第17話 拾う石、拾わぬ石
孫七が那古野へ来たのは、三日後の朝だった。
腰を痛めた父の代わりに村の弥平が畑へ入り、弟は水番を手伝うことになったという。
それだけ聞けば、形は整ったように見える。
だが、龍之介は孫七の顔を見た時、まだ安心はできないと思った。
孫七は緊張していた。
火縄筒が怖いだけではない。
村へ置いてきた家が気になっている顔だ。
信長は庭の端に立ち、孫七を見た。
「来たか」
「はっ」
「畑は」
「弥平殿が見てくれております」
「なら、今日は筒を見ろ。鳴らすかどうかは与吉が決める」
「はい」
孫七は深く頭を下げた。
与吉は火縄筒を布から出し、孫七の前へ置いた。
「まず触れ」
「はい」
「だが、雑に触るな。筒は槍より機嫌が悪い」
又左が横で鼻を鳴らした。
「槍にも機嫌はある」
「槍は黙っておる。筒は鳴らぬ時に、こちらを殺す」
与吉の言葉に、孫七の喉が動いた。
龍之介はそれを見ていた。
怖がっている。
だが、逃げてはいない。
信長も同じものを見ていたらしい。
「怖いか」
「怖うございます」
「よい」
信長は短く言った。
「怖いものを怖いと言えるなら、まだ使える」
孫七は筒へ手を伸ばした。
最初は指先だけ。
次に、両手で重さを確かめる。
火縄筒は、見た目以上に重い。
持つだけならできる。
だが、構え続けるには腕と腰が要る。
孫七の肩が少し沈んだ。
「重いです」
「当たり前だ」
与吉が言う。
「これを持って走るな。走れば転ぶ。転べば火縄が死ぬ。お前も死ぬ」
藤吉郎が後ろで小さく言った。
「走らない筒ですね」
「お前は走りすぎだ」
新五が低く返す。
藤吉郎は肩をすくめた。
「私は筒ではありませんので」
又左が笑った。
孫七の顔も、少しだけ緩んだ。
それでいい。
龍之介は思った。
恐怖を消す必要はない。
ただ、恐怖で手が固まりすぎぬように、息を通す。
信長は、その空気の変化を見ていた。
やがて言った。
「孫七。今日は火を入れぬ。構えと、置き方と、火縄を湿らせぬ持ち方だけを覚えろ」
「撃たぬのでございますか」
「撃つだけが稽古ではない」
孫七は、少し驚いた顔をした。
与吉が頷く。
「撃つ前に覚えることの方が多い」
龍之介も言った。
「戦場で一番怖いのは、撃つ前に慌てることです」
「撃つ前に」
「はい。火縄を落とす。玉を間違える。火薬を湿らせる。味方の前へ出る。そうなれば、鳴る筒も鳴りませぬ」
孫七は筒を見つめ、深く頷いた。
「覚えます」
その声は、まだ細い。
だが、昨日より芯があった。
稽古が始まってしばらくすると、門の方から騒ぎが起きた。
大きな声ではない。
だが、人が集まる気配がある。
新五がすぐに目を向けた。
藤吉郎は、もう半歩動いていた。
「待て」
新五が言うと、藤吉郎は足を止めた。
「まだ走っていません」
「走る顔だった」
「顔は先に走ります」
「口もだ」
信長は二人をちらりと見てから、龍之介へ言った。
「行け。だが、騒ぐな」
「はい」
龍之介、新五、藤吉郎が門へ向かった。
又左も来ようとしたが、信長に止められた。
「お前は孫七の前で槍を振れ」
「門の騒ぎは」
「お前が行けば、騒ぎが大きくなる」
「……承知しました」
又左は不満そうだったが、木槍を持ち直した。
門の前では、百姓の男が二人、門番と押し問答をしていた。
一人は弥平。
孫七の畑を手伝っている男だ。
もう一人は、龍之介が知らない顔だった。
痩せて、目がきつい。
名を勘助というらしい。
勘助は龍之介を見るなり、声を上げた。
「孫七の家ばかり助けるなら、うちも助けてくだされ」
門番が止める。
「声を落とせ」
「なぜ落とす。若様は孫七に飯を出し、畑に人まで回すと聞いた。なら、うちの畑も困っております」
藤吉郎が小声で言った。
「来ましたね」
「何がだ」
「飯の匂いを聞きつけた顔です」
龍之介は勘助を見た。
困っていないわけではない。
衣はくたびれ、手も荒れている。
だが、今この場へ来た理由は、純粋な困窮だけではなさそうだった。
背中を押された者の顔。
怒りを自分のものにしているが、火種は他所からもらった顔。
新五が前に出た。
「何に困っている」
勘助は少し詰まった。
怒鳴る相手として若や龍之介を想定していたのだろう。
新五の静かな問いに、勢いが少し削がれる。
「畑の人手です。うちも父が弱っております」
「誰が城へ取られた」
「取られてはおりませぬ」
「なら、孫七の家とは違う」
「困っているのは同じです」
勘助の声に、また力が戻る。
弥平が困った顔をしていた。
龍之介は弥平へ問うた。
「弥平殿。あなたも同じ考えですか」
弥平は慌てて首を振った。
「いえ。俺は、孫七の稽古の日取りを聞きに来ただけです。村の手をどう回すか、決めねばなりませぬので」
「なるほど」
龍之介は頷いた。
そして勘助へ向き直る。
「勘助殿。困っているなら、話は聞きます」
勘助の顔に勝ち気な色が浮かんだ。
「では」
「ただし、若様の筒稽古で人が抜けた家と、元々困っている家を同じにはできませぬ」
勘助の顔が固まった。
龍之介は続けた。
「孫七殿の家を支えるのは、若様の役で孫七殿が抜けるからです。すべての困りごとを、若様が拾うという話ではありませぬ」
「では、うちは見捨てると」
「見捨てるとは申しておりません。村の中で困りごととして上げる道を作ります。ただし、筒持ちの手当てとは別です」
勘助は口を開きかけた。
その時、藤吉郎がぽつりと言った。
「勘助殿、昨日、誰かにその話をしましたか」
勘助の目が揺れた。
「何のことだ」
「『孫七ばかり得をする』と、誰かに言われませんでしたか」
新五が藤吉郎を見る。
藤吉郎は声を落とした。
「この人、自分の言葉にしては言い方が整いすぎています」
勘助が赤くなる。
「小僧が何を」
「怒っている人は、もっと自分の話をします。でも勘助殿は、最初から孫七殿の話をしました」
龍之介は内心で舌を巻いた。
そこを見るのか。
藤吉郎は続ける。
「誰かに、孫七ばかり助けられていると聞かされたのでは?」
勘助は黙った。
沈黙が答えに近かった。
新五が静かに言う。
「名を言えとは言わぬ。だが、どこで聞いた」
勘助は歯を食いしばった。
「……炭を運ぶ男が、井戸のところで」
やはり炭だ。
龍之介は新五と目を合わせた。
清洲かどうかはまだ断じない。
だが、炭売りを通して不満が置かれている。
「勘助殿」
龍之介は言った。
「話を聞きます。ですが、門前で騒げば、あなたの困りごとは道具にされます」
「道具?」
「誰かが、あなたの不満を使って那古野を乱そうとしているかもしれませぬ」
勘助の顔が青ざめた。
龍之介は言葉を続ける。
「困っているなら、困っていると言ってよい。ですが、誰かの言葉をそのまま持ってくれば、あなた自身が損をします」
勘助は俯いた。
怒りがしぼんだ後に残ったのは、恥と不安だった。
新五が門番へ言う。
「二人を中へ。だが、広間ではない。蔵の脇の小部屋で聞く」
「承知しました」
藤吉郎が小声で龍之介へ言った。
「拾う石と、拾わぬ石ですか」
「そうだ」
「難しいですね」
「難しい」
「飯なら、落ちていれば拾いますが」
「それは拾え」
藤吉郎は真面目に頷いた。
信長は、報告を聞くと笑わなかった。
庭では孫七が筒の構えを覚えている。
又左が、筒の横で槍を構える位置を試していた。
与吉は、孫七の持ち方に何度も口を出している。
その横で、信長は新五、龍之介、藤吉郎の報告を聞いた。
「増えたな」
信長は短く言った。
「はい」
龍之介は頷く。
「孫七殿への手当てが、別の不満を呼びました」
「呼ばせた者がいる」
新五が言う。
「炭売りの筋から、村へ話が置かれております」
「清洲か」
又左が遠くから言いかけ、信長が睨む。
又左は口を閉じた。
信長は龍之介へ向いた。
「どうする」
「拾う基準を作ります」
「基準?」
「はい。若様の命で人が城へ出る。そのために家や村へ負担が出る。これは拾うべき石です」
信長は黙って聞く。
「ですが、元からある困りごとをすべて若様が拾うことはできませぬ。拾えば、次々と石を置かれます。拾わねば見捨てたと言われます。ですので、道を分けます」
「続けろ」
「筒持ち、槍稽古、荷運びなど、若様の役に関わる負担は、役の中で手当てする。村そのものの困りごとは、村の頭や代官筋を通して別に聞く。混ぜませぬ」
平手様が静かに頷いた。
「筋を分けるのは大事じゃ」
龍之介は続けた。
「そして、門前で騒げば得をする形にしないことです。騒げば聞く、となれば、騒ぎが増えます」
信長の目が光る。
「では、勘助は罰するか」
「いいえ。罰すれば、困りごとを言った者が罰されたと広がります」
「では」
「聞く場へ回します。門前で騒ぐのではなく、村の頭を通すか、決まった日に上げる。今後はその形を守らせます」
権六が腕を組む。
「面倒だな」
「はい」
「だが、門前で毎日騒がれるよりはましだ」
信長が言った。
そして藤吉郎を見る。
「藤吉郎」
「はい」
「お前は、勘助へ言ったな。言い方が整いすぎていると」
「言いました」
「よく見た」
藤吉郎の顔が明るくなる。
「ありがとうございます」
「だが、次からは先に新五へ言え。門前で相手を追い詰めすぎるな」
藤吉郎の顔が少し固まった。
「追い詰めましたか」
「少しな」
信長は言った。
「お前の目は使える。だが、使える目で相手を刺しすぎると、相手は逃げるか噛む」
藤吉郎は、珍しく素直に頭を下げた。
「覚えます」
龍之介は、そのやり取りを見ていた。
信長は藤吉郎も育てている。
ただの便利な小僧として使うのではない。
見える目の扱い方を教えている。
それは龍之介にも向けられているように感じた。
信長は孫七へ目を向けた。
「稽古は続ける」
孫七の肩がわずかに揺れた。
「はい」
「だが、勘助のような者も出る。お前は得をしていると言われる。耐えられるか」
孫七は唇を噛んだ。
すぐには答えない。
龍之介は、その沈黙を悪いものと思わなかった。
軽く「耐えます」と言うよりずっとよい。
やがて孫七は言った。
「言われるのは怖いです」
「うむ」
「ですが、筒を覚えたいです。畑のことを見てもらえるなら、逃げずに覚えます」
信長は頷いた。
「よい」
又左が木槍を肩に担いで言った。
「言われたら、俺に言え。黙って抱えるな」
孫七は驚いた顔をした。
「又左様に、でございますか」
「筒が鳴らねば、俺が困る。だから俺も聞く」
荒っぽいが、筋は通っている。
孫七は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
藤吉郎が小声で言った。
「又左様、畑は下手ですが、人の背中を押すのは上手ですね」
「聞こえておるぞ」
「聞こえるように言いました」
「お前、あとで走れ」
「またですか」
少し笑いが起きた。
その笑いの中で、孫七の顔が少しだけ軽くなる。
午後、蔵の脇の小部屋で、弥平と勘助の話を聞いた。
平手様が座り、新五が控え、龍之介は横にいた。
林平八もいる。
林の目が入っていることが、逆に場を落ち着かせていた。
若様と流れ者だけで決めているのではない。
そう見えるだけで、勘助の警戒は少し弱まる。
勘助の家が困っているのは事実だった。
父が弱っている。
畑も厳しい。
ただし、それは孫七の筒稽古とは別の問題だ。
平手様は静かに言った。
「勘助。困りごとは聞いた。だが、門前で騒ぐのは違う」
「申し訳ございませぬ」
「今後、村の困りごとは村の頭を通して上げよ。孫七のように、若の役で人が抜ける家とは分ける」
「はい」
弥平が頭を下げる。
「村の中でも話します」
林平八が口を開いた。
「こういう場を月に一度作ってはどうでしょう。村の困りごとをすべて拾うのではなく、若の役に関わるものと、そうでないものを分ける場として」
龍之介は平八を見た。
林の目が、ただ監視するだけではなくなっている。
平手様も頷いた。
「悪くない。若へ上げよう」
龍之介は内心で息を吐いた。
少しずつ、形になっている。
信長一人の思いつきではない。
龍之介一人の知恵でもない。
平手様が整え、林の目も入り、新五が聞き、藤吉郎が拾う。
そうなれば、清洲の噂は少し通りにくくなる。
だが、同時に重くなる。
場を作れば、人はそこへ持ち込む。
拾う石と拾わぬ石を分ける役が必要になる。
それは、また新しい火種でもあった。
夕暮れ前、孫七は初めて火縄筒を構えたまま、又左の槍と合わせた。
撃ちはしない。
火も入れない。
ただ、筒持ちがどこに立ち、槍の者がどこを守るかを試す。
孫七は筒を構える。
又左はその斜め前に立つ。
龍之介は横から見る。
「又左殿、少し前です」
「前か」
「はい。孫七殿が下がる道を残してください」
又左が一歩動く。
「こうか」
「はい。ただし、敵が来れば孫七殿の前へ出すぎて、筒の邪魔になります」
「難しいな」
「難しいです」
孫七が緊張した声で言った。
「私は、どこへ下がれば」
「後ろへまっすぐ下がらず、左へ半歩。右は又左殿の槍が動きます」
「左へ半歩」
孫七は小さく繰り返す。
藤吉郎が後ろで真似をした。
「左へ半歩」
新五が睨む。
「遊ぶな」
「覚えております」
信長は少し離れて見ていた。
顔は楽しげだが、目は真剣だった。
筒を鳴らす者。
槍を入れる者。
下がる道。
守る畑。
飯。
不満。
噂。
すべてが一つになり始めている。
まだ小さい。
たった一人の筒持ちと、又左の槍。
だが、ここに新しい戦の形がある。
信長が言った。
「龍之介」
「はい」
「これを増やすには、何が要る」
龍之介はすぐには答えなかった。
筒。
火縄。
玉。
与吉の手。
孫七の家の手当て。
村の理解。
槍の守り。
稽古の日。
飯。
そして、不満を拾う場。
「筒だけでは足りませぬ」
「うむ」
「筒を扱う者の家。槍の者との合わせ。鍛冶場の炭。村の手。困りごとを聞く場。それらが要ります」
信長は笑った。
「面倒だな」
「はい」
「だが、できれば強い」
「はい」
信長は、孫七と又左を見た。
「ならば、やる」
その声は静かだった。
派手な宣言ではない。
だが、龍之介には分かった。
信長の中で、何かが決まった。
一気にはやらない。
だが、やめない。
兵農を分ける芽は、畑の土と火縄筒の火の間で、細く伸び始めていた。
その夜、清洲へ向かう道に、また小さな報せが乗った。
勘助の不満は、那古野で聞かれた。
門前で騒いでも、すぐ得にはならなかった。
だが、困りごとを聞く場が作られるらしい。
孫七の筒稽古は続く。
村の手も回る。
筒持ちと槍の合わせが始まった。
報せを聞いた坂井大膳は、今度も笑わなかった。
「拾う石を選び始めたか」
織田信友が問う。
「厄介か」
「厄介です」
大膳は認めた。
「ですが、石を選ぶ者は、選ばれなかった石に恨まれます」
「そこを突く」
「いずれ」
大膳は、静かに目を細めた。
「まずは、那古野の内で『選ばれなかった者』を探します」
清洲の夜は、また静かに沈んだ。
だが、その静けさは、次の不満を探す耳で満ちていた。
那古野では、孫七が帰る前に握り飯を二つ受け取った。
一つは自分の分。
もう一つは弟への分だった。
藤吉郎がそれをじっと見ている。
「見てもやらぬぞ」
孫七が言うと、藤吉郎は真顔で答えた。
「見ているだけです。飯の持ち方で、家へ帰る足取りが分かります」
「分かるのか」
「少し嬉しそうです」
孫七は照れたように笑った。
「まあな」
龍之介は、その笑みを見て少し安堵した。
完璧ではない。
不満は残る。
清洲は次を探す。
だが、今日ひとつ、孫七の足は折れなかった。
それだけでも大きい。
又左が木槍を持って近づいてきた。
「龍之介。最後に一本」
「今日はもう十分では」
「孫七が半日筒を構えた。俺たちが休むわけにはいかん」
理屈が荒い。
だが、悪くない。
龍之介は木槍を取った。
夜の庭に、二人が向かい合う。
遠くで藤吉郎が、孫七の握り飯をまだ見ている。
新五がそれを注意している。
鍛冶場では与吉が炭を分ける。
蔵では縄が整えられている。
門では勘助と弥平の件が静かに記されている。
那古野は忙しい。
だが、ただ忙しいだけではない。
少しずつ、形になっている。
又左が踏み込んだ。
龍之介は受ける。
力を入れすぎず、抜きすぎず。
拾う石と、拾わぬ石。
止める力と、流す力。
人の不満と、戦の形。
その全部が、木槍の間合いにも似ている。
踏み込みすぎれば壊す。
下がりすぎれば押し込まれる。
ちょうどよい間を探す。
乾いた音が、那古野の夜に響いた。
龍之介は息を吐く。
まだ、形は粗い。
だが、確かに前へ進んでいた。
第17話─了




