第14話 初鳴り
火縄筒を鳴らす日は、猪狩りという名目になった。
那古野の外れ、雑木と畑の境に近い場所で、近頃猪が出る。
畑を荒らされて困る。
だから、若様が筒の音で追い払う。
表向きは、それだけの話だった。
だが、集められた顔ぶれは狩りにしては物々しい。
信長。
権六。
平手様。
又左。
新五。
龍之介。
与吉。
そして、藤吉郎。
さらに林佐渡守から出された平八も、少し離れたところに立っている。
火縄筒は三挺だけ。
多く見せないためだ。
実際には、鍛冶場にまだ何挺かある。だが今日外へ出したのは、鳴ると見込まれたもの二挺と、直せば鳴るかもしれない一挺だけだった。
与吉は筒を布に包んで運ばせ、火薬と玉は別に持たせていた。
龍之介がそう提案した。
ひとまとめにして落とせば、全部が駄目になる。
火縄も同じだ。
一本に頼らず、乾いたものを二つに分けて持たせた。
藤吉郎がそれを見て、妙に真剣な顔をしていた。
「飯も二つに分けた方がよろしいですね」
又左が笑った。
「まだ飯の話か」
「一つ落としても、もう一つ食べられます」
「戦支度の話をしておるのだぞ」
「飯も戦支度です」
信長が振り返った。
「藤吉郎の言うことは間違っておらぬ」
又左が目を丸くする。
「若、まことでございますか」
「腹が空けば兵は動かぬ。だが、今日は飯より筒だ」
藤吉郎は少し残念そうに頷いた。
「では、筒を見ます」
「食うなよ」
「食えません」
そう言いながらも、藤吉郎の目は筒ではなく周囲を見ていた。
畑の端。
道の分かれ。
薪拾いの子供。
遠くで荷を引く男。
猪狩りという名目が、誰にどう見られているか。
それを拾っている。
新五も同じだった。
ただし、藤吉郎よりずっと静かに。
龍之介はその二人を見て、胸の中で頷いた。
耳は増えている。
だが、増えれば危険も増える。
誰か一人が見つかれば、そこから辿られる。
道に耳を置くということは、人を道の危うさへ出すことだ。
それを忘れてはならない。
試し撃ちの場所は、信長が決めた。
左右に低い土手があり、奥に雑木林がある。
音は響くが、遠くからは数が分かりにくい。
的には、古い板と藁束が置かれた。
表向きは、猪を驚かせるための音鳴らし。
実際には、筒が鳴るか、玉がどこへ飛ぶか、火縄が湿りに耐えるかを見る。
与吉が火縄を確かめ、筒を構えた男に声をかける。
撃つのは、城の者ではあるが、まだ火縄筒に慣れきっていない若い足軽だった。
信長は、あえて熟練者だけを使わなかった。
普段から扱う者を作る。
その第一歩だった。
足軽の手が少し震えている。
龍之介にはそれが見えた。
筒の重さ。
火薬の匂い。
周囲の視線。
失敗すれば笑われるのではないかという恐れ。
そして、筒が本当に鳴るのかという不安。
信長が問う。
「龍之介。何を見る」
「筒だけではなく、人を見ます」
「続けよ」
「この者は筒を怖がっております。ですが、逃げ腰ではありませぬ。怖がりながら構えております」
足軽の肩がわずかに動いた。
信長は笑わなかった。
「怖がらぬ者よりよいか」
「はい。火と音を怖がらぬ者は、扱いを誤るかと」
与吉が頷いた。
「筒は怖がるくらいでちょうどよい。雑に扱えば、手を焼きます」
信長は足軽へ言った。
「聞いたか」
「はっ」
「怖がってよい。だが、手順は忘れるな」
「はっ」
足軽の息が少し整った。
龍之介はそれを見て、思った。
心は読めない。
だが、外に出たものは見える。
そして、言葉一つで外に出るものは変わる。
化け物ではなく、見て、言葉を選ぶ者でいなければならない。
与吉が合図した。
「火」
火縄が火皿へ近づく。
一瞬の間。
乾いた破裂音が、野に響いた。
鳥が一斉に飛び立つ。
馬が一頭、首を上げた。
藤吉郎が思わず耳を塞ぐ。
又左は目を輝かせた。
「おお」
板の端が砕けていた。
的の中心ではない。
だが、玉は飛んだ。
鳴った。
信長の目が細くなる。
「まず一つ」
与吉はすぐに筒を受け取り、口と火皿を見た。
「次」
二挺目も鳴った。
今度は藁束の中ほどを抉った。
撃った足軽の顔に、少しだけ自信が浮かぶ。
それを見て、権六が低く言った。
「顔が変わったな」
「はい」
龍之介は頷いた。
「鳴ると分かれば、次は怖さが変わります」
「怖さが消えるのではないのか」
「消えませぬ。ただ、分からぬ怖さから、扱う怖さへ変わります」
権六は少しだけ目を細めた。
「それは、槍にも言えるな」
「はい」
龍之介は木槍を握る時の自分を思い出した。
自分の力が分からぬ怖さ。
少しずつ、扱う怖さへ変えていく。
筒も同じだ。
鳴るか分からぬものを、鳴ると分かるものへ。
扱えぬものを、扱えるものへ。
戦場へ出す前に、それを済ませておく。
それだけで、人は死なずに済む。
三挺目は鳴らなかった。
火は移った。
だが、音が出ない。
足軽の顔が一瞬で青くなる。
周囲がざわつく。
又左が一歩出かけた。
与吉が鋭く叫ぶ。
「待て!」
その声で皆が止まった。
与吉は慎重に筒を受け取る。
信長も前に出ない。
龍之介も動かなかった。
動きたくなった。
何が詰まったか、なぜ鳴らなかったか、見に行きたくなった。
だが、今ここで素人が寄れば邪魔になる。
役目がある者に任せる。
これもまた、覚えなければならないことだった。
与吉は筒を調べ、唸った。
「火は入ったが、奥まで通っておりませぬ。火薬が湿っていたか、詰めが悪いか」
足軽が平伏する。
「申し訳ございませぬ!」
信長はすぐには答えなかった。
龍之介を見る。
「どうする」
責めるか。
外すか。
続けるか。
龍之介は、足軽を見る。
震えている。
だが、逃げたい震えではない。
失敗した恐怖だ。
「手順を一つずつ戻します」
龍之介は言った。
「誰の失敗かを決める前に、どこで止まったかを見ます。詰めた者、火縄を持った者、火薬を分けた者。責めるより先に、次に鳴らす道を作るべきかと」
信長は足軽を見た。
「聞いたか」
「はっ」
「失敗を隠せば斬る。失敗を言えば、次を見せる」
足軽は額を土につけた。
「はっ!」
与吉が、少し驚いたように信長を見た。
信長は言う。
「鳴らぬ筒があると分かっただけでも収穫だ。戦場で鳴らぬよりよい」
平手様が静かに頷いた。
「この言葉は、鍛冶場にも伝えましょう」
信長は薄く笑った。
「伝えろ。鳴らぬ筒を隠すな。隠した方が重い」
龍之介は、その言葉に強く頷いた。
失敗を隠すと、人が死ぬ。
これは火縄筒だけではない。
蔵も、馬屋も、台所も、道も同じだ。
詰まりを隠せば、どこかで人が死ぬ。
それを見えるようにする。
信長の那古野は、少しずつそういう形へ変わろうとしていた。
その時、藤吉郎が龍之介の袖を引いた。
「龍之介殿」
「何だ」
「見ている者がいます」
藤吉郎は視線を向けずに言った。
「右の土手の向こう。薪拾いではありませぬ」
龍之介は顔を動かさなかった。
新五へ目だけを向ける。
新五も気づいたらしい。
小さく頷く。
信長が、こちらを見た。
龍之介は何も言わない。
ただ、足元の小石を拾い、何気なく左へ転がした。
それは事前に決めた合図ではない。
だが、新五は読んだ。
左から回れ。
藤吉郎はどうするか。
彼は、何もなかったように足軽たちの方へ近づき、鳴らなかった筒を覗き込もうとして与吉に叱られた。
「小僧、近づくな」
「すみませぬ」
藤吉郎は派手に頭を下げる。
その騒ぎで、周囲の目が少しそちらへ向いた。
その隙に、新五が静かに動いた。
又左がそれに気づき、動きかける。
龍之介は小さく首を振った。
又左は不満げだったが、止まった。
今、又左が動けば目立つ。
土手の向こうの者は逃げる。
信長は、すべて分かった上で、あえて大きな声を出した。
「もう一度、鳴る筒を撃て。今度は二発続けてだ」
与吉が一瞬だけ目を見開く。
だが、すぐに頷いた。
鳴る筒で二発。
見ている者に、那古野の筒がよく鳴るように見せる。
同時に、鳴らぬ筒の失敗は騒ぎの中に隠れる。
火縄が近づく。
一発。
続いて、もう一発。
音が雑木林に響いた。
土手の向こうで、何かが動いた。
新五が回り込む。
藤吉郎は、いつの間にか与吉の後ろから離れ、別の角度へ走っていた。
小さい。
速い。
そして、目立たない。
龍之介は足を踏み出しかけた。
腹の底の武が、追えと言う。
だが、ここは追う場ではない。
信長の側を空けるな。
筒を置いた場を乱すな。
龍之介は踏みとどまった。
権六が隣で低く言う。
「よく止まった」
「動きたかったです」
「顔に出ていた」
「申し訳ございませぬ」
「謝るな。止まったならよい」
短い言葉だった。
だが、龍之介にはありがたかった。
土手の向こうにいた者は、捕まらなかった。
新五が戻ってきた時、その手には小さな布切れだけがあった。
「逃げられました」
「顔は」
信長が問う。
「見ておりませぬ。ただ、草鞋の跡は西へ向かっています。藤吉郎が、途中まで追いました」
「小僧は」
「戻っています」
少し遅れて、藤吉郎が息を切らして戻ってきた。
「逃げ足が速いです」
「無理に追うなと言ったはずだ」
新五が冷たく言うと、藤吉郎は肩をすくめた。
「無理には追っていません。足跡に聞いただけです」
「足跡に聞くな」
「足跡は嘘をつきませぬ」
龍之介は思わず言った。
「飯も足跡も嘘をつかないのか」
「人よりは」
藤吉郎は真面目に答えた。
信長が笑った。
「それで、足跡は何と言った」
「土手の向こうで見ていた者は、山歩きに慣れています。薪拾いではありませぬ。草鞋の減り方が違います。あと、走り出す前に一度だけ止まっています」
「なぜ止まった」
「二発目の音を聞いたからかと。たぶん、数えました」
信長の笑みが消える。
「数を見に来たか」
龍之介は頷いた。
「火縄筒の数、鳴るかどうか、扱う者がいるか。そこを見に来たのでしょう」
「清洲か」
又左が言った。
新五がすぐに言う。
「まだ決めるな」
又左は不満そうだったが、もう言い返さなかった。
信長は布切れを見た。
「これは」
新五が答える。
「粗い藍染です。町の者でも持つ布ですが、端がきれいに切られております。百姓の継ぎ布には見えませぬ」
藤吉郎が小さく言った。
「清洲へ向かう荷の者に、似た布を巻いているのを見たことがあります」
信長が藤吉郎を見る。
「どこで」
「井戸端です。荷を待つ間、水を飲んでいました」
「いつ」
「三日前です」
「よく覚えているな」
「その男、私の握り飯を見て笑いました。腹が立ったので覚えています」
又左が笑った。
「お前の記憶は飯絡みばかりだな」
「大事です」
信長は布切れを新五へ返した。
「追うな」
「よろしいので」
「追えば、こちらが気づいたと知れる。今は、見られたことをこちらが知っている、と思わせぬ」
龍之介は頷いた。
信長は続ける。
「代わりに、噂を置く」
「噂、でございますか」
平手様が問う。
「猪を追うために筒を鳴らした。鳴った筒は二つ。三つ目は煙った。そう流せ」
又左が首を傾げる。
「三つ目が鳴らなかったことも流すのですか」
「少しな」
信長は笑った。
「こちらの筒はまだ未熟だと思わせる。だが、二つは鳴る。それで十分に気味が悪い」
龍之介は、その意図を理解した。
強く見せすぎない。
弱くも見せすぎない。
相手に、迷わせる。
清洲がどう見るか。
那古野は火縄筒を試している。
だが、まだ不完全。
しかし、確かに鳴る筒もある。
攻めるべきか、探るべきか。
そこに迷いが生まれる。
「若様」
「何だ」
「こちらの失敗まで、使うのですね」
「使えるものは使う」
信長は当然のように言った。
「ただし、失敗を隠すのとは違う。内では隠さぬ。外へは形を選んで見せる」
龍之介は深く頭を下げた。
「承知しました」
内には正しく。
外には選んで。
難しい。
だが、それが戦なのだ。
試し撃ちは、猪狩りとして終わった。
猪は出なかった。
だが、筒は鳴った。
鳴らぬ筒も分かった。
見ていた者もいた。
帰り道、又左は少し興奮していた。
「筒の音はすごいな。馬も人も止まる」
「だからこそ、扱いを誤ると味方も止まります」
龍之介が言うと、又左は頷いた。
「分かっておる。筒の後に槍だろう」
「はい」
「なら、俺は筒の音で怯まぬようにしておく」
又左らしい答えだった。
新五が横から言う。
「怯まぬだけでは足りぬ。音の後、敵がどう動くかを見る必要がある」
「それは龍之介が見る」
「お前も見ろ」
「……分かった」
藤吉郎が口を挟む。
「私は耳を塞ぐ練習をします」
又左が笑った。
「それでは何も聞こえぬ」
「音に驚いて握り飯を落とすよりましです」
「また飯か」
そんなやり取りを聞きながら、龍之介は空を見た。
火縄筒の音は、まだ耳の奥に残っている。
これが、いつか戦場で鳴る。
敵の足を止める。
味方の心を震わせる。
槍の道を開く。
あるいは、鳴らずに味方を殺す。
どちらになるかは、今からの積み重ねで決まる。
鍛冶場。
火縄。
玉。
扱う者。
道の耳。
噂の形。
すべてがつながっている。
龍之介は、改めて思った。
戦場で橋を見抜くだけでは足りない。
橋ができる前から見なければならない。
その夜、清洲では坂井大膳が新しい報せを聞いていた。
那古野が火縄筒を鳴らした。
猪狩りの名目。
二発は鳴った。
一つは不発。
見ていた者は、そう伝えた。
大膳は、しばらく何も言わなかった。
織田信友が苛立ったように問う。
「三郎は筒まで集めておるのか」
「集めているかは、まだ分かりませぬ」
「鳴らしたのであろう」
「鳴らしたことと、使えることは違います」
大膳は静かに答えた。
「ただし、気になりまする」
「何がだ」
「鳴らぬ筒があったことまで、こちらに聞こえたことです」
信友は眉を寄せる。
「失敗を隠せなかっただけではないのか」
「そうかもしれませぬ。あるいは、聞かせたのかもしれませぬ」
大膳の目が細くなる。
「織田三郎は粗い。だが、粗いだけではない。山本龍之介という男が来てから、那古野の動きに妙な間がある」
「間?」
「強く見せすぎず、弱くも見せすぎぬ。見られていることを、どこかで知っているような」
信友は不快そうに鼻を鳴らした。
「流れ者一人を買いかぶりすぎではないか」
「一人ではないかもしれませぬ」
大膳は、手元の小さな布切れを見た。
見張りが逃げる時に失ったものと同じ布を、別の者が持ち帰っていた。
那古野に拾われたかどうかは分からない。
だが、拾われたと考えるべきだ。
「那古野には、小さな耳が増えております」
「小さな耳?」
「井戸端。馬屋。台所。薪拾い。小僧ども」
大膳は、薄く笑った。
「小さい耳ほど、戸の隙間へ入り込む」
信友は黙った。
大膳は続けた。
「ならば、こちらも少し手を変えましょう」
「どうする」
「大きな噂ではなく、小さな不満を拾います。那古野で、山本龍之介を面白く思わぬ者。若の速さについていけぬ者。林の目が入ったことを嫌がる者」
大膳の声は、静かに沈んでいく。
「火縄筒より、人の不満の方がよく鳴る時もありまする」
清洲の夜に、また別の刃が磨かれ始めた。
那古野へ戻った龍之介は、鍛冶場の横で足を止めた。
与吉が火縄筒を分解し、鳴らなかった理由を探している。
藤吉郎は、その横で火縄を湿らせない包み方を教わっていた。
新五は、それを少し離れて見ている。
又左は庭で槍を振っている。
信長は、どこかで今日の報せが清洲へどう届くかを考えているのだろう。
すべてが動いている。
小さい。
まだ小さい。
だが、確かに動いている。
龍之介は、そっと自分の掌を見た。
今日、自分は追わなかった。
土手の向こうの者を、槍で捕らえに行かなかった。
それが正しかったかは分からない。
だが、少なくとも信長の側を乱さずに済んだ。
武に呑まれずに済んだ。
知だけで人を駒にせずに済んだ。
少しずつ。
本当に少しずつだ。
自分もまた、鳴らぬ筒から、鳴る筒へ変わっていかねばならない。
ただし、鳴るだけでは足りない。
いつ鳴るか。
誰のために鳴るか。
鳴らぬ時にどうするか。
そこまで覚えねば、戦場で人を殺す。
龍之介は、夜の鍛冶場から漏れる赤い火を見た。
火縄筒は、まだ小さな音を立てただけだ。
だが、その音は尾張の闇に落ちた。
清洲は聞くだろう。
末森も、やがて聞くだろう。
そして信長は、その音をただの音で終わらせない。
龍之介は静かに息を吐いた。
鳴った筒。
鳴らなかった筒。
見ていた敵。
動き始めた耳。
すべてが、次の戦の形を少しずつ変えていく。
那古野の夜は、火薬の匂いを薄く残して更けていった。
第14話─了




