之介に甘くなってきたな」
「なっておりませぬ」
「そうか」
信長は楽しそうだった。
だが、すぐに表情を戻した。
「源太のような者は、また出る」
「はい」
龍之介は頷いた。
「選ばれなかった者は、必ず出ます」
「なら、最初から役を分ける」
「はい」
平手様が静かに言った。
「ただし、役を分けすぎると、今度は名と飯を欲しがる者が増えます」
「そこだな」
信長は腕を組んだ。
龍之介は慎重に言った。
「役には、重さもつけるべきです」
「重さ?」
「はい。筒を持つ者は飯が出る。ですが、その分、手順を誤れば責められる。槍で守る者も同じ。運ぶ者も同じ。ただ得をするのではなく、失敗すれば味方が死ぬ役だと伝えるべきです」
源太が少し顔を引き締めた。
孫七も頷く。
信長は満足げに言った。
「よい。得だけの役は腐る。責だけの役は逃げる。得と責を合わせろ」
平手様が小さく頷いた。
「家中に通す言葉としては、整えねばなりませぬが、筋はよろしいかと」
藤吉郎が小声で言った。
「飯と働き、ですね」
「お前は本当にそればかりだな」
新五が呆れる。
だが、信長は笑った。
「いや、分かりやすい。飯と働きだ」
龍之介も、思わず頷いた。
制度などと大げさに言わなくていい。
飯と働き。
この時代では、その方がよほど通る。
稽古は、最初からうまくはいかなかった。
孫七が筒を構える。
源太が前へ出る。
出すぎる。
「源太、前へ出すぎです」
龍之介が言う。
源太は振り返る。
「敵を止めるなら、前でしょう」
「孫七殿の筒が撃てませぬ」
「では、どこまで」
龍之介は地面に線を引いた。
「ここより前へ出るのは、孫七殿が撃った後です」
「撃つ前は」
「斜め前。敵が来れば踏み込めるが、筒の前を塞がぬ位置」
源太は唸った。
「槍の間合いが狭い」
又左が横から言った。
「我慢しろ。俺も我慢している」
「又左様もですか」
「そうだ。俺はもっと前へ出たい」
源太は少し笑った。
「なら、我慢します」
又左の言葉は効く。
龍之介はそう思った。
又左は、理屈を言うのは得意ではない。
だが、自分も同じ不満を持っていると示すことで、源太を納得させた。
藤吉郎は後ろで、玉袋と火縄袋を並べている。
しかし、途中で孫七に近づきすぎ、与吉に怒鳴られた。
「小僧、火薬の近くで走るな!」
「走っていません。早歩きです」
「同じだ!」
新五が藤吉郎の首根っこを掴んで下げる。
「お前は飯の時だけ速くしろ」
「それでは間に合わない時があります」
「火薬の前では遅くてよい」
藤吉郎は不満そうだったが、頷いた。
龍之介は、その様子を見ながら、全員が少しずつ役を覚えていくのを感じた。
まだ粗い。
孫七は遅い。
源太は前へ出すぎる。
藤吉郎は近づきすぎる。
又左は我慢を覚えている最中。
与吉は怒鳴りすぎる。
新五は静かすぎる。
だが、形はある。
戦場でいきなり合わせるより、はるかによい。
信長は、少し離れて見ていた。
楽しげだった。
だが、ただ楽しんでいる顔ではなかった。
この小さな組が増えたらどうなるか。
槍と筒が混じり、役と飯がつき、家と村の手当てが絡む。
そこまで見ている顔だった。
夕方、林平八が稽古を見に来た。
林佐渡守の目だ。
平八は、孫七や源太を見てから、龍之介へ言った。
「これは、足軽を特別扱いする形に見える」
龍之介は頭を下げた。
「そう見えます」
「認めるのか」
「はい。ですので、特別扱いではなく、特別な責を負わせる形にしたいのです」
平八は黙った。
龍之介は続けた。
「孫七殿は飯を得ますが、筒を鳴らせねば味方が死ぬ。源太殿は選ばれなかった不満を持っていましたが、前の槍として筒持ちを守る責を負う。藤吉郎は飯を得ますが、火薬の近くで走れば叱られる」
「最後のは軽いな」
平八が言うと、藤吉郎が振り返った。
「軽くありませぬ。叱られるのは腹に悪いです」
平八の口元がわずかに動いた。
龍之介は少し安心した。
林の目が完全に敵ではない。
少なくとも、見ようとしている。
「佐渡守様には、どう伝える」
平八が問う。
龍之介は少し考えた。
「筒持ちを増やす話ではなく、筒を戦場で孤立させぬ話、と」
平八は頷いた。
「悪くない」
その一言は短かったが、龍之介には大きかった。
林家筋へ通る言葉が、少しずつ見つかってきている。
新五が横に立つ。
「平八殿。佐渡守様へは、私からも伝えます」
「新五殿が?」
「若の側で見たこととして」
平八は新五を見た。
「承知しました」
龍之介は、新五の横顔を見る。
新五もまた、自分の立ち位置を使い始めている。
林の家と信長の間に立つことを、ただ重荷にするのではなく、道にしようとしている。
それは簡単ではない。
だが、必要なことだった。
その夜、清洲へはまた報せが走った。
筒に選ばれなかった若い者が、不満を漏らした。
だが、信長はそれを罰せず、前の槍として使った。
筒を撃つ者だけでなく、守る者、運ぶ者、火縄を見る者まで分け始めた。
飯と働き、得と責を合わせるらしい。
坂井大膳は、その報せを聞き、目を細めた。
「早いな」
織田信友が問う。
「また拾われたのか」
「拾われました。ただし、すべてではない。選んで拾っている」
「厄介か」
「厄介です」
大膳は静かに認めた。
「だが、役を増やせば、次は役の上下が生まれます。筒を撃つ者。前で守る者。玉を運ぶ者。火縄を守る者。誰が上か、誰が下か。そこに不満が出る」
「そこを突くか」
「いずれ」
大膳は小さく笑った。
「ただ、織田三郎の周りには、妙な者が増えておりますな」
「山本龍之介か」
「それだけではございませぬ。中村の小僧。林の新五。前田の又左。それぞれ役が違う」
信友は不快げに言った。
「若造どもではないか」
「若造どもが役を持ち始めると、古い者は面白くありませぬ」
大膳の声は、さらに低くなった。
「次は、そこです」
清洲の夜は、また一つ深くなった。
那古野の夜、龍之介は庭に座っていた。
稽古の後の土と汗の匂いが残っている。
孫七は帰った。
源太も帰った。
藤吉郎は飯を食べている。
又左はまだ槍を振っている。
新五は林平八と話している。
信長は、どこかで次の形を考えているのだろう。
龍之介は、自分の手を見た。
筒を撃つ者。
筒を守る者。
運ぶ者。
見る者。
聞く者。
役を分ければ、不満は減ると思った。
だが、本当は違う。
役を分ければ、新しい不満も生まれる。
選ばれた者。
選ばれなかった者。
前に立つ者。
後ろで支える者。
飯を得る者。
得られない者。
どこまで拾うか。
どこから拾わないか。
その線引きもまた、人を傷つける。
龍之介は息を吐いた。
現代で読んだ歴史の中では、兵農分離も鉄砲運用も、文字としては簡単だった。
だが、ここでは一人ずつ顔がある。
孫七の父。
源太の悔しさ。
藤吉郎の腹。
新五の家筋。
又左の前へ出たがる槍。
すべてを無視して仕組みだけ作れば、きっと早い。
だが、その先で人が折れる。
龍之介は、それをもう少しだけ分かり始めていた。
信長の声がした。
「考え込んでいるな」
龍之介は顔を上げた。
信長が庭へ出てきていた。
「若様」
「今日はよく動いた」
「皆が、です」
「そうだな」
信長は隣に立ち、稽古場の地面を見た。
足跡が残っている。
孫七の足。
源太の足。
又左の踏み込み。
藤吉郎の小さな足跡。
龍之介の足跡。
それぞれが違う深さで土に刻まれていた。
「龍之介」
「はい」
「この組は、増やせると思うか」
龍之介はすぐには答えなかった。
増やせる。
だが、増やせば不満も増える。
飯も要る。
鍛冶場も足りない。
村も揺れる。
清洲は必ず突く。
「増やせます。ですが、急げば割れます」
「どこが」
「人です」
信長は少し笑った。
「人か」
「はい。筒より、人が先に割れます」
信長は、しばらく黙った。
そして言った。
「なら、人が割れぬ速さで増やす」
「はい」
「だが、遅すぎれば敵に割られる」
「はい」
「面倒だな」
「はい」
信長は笑った。
「面倒な方が、勝てば大きい」
龍之介は、その横顔を見た。
若い。
危うい。
だが、前を見ている。
信長は続けた。
「明日、源太と孫七をもう一度合わせる。又左もだ。藤吉郎には火縄袋を覚えさせろ。新五には林の目を通せ。お前は、割れそうなところを見る」
「承知しました」
「それと」
信長の声が少し低くなる。
「清洲だけではない。古い者たちも見る。若い者に役がつくと、面白くない顔が出る」
龍之介は頷いた。
清洲の次手は、そこかもしれない。
若造どもが新しい役を得る。
古い者が軽んじられる。
そういう形にすれば、内が割れる。
「気をつけます」
「気をつけるだけでは足りぬ」
「では、見ます」
「見たら言え」
「はい」
信長は満足げに頷き、戻っていった。
龍之介は再び足跡を見た。
選ばれた者。
選ばれなかった者。
そのどちらも、道の上にいる。
拾う石と拾わぬ石。
それを間違えれば、足元から崩れる。
龍之介はゆっくり立ち上がった。
夜の那古野は静かだった。
だが、その静けさの下で、新しい戦の形が、まだ粗いまま息をし始めていた。
第18話─了




