第19話 渡し場の煙
選ばれた者と、選ばれなかった者。
その割れ目は、筒持ちの稽古だけで終わらなかった。
孫七が筒を触り、源太が前の槍に入り、藤吉郎が火縄袋と玉袋の置き場を覚える。又左が槍の間合いを教え、新五が不満の声を拾い、林の目もそこへ入る。そうして筒持ちの稽古が形になり始めた途端、那古野の中には別の声が生まれた。
「若い者ばかり、若様の目に入る」
「古くから槍を取っている者は、ただ見ておれというのか」
「流れ者の龍之介が来てから、妙な役ばかり増えた」
龍之介は、それを藤吉郎から聞いた。
場所は馬屋の脇だった。藤吉郎は干し草の束に腰を下ろし、握り飯を半分だけ食べ、残りを懐にしまっている。
「半分だけか」
「あとで耳が欲しくなるかもしれませんので」
「握り飯で買うのか」
「買うのではありません。分けるのです」
「同じでは」
「少し違います」
藤吉郎は真面目な顔で言ったが、すぐに声を落とした。
「古参の槍足軽たちが、荒れています」
「源太の件か」
「それもあります。でも、それだけではありません。若い者と小僧と流れ者が、若様の近くで何かを決めている、と」
龍之介は息を吐いた。
清洲が次に置くなら、そこだと思っていた。
役を持つ若者、筒持ち、前の槍、道の耳。新五、藤吉郎、龍之介。新しい動きが目立てば、古くからいる者たちは面白くない。誰かを軽んじたつもりがなくても、見える形がそうなら、不満は生まれる。
「誰が言っていた」
「彦右衛門殿です。古くから槍を持っている人です。悪い人ではありません。でも、声が大きくなっています」
「誰かに言わされているか」
「そこまでは分かりません。ただ、昨日、炭売りの代わりに来た男と話していました」
炭か。
龍之介の中で線がつながった。火縄筒を動かすには炭が要る。炭は鍛冶場へ入り、鍛冶場は槍も馬具も直す。そこへ不満を置けば、筒だけでなく新しい役そのものを嫌わせることができる。
「新五殿は」
「もう聞いています」
「早いな」
「新五様は、話す前にだいたい聞いています」
藤吉郎は少し悔しそうに言った。
「私も、もっと早くなりたいです」
「急ぎすぎるな」
「分かっています」
「本当にか」
「少しだけ」
正直だった。
龍之介は苦笑し、馬屋の外へ目を向けた。
那古野の中だけを見ていては遅い。不満は外から運ばれてくる。炭売り、塩売り、馬子、荷運び、渡し場。道を押さえられれば、城の中は自然に揺れる。
その時、新五が現れた。
「龍之介。若が呼んでいる」
「彦右衛門殿の件ですか」
「それもある。炭の荷が、またおかしい」
「鍛冶場ですか」
「いや。渡し場だ」
渡し場。
その言葉で、龍之介の意識が鋭くなった。
信長は庭にいた。
平手様、権六、又左、与吉、林平八もいる。少し離れたところには、年かさの槍足軽が一人控えていた。彦右衛門だ。
日焼けした顔と太い腕。若い者のような勢いはないが、足腰にはまだ強さが残っている。ただ、その目には不満があり、本人は隠しているつもりでも隠しきれていなかった。
信長は、龍之介を見るなり言った。
「炭の荷が渡し場で止まっている」
「止まっている?」
与吉が苦い顔で答えた。
「いつもの良い炭が来ませぬ。代わりに湿った炭が回ってきます。渡し場で荷が入れ替わっているか、途中で抜かれているかもしれませぬ」
「誰が見た」
龍之介が問うと、新五が答えた。
「藤吉郎の知り合いの薪拾いが、炭俵の数が合わぬと言った」
藤吉郎が胸を張りかけ、新五に目で止められる。
信長は彦右衛門へ目を向けた。
「彦右衛門」
「はっ」
「お前は、渡し場を知っているな」
「若い頃、何度も荷を守りました」
「なら、行け」
彦右衛門の顔がわずかに動いた。
信長は続ける。
「又左も行け。龍之介、新五、藤吉郎。孫七と源太も連れていく」
又左が目を輝かせた。
「筒もでございますか」
「鳴らすとは言っておらぬ。孫七には筒を運ばせる。源太には守らせる。実地で、荷と道を見る」
平手様が静かに言った。
「若。渡し場で筒を見せれば、噂になります」
「噂にする」
「若」
「ただし、鳴らす噂ではない。筒を守りながら荷を見る噂だ」
信長は彦右衛門へ向き直った。
「古くから槍を持つ者が、新しい筒を守る。そう見せる」
彦右衛門の目が揺れた。
信長は不満を知っている。その上で、役を与えた。若い者ばかりではない。古参も使う。ただ見張れという話でもない。新しい動きの外側を固めろ、という役だ。
彦右衛門は深く頭を下げた。
「承知しました」
声には、先ほどより力があった。
信長は龍之介へ視線を移す。
「龍之介」
「はい」
「渡し場は、橋より面倒だぞ」
「心得ます」
「橋は落ちれば終わりだ。渡し場は、人も荷も噂も渡る。そこで詰まれば、城の腹が詰まる」
龍之介は頭を下げた。
「見てまいります」
「見るだけで済まぬかもしれぬ。だが、騒ぐな。炭を押さえることより、誰が炭を動かしているかを見る」
「承知しました」
又左が木槍ではなく、実戦用の槍を手に取る。源太は緊張した顔で槍を持ち、孫七は布で包まれた火縄筒を見て喉を鳴らした。
初めての外での役。
鳴らすためではない。守り、運び、見せるための筒。それでも、孫七には重いはずだ。
龍之介は孫七へ声をかけた。
「今日は撃ちませぬ」
「はい」
「撃たぬ筒でも、守る意味はあります」
「はい」
孫七は深く息を吸い、頷いた。
渡し場は、那古野の外れから少し離れた川筋にあった。大きな川ではないが、炭や薪、米、塩、鉄といった荷を動かすには欠かせない場所である。人の背で運ぶもの、馬に積むもの、小舟に乗せるものがここで一度止まり、別の手へ渡っていく。
荷が止まる場所には、必ず目が集まる。
そして、手も伸びる。
渡し場に着くと、いくつかの炭俵が積まれていた。だが、与吉の言う良い炭の俵とは少し違う。縄のかけ方が荒く、俵の底には湿りがある。
龍之介は、すぐに藤吉郎へ目を向けた。
藤吉郎はもう別の場所を見ていた。
「俵の置き方が変です」
「どう変だ」
「重い俵を上に置いています。下の俵が潰れます。炭を大事に運ぶ人なら、あまりしません」
彦右衛門が低く言った。
「たしかに。炭を知らぬ置き方だ」
龍之介は彦右衛門を見る。
古参の槍足軽。
戦場だけではなく、荷守りの経験もある。こういう目が必要だった。
「助かります」
龍之介が頭を下げると、彦右衛門は少し戸惑った顔をした。
「礼を言われるほどでは」
「私は炭の置き方までは知りませぬ」
「……そうか」
その一言で、彦右衛門の表情が少し変わった。
知らぬことを知らぬと言う。
それは、古い者の顔を立てることにもなる。
又左は渡し場の男たちへ声をかけた。
「この炭は、どこから来た」
声が大きい。
渡し場の男たちが一瞬身構える。
新五が横から一歩出て、声を落とした。
「責めているのではない。鍛冶場で炭の具合が悪い。どこで湿ったかを見たい」
渡し場の年配の男が頭を下げた。
「我らは、受けた荷を渡しております。湿ったのは、こちらへ来る前かと」
「誰から受けた」
年配の男は迷った。
そこへ、若い荷運びが口を挟んだ。
「昨日は、いつもの炭売りではありませんでした。代わりだと。清洲の方でも見る顔だと誰かが……」
言いかけた瞬間、年配の男が鋭く睨んだ。若い荷運びは口を閉じる。
龍之介は、その動きを見た。
怯え。
渡し場にも、何かが置かれている。ただの荷の入れ替えではない。誰かが見ている。誰かが口を塞いでいる。
藤吉郎が小声で言った。
「龍之介殿。あの小舟」
川端に、小さな舟が一艘あった。空に見えるが、舟底には炭の黒い粉が残っている。
「炭を運んだ跡か」
「はい。でも、炭俵を積むには少し舟が軽いです。多分、少しだけ抜いた後です」
彦右衛門が舟を見て唸る。
「良い炭だけ、分けたか」
龍之介は頷いた。
「湿った炭を那古野へ。良い炭を別へ。そういう流れかもしれませぬ」
又左が槍を握りしめる。
「なら、誰かが持っていった」
「追うな」
新五が即座に言った。
又左は歯を食いしばる。
龍之介も同じ気持ちだった。だが、追えば、手が消える。渡し場全体を荒らせば、明日から荷が止まる。それでは、相手の狙い通りだ。
その時、川上の方から煙が上がった。
細く、黒い煙だった。
藤吉郎が叫ぶ。
「炭小屋の方です!」
渡し場の男たちがざわめき、又左が今度こそ走り出しかける。
龍之介は声を張った。
「又左殿、彦右衛門殿は渡し場を守ってください!」
「何だと」
「ここを空ければ、荷も筒も取られます!」
又左が足を止めた。
源太も動きかけている。
龍之介は源太へ向いた。
「源太殿、孫七殿を守れ。筒を渡し場の柱の陰へ!」
「承知!」
源太は反射的に答えた。
孫七は筒を抱え、柱の陰へ移る。火は入っていないが、筒は見せるだけで意味を持つ。渡し場の者たちが、それを見た。
若の筒持ちがいる。
その前に源太が立つ。
又左と彦右衛門が渡し場を固める。
新しい者と古い者が、同じ場を守っている。
龍之介は新五と目を合わせた。
「煙を見ます」
「俺も行く」
藤吉郎が前へ出る。
「私も」
「道を知っているか」
「知っています」
「では先へ。ただし、近づきすぎるな」
藤吉郎は頷き、小さな身体で走り出した。
龍之介と新五が続く。
炭小屋は、渡し場から少し上流にあった。
火は出ているが、大火ではない。炭俵に直接火をつけたというより、周りの乾いた草と藁に火を置いたような燃え方だった。
煙を出すため。
人を走らせるため。
渡し場を空けるため。
龍之介は、それを見た瞬間に理解した。
「囮です」
新五も頷く。
「渡し場を空けさせるためか」
「はい」
なら、又左たちを残したのは正解だ。
藤吉郎が小屋の横から顔を出した。
「人はおりません。足跡は二つ。川下へ戻っています」
「渡し場か」
「たぶん」
龍之介は火の広がりを見る。
消せる。
だが、急がねば炭俵に移る。
「藤吉郎、水桶を」
「あります!」
小屋の裏に桶があった。
新五が水を運び、龍之介が燃えた藁を棒で崩す。火を踏み消したい衝動があるが、炭粉と火の粉が舞えば危ない。
焦るな。
火も敵と同じだ。
広がる道を見ろ。
藤吉郎が水をかけ、新五が燃えていない藁をどかす。龍之介は火の筋を切り、煙が細くなったところでようやく息を吐いた。
「戻るぞ」
新五が言う。
三人は走った。
渡し場では、別の動きが起きていた。
龍之介たちが戻ると、又左が一人の男を地面に押さえつけている。源太が孫七の前に立ち、槍を構え、彦右衛門は渡し場の年配の男たちを下がらせて荷の前に立っていた。
孫七は筒を抱えたまま、顔を青くしている。
だが、逃げてはいない。
又左がこちらを見た。
「一人、荷へ手を伸ばした」
押さえられた男は、渡し場の下働きの格好をしている。だが、顔に見覚えはない。
藤吉郎が小さく言った。
「さっきはいませんでした」
新五が男の手元を見る。
小さな火打ち石。
油を含ませた布。
今度は、渡し場の炭へ火をつけるつもりだったのか。あるいは、騒ぎを大きくするつもりか。
龍之介は男を見る。男の目には捕らえられた恐怖があったが、それ以上に、失敗した恐怖が濃い。
「誰の差し金だ」
又左が低く問う。
男は黙る。
龍之介は又左へ言った。
「今はここで吐かせませぬ」
「なぜだ」
「渡し場の者たちが見ています。ここで締め上げれば、渡し場全体が怯えます」
又左は不満そうだったが、男を押さえたまま頷いた。
彦右衛門が言う。
「若いの。荷は無事だ」
「ありがとうございます」
龍之介は深く頭を下げた。
彦右衛門は、少し照れたように顔を背ける。
「礼はよい。役目だ」
その声には、先ほどまでの不満が薄れていた。
古い槍足軽が、新しい筒組と共に渡し場を守った。その事実が、彦右衛門自身の中でも何かを変えたのかもしれない。
孫七が震える声で言った。
「私は、撃てませんでした」
龍之介は首を振った。
「今日は撃たぬ役でした」
「でも、何も」
「筒を守って逃げなかった。それが今日の役です」
源太が横から言った。
「俺も前を守った。撃たずに済むなら、その方がいい」
孫七は源太を見た。
源太は少し照れくさそうに目を逸らす。
龍之介は、その二人を見て思った。
少しずつだ。
役は、言葉だけでは身につかない。こういう場で、初めて体に入る。
那古野へ戻ると、信長は報告を聞いて笑った。
ただし、楽しげな笑みではない。獲物の足跡を見つけたような笑みだった。
「渡し場か」
「はい」
龍之介は頭を下げる。
「炭の入れ替え、火の囮、渡し場の荷への手。すべて同じ手とは限りませぬが、狙いは渡し場を詰まらせることかと」
信長は頷いた。
「炭を詰まらせれば、鍛冶場が詰まる。鍛冶場が詰まれば、筒も槍も詰まる。渡し場は城の外の蔵だな」
「その通りにございます」
新五が続けた。
「捕らえた男は、まだ口を割っておりません」
「割らせるな。しばらく消えたことにする」
信長は即断した。
又左が少し不満げにする。
信長はそれを見て言った。
「怒鳴れば、一人の名は出る。だが、道は消える」
又左は頭を下げた。
「承知しました」
信長は彦右衛門へ向いた。
「彦右衛門」
「はっ」
「渡し場の守り、見事だった」
彦右衛門は、驚いたように顔を上げた。
「いえ、私は」
「古い者の目がなければ、炭の置き方も荷の流れも見えぬ。今後、渡し場の荷守りをお前に見てもらう」
彦右衛門の目が揺れた。
古い者が、新しい役を得た。
若い者ばかりではない。
それを周囲にも見せる形だった。
「承知しました」
彦右衛門の声は、しっかりしていた。
信長は次に孫七と源太を見た。
「孫七。撃たなかったのは正しい」
「はい」
「源太。前に出すぎなかったな」
「はい」
「二人とも、今日の飯は出す」
藤吉郎が反応した。
「若様、私は」
「お前も火を消した。出す」
藤吉郎の顔が明るくなる。
「ありがとうございます」
「ただし、走りすぎたかどうかは新五に聞く」
藤吉郎の顔が少し曇る。
新五は淡々と言った。
「走りすぎです」
「少しは」
「走りすぎです」
「はい」
場に笑いが起きた。
信長は、最後に龍之介へ向いた。
「これで分かったな」
「はい」
「敵は城だけにおらぬ。渡し場にもいる。炭にもいる。火にもいる」
「はい」
「なら、こちらも城の中だけを見るな。川筋、渡し場、荷の休む場所。そこを見る」
「承知しました」
信長は目を細めた。
「次は、こちらから一つ動かす」
部屋の空気が変わった。
平手様が静かに問う。
「清洲へ、でございますか」
「まだ清洲の門は叩かぬ」
信長は笑った。
「だが、清洲へ向かう足は見る。渡し場で炭を動かす手が、どこへ戻るか。それを追う」
龍之介は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
守るだけではない。
受けるだけでもない。
ついに、こちらから足を出す。
信長は言った。
「龍之介。次は、渡し場の先だ」
「はっ」
「清洲の影を、影のままにするな」
その声は静かだった。
だが、那古野の中にいた者たちは皆、次の段階へ入ったことを感じていた。
夜、龍之介は庭に立った。
渡し場の煙の匂いが、まだ鼻に残っている。
孫七は撃たなかった。
源太は前に出すぎなかった。
彦右衛門は古い目で荷を見た。
藤吉郎は火を見つけ、新五は騒ぎを抑えた。
又左は怒りを飲み込んだ。
それぞれが、役を果たした。
完璧ではない。だが、昨日より形になった。
清洲は足元へ石を置いてくる。不満を置き、炭を濡らし、火を置き、渡し場を詰まらせる。けれど、那古野も拾い方を覚え始めていた。
すべては拾えない。
拾うべき石を拾い、拾わぬ石を見極める。そして、石を置いた手を探す。
龍之介は手を開いた。
今日は槍を振っていない。
それでも、戦った気がした。
橋だけが殺し場ではない。
渡し場もまた、殺し場になり得る。
ならば、次はその先だ。
清洲へ戻る足。炭を奪った手。火を置いた者。それらを見なければならない。
信長の乱世は、もう内側の整えだけでは済まない。
外へ向かって動き始める。
龍之介は、清洲の方角を見た。
夜の向こうに、まだ見えぬ城がある。その城から伸びる影を、今度はこちらが踏みに行く。
そう思った時、胸の奥で呂布の武が熱を持った。
龍之介は息を整える。
まだ斬る時ではない。
まず見る。
道を見る。
足を見る。
荷を見る。
そして、必要な時だけ振るう。
那古野の夜に、鍛冶場の火が揺れていた。
第19話─了




